ブログ・アクセス540000記念 濁流 火野葦平
たった今(540000アクセスは2014年1月24日PM8:50)、ブログは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、遂に540000アクセスに達した(ライヴ記述)。アクセス者は
2014/01/24 20:54:58
のユニーク・アクセス
「Blog鬼火~日々の迷走: 「相棒」season9第8話「ボーダーライン」という救い難い悲哀」
を見に来たあなた。どうか、幸いあれ。
合わせて記念テクストを以下に配す。
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濁流 火野葦平
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。本テキストは僕のブログのアクセス540000突破記念として公開した。藪野直史【2014年1月24日】]
すさまじい雨のあと、裸山をすべりだした水は各所からその矛先をあつめると、あふれたつ濁流となつて、いたるところの堤防を決潰(けつくわい)した。大地の坤吟(しんぎん)するやうな轟音(がうおん)が渦卷く流れの底に鳴りはためいて、田も畑も家も林も埋沒されるころには、人間も動物もつねに悲劇がその構成の要素として來た自然の法則をもはや怒ることも笑ふこともできなくなつてゐたのである。家は根こそぎ持ちあげられて、松茸の笠のやうな屋根がぶかぶかと幾つも浮いて流れ、疊や、板戸や、金盥(かなだらひ)や、鍋蓋や、洗面器や、簞笥のひきだしや、帽子や、下駄や、襖や、表札や、手紙や、新聞紙や、腰卷や、林木や、樹木や、花びらや、茄子や、蓮の葉や、そして、人間やが、濁流の緩漫にしたがつて、あるところでは自動車の早さで流れ、あるところでは動くともないゆるやかさで流れ、あるところではさういふものが廻り燈籠のやうにくるくると渦を卷いてゐた。境防を洗ふ奔流はしだいにやはらかい土を削りとつて、新な決潰口をつくり、なほも山間からあふれて來る水量を加へ、和紙のうへに亂暴に落した水滴がしみひろがつてゆくやうに、その領域を擴張してやまないのであつた。水とたたかふ人々の努力はつづけられたが、不幸の度合はこれと反比例した。堤防や、丘のうへにはいたるところに俄づくりの部落ができて、塵や襖や簞笥や茣蓙(ござ)などで周圍をかこまれた無天井の家家には、やうやく難をのがれた人々の呆けたやうな顏があつた。これらのドノゴオ・トンカには黄金の夢はもとよりのこと、いかなる種類のよろこびも望みもなかつたことは勿論である。洪水とともにおこつた阿鼻叫喚の聲はとだえたが、その靜(せいひつ)謐の方がさらに陰慘で、魂を拔かれた人間たちの活氣をうしなつた靑い顏はいまは絶望の色で濃く塗られてゐた。夜になると月が出た。晝間はいくらか元氣のあつた人々もたそがれとともに暗い顏色になつて、聲も音もとだえる。暖をとるために水上の屋根でたくかすかな火が狐火のやうに點々とのぞまれる。そして、馬鹿々々しいことに水に追はれた人々がときに水上に火災をおこしたが、その焰のうらさびしさはいひやうもなかつた。また夜になると、ひそひそとかたらふ聲とともに、あやしげな行爲を、浮かんだ屋根の上でする者もあつた。そのうすぎたなさと悲しさはいひやうもなかつた。かくて、人間世界はこの絶望のなかで終るものかとも思はれた。しかしながら、これが錯覺であつたとはあまり時間を置かずして證明された。人間がいかなる場合にもその天性の活氣を顯現するものたることは、まことに歷史的な事實なのであつた。
洪水によつて當惑し、かつ活氣を失つたのは、むしろこの川一帶に棲息してゐた河童たちであつた。河童は濁水を好まない。またけたたましい流れをも、氣ちがひじみた激流をも好まない。もともと、ときどき角力をとることぐらゐのほかはおふむね荒々しいことからは遠ざかつてゐた河童は、つねはゆるやかな淸流のなかにあつて、肌の美しい魚たちと暮し、かはせみやよしきりが鳴いて飛ぶ眞菰(まこも)のなかにしやがんでゐて、雲のゆくへを見たり、水紋の亂舞をながめたり、葦の葉で舟をつくつて幾つも幾つも下流にむかつて流してみたりするのが好きである。馬の蹄(ひづめ)あとの水たまりにも三千匹は樂に棲める河童は、自分のつくつた葦舟に乘つてくだることも容易である。風流は河童の顯著な資性の一つであつた。潔癖な河童たちは漁師たちが網を入れたり、さすまたで蟹をつきに來たりして水底をにごすのさへ氣に入らず、すぐに澄むちよつとの濁りにも、避難したりする。さういふ河童たちが思ひがけぬ川の氾濫(はんらん)と濁流の奔騰(ほんとう)に辟易(へきえき)したことはいふまでもあるまい。かれらは人間たちの不幸などは考へるいとまもないほど、自分たちの不幸のために歎き悲しんだ。しかしながら、ひとたび涙を流せばたらまち靑苔の液體となつて、身體が溶解してしまふきぴしい傳説の掟をおそれて、涙を胸の底にのんだ。數ははつきりわからないけれども、古老の話によれば、この川にゐた河童の数は百匹をくだるまいといふことである。別に頭目も親分も居ず、仲よく暮してゐたこれらの河童たちは、濁流をながめながらただ呆然とためいきばかりついてゐた。あまりに洪水の範圍がひろくて、移住する場所が見つからず、名案はさらに浮かばず、途方に暮れるばかりである。
もともと暗愚な河童であるから、かれらの才覺のなさを笑つてもよいけれども、かれらが新な天地へ輕々しく轉任し得なかつた理由も考へてやらねばならない。それは故郷たるこの川への愛著にほかならなかつた。狡猾(かうくわつ)に愼重に思案すれば他に場所がないわけでもなかつたが、やはり生まれて育つたこの川を捨てきれなかつた。さうして、おたがひに妙に深刻な目つきでうなづきあひ、この川の澄む日を待つことにした。しかしながら、滔(たう)々たるこの眞赤な濁水が昔の淸澄さにかへるのはいつの日のことであらうか。水かさは減るどころか、床まで來てゐた場所も、疊がつかり、佛壇がつかり、しだいに天井まで濡れてゆくのであつた。河童たちは自分たちの不幸のなかに、たよりないながらも若干の方針がたつと、人間たちの樣子にも眼がとまるやうになり、自分たちと人間たちとどちらが不幸であらうかなどと比較してみる餘裕もできて來た。さうして、自分たちも不幸であるが、人間達の不幸もほぼこれに匹敵するものであることをうなづくことができた。しかしながら、やがて河童たちは人間の活躍に眼をみはりはじめたのである。なかなか氣力の快復せぬ自分たちにくらべて、茫漠たる濁流に浮かぶ人間世界がただならぬ活況を呈して來たからであつた。
河童たらは日とともに空腹をおばえて來たが、これまでのやうに水中に餌をとる術はなかつた。糞尿をもあはせ流す異樣な臭氣と味のある濁水のなかにゐることができなくて、人氣のない堤防のかげや、根だふしになつて頭だけ水面に出しておる樹木の枝や、浮いてゐる屋根のうへなどに、ちよこんと瘦せた膝を抱いてうづくまつてゐたのであるが、好物の蝦や目高を得る望みはなく、わづかに流れて來る茄子や胡瓜をひろつては露命をつなぐほかはなかつた。實は大好物の尻子玉(しりこだま)が眼前にうるさいほどちらつく。多くの人間たちの屍骸が流され、また底に沈んでゐる。その肛圓から尻子玉を拔くことはきはめて容易で、しばしば食指がうごいたのであるが、決行を躊躇させるなにものかがあつた。それは不幸へのおそれとはにかみ、感情の潔癖、兩者の不幸の鏡が照應しあつたのである。また嗜好としても死人の尻子玉は腐つた蛸(たこ)に似た異臭があり、味も落ちる。そこで河童たちは眼前に尻子玉を見ながらそれに手をつけなかつた。さうして、たまに流れて來る野菜類で空腹をしのいでゐたのであるが、日が經つにつれて、自分たちの不幸と人間たちとの不幸の均衡(きんかう)へしだいに疑惑の心が兆(きざ)して來た。
いかなる活氣であらうか。濁流のうへは騷然として來た。堤防のドノゴオ・トンカから水上の屋根々々へ幾隻もの小舟が往還しはじめた。食糧がはこばれる模樣である。また水上の家から荷物がはこびだされる。屋根のうへに蒲團を敷いて暮してゐる人間が舟を呼ぶ。舟は濁水の湖の上を右往左往する。モーターボートまで走る。メガホンでどなつたり、笛を鳴らしたり、鉦(かね)をたたいたりしてゐる。屋根にとりのこされてゐた人間たちに生色がよみがへつて、舟が來て去つたあとは、けたたましくなにか喚(わめ)きながらもぐもぐ口を動かしてゐる。月光の下で、湖上の夜の燈もにはかにあかあかと篝火のやうに燃えたつた。夜もなにごとか休みない蠢動(しゆんどう)がつづけられてゐる。
かういふ樣子を見てゐて、河童たちは羨望の念にたへなくなつて來た。もはや人間の不幸が自分たちとはぼ同等と考へるわけにはいかなくなつた。救援の手がさしのべられて、人間はあきらかに不幸と訣別しはじめたと思はれた。そのことはいつか孤獨の寂寥をさそひ、ただ、いつ引きいつ澄むとも知れぬ赤い流れを見て歎息するばかりである。
ところが、河童たちは不思議なものを見つけた。舟は晝夜の別なく茫洋たる濁水の湖に、出沒したが、人間たちは奇妙なことをしてゐた。軒までつかつてゐる家の屋根の下をつたひながら行く傳馬船のなかは、いつかきまざまな荷物で一杯になる。眼のするどい數人の屈強の男が乘つてゐた。また屋根だけしか出てゐない家に舟をつけると、男たちは褌(ふんどし)ひとつになる。姿が水中に消える。しばらくするといろいろな品物をたづさへて浮きあがつて來、舟に乘る。濡れた百圓紙幣を一枚一枚ひろげて舟の舳(へさき)や艫(とも)の板張にならべることもある。乾かすのであらう。河童たちはあきれた。自分たちでさへ忌(い)みきらつて入ることを好まない濁水にもぐるとは、いかなる性の者であらうか。彼等が自家の品をとりだしてゐるのでないことは、ところきらはず誰もゐない家々ばかりを狙ふのでわかる。彼等の一人はいつも見張りに立つてゐて、危險を知らせる。水中にぼつんと浮かんでゐる屋根に人間が殘つてゐる。堤防から來た救護船が避難所へ案内しようといつても動かない。荷物の番をしてゐるのだといふ。その荷物は無論屋根から下の水中にあるのである。水賊たちはさういふ場所も遠慮しない。彼等の手にはたいてい短刀か拳銃かがある。一人が張り番の男をしばりあげ、他の連中が水中にもぐつて荷物を盜みだす。水賊船同志が掠奪戰を演じるときもある。また大勢が屋根や二階に殘つてゐるところへは食糧船が行く。罹災者が欲しいものを賣つて金を拂はうとすると、値段をいはない。おぼしめしで結構といふ。少い金を出すと品物を持つてかへるといひ、法外の代金をまきあげる。水上を往き來するものは舟だけではない。筏(いかだ)に盥。これが交通機關である。亂雜に丸太を五六本組んだ筏、これも速製の筏屋がべらぼうな値で賣りつけてゐる模樣。これらの逞(たくま)しい人物どもはさらに河童をおどろかせた。流れて來る土左衞門も彼等からのがれることはできなかつた。屍骸を舟に引きあげて、その懷をさぐり、着物をはがせると、また水のなかに投げこんだ。或る者は口をくだいて金齒をとることもあり、美しい女の裸體に奇妙なしぐさをしてゐることもあつた。
かういふ状況を見てゐて、すこしづつその意味を理解しはじめると、河童たちはしだいに怒りに燃えて來た。怒りといつてはあたらないかも知れない。河童がなにもつねに正義人道の信奉者であつたこともなければ、罪惡を仇敵硯する修身の先生であつたこともない。河童の感じたのはまづ自分たちのお人よしから來る照れくささ、はにかみ、情なさ、はぐらかされた反撥、不幸と不幸との照應といつたんはうなづいたひとりよがりな自己陶醉への自嘲、おさへにおさへてゐた生理の反射作用、活氣の傳染――いはばさういふ内面の葛藤(かつとう)がいつか怒りのやうな(裏がへせば復讐のよろこびともなるやうな)荒々しい感情となつて、河童たちに生氣をふきこんだのである。沈滯してゐた河童たちは突如として氣ほひたつと、果敢な行動にうつつた。とはいへ、つまりはこれらの水賊や闇屋たちを得意の角力で投げたふして、その生きた尻子玉にありつかうといふ魂膽にほかならない。
河童は水賊のかくれがにしてゐる堤防のかげに姿をあらはした。そこには水門があつたのであるが、はるか水の下になつて、いくつも卷貝のやうにほげた渦卷がはげしい速度で廻轉してゐた。ぎよろりと眼の光る赤ら顏の、手の大きな人間はおつといふやうな顏をした。それから河童の角力の申し入れをきくと、鷹揚にうなづいて、では一番といつてお辭儀をした。河童はおどろいた。閉口した。傳説の掟のきびしさは氷もただならぬ冷徹さである。いかなる結果を生ずるともその掟にそむくことはできない。人間がお辭儀をすればこちらもそれにならはなくてはならない。それは禮儀ではない。規律である。河童は苦痛の面持で頭を下げた。傾いた頭の皿から水がこぼれ落ちた。皿の水は河童の力の根源である。水の半(なかば)を失つた河童は力の半を喪失した。肩のあたりの筋肉がゆるみ、ふんばつた膝頭が浮き、腰がゆらめくのを感じた。取り組むと同時に、人間からしたたかに投げとばされ、甲羅にひびが入ると、腦震蕩(なうしんたう)をおこして人事不省となつた。そのまま濁流に落ちたが、死んだ河童が溶けたので、赤かつた卷貝模樣の渦がしだいに靑味を帶びて來た。
つぎつぎに河童たらは人間に角力をいどんだ。さうしてつぎつぎに先陣の河童と同じ運命に落らた。或る者は皿の水は失はなかつたが、手を引き拔かれて敗けた。河童の手は右左つづいてゐるので、どちらかを強く引くと拔けてしまふのである。河童が案山子(かかし)と親戚であることは古典が證明してゐる。古事記に書かれた多くの神々のうち、五穀を司つてゐた山田の曾富騰(そほと)こそ河童の祖先なのであつて、その子孫に心がけの惡い者があつたため、山に追はれては山姥となり、川にくだつては河童になり、田にのこつては案山子となつたことは天下周知のことである。手を拔かれては勝負にならない。また或る者は唾をはかれて眼がつぶれ、赤褌をされて力が拔け、相手に佛飯を食べて來られて腰がくじけた。河童たちの最初の計畫はかくしてことごとく畫餅(ぐわべい)に歸していつたのであるが、それにしてもこの不覺はいかなる理由によるものか。河童の敵が人間の唾であり、赤褌であり、佛飯であるといふことを、つまりさういふ祕密な傳説の掟をどうして人間たちが知つてゐるのであらうか。河童の挑戰を知つた人間どもがさういふことを研究したのであらうか。それとも偶然の一致なのだらうか。不幸をも無視し、惡徳の逞しい實踐者となつたこれらのえせニヒリストたちは、また傳説をも乘り超える兇惡無殘さを持つてゐるのであらうか。まこと彼等の醜惡さはかぎりがない。
しかしながら、河童たちはかういふ活氣にあふれた人間たちの尻子玉の味のよさもよく知つてゐるのである。鯉の卵のやうに脂ぎり、齒ぎれもよく、こくがあつて、一個食べれば優に一ケ月は保つのである。河童たちは死力をつくして、これを得るためにたたかつた。さすれば河童たちの賤しさも醜惡さも、これらの人物たちと大した逕庭(けいてい)もないといふべきか。ともあれ、いまは戰ひが、つまりどちらが勝つかといふ問題があるだけであつた。さうして河童たちはその悲壯な決意と努力とにもかかはらず、ことごとく人間からうち敗かされて、あへない最期をとげたのである。水賊と闇屋たちとはなほも晝夜の別なく、悠々として濁水の湖を跳梁跋扈(ていりやうばつこ)した。殘る河童たちはなんとかして所期の目的をはたさんと、きらに盡力するところがあつたが、最期には彼等に近づくことすらできなかつた。敵が戰慄すべき呪文(じゆもん)をとなへるやうになつたからである。
――いにしへの約束せしを忘るなよ、川絶ち男氏(うぢ)は菅原。
それは彼等の祕密はすべて洩れてゐる。その昔、菅原道眞が築紫へ流される折、さやうなやんごとなき人とは知らぬ仲間の一匹が、いたづらをしかけて取りひしがれ、そのとき以來、菅公の名をいはれれば近づくことのできぬ掟ができた。かくて敵どもがことごとく調伏の呪文を知つてゐるとすれば、河童どもの手段はここに盡きたのである。かくと悟つて河童たちは無念さに泣いた。その無念さは單に人間どもの絢爛(けんらん)たる尻子玉を得ることができなかつたことばかりではなく、傳説の掟のあまりのきびしさ、冷たさ、そしてその恐しさに泣いたのである。泣くことはまた禁令の一つである。濁水に棲息する場所を失つて、あやふく外部に洩らしさうになつた涙を胸のうちにのんだ河童も、いまはすでにその忍耐をうしなつた。いかなる忍耐にも限度がある。がんじがらめの掟づく、掟があまり嚴としてゐる故に、最期の犧牲者は實直な河童にほかならなかつた。
河童たちは泣いた。その慟哭(どうこく)のこころよさに、いまは掟の存在もうち忘れた。そして、法則にしたがつて、靑いどろどろの液體となつて溶けて果てた。その前に戰ひやぶれた河童も、後に悲しみで溶けた河童も、おなじく液體となつて濁水のなかに混じた。河童の體液は色名帳のなかにもない色、強ひていへば河童色といふほかはない、濃綠の、媚茶(こびちや)まじりの、胡粉が浮いた、色素の厚いものであつて、普通の場所で溶けたならば、その土は腐り、作物も死し、その色とにほにひとが永く消えないのであるが、滿々たる濁流の水量のなかではものの數ではなかつた。幾つかの山々から流れだして來て、大河を氾濫させたすさまじく赤い水のなかにたらまち吸收されて、その色さへも明らかではなかつた。そして、ほんのこころもち靑昧を帶びた濁流は、なほも雨を含んでたれ下つた黑雲の下に音たててひろがり、人間界を包んでゐた。その夜は月も見えなかつた。
[やぶちゃん注:この一篇は河童生態学の視点からも頗る興味深い。
「ドノゴオ・トンカ」ドノゴー=トンカ(Donogoo-Tonka)とは「未だ嘗て地上に存在したことない幻の理想郷」「新たなる未知の世界」を意味する造語らしく(フランス語で“tonka”は熱帯アメリカ産のトンカ豆を指すが関係ありやなしやは知らず)、これはフランスの作家で詩人のジュール・ロマン(Jules Romains 一八八五年~一九七二年)が一九三〇年に発表、初演された戯曲の題名に基づくものと思われる(私は未読なれば確かなことは言えない)。なお、同名のモダニズム系の文芸雑誌『ドノゴトンカ』なる雑誌が一九二八年から一九三〇年にかけて岩佐東一郎や西山文雄によって刊行されているから、それもこの火野の用辞には何かの影響があるのかも知れない。
「ほげた」「ほげる」は福岡方言で「穴があく」の意。
「山田の曾富騰(そほと)」古事記にみえる神久延毘古の異名とされる。歩けないが、天下のことをことごとく知る神とされた。これは「崩え彦」「壞え彦」、で「壊れた男」の意ともされ、案山子(かかし)の表象かともされる。
「その色とにほにひとが永く消えない」(最終段落内)は底本では「その色とはほひとが永く消えない」であるが誤植と断じて訂した。]
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