鬼城句集 冬之部 納豆
納豆 智月尼の納豆汁にまじりけり
[やぶちゃん注:河合智月(寛永一〇(一六三三)年頃~享保三(一七一八)年)は京に生まれ、近江国に住んだ蕉門きっての女流俳人。山城国宇佐に生まれ、大津の伝馬役兼問屋役河合佐右衛門に嫁いだ。貞享三(一六八六)年頃夫と死別して剃髪、後に自身の弟乙州(おとくに)を河合家の養嗣子とした。元禄二(一六八九)年十二月から芭蕉を自邸へ迎える機会が多くなり、元禄四(一六九一)年には東下する芭蕉から「幻住庵記」を形見に贈られている。智月は膳所滞在中の芭蕉の身辺の面倒をよく見、芭蕉がしばしば湖南へ出かけたのは、智月を始めとする暖かく芭蕉を迎える近江蕉門の存在があってのことであったとも言われる(ここまではウィキの「河合智月」に拠る)。芭蕉の葬儀に際しては智月と乙州の妻が芭蕉の好みに合わせて茶の浄着を縫っている(芭蕉は白衣を好まなかった)。因みに彼女は芭蕉より十ほど歳上である。幾つかの句を示しておく。
麥藁の家してやらん雨蛙
やまつゝじ海に見よとや夕日影
稻の花これを佛の土産哉
やまざくらちるや小川の水車
ひるがほや雨降たらぬ花の貌
年よれば聲はかるゝぞきりぎりす
御火焼の盆物とるな村がらす
待春や氷にまじるちりあくた
鶯に手もと休めむながしもと
わが年のよるともしらず花さかり
養子乙州も芭蕉に師事し、元禄三(一六九〇)年のこと、芭蕉は乙州邸で越年しており、その翌元禄四年に乙州が江戸へ下向するに際し、後に「猿蓑」に載った有名な、
梅若菜丸子(まりこ)の宿のとろろ汁 芭蕉
という餞別句を発句とする歌仙を巻いているが、その連衆には智月もいた。
この鬼城の句、一読意を解しかねるが、さればこそ乙州や智月の家族的な温もりを伝えるかの「とろろ汁」の相伴の余香を受けた「納豆汁」の連衆と洒落たものであろうか。とんでもない誤釈かも知れぬ。大方の御批判を俟つものである。]
納豆や僧俗の間に五十年
納豆に冷たき飯や山の寺