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2014/01/18

耳嚢 巻之八 すあまの事

 すあまの事

 

 紋所に、すあま又すはまと唱へ、

Suama_3

 如此(かくのごとき)形をいふ。或時洲濱と書(かき)しものありしゆゑ、げにも形に文字も的當なりといゝしに、水野若州知れる者へ尋(たづね)しとて、書留(かきとめ)來りぬ。

 洲濱〔今云島臺、江次第案二脚之上置――奇岩怪石嘉樹芳草白砂綠水

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。紋所有職故実譚。サイト「苗字と家紋」の洲浜紋では、『洲浜の形は献上品などを載せる台で、藤原姓小山氏一門の代表紋として知られ』、『洲浜は河口にできた三角洲など、水辺にできる島形の洲をいう。いわゆる河と海などの接するところで、曲面の入り組んだ洲の様子を表す言葉である。水の流れでいろんな姿に変わる、それを柔軟なフォルムで捉えたまるみをおびたラインが特徴。また洲浜は、蓬莱山の仙境を意味したり、竜宮城を指したりしてめでたい形とされた。平安時代から慶賀の式などにおける飾りや調度品は、蓬莱山に通じる州浜を象った洲浜台が用いられた。江戸時代には婚礼の飾りものとして用いられるようになり、州浜は目出たいことを表す言葉にもなった。 いまでも目出たい菓子のひとつに「洲浜」と名づけられたものがあるのは、その名残りである』とあり、『洲浜は吉兆をあらわすものとして、平安時代より衣服や調度、絵巻物などに文様として多用された。はじめは州浜の実景を描いていたものが、次第に洗練され、さらに州浜台の形を象った意匠へと収斂されていった。そして、州浜のもつ瑞祥的意義もあって家紋に採用されたようだ。また、州浜はその定まることのない姿が世の中の変幻をも表すものとして、神社の紋としても用いられ、紀州熊野神社の奥院に位置づけられる玉置神社のものが知られる。神官玉置氏も「洲浜」を家の紋とし、熊野神社の神官である鈴木氏もこの紋を用いている。戦国時代、紀伊手取山城に拠った玉置氏も神官玉置氏の一族を称して州浜を用いた』。『州浜紋の史料への初出は、『太平記』に「三●」と記されているもので三つ洲浜紋である。文字が鱗に似ているところから 「三つ鱗紋」と誤解されるケースもあるが、誤読であることはいうまでもない』。『中世の武家では源頼朝落胤説を有する小田氏一族の代表紋として知られ、関東永享の乱を記した『羽継原合戦記』に「小田氏の紋は足長洲浜」と記されている。小田氏は宇都宮氏から分かれた一族で、源頼朝に仕えた八田知家を祖とする。鎌倉時代には常陸国守護職をつとめたが、 南北朝期に南朝方として活動したため、一時期、衰退して守護職は佐竹氏にとって代わられた。しかし、よく勢力を保ち 戦国大名に列した』。『戦国時代、上杉謙信が参陣してきた関東諸将の幕紋を書き留めた『関東幕注文』には、小田中務少輔「すわま」とあり、一族の宍戸中務大輔、筑波太夫、柿岡刑部大輔、岡見山城守らも「すはま」と記されている。同書には、下野国の本田・市場・大屋・岩下の諸氏、上野国の薗田・津布久・阿久津の諸氏らも洲浜紋を用いたことが記され、洲浜紋が関東地方に多く分布していたことがわかる。小田氏の場合、州浜紋の由来を源氏の先祖六孫王経基王の「六」の 字を紋章化したものというが、家系伝承にいう清和源氏説を粉飾する付会というものだろう』。『おそらく、はじめは宗家の宇都宮氏と同じく巴紋を用いていたものが、 やがて、宗家と区別するために巴を州浜に変えたのではなかろうか。ちなみに州浜は「巴くずし」ともいわれ、その丸みを帯びた意匠、使用家の分布が巴紋のそれと重なっていることなどから 小田氏の州浜紋は巴紋がベースであったのでは?と思えるのである』。『一方、『見聞諸家紋』には陶山・寺町・茨木・吉田・伊庭・宍戸氏らの洲浜紋が収録されている。室町時代、州浜の紋を使用した武家が全国的に多かったことが知られる。ところで、見聞諸家紋には小田氏の一族と思われる小田又次郎知憲がみえ紋は「亀甲に酢漿草と二月文字」とある。また、諸家紋にみえる宍戸氏は小田氏の一族ではあるが、安芸国高田郡の所領に移住したものである。 その家紋は「花洲浜」とよばれ、通常の洲浜に比べて意匠が凝っているのが特長である。先にも記したが、より六孫王の六の 字を意識したものとなっている。時代が下るにつれ、家系源氏説が一般化した結果かもしれない』と詳説なさっておられる。これ以上の本話へのすぐれた注釈はないと考え、例外的に敢えてほぼ全文の三分の二を引用させて戴いた。なお、現在、「州浜」というと、大豆や青豆を煎って挽いた州浜粉に砂糖と水飴を加えて練りあわせて作った和菓子の一種が知られるが、これは鎌倉時代に京にあった菓子店松寿軒の考案によるもので、江戸時代には豆飴と呼ばれ、後、京都の和菓子店植村義次によって作られた豆飴の断面が州浜紋に似ていたため、州浜という呼ぶようになった。現在では州浜粉を使った菓子全体を「州浜」「すはま」と呼ぶようになっているとウィキ洲浜」にあり、また、和菓子嫌い(私は洋菓子党である)の私が唯一好物な和菓子で、やはり関東で祝儀に用いられる「すあま(寿甘、素甘)」があるが(漢字は当字らしい)、これは全く別の菓子である(ただ、その連関性がないとは言えないように思うのだが……識者の御教授を乞うものである)。

・「的當」的確にその洲浜という地形の形を示してしかも如何にも相応しい文字をこれに当てている、という謂いであろう。岩波版長谷川氏注には『そのものずばりである』とある。

・「水野若州」水野若狭守忠通(ただゆき)。底本鈴木氏注に、『安永四年(二十九歳)家督。千二百石。天明六年長崎奉行、八年日光奉行、十年大坂町奉行』とある。安永四年は西暦一七七五年であるから、彼は延享四(一七四七)年生まれである。天明六年は一七八六年であるが、以下の記載は岩波版長谷川氏注では『寛政八年(一七九六)日光奉行、十年大坂町奉行』となっており、長谷川氏の方が正しいものと思われる。根岸より十歳年下であるから、「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年当時は六十一歳であった。

・「洲濱〔今云島臺、江次第案二脚之上置――奇岩怪石嘉樹芳草白砂綠水〕」以下に、訓点と岩波版の長谷川氏の補われた送り仮名をも参考に書き下しておく。

 洲濱〔今云ふ、「島臺」。「江次第(がうしだい)」案ずるに二脚の上に――を置き、奇岩・怪石・嘉樹・芳草・白砂・綠水を作る。〕

・「島臺」は「しまだい」と読み、婚礼その他の祝儀の際に用いる飾り物のこと。州浜台(州浜形にかたどって作った台。木石・花鳥などの景物をあしらい、宴会などの飾り物としたり、婚礼・正月などの料理を盛るのに用いた)の上に松竹梅を作り、これに尉(じょう)・姥(うば)の人形を立たせ、鶴・亀などを配したもので、蓬莱山をかたどったものといわれる。

・「江次第」平安後期に成立した儒者で歌人の公卿大江匡房(まさふさ)の著になる有職故実書「江家次第(ごうけしだい)」のこと。全二十一巻(現存は十九巻)。この時代の朝儀の集大成として評価が高い。「江次第(ごうしだい)」が当初の書名と考えられ、諸書に「江帥次第」、「江中納言次第」、「匡房卿次第」、「江抄」などと引用されている。正確な編纂の開始時期は不明であるが、「中外抄」(院政期の聞書集。知足院関白藤原忠実の言談を大外記中原師元が筆録したもの)などの記述によると、匡房が藤原師通の命令を受けて編纂が始められ、大江匡房の没した天永二(一一一一)年まで書き続けられたと思われる。のちに加筆増補が行われた(以上はウィキ江家次第に拠る)。

・「上に――を置き」恐らくは「江家次第」本文が判読不能であったのであろう。当該箇所を調査中であるが、何分、厖大なので暫くお待ちを。

・「嘉樹」松竹梅などの目出度い樹木。

・「芳草」春を告げる香草や草花。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 すあまの事

 

 紋所に、「すあま」または「すはま」と唱えるものが御座るが、それは

Suama_5

 のような感じの紋型を申す。

 ある時、これに「洲浜」と漢字を当てて書いたものが御座ったによって、

「如何にも、実際の洲浜の形も文字も、この紋を確かに言い当てて妙で御座るの。」

と述べたところが、水野若狭守忠通(ただゆき)殿が、

「かの『洲浜』のこと、我ら、知れる者へ尋ねてみましたところが、これ、相い分かり申した。」

と、書き留めたものを持参して参られた(以下、その写し)。

 

 「洲浜」

 今に言うところの「島台」のこと。大江匡房の「江家次第(ごうけしだい)」に、『案ずるに二脚の上に〇〇を置き、奇岩・怪石・嘉樹・芳草・白砂・緑水を作る。』とある。

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