日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 4 モース先生、水星の日面通過を観測する
五月七日。大学の望遠鏡で、水星の太陽面通過を見た。支那の公使並に彼の同僚を含む、多数の人人がいた。太陽の円盤の上に、小さな黒い点を見ることは興味が深かったし、またこれを見ることによって、人はこの遊星が太陽の周囲を回転していることを、更に明瞭に会得することが出来た。
[やぶちゃん注:ウィキの「地動説」によれば、『徳川吉宗の時代にキリスト教以外の漢訳洋書の輸入を許可したときに、通詞の本木良永が『和蘭地球図説』と『天地二球用法』の中で日本で最初にコペルニクスの地動説を紹介した。本木良永の弟子の志筑忠雄が『暦象新書』の中でケプラーの法則やニュートン力学を紹介した。画家の司馬江漢が『和蘭天説』で地動説などの西洋天文学を紹介し、『和蘭天球図』という星図を作った。医者の麻田剛立が』宝暦一三(一七六三)年に、『世界で初めてケプラーの楕円軌道の地動説を用いての日食の日時の予測をした。幕府は西洋天文学に基づいた暦法に改暦するように高橋至時や間重富らに命じ』、寛政九(一七九七)年には『月や太陽の運行に楕円軌道を採用した寛政暦を完成させた。渋川景佑らが、西洋天文学の成果を取り入れて、天保暦を完成させ』、天保一五年・弘化元(一八四四)年に『寛政暦から改暦され、明治時代に太陽暦が導入されるまで使われた』とあるから、日本人の支配階級の知識人には既に地動説は知れ受け入れられていた。但し、キリスト教のようなファンダメンタリズムの強い志向はなかったし、圧倒的多数の江戸時代の庶民はもっとプラグマティックで、それによって現実生活が実際に脅かされないという点に於いて、地動説にも天動説にも関心は持たなかったものと考えてよいと思われる。
「大学の望遠鏡」現在の国立天文台の前身である東京大学理学部星学科観象台はこの明治一一(一八七八)年に現在の東京都文京区本郷の現東京大学構内に発足してはいる。明治一六(一八八三)年の参謀本部地図を見ると、まさにモースの官舎真裏(北)直近に「觀象臺」を見出せるが、ここでモースは「大学の望遠鏡」とのみ表現しており、また後に「私の家の後に、天文観測所が建てられつつある」と出るので、これはどうもここではない。
「水星の太陽面通過」水星が地球と太陽のちょうど間に入る天文現象である水星の日面(にちめん)通過。ウィキの「太陽の日面通過」によれば、『水星は太陽を横切っていく小さな黒い円盤のように見える。水星は太陽の東から太陽に近づき、太陽面を東から西へ横切っていく。日面通過の際の水星の見かけの大きさは太陽の1/150以下と小さく、太陽黒点と区別が付けにくいこともある。しかし、黒点が不規則な形なのに対し水星は完全な円でさらに黒点より暗く見えるので区別できる』とあり、『太陽面は極めて明るいため、肉眼で直接見ることは危険である。双眼鏡や望遠鏡で見ることはさらに危険で視力に恒久的な障害が残り、失明する可能性もある。水星の日面通過を観測するには望遠鏡を用いて太陽の像を投影版に投影したり、望遠鏡にフィルターを付けて太陽面を観察したりする方法がある』とある。この時の太陽の日面通過は協定世界時(UTC:Coordinated Universal Time)で、
通過開始 :午後 3時16分
通過軌道中央位置通過:午後 5時00分
通過終了 :午後10時44分
で(この数字は英語版ウィキの“Transit of Mercury”に拠る。日本語版には二十世紀以降しか載らない。こういうところが日本のウィキは徹底性に欠けてしょぼいと感じる)、日本標準時(JST:Japan Standard Time)は協定世界時より9時間進んでいるから、当時の東京でのそれは、
通過開始 :午前 0時16分(当時の本邦では観測不能)
通過軌道中央位置通過:午前 2時00分(当時の本邦では観測不能)
通過終了 :午前 7時44分
となる。明治一一(一八七八)年五月七日の日の出は5:03(私の御用達のサイト「暦のページ」の計算による)であるから、モースらの観察は実に早朝、凡そ二時間半余りの中で行われたことが分かる。]
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