大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海蝦
読みと注に不満があったのでリロードする。
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海蝦 本草載曰有小毒此ヱヒ伊勢ヨリ多ク來ル故
伊勢蝦ト號ス江戸ニハ鎌倉ヨリ來ル故鎌倉ヱヒト稱
ス諸州ニモ往々有之此ヱヒ最大ニシテ味ヨシ歷久タルハ
有毒不可食國俗春盤用之
〇やぶちゃんの書き下し文
海蝦(イセヱビ) 「本草」に載せて曰く、『小毒有り。』と。此のゑび、伊勢より多く來たる故、伊勢蝦と號す。江戸には鎌倉より來たる故、鎌倉ゑびと稱す。諸州にも往々之有り。此のゑび、最も大にして味よし。久しきを歷(へ)たるは毒有り、食ふべからず。國の俗、春盤(しゆんばん)に之を用ふ。
[やぶちゃん注:抱卵(エビ)亜目イセエビ下目イセエビ上科イセエビ科イセエビ
Panulirus japonicas。他に私の電子テクストである寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」(蟹類を含む「巻第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」ではないので要注意)の「紅鰕 いせゑび かまくらゑび」も参照されたい。
「海蝦」の「イセヱビ」というルビは底本では左ルビである。
「本草」「本草綱目」。鱗之部四「海蝦」に『氣味。甘、平、有小毒。時珍曰。同豬肉食、令人多唾』(氣味、甘にして平、小毒有り。時珍曰く、豬肉と同じうして食すれば、人をして多唾せしむ)とある。
「伊勢蝦」ウィキの「イセエビ」の文化の項によれば、伊勢海老の名称がはじめて記された文献は永禄九(一五六六)年の「言継卿記」(ときつぎきょうき:戦国期の公家山科言継の大永七(一五二七)年から天正四(一五七六)年の間の約五十年に渡る日記。)であると考えられているとある。
「鎌倉鰕」例外を注記するならば、カマクラエビは関東に於いてイセエビを指すが、和歌山南部ではイセエビ下目セミエビ科ゾウリエビ
Pariibacus japonicas を指すと「串本高田食品株式会社」の以下のページにある。
「春盤」民間に於いて、知己に立春の挨拶として贈る祝い物で、生菜などを盤台の上に載せたものという(私は見たことがない)。ウィキの「イセエビ」の文化の項によれば、江戸時代には井原西鶴が貞享五・元禄元(一六八八)年の「日本永代蔵」四の「伊勢ゑびの高値」や元禄五(一六九二)年の「世間胸算用」に於いて江戸・大阪で諸大名などが初春のご祝儀とするために伊勢海老が極めて高値で商われていた話を書いているとあり、元禄一〇(一六九七)年の「本朝食鑑」(医師人見必大(ひとみひつだい)が元禄五(一六九二)年に著した遺稿を子である人見元浩が岸和田藩主岡部侯の出版助成を受けて五年後に刊行した食物本草書)には『伊勢蝦鎌倉蝦は海蝦の大なるもの也』と記されており、海老が正月飾りに欠かせないものであるとも紹介しているとした後にこの「大和本草」の記載を紹介している。以下、『イセエビという名の語源としては、伊勢がイセエビの主産地のひとつとされていたことに加え、磯に多くいることから「イソエビ」からイセエビになったという説がある。また、兜の前頭部に位置する前立(まえだて)にイセエビを模したものがあるように、イセエビが太く長い触角を振り立てる様や姿形が鎧をまとった勇猛果敢な武士を連想させ、「威勢がいい」を意味する縁起物として武家に好まれており、語呂合わせから定着していったとも考えられている』とあって、さらに『イセエビを正月飾りとして用いる風習は現在も残っており、地方によっては正月の鏡餅の上に載せるなど、祝い事の飾りつけのほか、神饌としても用いられている』と記す。]
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