日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 51 モース先生一時帰国のための第二回送別会 又は モース先生、指相撲に完敗す 又は モース先生、大いに羽目を外す
月曜の夜には、大学綜理のドクタア加藤が、昔の支那学校の隣の大きな日本邸宅で、私の為に晩餐会を開いてくれた。外国人は文部省督学のドクタア・マレーと私丈で、文部大輔田中氏及び日本人の教授達が列席した。長い卓子は大きな菊の花束で装飾してあった。献立表は印刷してあり、料理は米国一流の場所で出すものに比して遜色なく、葡萄酒は上等であり、総ての設備はいささかの手落もなかった。ドクタア・マレーは私に、この会は非常に形式的であるに違いないから、威儀を正していなくてはならぬと警告してくれたが、事実その通りであった。食後我々は、葉巻、珈琲、甘露酒その他をのせた別の卓の周囲に集った。食事をした卓を、召使達が静に取片づける問、長い衝立が、それを我々から隠した。
[やぶちゃん注:明治一〇(一八七七)年十月二十九日月曜日。
「ドクタア加藤」当時の東京大学法文理三学部綜理加藤弘之。既注。
「支那学校の隣の大きな日本邸宅」底本では「支那学校」の直下に石川氏の『〔聖堂?〕』という割注が入る。これは湯島聖堂のことを指しているから、それが正しいとすれば、湯島聖堂「隣の大きな日本邸宅」に適合するものを尾張屋版江戸切絵図で確認すると、本郷通りを挟んだ北に「藤堂秉之丞」、北西の道(ここも本郷通り)を隔てた現在の東京医科歯科大学医学部附属病院敷地内に「土井能登守」、その南西に接して「佐藤一斎」の三つである(それ以外の湯島聖堂の西南側は神田川沿い、東南は町屋、東一帯は本郷通りを挟んで神田明神で大きな武家の邸宅は見当たらない。絵図面上では藤堂家が格段に広くはある)。私の考証はせいぜいここまでである。後は東京の郷土史家の方のご援助を願う。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」にも前日の会も含め、宴席の会場は記されていない(恐らく、記録にはない)。もし、この湯島聖堂が正しければ、少なくともこの十月二十八日にモース送別会が行われた茶屋が具体的に特定出来るはずである。
「ドクタア・マレー」文部学監デーヴィッド・マレー。既注。なお、彼は数学者・天文学者でもあったが、「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」で磯野先生は、『文学部教授外山正一もミシガン大学化学科卒であり、明治初期の文部行政関係者に理学畑出身者が多かったことは注目されてよいよいのではないだろうか』と述べておられる。
「文部大輔田中氏」田中不二麿(ふじまろ 弘化二(一八四五)年~明治四二(一九〇九)年))。明治維新期の著名人物としては非常に稀少な尾張藩士の一人。尾張国名古屋城下に生まれ、慶応三(一八六八)年に新政府の参与となった。明治四(一八七一)年、文部省出仕と同時に岩倉使節団理事官となり、欧米に渡って教育制度の調査に当たった。帰国後は文部大輔まで進み、学制実施と教育令制定を主導、明治一三(一八八〇)年に司法卿に転じ以後、参事院副議長・駐伊特命全権公使・駐仏特命全権公使・枢密顧問官・司法大臣を歴任、晩年は再び枢密顧問官を務めた。明六社会員で、島崎藤村の長編小説「夜明け前」や井上ひさしの戯曲「國語元年」に登場する(ここまではウィキの「田中不二麿」に拠る)。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、彼が『マレーを招聘、彼と組んで教育制度の基礎を築』き、『その教育政策は自由主義的だったことが知られる』とある。]
このように席を退いてさえも、人々は依然として威厳を保ち、そして礼儀正しかった。私はやり切れなくなって来たので、日本のある種の遊戯が米国のに似ていることをいって、ひそかにさぐりを入れて見た。すると他の人々が、こんな風な芸当を知っているかと、手でそれをやりながら私に聞くようなことになり、私は私で別の芸当をやってそれに応じた。誰かがウェーファーに似た煎餅を取寄せ、それを使用してやる芸当を私に示した。この菓子は非常に薄くて、極度に割れやすい。で、芸当というのは、その一枚の端を二人が拇指と人差指とで持ち、突然菓子を下へ向けて割って、お互により大きな部分を取り合おうというのである。我国でこれに最も近い遊戯は、鶏の暢(ちょう)思骨を引張り合って、より大きな部分を手に残そうとすることであるが、これはどこで鎖骨が最初に折れるか、全く機会によって決定されることである。次に私は、他の遊戯を説明し、彼等は代って、いろいろな新しくて面白い遊びを教えてくれた。拇指で相撲をとるのは変った遊戯であり、私はやる度ごとに負けた。これは右手の指四本をしっかり組み合せ、拇指で相手の拇指を捕えて、それを手の上に押しつけようと努めるのであるが、かなりな程度に押しつけられた拇指を引きぬくことは不可能である。とにかく、三十分も立たぬ内に、私はすべての人々をして、どれ程遠く迄目かくしをして真直に歩けるかを試みさせ、またいろいろな遊戯をさせるに至った。菊池教授が二人三脚をやろうといい出し、外山と矢田部とが右脚と左脚とをハンケチで縛られた。菊池と私とも同様に結びつけられ、そして我々四人は、他の人々の大いに笑うのに勇気づけられて、部屋の中で馳け出した。我々は真夜中までこの大騒ぎを続けた。ドクタア・マレーと私とは各大きな菊の花束を贈られたが、それを脚の間に入れて人力車に乗ったら、人力車一杯になった。ドクタア・マレーは繰返し操返し、どうして私があんな大騒ぎを惹き起し得たか不思議がった。彼はいまだかつて、こんな行動は見たことが無いのである。私は四海同胞という古い支那の諺を引用した。どこへ行った所で、人間の性質は同じようなものである。
[やぶちゃん注:「さぐり」原文は“a gentle intrusion”。美事な訳と思われる。
「暢思骨」原文“a wish-bone”。研究社「新英和中辞典 」の“wishbone”には、鳥の胸の叉骨とあり、その後に、食事の際に皿に残ったこの骨を二人で引き合って長い方を取ると願い事がかなうという目から鱗の解説があった。
「どれ程遠く迄目かくしをして真直に歩けるか」これは本邦の茶屋遊びの目隠し鬼と同形で恐らくは同席した日本人たちも大いに楽しんだであろうことは想像に難くない。
「四海同胞」原文“in the four quarters of the world men are brothers”。四海兄弟(しかいけいてい)。世界中の人々が兄弟であるということ、または、総ての人間は人種・民族・国籍を問わず兄弟のように愛し合うべきであるということ。「論語」の「顔淵」にある「四海の内皆兄弟なり」に拠る。]
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