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2014/01/29

耳嚢 巻之八 古人は遊惰の人ながら其氣性ある事

 古人は遊惰の人ながら其氣性ある事

 

 寶曆明和の頃まで、河東節(かとうぶし)の名人と世に口ずさみし原富五郎、後(のち)武太夫と云(いひ)しは、御家人にて專ら三味線の妙手故、貴賤の差別なく渠(かれ)が其音曲を聞(きか)ん事を望(のぞみ)し。尤(もつとも)壯年より遊人(あそびにん)にてありしが、短き大小をさすは彼(かの)者より初(はじま)りしとや。其子細は諸侯抔へ招かれぬる時、刀劍を禁ずるゆゑ、いかにも短きを帶し、門前にて取之(これをとり)て三味線箱の内へ入れしとや。人其事を尋(たづね)しに、我等遊惰(いうだ)のものにて、我(わが)行跡(ぎやうせき)あざける者あらん、されど心に武士を忘れざれば、いづ方にてもちいさき兩刀ははなさず、今の若輩者刀は宿におき往來を一本にてあるき、甚敷(はなはだしき)は無腰(むこし)なるも有(あり)と嘲りしとや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。音曲技芸譚。

・「寶曆明和」西暦一七五一年から一七七二年。

・「河東節」代表的な江戸浄瑠璃、古曲の一つ。現在、国の重要無形文化財。江戸半太夫(半太夫節の創始者)の門下である江戸太夫河東(天和四・貞享元(一六八四)年~享保一〇(一七二五)年)が、享保二(一七一七)年に十寸見河東(ますみかとう)と名乗って創始した。初期には半太夫節に式部節などを加味した語り口を持味にし、庶民からひろく支持された浄瑠璃であったが、後には豊後節や常磐津節によって人気を奪われ、このため豊後節禁止を幕府に働きかけるなどの策を弄したことでも知られる。江戸中期以降は人気、歌舞伎の伴奏音楽の地位をともに奪われ、主にお座敷での素浄瑠璃として富裕層に愛好された。特に吉原との関係が深く、二代目(?~享保一九(一七三四)年)、三代目(?~延享二(一七四五)年)の河東は吉原に暮らし、初代・二代・三代の蘭洲は妓楼の主であったといわれる。三味線は細棹を用い、語り口は豪気でさっぱりしていて「いなせ」である。後に山田流箏曲に影響を与えた(以上は主にウィキの「河東節」に拠った)。

・「原富五郎」底本の鈴木氏注には、『三村翁注「原武太夫、初名富次郎とあり、御先手与力の隠居。牛込清水町住、寛政四年二月二十二日九十五にて歿す、牛込感通寺に葬る』とあり、岩波版長谷川氏注には、『三味線の名手、随筆・狂歌の作がある。安永五年(一七七六)没、八十歳とも寛政四年(一七九二)没、九十六歳ともいう』とある。京扇子の店「京扇堂」公式サイト内の「せんすの話」の荘司賢太郎氏の執筆になる芳澤あやめには『元禄十年(1697)生まれで九十六才まで長生きした。寛政四年(1792)没。寛延二年(1749)生まれの蜀山人は十六、七の頃、和歌の師の内山椿山の所で武太夫と出会っている。(『一話一言』巻三十八)』とある。この引用元の荘司氏の記事には驚異的に詳細を極めた歌舞伎と河東節の歴史が語られてある。お好きな向きには必見である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 古人は遊惰(ゆうだ)の者にえもその気性に気骨ある事

 

 宝暦明和の頃まで、河東節(かとうぶし)の名人として、広く世に知られ称された原富五郎なる者、後(のち)に武太夫と名乗ったは、もともとは御家人にて、專ら、三味線の妙手で御座った。貴賤の差別なく、かの者の弾き唄(うと)う音曲(おんぎょく)を聴かんものと、世人はこぞって望んだもので御座った。

 尤も、御家人とは申せ、その頃には所謂、遊び人という体(てい)で御座ったれど、一部の三味線弾きの内にて刀の短かき大小を差す者の今あるは、かの者より始まるとか申す。

 その子細は、諸侯などが方へ招かれた際、刀剣の持ち込みをば、これ、禁ずるがゆえ、如何にも短かき刀を佩き、かの諸侯が門前にてこれを外して、三味線箱の内へと入れ、おもむろに屋敷内へと入ったものの由。

 さる人、その仕儀につき、かの者に直接訊ねたところ、

「……我ら遊惰の者にて、我が行跡(ぎょうせき)を嘲けんとする者も御座るようなれど……心には常に武士たるを忘れずに御座ればこそ、何方(いづかた)へ参らんも、小さき両刀は、これ、放さざるを心掛けて御座る。……今の武士のうち……特に若輩者の中には、太刀を屋敷に置いたまま、往来を一本差しにて歩き、はなはだしきは、無腰(むこし)で平然と闊歩致す輩(やから)も……いやこれ、御座いますのう。……」

と、嘲りを含んで語ったとか申す。

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