橋本多佳子句集「海燕」 昭和十一年 六甲山上 / 二月
六甲山上
スケートの面(おもて)粉雪にゆき向ふ
スケートの手組めりつよき腕と組めり
スケートの手組めり體はたえずななめ
スケートの汗ばみし顏なほ周(めぐ)る
スケートに靑槇雪をふきおとす
雪去れりスケートリンク天と碧き
[やぶちゃん注:こちらの「六甲山のスケート場」というPDF資料(地図附)によれば、このスケート場は、元は明治時代より六甲山上にあった天然氷を切り出すための複数の製氷池であった。昭和になって冷蔵庫の普及に伴い見捨てられたが、昭和七(一九三二)年に六甲山観光によって六甲山上までのケーブルカーが開通すると、親会社である阪神電鉄株式会社は山上一帯の開発を展開、製氷池は水深も浅いために結氷し易かったため、これをスケート場に転用した。最初にオープンしたのはケーブル山上駅に最も近い、つげ池スケート場」でここには貸し靴の用意もあった。続いて新池・八代池・三国池の各スケート場もオープン、それ以外にも多くの製氷池が転用されて六甲山には至る所にスケート場が出来たという。昭和四七(一九七二)年の地図には「新池スケート場」が記載されているものの、昭和四〇年の始めには既に利用できなくなっていたとある。先立つ昭和三九年に
六甲山人工スキー場がオープンしており、それを期にスケート場は見捨てられたものらしい。この記事を書かれた方はとてもこのスケート場に思い入れのある方らしく、最後の方には国土地理院昭和四九(一九七四)年の地図に基づく昭文社「六甲山」の地図には「新池」にのみスケート靴のマークが入っているという。『この新池の横に“新池遊園地”(現、オルゴールミュージアム)があったため最後まで存続したものと思われ、新池スケート場を最後に六甲山からスケート場が消えた』と擱筆されておられる。こういう拘り、私はとても好きだ。
なお、言わずもがな乍ら、知らない方のためにここで断っておくがが、多佳子の意味深な句の殆ど総ての相手は夫雄次郎である。イメージを広げるのはご自由乍ら、才媛の多佳子に淫らなあなたの邪推は禁物である。]
二月
煖爐たき吾子抱き主婦の心たる
煖爐もえ末子(まつご)は父のひざにある
[やぶちゃん注:「末子」は四女美代子(大正一四(一九二五)年十二月十五日生まれ)で、当時、満一〇歳。]
書をくりて風邪の憂鬱ひとり默す
[やぶちゃん注:「憂鬱」の「鬱」は底本の用字。]
ひとりゐて落ちたる椿燻べし爐火
[やぶちゃん注:「煖爐」の「爐」は底本では総て「炉」。]