耳嚢 巻之八 竹橋起立の事
竹橋起立の事
會津の藩中に有竹(ありたけ)五郎左衞門隆尹といへる有(あり)。其先租は相州小田原北條の家士、荒木有竹多米(ため)大道寺荒川の其一人にて、在竹は伊勢の在名(ざいみやう)平氏也。應仁のころ在竹兵衞尉其子攝津守、其子も攝津守と號す。永祿七子年正月七日八日、江戸渡し向(むかふ)鴻(かう)の臺(だい)におゐて、北條氏康同氏政父子、二萬五千にて、房州里見義弘、加勢に佐竹義重、兩敵合戰を交(まじへる)の刻(とき)、攝津守手勢六拾三騎召連(めしつれ)、旗は鳥居にて、正月八日討死也。其子彦四郎、父攝津守討死の軍忠(ぐんちゆう)に依(より)、上總國椎津(しゐづ)の城を給(たまひ)、其身は江戸城二曲輪(にのくるは)に被置(おかれ)、常陸表出陣の節、先を可務(つとむべき)由也。彦四郎家中の者共、神田竹橋に差置(さしおかれ)候。依之(これによつて)在竹橋と唱(となふる)所、今は申能儘(まうしよきまま)に竹橋と唱云(となふといふ)。彦四郎は小田原沒落の節、椎津の城にて討死。定紋幕の紋釘貫(くぎぬき)に一文字也と、或る書系に有と人の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。武辺物地名由来譚。因みに、ブログ「大佗坊の在目在口」の「腰越会津藩墓地 在竹氏」にある『榕窓主人の筆記に云……』以下の引用は殆んどこの「耳嚢」の記事と同じであるが、『榕窓主人』は不詳。
・「竹橋」東京都千代田区北の丸公園に残る。清水濠の上に架り、一ツ橋一丁目と北の丸公園とを結んでいる。ここに示されたように徳川家康の関東入国以前にすでにあった。竹橋の名は竹を編んで渡した橋だったからとも、またここに記される如く後北条家の家臣在竹四郎が近在に居住しており、「慶長見聞録」(慶長六(一六〇一)年から十六年に至る記録。中神守節手校本)及び江戸地誌「紫の一本」(戸田茂睡著・天和三(一六八三)年成立)には「在竹橋」と呼んだのが変じたものとも言われている。「別本慶長江戸図」には「御内方通行橋」と記してあり、主として大奥への通路に用いられたらしい(以上はウィキの「竹橋」や底本鈴木氏の注に拠る)。
・「有竹五郎左衞門隆尹」底本では「有竹」の右にママ注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『在竹』。後文から訳では「在竹」で統一した。詳細は不詳。「隆尹」「たかただ」と読むか。
・「有木有竹多米大道寺荒川」伊勢新九郎盛時こと若き日の北条早雲が関東の覇者たらんとして駿河へ下向した際、連れだっていた荒木兵庫・在竹兵衛尉・多目権兵衛(本文は「多米」であるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも「多米」であるので、ここはママとした)・大道寺太郎重時・荒川又次郎・山中才四郎ら六人の親友(後に「御由緒六家」と呼ぶ)。彼等は伊勢で神水を酌み交わし、一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという話が残る(ここはウィキの「北条早雲」などを参照した)。
・「在名」住む土地の名をとって附けた名前。ざいめい。
・「應仁」西暦一四六七年から一四六九年まで。
・「永祿七子年正月七日八日」北条早雲の孫氏康は、永禄七(一五六四)年一月七~八日、里見義堯(よしたか)・義弘父子と上総などの支配権を巡って戦い(第二次国府台(こうのだい)の戦い)、氏康の奇襲により里見軍は敗れて安房に撤退した。永禄七年は甲子(きのえね)。
・「鵠の臺」現在の千葉県千葉市国府台にあった国府台城。
・「旗は鳥居にて」旗印は鳥居の紋で。
・「椎津の城」現在の千葉県市原市椎津にあった椎津城。安房に退却した里見義弘を追撃した北条氏政は椎津城を攻め、守将木曾左馬介を敗退させている。なお義弘はこのずっと後の天正五(一五七七)年になって北条氏と和を結んでいる(房相一和)。同城をめぐる攻防戦についてはウィキの「椎津城」の記載が異様に詳しい。
・「常陸表」岩波の長谷川氏注に、『北条氏は下総関宿、上州館林まで進出してい』たとあつ。
・「小田原沒落の節、椎津の城にて討死」天正一八(一五九〇)年七月、豊臣秀吉による北条氏の小田原征伐の際、千葉氏を始めとする関東の諸将は小田原に参陣していたが、秀吉は空城同然であった房総の各城を浅野長政に攻略させた。この時、椎津城も落城し、城を守っていた北条の家臣白幡六郎は敗走の末、討死にしている。北条氏政は同月十一日に切腹した。
・「定紋幕の紋釘貫に一文字」底本鈴木氏注に、『「釘貫に一ツ引」と同じであろう』として、以下の①の図が、更に『なお「釘貫に貫木(かんぬき)」ならば』として②の図が掲げられてある。こればかりは画像で示すのが一番であるので、特に画像をトリミングして示す。
■やぶちゃん現代語訳
竹橋の起立(きりゅう)の事
会津藩中に在竹(ありたけ)五郎左衛門隆尹(たかただ)と申される御仁がある。
その先租は相州小田原北条の有力な家士、荒木・在竹・多米(ため)・大道寺・荒川という、所謂、御由緒六家の内の一人にして、在竹は伊勢の在地姓で、平氏の流れを汲んで御座る。
応仁の頃、在竹兵衛尉とその子摂津守(そのまた子も父と同様、摂津守を号して御座った)。永禄七子年の正月七日から八日にかけて、今の江戸川の渡しの北向いに当たる、鴻(こう)の台(だい)の城に於いて、北条氏康・同氏政父子二万五千騎、対する房州の里見義弘(加勢に佐竹義重)、両敵合戦を交えた折り、この子摂津守、手勢六十三騎を召し連れ、旗印は鳥居のそれにて、果敢に戦い、正月八日、討死致いた。
その子彦四郎、父摂津守討死の戦さ忠顕により、上総国は椎津(しいづ)城を賜わり、自身は当時の江戸城の二曲輪(にのくるわ)に江戸の守りとしてさし置かれ、北条氏常陸表への出陣の節には、常にその先陣を務めたと申す。
彦四郎の家中の者どもは、今の神田は竹橋と称している辺りにさし置かれて御座ったが、これによつて、かの橋や一帯を「在竹橋(ありたけばし)」と称するようになったが、今は言い易きように略して「竹橋」と唱えておるのだと申す。
彦四郎は秀吉小田原攻めの際、椎津城にて討死に致いた。
在竹氏のその定紋及び幕の紋は「釘貫(くぎぬき)に一文字」であると、とある記録にあると人の語って御座った。