鬼城句集 冬之部 鴛鴦
鴛鴦 予若かりし時妻を失ひ二兒を抱いて泣くこ
と十年たまたま三木雄來る乃ち賦して示す
これ予が句を作る初めなり今こゝに添削を
加へず
美しきほど哀れなりはなれ鴛
[やぶちゃん注:「鴛」は「をし(おし)」と読む(言わずもがなながら、カモ目カモ科オシドリ
Aix galericulata の雄を指す)。
鬼城は満二十九の明治二二(一八八九)年にスミと結婚し二児をもうけたが、三年後の明治二五(一八九二)年、スミは二十七の若さで亡くなった(この年にはその前に実父も鬼籍に入っている)。なお、この「十年」とは「長い間」の意であるので注意。この句はスミの亡くなったその年の句である。「三木雄」は宗教家で俳諧宗匠三森幹雄(みもりみきお 文政一二(一八三〇)年~明治四三(一九一〇)年)。陸奥石川郡中谷(現在の福島県石川町)生まれで、本名は寛、別号は春秋庵(十一代を継ぐ)・静波・樹下子・笈月山人・不去庵など多数。江戸で志倉西馬(しくらさいば)に師事し、後に神道系新宗教教団神道十三派の一つ、神道大成教(しんとうたいせいきょう:幕末に外国奉行などを務めた平山省斎(せいさい)が組織し、明治一五(一八八二)年に一派として独立した教派神道。随神(かんながら)の道を目的としつつ、静座などの修行を重んじるとともに西洋の諸科学や実用主義を取り入れている。)に属して俳諧に拠る教化運動を図って明倫講社を結成、明治一三(一八八〇)年には『俳諧明倫雑誌』を創刊している。著作に「俳諧名誉談」などがあり、門弟は三千人に及んだという。俳人林桂氏の公式サイト『風の冠文庫』の「書評」の「『俳秀加舎白雄―江戸後期にみる俳句黎明―』金子晋著」に、『村上鬼城が俳句を始めたのは弟平次郎の影響からである。旧派俳人として活躍していた弟に勧められて、明治二十五年東京の偉い宗匠春秋庵幹雄(鬼城は三木雄と表記)に俳句を見て貰ったのが最初である。鬼城の句に旧派の面持ちがあるとすればそのためである。春秋庵の号は幹雄が白雄の系譜に連なることを示している。明治期の群馬の旧派地図は白雄の系譜に連なっていたらしいのである』とある。]
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