耳嚢 巻之八 かくなわの事
かくなわの事
蜘手(くもで)かくなわ十文字など、ふる物語抔書しが、蜘手十文字は分りぬ、かく繩の事、其(その)出る所をしらず。横田退翁、予が許(もと)へ來りしとき、かくなわの事、有(ある)事にて見出しぬと云ふ。和名抄にも結菓と書(かき)て、カクのアハと唱へ、右を後世かくなわと略しいふならむ。今アルヘイにて、結びたる菓子は、京都にてかくなわといふと語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし(前話の最後は家紋の話で「一文字」の文字が出て、字面の見た目は、何やらん「十文字」で繋がったようには見える)。八つ前の「火爐の炭つぎ古實の事」の横田袋翁談で連関。このところ、この横田翁のソースが多くなっている。話柄の関係上、「かくなわ」の種明かしの注は例外的に順序を無視して最後に回した。
・「蜘手」単に「蜘蛛手」と言った場合は、①蜘蛛の足のように、一ヶ所から四方八方に分かれている様態。②「に」を伴って副詞的に、あれこれと心の乱れる様子。③材木などを四方八方に打ち違えて組む方法を指すが、ここは「蜘手かくなわ十文字」で武道でのセットの表現。周囲の敵と戦うに際して蜘蛛の足のように四方八方に駆け巡っては刀剣などを自在に振り回すことを指す。
・「十文字」前注同様、戦闘の際に、周囲の敵の中を十文字に、則ち縦横に刀剣を振り回して戦うさま。
・「退翁」「耳嚢 巻之七 養生戒歌の事」などに「泰翁」「袋翁」と複数既出で注も附したが、鈴木氏は底本の本話の注で今までに示しておられない新たな情報を提示されておられるので、ここにそれを纏めて示しておきたい。まず、鈴木氏はリンク先の「養生戒歌の事」の注で、『袋翁が正しいらしく、『甲子夜話』『一語一言』ともに袋翁と書いている。甲子夜話によれば、袋翁は萩原宗固に学び、塙保己一と同門であった。宗固は袋翁には和学に進むよう、保己一には和歌の勉強をすすめたのであったが、結果は逆になったという。袋翁は横田氏、孫兵衛といったことは両書ともに共通する。『一宗一言』には詠歌二首が載っている』と書かれているが、今回、ここの注では『三村翁の注に、「横田退翁は、袋翁なるべし、萩原宗固門人、号翻錦亭、其伝擁書漫筆に見ゆ」とある。ただし『擁香漫筆』には袋翁の伝記というべきものはなく、その詠歌が出ている。その一つに「横田袋翁が牛込袋町の翻錦亭にて人々歌よみける時」と詞書があり、住所を知ることができる』と追補されておられる。萩原宗固(元禄一六(一七〇三)年~天明四(一七八四)年)は御先手組所属の幕臣にして歌人。烏丸光栄らに師事して和歌・歌学を学んだ。江戸の武家歌人として名高い。「擁書漫筆」は文化一四(一八一七)年板行の小山田与清の随筆。因みに「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏である。訳は正しく「袋翁」とした。
・「和名抄にも結菓と書て」「和名抄」(正しくは「和名類聚抄」。源順(したごう)撰になる事物の和名字書。二十巻。)には(以下は元和三(一六一七)年の序を持つ早稲田大学蔵のものを視認し、後に訓点に従って書き下した)、
結果 揚氏漢語抄云結果〔形如結緒此間亦有之今案和名加久乃阿和〕
〇やぶちゃんの書き下し文(読みと送り仮名を勝手に補った)
結果 「揚氏漢語抄」に云ふ、「結果」は形、結べる緒のごとく、此の間に亦、之れ有り、今、案ずるに、和名、加久乃阿和(かくのあわ)。
とある。
・「アルヘイ」有平糖。南蛮菓子の一つ。水飴よりも砂糖の分量を多くした硬い飴。以下、ウィキの「有平糖」によれば、金平糖とともに日本に初めて輸入されたハード・キャンディとされている。阿留平糖・金花糖・氷糸糖・窩糸糖とも呼ばれる。語源にはポルトガル語のアルフェロア(alféloa:糖蜜から作られる茶色の棒状の菓子。)とする説とアルフェニン(alfenim:白い砂糖菓子)とする説とがある。『製法は、原料の砂糖に少量の水飴を加えて煮詰め、火からおろした後に着色や整形を行って完成させる。初期の頃は、クルミのように筋がつけられた丸い形をしていたが、徐々に細工が細かくなり、文化・文政期には有平細工(アルヘイ細工)として最盛期を迎えた』。『棒状や板状にのばしたり、空気を入れてふくらませたり、型に流し込んだり、といった洋菓子の飴細工にも共通した技法が用いられ』『江戸時代、上野にあった菓商、金沢丹後の店の有平細工は、飴細工による花の見事さに蝶が本物の花と間違えるほどとされた』。『有平糖は茶道の菓子として用いられることが多く、季節ごとに彩色をほどこし、細工をこらしたものが見られる。縁日などで行われている即興的な飴細工とは異なるものである』。『一方、技巧が進化し高価なものとなってしまった有平糖を、見た目よりも味を重視して廉価にしたものとして榮太樓本店の「梅ぼ志飴」や、村岡総本舗の「あるへいと」などがある』とある。
・「かくなわ」底本の鈴木氏注に、『三村翁注に「人心思ひ乱るゝかくなわのとにもかくにも結ぼゝれつゝと古今集にありとか、結菓はねぢて油揚にしたる菓子なるべし、今いふねぢん棒にさも似たり。」』と引用されておられる。
小学館の「日本国語大辞典」によれば、「かくのあわ」と同じとする。「結果(かくにあはわ)」の項には、
古代の菓子の名。小麦粉を練って緒を結んだ形に作り、油で揚げたものか。かくなわ。
として、先の「和名抄」を引く。
さらに「かくなわ」の項には、②として、
(「かくのあわ」が曲がりくねって結ばれているように)心が思い乱れるさまにいう。
として、「古今和歌集」巻十九「雑躰(ざつてい)」の巻頭にある一〇〇一番歌、よみ人知らずの長歌(原典は奇妙なことに「短歌」と表示する)の一節、
……ゆく水の たゆる時なく かくなわに おもひみだれて ふる雪の……[やぶちゃん注:以下略。]
及び、「風雅和歌集」巻第十二の恋三の二品法親王覚助の一一九四番歌、
文保三年後宇多院へめされける百首の歌に
人心思ひみだるるかくなはのともにかくにもむすほほれつつ
を引用している(孰れも当該引用ではなく原典に当たって示した)。なお、「文保三年……」というのは「続千載和歌集」撰定に当たって文保三(一三一九)年に後宇多院が召した「文保百首」のことを指す。覚助は後嵯峨院皇子で三井寺長吏、聖護院。
続いて③に本文に出る「蜘手かくなわ十文字」の意味を示す以下の記載がある。
(「かくのあわ」が縦横に交差しているように)太刀などを縦横に振り回して使うさまをいう。
と記されてある。
角川書店「新版 古語辞典」には、
かくなわ【結果・角縄】名⦅「かくのあわ」の約。「かく」は香菓、「あわ」は沫緒(あわを)で紐の結び方。「かくなは」とも表記⦆
とある。]
■やぶちゃん現代語訳
「かくなわ」という語の事
「蜘手かくなわ十文字」などと、よく古き物語なんどに記されて御座るが、「蜘手」と「十文字」は理解出来るものの、「かく縄(なわ)」については、これ、その出所と意味がよく理解出来ずに御座った。
かの横田袋翁殿が先般、私の元へ参られた折り、
「……かねてより貴殿のお疑いで御座った『かくなわ』のことにつき、ある説を見い出して御座った。」
と申された。
「――『和名抄』にも『結菓』と書きて『カクのアハ』と称し、これを後世に於いて『かくなわ』と略して言うようになったものと思われまする。――これは、ほれ、今に申すところの、かの『アルヘイ』にて御座っての。――結びたる菓子のことは、これ、京都にては『かくなわ』と申しますのじゃ。」
と語られた。
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