生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 六 再生 / 第九章 生殖の方法~了
六 再生
こゝに再生といふのは、一度死んだ者が再び生き返ることではない。一度失うた體部を再び生ずることである。敵に襲はれたとき、身體の一部を自身で切り捨てて逃げ去るもののあることは、已に前の章で述べたが、かやうな動物では再生の能力がよく發達して、忽ちの間に失つた體部を囘復する。例へば、「かに」は足を切られても再び足が生じ、「ひとで」は腕の先を折られても忽ちその先が延びる。これはその動物に取つては最も必要なことで、もしこの力がなかうたならばたとひ一應は敵の攻撃を免れ得ても、その後食つて産んで死ぬのに忽ち差支が生ずるに違ない。しかしながら再生といふことはかやうな動物に限つたわけではなく、よく調べて見ると如何なる動物でもこの力の具はつて居ないものはない。元來再生とは、失つた部分を再び獲るだけであつて、別にそのために個體の數が殖えるわけでないから、生殖といふ中には無論入らぬが、分裂や芽生の如き無性生殖に比べて見ると、その間には決して境が定められぬ程に性質の相均しいもの故、參考のためにこの章に加へておく。
[やぶちゃん注:ヒトデの再生については直前の段の私の注を参照されたい。]
[「ひとで」の再生]
[やぶちゃん注:この写真は底本ではカットされているので、昨日、国立国会図書館ホームページの底本画像の使用許可を得て示した(ブログ使用許可番号国図電1401064-1-159 号)。]
分裂生殖では、親の身體が二分して二疋の子となるのであるから、出來たばかりの子は、大きさが親の半分よりないといふ外に、身體の部分が半分不足して居る。「いそぎんちやく」の如くに縱に切れるものでは、右の半分には左半身だけ足らず、左の半分には右半身だけ足らぬ。また「ごかい」の如くに横に切れるものでは、前の半分には後半身が足らず、後の半分には前半身が足らぬ。それ故分裂によつて生じた各個體は、まづこれらの不足する體部を生じなければ完全なものとはならぬが、不足する體部を生ずるのは即ち再生である。されば分裂生殖は再生とは離るべからざるもので、再生によつて補はなければ、到底分裂生殖は行はれぬ。芽生もこれと同樣で、殆ど極度まで發達した再生力と見做すことが出來る。苔蟲の横腹に生じた小さな瘤から一疋の新しい苔蟲が出來るのも、一本の腕の切れ口から新しい「ひとで」の殆ど全部が生ずるのも、發生の模樣は全く同じであり、「ゐもり」の足が一度切られた後に再び生ずるのも、人間の腕が胎内で漸々出來上るのも、殆ど同一の經路を通過するのを見れば、分裂も芽生も再生も生長も皆同一の現象の異なつた姿に過ぎぬやうに思はれ、かやうな例を數多く竝べて見ると、個體の數を殖やす生殖も、その根本を尋ねれば個體の大きさを增す生長と同じ性質のものであることが明に知れる。次に人體にも普通に行はれて居る再生の例を擧げて見よう。
[やぶちゃん注:『「ゐもり」の足が一度切られた後に再び生ずる』私は富山県立伏木高等学校在学中、生物部に所属していたが(演劇部とのかけ持ちではあった)、そこでのメインはイモリの再生実験であった。何度も前肢の一方を肩の部分から切除して再生を待った。切断面から肉芽が伸び出し、中にはそれが指状に分岐しかけるところまではいったが、すべては途中で腐って失敗だった。当時の生物の顧問の先生によれば、どんなにエアレーションをして循環させても水槽内に雑菌が多く繁殖していて、そのために感染症を起す結果だと言われた。大学の研究室などなら抗生物質などを水槽に投与するが、そんな金は出せないとけんもほろろに言われ、室内でそんなことをするのではなく、もっとフィールド・ワークをしなさいとも言われた。今考えれば、確かにあの頃の私のいた伏木周辺にはまだまだ豊富な自然が残っていたから、その通りであったとしみじみ思うのだ。……ワークするための自然を身近に求めること自体が望めなくなった今では……。]
失つた手や足を再び生ずる程の著しい再生力は高等の動物には全く見られぬ。「ゐもり」の切られた足が再び生ずるのを除けば、脊椎動物には目立つ程の再生の例は殆どない。しかし目立たぬ再生ならば到る處に絶えず行はれて居る。例へば我々が湯に入つて皮膚をこ擦ると澤山に垢が出るが、垢は決して外から附著した塵や内から浸み出した脂ばかりではない。その大部分は皮膚の表面から削り取られた細胞である。それ故、垢が取れただけ皮膚は薄くなるべき筈であるに、幾度湯に入つて何度擦つても皮膚が實際薄くならぬのは、全く皮膚の下の層で絶えず新たな細胞が殖えるからである。人間や獸類の皮膚は表皮と眞皮との重なつたもので、表皮は更に表面の乾いた角質層と、その下の濡れた粘液層とに分けることが出來る。皮膚を深く擦り剝ぐと無論血が出るが、極めて薄く摺り剝いたときには血が出ずして單に濕うた表面が現れる、これが即ち粘質層である。さて垢となつて取れるのは、いふまでもなく角質層の上部であるが、新な細胞の絶えず殖えて居るのは粘質層の下部である。粘質層の下にある眞皮までは血管が來て居るから、粘質層の下部に位する細胞はこれから滋養分を得て常に增殖し、舊い細胞を段々上の方へ押し上げると、その細胞は次第次第に形狀も成分も變化し、始め濡れて丸くあつたものが、漸々扁平になり角質に變つて、終に皮膚の表面まで達するのである。されば皮膚の厚さは始終同じであつても、決して同じ細胞が長く止まつて居るわけではなく、表面の舊い細胞は絶えず垢となつて捨てられ、深い層の細胞が常に殖えてこれを補うて居るから、恰も瀧の形は昨日も今日も同じでありながら、瀧の水の一刻も止まらぬのとよく似て居る。
かやうに細胞の新陳代謝するのは、決して皮膚に限つたわけではない。身體の内部に於ても理屈はほぼゞ同樣である。食道や腸胃の内面の黏膜でも、決して同じ細胞がいつまでも止まつて居るのではなく、常に新しい細胞と入れ換つて居る。その他如何なる組織でも生きて居る間は細胞の入れ換らぬものはないが、特に毎日忙しく全身を循環して、瞬時も休まぬ赤血球が如きは、一箇一箇の壽命が甚だ短いもので、暫時役を務めた後は新に出來たものと交代する。身體内では常に新な細胞が出來て、舊い細胞の跡を襲ぐから、擦り剝けた處も少時で治り、傷口も次第に癒える。赤痢や腸チフスで蹴、腸が壞れたのが後に至つて全快するのも、同じく新しい細胞が生じて舊い細胞の不足を補ふからであるから、これなども立派な再生といへる。かくの如く再生は如何なる動物の生活にも必要なことで、日々の生活は殆ど再生によつて保たれるというて宜しいが、人間や獸類では表皮の不足を殘りの表皮から補ひ、粘膜の不足を續きの粘膜から補ふ位の程度に止まり、指を一本失つてもこれを再び生ずる力はない。それ故、「かに」が足を再び生じ、「ひとで」が腕を再び生ずるのを見て、餘程不思議なことの如くに感ずるが、よく考へて見ると、これは垢として取れた表皮細胞をその下層から常に補うて居るのに比べて、たゞ程度が違ふのみである。低度の再生と高度の再生との間には素より判然たる境界はないが、高度の再生と分裂・芽生等の無性生殖との間にも境界がなく、體内芽生と單爲生殖との間にも、いづれとも附かぬ曖昧な場合があるとすれば、世人が生殖といへば、たゞそれのみである如くに思つて居る雌雄交接を要する有性生殖から、世人が生殖とは何の關係もない如くに考へて居る表皮の再生までの間に順々の移り行きがあるわけで、その間にはどこにも明瞭な境界線はなく、すべて新しい細胞の增殖に基づくことである。たゞその結果として個體の數が殖えれば生殖と名づけ、個體の大きさが增せば生長と名づけ、一度失つた部を補ふ場合にはこれを再生と名づけて區別するに過ぎぬ。
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以上を以って「生物學講話」のほぼ半分が終わった(講談社学術文庫版の本書を改題した「生物学的人生観」(上下二冊)はここで上巻が終わっている)。