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2014/01/01

カテゴリ「橋本多佳子」始動 / 句集「海燕」 昭和十年以前 八句

[やぶちゃん注:カテゴリ「橋本多佳子」を創始する。ここでは橋本多佳子の全句電子化(一部に評釈を附す)を目指す。底本は一九八九年立風書房刊「橋本多佳子全集」を用いるが、彼女は戦前から活動した作家であることから、私の特に俳句のテクスト化ポリシー(この理由については俳句の場合、特に私には確信犯的意識がある。戦後の句集は新字採用のものもあるであろうが、それについては、私の「やぶちゃん版鈴木しづ子句集」の冒頭注で、私の拘りの考え方を示してある。疑義のある方は必ずお読み頂きたい)に従い、恣意的に一部の漢字を正字化して示す。藪野直史【2014年月1日始動】]

 

句集「海燕」

(昭和一六(一九四一)年一月十日交蘭社刊。昭和二(一九二七)年から同十五年までの作品四百十七句を収録する。序文は山口誓子。誓子の序文は著作権存続中のため、省略する)

 

  昭和十年以前

 

   春日神社蹴鞠祭

 

公卿若し藤に蹴鞠をそらしける

 

[やぶちゃん注:「春日神社蹴鞠祭」不詳。この普通の書きぶりからは奈良の春日大社としか思えないが、調べた限りでは春日大社に現在、蹴鞠祭と称する祭はない。また蹴鞠祭で最も知られている奈良県桜井市多武峰の談山(たんざん)神社は春日神社とは言わない(因みに談山神社の蹴鞠祭は現在は毎年四月二十九日の「昭和の日」と十一月三日の「文化の日」に行われている)。識者の御教授を乞う。本句はこの位置から見て、大正一四(一九二五)年夏以前の句である。]

 

曇り來し昆布干場の野菊かな

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年の恐らく八月、当時の樺太の国境直近にあった炭鉱の村、西柵丹村(にしさくたんむら)安別(現在のロシア連邦サハリン州ボシュニャコヴォ)での句。[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年の恐らく八月、当時の樺太の国境直近にあった炭鉱の村、西柵丹村(にしさくたんむら)安別(現在のロシア連邦サハリン州ボシュニャコヴォ)での句。橋本多佳子(明治三二(一八九九)年一月十五日~昭和三八(一九六三)年五月二十九日)満二十六歳。

 この句は一読、北原白秋の知られた一首、

 

 いつしかに春の名殘となりにけり昆布干し場のたんぽぽの花

 

を想起させるが、実は何と、この句をものしたその時その場には白秋本人がいた。底本年譜によれば、この年、夫豊次郎の仕事(土木建築業大阪橋本組北九州出張所駐在重役。この当時は満三十七歳頃。)の関係で小倉にいた多佳子は七月末より八月にかけて約二週間、鉄道省主催の「樺太・北海道旅行」に身重(四女となる美代子。十二月十五日生。)の身で夫とともに参加、客船高麗丸で安別・敷香(しすか:現在のロシア連邦サハリン州ポロナイスク市附近)・海豹島(現在のチュレーニー島)等に旅した(以下の引用で見るように同行者の中には北原白秋と吉植庄亮(よしうえしょうりょう:後注参照。)がいた。船中の音楽会で多佳子が白秋作詞の「あわて床屋」をピアノを弾き、白秋は殊の外満悦で親交が深まったという)。本句について多佳子は、『俳句』(昭和三三(一九五八)年一月刊)に載せた「自句自解」の冒頭で以下のように語っている(底本全集第二巻を用いたが、ここは発表年を考え、新字のママとした)。

   *

 昔、日ソ国境だつた樺太安別の作。

 前夜から海は荒れてゐましたが、上陸するときになつても、雨が横なぐりに降つてゐて、本船からランチに乗り移るのに暇がかかり、甲板に集つた私達は、(北原白秋、青梅庄亮氏もその中にゐました)これから登る国境標のある丘を眺め、上陸の順番を待つてゐました。

 安別の町は、荒涼として校倉造りの郵便局が印象的でした。数へるほどの家並の尽きた所に、骨を組立てたやうな柵が幾段も見えましたが、近づくと、それが昆布干場でした。

 雨後の照つたり曇つたりする昆布干場には、樺太蟹の真赤な殻などが打寄せられてゐて、それこそ北の渡の風景でした。思ひがけずそこに咲いてゐた野菊を見て、この句はするする出来ましたが、北原白秋の「昆布干場のタンポヽの花」の歌の影響が多分にあります。

 この句を見ると、多くの故人の顔が浮みます。亡き夫の長身、北原白秋の太い丸い背など。

   *

当時、白秋は四十歳。吉植庄亮(明治一七(一八八四)年~昭和三三(一九五八)年)は歌人で政治家。東京帝国大学法科大学経済学科卒業後は父の経営していた中央新聞の記者となった。号は愛剣。明治三九(一九〇六)年から金子薫園に師事、大正一〇(一九二一)年に歌集「寂光」を刊行、翌十一年には歌誌『橄欖(かんらん)』を創刊した後、大正十二年には北原白秋・田夕暮・古泉千樫・石原純・木下利玄らとともに歌誌『日光』を創刊した。大正十四年から十年間、父の遺志を継いで千葉県印旛沼周辺の開墾に従事、当時としては画期的な大型トラクター導入による農業の機械化や有畜農業を進め、その生活を詠った歌集「開墾」を発表した。この後の昭和一一(一九三六)年に衆議院議員となった(当選三回。政友会)。戦後は公職追放を受けて農地改革により所有する農園をも失った。後、印旛沼・手賀沼の土地改良区設立運動に携わって、昭和二六(一九五一)年になって追放解除となった。白秋とは特に親しかった。以上は講談社「日本人名大辞典」及びウィキ吉植庄亮に拠った。彼の短歌数首を示しておく。

 小波(さざなみ)を見てゐるよりも忙(せは)しなき小禽(ことり)の頭みなみな啼き居り

 あしひきの山のきはらのゆふつく日光となりてちる木の葉あり

 開墾機(トラクター)エンヂンとどろかし過ぎにけり働きてゐる大地をゆする

 新墾(あらき)田の四五十人の一隊の打つ鍬先に光があがる

 あかあかと股の下より照りかへす夕日の光顏にあつしも

 むら肝の心をゆする土の香のみなぎらふ野となりにけるかも

 ありがたく飯(いひ)いただきてあけくるるいまのおのれを思い見ざりき

 ひとつ潰れひとつ癒りて掌(てのひら)にかたまりのこる肉刺(まめ)のあと五つ

 いささかの傷には土をなすりつけて百姓われの恙もあらず

引用はネット上の信頼し得る複数サイトより。但し、恣意的に正字化してある。]

 

わが行けば露とびかかる葛の花

 

硬き角あはせて男鹿たたかへる

 

鹿啼きてホテルは夜の爐がもゆる

 

わがまつげ霧にまばゆき海燕

 

[やぶちゃん注:本第一句集の標題句である。「海燕」という場合、通常は鳥綱ミズナギドリ目ウミツバメ科 Hydrobatidae に属する鳥を指す。全ての和名が「〇〇ウミツバメ」の形をとるが、スズメ目ツバメとは近縁ではない。参照したウィキの「ウミツバメ科」によれば、全長は十三~二十五センチメートルで上面は暗褐色や黒色の種が多く、嘴の上に管状の鼻が目立つ。嘴は鉤状に尖っている。非繁殖期は海上で過ごし、『海面すれすれを飛びながら、海面近くの小魚やイカなどの軟体動物、プランクトンなどを嘴でつかみとって捕食する』。『コロニー(集団営巣地)を形成して繁殖する。地上に1個卵を産み、抱卵期間は4050日である。卵は体に比べて大きい(雌の体重の25%にも及ぶことがある)』とある。グーグル画像検索「ウミツバメ」をリンクしておく。但し、「後記」(後掲)には、『「海燕」は、夫との最後の旅行となつた上海行の途次、霧に停船してゐる宮崎丸にあまたの燕が翼を休めたことが忘れ難く、それを句集の名としたのである』とあり、この叙述から見ると、これは真正のスズメ目ツバメ科ツバメ Hirundo rustica の南方での越冬からの帰りとも思われる。]

 

海彦のゐて答へゐる霧笛かな

 

[やぶちゃん注:「海彦」船旅の際の夫橋本豊次郎を喩えたもの。後に「海彦」は多佳子の第四句集(昭和四〇(一九六五)年刊)の書名ともなる。]

 

アベマリア秋夜をねまる子がいへり

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