中島敦 南洋日記 十一月二十五日
十一月二十五日(火)
目覺むれば既にテニアン島の前面にあり。遠かに白き島居見ゆ。十時テニアン着、十二時サイパン着、小山田校長の出迎を受け、晝食後下船。倶樂部の宿泊所に落付く。四十重敷ばかりの、薄緣を敷ける殺風景なる部屋、同宿者他二組あり。食通なるむさくるしき食堂に行き、飯米のボロボロなるに一驚す。サイパンはパラオに比べ頗る涼し。但し避難民然たる此の宿舍には閉口。風あり、涼し。
[やぶちゃん注:同日附中島たか宛書簡があるので以下に示す(太字は底本では傍点「ヽ」)。
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〇十一月二十五日附 パラオ島コロール町南洋庁地方課内。東京市世田谷区世田谷一丁目一二四 中島たか宛。封書。)
十一月二十二日。昨夜はロタの港に入りながら、遲(オソ)いので、船の中で、もう一晩泊つた。そして、事務長(船の)や月田氏などと、トランプを一時過までやつたので、今朝はねむい。七時半頃、ロタ島上陸。宿舍は例によつて官舍のあきや。巡査か何かの家なんだ。食事は獨身者達のたべに行く食堂だが、之は、思つたより御馳走がある。人のあきやにもぐり込むなんて、全く、へんな話だが、のん氣でいいよ。ここの僕のもぐりこんだ家の主人は休暇で内地へ歸つてるらしいんだが、雞小舍があつて、雞が三羽庭で餌を拾つてゐる。しかし大分腹をすかしてゐると見え、僕が行くと、アトをついて來て仕方がない。雞は勝手に何處かで餌を見付けてくるんだね。
ロタは大變景色(ケシキ)のいい所。岩山がそびえ、白い斷崖が切立ち、海の色が鮮(アザ)やかな藍(アヰ)色(パラオのあたりは綠色に近い)で、風が強い所。たゞ殘念なのは、椰子といふ椰子がみんな立枯になつてゐることだ。蟲にやられたんださうだ。珍しい、キレイな蝶が、とても澤山とんでゐる。南洋には珍しく、水の豐富な所で、山の中からドンドン湧出してくるやつを水道にしてゐるんだが、水道の栓(セン)はみんなあけつぱなしで、ジヤアジヤア水が出通しだ。栓をしめると、水がどんどん出て來て、管が破裂するんだとさ。
ロタの島には、黑い土人はゐない。ゐるのはチャモロといふ、スペイン人と南洋土人の混血ばかり。色は南洋にゐる日本人と大して違はない。午後から、役所の人の案内で、チャモロ部落へ行つて見た。澤山の大きな岩が海の中にそびえてゐる景色のいい海岸を一里ばかり歩いて部落についた。その村の入口に墓地があるが、チャモロはみんなキリスト教徒だから、横濱の外人墓地みたいに十字架が澤山竝んでゐる。たゞもつと、ずつと貧弱で、さびしく、何しろ二十間(ケン)とへだたらない所に太平洋の波が寄せて來てゐるので、心細いやうな、もの悲しい所だ。
公學校に立寄り、その先生と話をしてから、又、もとの道をかへつたが夕陽に照らされた、海岸のチャモロ部落(みんな一寸した木造の家に住んでゐて、普通の島民のやうにキタナクはないが、何だか、全體に活氣がないんだ)は、何か、ものがなしい風景だつたよ。一つには椰子の枯れてゐることにも依るのかもしれない。さうさう、海岸の草地にはね、猩々草(シヤウジャウサウ)が一面にはえてゐるよ。
夜一寸町を歩いて見たら、(この島は、チャムロは全部一まとめにして一つの所に住ませて了つたので、内地人の町には島民は一人もゐない。)内地の田舍の町のやうな氣がした。
十一月二十三日。日曜で、ニヒナメサイだね。又、チャムロ部落へ歩いて行つて見た。今日は國民學校の先生と一緒だ。自轉車に乘れるとらくなんですがなあと、みんなに言はれたよ。全く、一里の道を毎日往復ぢや、少しつかれるね。
チャムモロの子には、中々、可愛いのがゐるよ。午前中、チャモロ部落ですごし、ひるめしは公學校でよばれ、その校長(といつても、ホカに先生はゐない)のうちで、ひるねをして、三時頃、乘合自動車(バス)にのつて、ずつと高くに見える岩山の上まで行つて見た。一時間ほどバスに乘るんだが、この高原(カウゲン)は中々良い。濕度も下とは、大分ちがふ。
千五百尺位あるからね。一寸内地の秋のやうだ。高原には一面に、猩々(しやうじやう)草が生え、晝顏の花が一杯咲いてゐる。一寸、日光の奧の戰場ケ原のやうな感じがした。(戰場ケ原といつたつて、お前は知らないんだねえ。何故オレは、自分ばかり好きな旅行をして、お前を一度も連れてつてやらなかつたんだらう。今度内地へ歸つたら、早速(サツソク)何處かへ連れてつてやらう。)歸りのバスも海が良く見えて、大變良かつた。とにかくロタは景色がいいので有難い。もつとも岩山ばかりなので、サトウキビなんかが出來ないで困るんださうだが、この高原には鹿が出るさうだ。
十一月二十四日。昨日は日曜で、公學校の授業が見られなかつたので、今日も亦、チャモロ部落の公學校行。海岸の良い散歩道さ。午後は又、町に戻つて、國民學校に行く。これは校長と話をするだけ。オレもトニカク、用もなく興味(キヨウミ)もないのに、話をすることができるやうになつたから、たいしたもんだよ。
午後四時半サイパン丸にのりこむ。船に上つて見ると、船の中の燈火管制とかで、暗くて(明るくすれば暑くつて)仕方がない。このサイパン丸にね、地方課の若い人で、今度入營のため歸る人が乘つてゐて、その人が、お前の手紙(十一月十日附の飛行便)を持つて來てくれてゐた。これは、はじめから賴んでおいたからだよ。格が桓のしやベる眞似(マネ)をして、お前にお話をするさうだが、面白いだらうなあ。氷上の所へは、何もお前から、祝ひ狀を出す必要はない。桓は足におできが出來たつて? 自分で電車に乘つて通(かよ)へるやうならたいしたことはないんだらう。桓だつて、二年生にもなれば、ひとりで電車にも乘れるさ。都會の子だもの。なにも驚くことはない。なに、今に、格もぢき大きくなつて、兄貴に、映畫へ連れて行けと、せがむやうになるぜ。格は、比較(ヒカク)的、口のおそい方らしいね? しかし、口が早く、きけたからつて、頭が良いといふ譯ぢやないから、何でもない。もうオレの知つてる格とは、かなり違つて來てるんだらうなあ。
十一月二十五日。夜の中に船は動き出して、今朝はもうテニアンの港に着いてゐる。サイパンへは今日の午後正午ごろ着くだらう。サイパンの島も、直ぐそばに見えてゐるのだよ。又々、船便の變更(ヘンコウ)で、今後の行動が、わからなくなつた。或ひはサイパンに一月も滯在することになるかも知れない。十一月二十五日午後七時半(まだ朝食にならない。一等の食事は八時半)腹がへつてたまらぬ。近頃はやうやくパンでない朝食になれたよ。しかし、ヨコハマのウチのパンと紅茶のアサメシはウマカツタナア。
この次はサイパンから、今度は飛行便を出さう。
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「たゞ殘念なのは、椰子といふ椰子がみんな立枯になつてゐることだ。蟲にやられたんださうだ」恐らくは鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ゾウムシ上科オサゾウムシ科オサゾウムシ亜科 Rhynchophorini 族Rhynchophorus 属ヤシオオオサゾウムシ(椰子大長象虫)
Rhynchophorus
ferrugineus の食害による枯死と思われる。参照したウィキの「ヤシオオオサゾウムシ」によると、東南アジアとオセアニアの熱帯域に分布する体長三~四センチメートルの大型のゾウムシで、ヤシ類を枯死に至らしめる害虫として知られる。成虫はヤシ類の成長点付近を大顎で齧って穴を開け、長さ三ミリメートルほどの白いソーセージ形の卵を産みつける。一匹の♀の産卵数は二〇〇~三〇〇個ほどとみられる。『卵から孵化した幼虫は他のゾウムシと同様に脚がなく、太いイモムシ形をしている。幼虫はヤシ類の成長点付近の組織を食べて成長するが、一つの株に多数の幼虫が食いこむと成長点が激しく食害されて植物体の成長が止まり、食害が進んだ葉柄が次々と折れ、やがて株そのものが枯死するに至る』とあり、終齢幼虫は体長六センチメートルほどに達し、『充分に成長した幼虫は周囲の繊維質を固めて楕円球形の繭を作り、その中で蛹になる』とある。因みに本種は二十世紀末頃より、『日本の西日本、中東、ヨーロッパ各国まで分布を広げており、外来種としても警戒されている』とある。
「二十間」三六・三六メートル。
「乘合自動車(バス)」「バス」は「乘合自動車」のルビ。
「千五百尺」四五四・五四メートル。前に注したが、ロタ島のほぼ中央部にあるサバナ高原の標高は四九六メートルであるから事実は千六百四十尺弱に相当する。
「何故オレは、自分ばかり好きな旅行をして、お前を一度も連れてつてやらなかつたんだらう。今度内地へ歸つたら、早速何處かへ連れてつてやらう」これは私が「やぶちゃん版中島敦短歌全集 附やぶちゃん注」を編集する過程で手帳や年譜を披見して痛烈に感じた彼の性癖でもあった。敦のそれには妻帯者とは思えない異常なまでのエトランジェの性向(事実、御殿場での一人の別荘生活にあっては「やぶちゃん版中島敦短歌全集 附やぶちゃん注」の最後に掲げた小宮山靜との不倫疑惑さえ疑われるのである)が見て執れると言える(因みに私は全く逆に一人旅を殆んどしたことがない『異常なまでの』出不精の性向者であるからわざわざ『異常なまでの』と形容した。私は妻子を置き去りにして旅へ出る敦――それはどこか李徴に似ているではないか――に一種の奇異な感情を持っていることを告白しておく)。敦はかくも、たかに対して言っているのだが、結局、この翌昭和一七(一九四二)年三月十七日の帰国後は喘息が一進一退、凡そ九ヶ月後の十二月四日に亡くなるまでたかを旅に連れて行くことはなかったものと思われる。私は喘息を考慮しても、こういう敦の自分にとって都合のよい物謂いには激しい憤りを感ずるタイプの人間であることをも宣言しておきたい。私はこういうおべんちゃらを言っておいて(過去のたか宛書簡にもこうした表現が散見されるのである)、実際にはちょっとした旅にさえ妻を連れて行くことさえしなかった、その気さえもさらさらなかった敦に対して、男として、激しく『いやな奴』という印象を持つ部類の人間なのである。
「氷上の所へは、何もお前から、祝ひ狀を出す必要はない」既出の手紙でお分かりの通り、敦の親友氷上英廣はこの秋に既に結婚しており(注で示した関係する二通の書簡から見ると、最初の報知は敦からたかへなされているが、結婚後の結婚報告の通知は敦の実家宛で送られてきていたものと推測される)、その祝い状を送らないと失礼ではないか、といったたかの気掛かりへの返信である。
「十一月二十五日午後七時半(まだ朝食にならない。一等の食事は八時半)」の「午後」はママ。]