中島敦 南洋日記 十二月十二日
十二月十二日(金) 曇、細雨、後晴
今朝未明に出帆せるものの如し。將棋。救命胴衣をつけて避難練習。午睡。三時のラヂオよく聞えず。讀書室のコスモポリタンを讀み、BUNRAEUの寫眞を見る。夜に至る迄潛水艦現れず。
Everything is hunky-dory. とは Everything is
all right. の意なり。この slang は横濱の本町通が分れば、船に歸る路が判り、即ち all right なりとて、米國水夫の言ひ慣はしより起りしものとぞ。ホンチョウドホリがハンキイ・ドーリにとなりしものなり。
[やぶちゃん注:以下一行空けで、底本では長歌は全体が一字下げ。]
鱶が栖む 南の海の 綠濃き 島山陰ゆ 山菅の やまず、しぬばゆ、あきつ島大和の國に 吾を待たむ 子等がおもかげ。桓はも さきくあらむか 格はも 如何にあらむと あかねさす 晝はしみらに ぬば玉の 夜はすがらに、はしきやし 桓が姿 あからひくさ丹づらふ 格が頰の まなかひに 去らずかかりつ、うまじもの あべ橘の たををなる 枝見るごとに 時じくの かぐの木の實が 黄金なす 實を見るなべに みくだもの 喜び食(を)さむ 子等が上、常し思ほゆ、椰子高き 荒磯(ありそ)の眞砂 檸檬咲く 丘邊を行けど、ぬばたまの 黑き壯漢(をのこ)が 棹させるカヌーに乘れど、沖つ浪 八重の汐路を はろばろに 子等と離(さか)りて 草枕 旅にぬる身は不樂(さぶ)しさの 日(ひ)に日(ひ)に益(まさ)り 戀しさの 甚(いた)もすべなみ にはたづみ 流るゝ涙 とゞめかねつも、
反歌無し、 (於鎌倉丸一四二號船室)
[やぶちゃん注:敦の正式な長歌形式の和歌は現存するものではこの一首のみと思われる。以下、一部は屋上屋であるが、私の「やぶちゃん版中島敦短歌全集 附やぶちゃん注」の本長歌について注した内容をほぼ転載して注に代える。
「hunky-dory」はアメリカ口語の形容詞で「すばらしい」「最高の」の意で、この単語自体が“Everything is OK”・“excellent”、則ち総てに於いて申し分がない、すべてついて満足の謂いを持つ。ここで敦が語る語源説は眉唾と思われる方もあろうかと思うが、個人ブログ「Jackと英語の木」の「横浜はOkey-dokeyでHunky-doryだよ。英語になった横浜本町通り。」を読むと、どうして、十分に信じ得る語源説であることが分かる。敦はここまでの日記本文では大戦の勃発直後ながら、一見、泰然自若とまではいかないまでも、意識的に平常の生活をしようと心掛けているように思われるが、この異例の山上憶良ばりの長歌の作歌には、単なる妻子や故国への思慕憧憬以上に、この今始まったばかりの戦争が意味するところの「相當に危險ならんか」(十二月十日附日記)という不吉な危惧が通奏低音のように流れているように思われてならない。
「山菅の」「やま」と同音で「止まず」にかかる枕詞。
「桓」は「たけし」で敦の長男。当時満八歳。
「格」は「のぼる」で敦の次男。当時未だ満一歳と十ヶ月程。
「しみらに」副詞。一日中断え間なく。絶えずひっきりなしに。
「はしきやし」は「愛しきやし」で形容詞「愛(は)し」の連体形に間投助詞「やし」がついたもの。愛おしい、懐かしいの意。
「あからひく」は「赤ら引く」明るく照り映える。また、この意から「日」「朝」にかかる枕詞であり、二男の名格(のぼる)のそれ(昇る朝日)に準じさせようとしたものか。
「さ丹づらふ」(「つらふ」は「頬(つら)」の動詞化とされる)赤く照り映える意で、通常は「色」「黄葉(もみぢ)」「君」「妹」などの枕詞であるが、ここはその原義を生かした。
「うまじもの」は「うましもの」の誤り。美味しいものの意から「阿部橘」に掛かる枕詞。「馬じもの」では馬のようなさまをして、となってしまう。
「阿部橘」柑橘類。
「時じくの かぐの木の實」「非時の香の菓」で橘の実のこと。夏から早春まで永く枝にあって香りが消えないことに由来する。
「みくだもの」「実果物」か、果物に美称の接頭語を附したものか。私は後者で採る。
「不樂(さぶ)しさ」淋(さぶ)しさ。心が楽しくなく晴れないこと。「不樂」で「さぶし」と訓ずるのは「万葉集」の上代特殊仮名遣である。
「甚(いた)もすべなみ」「甚もすべ無み」で、「甚も」は上代の副詞(形容詞「いたし」の語幹+係助詞「も」)で甚だしくも・大変の意、「すべなみ」(「なみ」は上代語で形容詞「なし」の語幹+原因理由の意を表す接尾語「み」)は「術無み」で仕方がないので、の意。「思ひあまり甚もすべ無み玉たすき畝傍の山にわれは標結ふ」(「万葉集」巻之七・一三三五番歌・作者不詳)など上代歌謡にしばしば見られる語法。
「にはたづみ」「潦」で原義は雨が降って地上に溜って流れる水。そのさまから「流る」「すまぬ」「行方しらぬ」等に掛かる枕詞となったもの。]