橋本多佳子句集「海燕」 昭和十年 志摩 八句
志摩
春潮を着きけり志摩の國に來し
春潮のさむきに海女の業を見る
若布(め)は長(た)けて海女ゆく底ひ冥(くら)かりき
[やぶちゃん注:「若布」二字で「め」と読ませている。二句後のそれも同じ。「底ひ」は万葉以来の古語で、至り極まる場所、涯、窮みの謂いで、「涯底」「底方」などとも表記するが、その語源は「そきへ」「そくへ」(孰れも「退き方」と表記し、遠く離れた所、果ての意)と同語源かとするものの、はっきりはしない。この二つの「へ」は「辺」、接尾語でそちらの方、辺りの謂いであろうから、ハ行同行でイ段に転訛したということか。]
わがために春潮深く海女ゆけり
若布(め)の底に海女ゐる光り目をこらす
海女の髮春潮に漬じ碧く埀る
[やぶちゃん注:「漬じ」は「つかじ」と読む。カ行四段自動詞「漬(つ)く」で、本来は水に浸る、濡れる、浸かるの謂いであるが、私はここは、未だ寒き海から上った海女の春潮に濡れた髪が、少しもそれに侵されることなく、碧に輝いているという海女という過酷な業をものともせぬ女の、ヴァイタルなシンボルとしての黒髪への手放しの讃歌と読む。]
東風(こち)さむく海女が去りゆく息の笛
[やぶちゃん注:「息の笛」言わずもがなであるが、海女が浮上した際に行う激しい呼吸で口笛のように鳴る磯笛である。こちらで(中学の修学旅行で私もただ一度だけ実際に聴いたことがあるが、その如何にも淋しい音色が何故か今もずっと耳を離れずにある)鳥羽のミキモト真珠島での実演中の磯笛が聴ける。]
東風さむく海女も去りたり吾もいなむ
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