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2014/01/19

耳嚢 巻之八 寶晉齋其角實名の事

 寶晉齋其角實名の事

 

 或る人語りけるは、俳諧の中興其角は輕き御家人抔相勤(つとめ)候ものゝ由。俗名は小和田八十八(やそはち)と云(いへ)る由。深川に住(すみ)て徂徠先生の隣なりける由。右の事しらざりしが、與風(ふと)誹席にて、隣の梅も匂ふ八十八といふ句をしたる人有(あり)し故、右はいかなる譯やと尋ねしに、八十八は其角が俗名にて、其角が發句に、梅咲や隣は荻生惣右衞門といふ句あれば、右によりて附句せしといひしに、格物(かくぶつ)なせしと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。二つ前和歌(というより狂歌並)譚から連句(付句)譚で連関。

・「寶晉齋其角」は「はうしんさいきかく(ほうしんさいきかく)」と読む。蕉門十哲の一人宝井其角(寛文元(1661)年~宝永四(一七〇七)年)の号。本名は竹下侃憲(ただのり)で別号は他に螺舎・狂雷堂・晋子など。江戸堀江町で近江国膳所藩御殿医竹下東順の長男として生まれた。延宝年間(一六七三年~一六八一年)の初めの頃には父親の紹介で芭蕉の門に入り、俳諧を学んだ。当初、母方の榎本姓を名乗っていたが、のち自ら宝井と改めている(ここまではウィキの「宝井其角」に拠る)。岩波版長谷川氏の注によれば、この「寶晉齋」という号は元は『米元章が硯に彫り入れた号で、その硯を得てこのように号した(五元集)』とある。米元章は北宋末の文人で書家の米芾(べいふつ 一〇五一年~一一〇七年)。「五元集」は延享四(一七四七)年刊の生前の其角自選を含む小栗旨原(おぐりしげん)編の句集。全四冊。自選千余句の発句集「五元集」及び句合わせ「をのが音鶏合(ねとりあわせ)」・旨原編「五元集拾遺」からなる。

・「小和田八十八」底本鈴木氏注に、『三村翁注「宝井氏、源助とあり。八十八といふ事、所謂巷談なるべし』とし、岩波版長谷川氏注も『所拠不詳』とされる。

・「深川に住て徂徠先生の隣なりける由」荻生徂徠(寛文六(一六六六)年~享保一三(一七二八)は事実、近所に住んでいたらしい(後文参照。少なくとも後世そう信じられてたし、現在も信じられているといってよい)。岩波版長谷川氏注に、『元禄末に茅場町薬師堂辺に住み、近所植木店の地に荻生徂徠居住(近世奇跡考・三)』とある。「近世奇跡考」は「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年の直近である文化元(一八〇四)に板行された山東京伝の考証随筆の白眉。また、ウィキ宝井其角にも、『芭蕉の没後は日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧では一番の勢力となる。なお、隣接して、荻生徂徠が起居、私塾蘐園塾を開いており、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句がある』と記載する(次注も参照のこと)。

・「與風(ふと)」は底本のルビ。

・「梅咲や隣は荻生惣右衞門」岩波版長谷川氏注に、『上五を「梅が香や」とし、どの集にも見えぬが其角句ともっぱら伝えると『近世奇跡考』三にいう』とある。天保年間(一八三〇年~一八四三年)に斎藤月岑が著わした「江戸名所図会」にも、

   *

俳人寶晉齋其角翁の宿 茅場町藥師堂の邊りなりといひ傳ふ。元祿の末ここに住す。すなはち終焉の地なり。

按ずるに、「梅の香や隣は荻生惣右衞門」といふ句は、其角翁のすさびなる由、普(あまね)く人口に膾炙す。よつてその可否はしらずといへども、ここに注してその居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ。

 

徂徠先生居宅の地 同書植木店(うけきだな)なりといふ。先生一號を蘐園(かんえん)といはれし。蘐(かん)は萱(かや)と同じ字義なれば、稱せられしなり。よつて、この地に住せらしこと知るべし。

   *

と続いて出る(底本はちくま学芸文庫版を用いたが、恣意的に正字化した)。因みに「蘐園(かんえん)」は一般には「けんえん」と読む。どうも人口に膾炙しているものの、彼の作とは言い難い、所謂、都市伝説の類いと考えてよかろう。

・「格物」は宋代以降の儒学に於いて主体の陶冶方法として特に注目された概念を指す。朱子学では特にこれを「物に格(いた)る」と読み、個々の事物の理りを究明してその極みに至ろうとすること、窮理をいう。陽明学では「物を格(ただ)す」と読んで対象に向かう心の働きを正しく発揮することをいう。「大学」の「致知在格物。物格而后知至。」(知を致すは物に格(いた)るに在り。物、格ってのち、知、至る。)に基づく。ここは無論、目から鱗、単にすっかり納得出来たという謂いであるが、徂徠絡みなれば「格物」と事大主義的に呼ばわったところが面白い。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 宝晋斎其角の実名の事

 

 ある人の語ったこと。

 

……俳諧の中興と称せらるる其角と申す御仁は身分軽き御家人などを相い勤めて御座ったものの由にて、俗名は小和田八十八(おわだやそはち)と申した由、さらに、深川に住んで御座って、そこは徂徠先生のすぐ隣りでも御座った由にて御座る。

 このこと、我ら知らずに御座ったが、とある俳諧連句の座に於いて、

  隣の梅も匂ふ八十八

と申す句をものしたる御仁のあったゆえ、

「……その句は如何なる意にて御座いましょうや?」

と訊ねたところ、

「――これ、八十八は其角の俗名にて、また、其角の発句に、

  梅咲や隣は荻生惣右衛門

と申す句のあれば、かくも附句致いて御座る。」

と申されたによって、格段に格物(かくぶつ)致いて御座った。……

 

と語て御座ったよ。

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