『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 延命寺の舊址
●延命寺の舊址
停車場より二三丁行けば、延命寺の舊址(きうし)あるへし、黄靈山地藏院、古義眞言宗、本尊延命地藏尊、行基の作なり、長六寸五分、當寺は行基の開基にして、僧朝賢中興す、三浦氏及北條氏代々の祈願所なりしといふ、惜しむべし囘祿の災に罹る
[やぶちゃん注:現在、JR逗子駅近く(門前まで三八〇メートル)の当該地(逗子市逗子三丁目)に高野山真言宗黄雲山延命寺、通称、逗子大師として再興されて現存する。同寺公式サイトの「お寺案内」によれば、『奈良時代聖武天皇の天平年中、行基菩薩自ら作られた延命地蔵尊を安置したことが当山の始まりで』、平安時代に『弘法大師が当山に立寄り、延命地蔵菩薩の厨子を設立せられる。その後、住民の尊信が高まり、この地を「厨子」と呼び現在の「逗子」という地名の発祥と伝わっている』とし、鎌倉時代には『三浦氏の一党が大いに当寺を修補して祈願寺と』した。室町時代には『北条氏の三浦攻めに敗れた三浦一族の一人、三浦道香主従は当山に於いて自害する。現在、主従の墓は境内に存す』とある。戦国期には『北条氏の帰依を得、天文年間、僧朝賢が中興の祖となる。天正年間(天正19年11月)には徳川家康公より御朱印五石を下附される。頼雄・尊栄の師資相次いで復興を計り貞享年間(貞享4年)伽藍竣工し新たに大日如来尊像造立して本尊と』して続いたが、近代に至り、本誌刊行の二年前の『明治29年に大火災により鐘楼を残し全て焼失し』て本文のような仕儀となり(但し、公式サイトには廃寺の記載はない)、『更に関東大震災により仮本堂9棟全潰の災厄にあい、第七十一世本瑞代、震災直後直ちに復興に着手し、大正13年11月起工し大正14年に旧本堂を完成』、昭和になって『第七十二代祐瑞代に弘法大師御誕生千二百年記念事業として昭和49年起工し昭和52年4月末完工、新本堂落慶を記念して「逗子大師」と称号し、その後第七十三世神田宜圓代に、檀信徒及び参詣者の増加により旧会館の狭小及び老朽の庫裡等の改築を発願し諸般の協力を得て弘法大師御遠忌千百五十年記念事業として檀徒会館及び庫裡の建築に着手、昭和58年10月着工、昭和59年9月に完成し現在に至る』とある。
「二三丁」約二一八~三二七メートル。
「六寸五分」約一九・七センチメートル。
なお以下は、底本では全体が一字下げで標題はポイント落ちである。]
●三浦道香の墓
五輪塔なり、高三尺許、寺傳に道香は入道道寸の弟なり、道寸北條氏綱と矛盾の時、永正十年七月七日、道香氏綱と此地に戰ひ、軍破れ此寺に入て自害す。寺に道香の帶せし正宗の短刀を傳へしかと、慶長頃失へりといふ、又道香が一族の墓碑六基あり。
[やぶちゃん注:三浦道香(どうこう ?~?)三浦義同(道寸)の弟で逗子住吉城城主。北条早雲によって岡崎城を攻められた道寸は弟道香の守る住吉城に退いたものの、同城も攻められて落城、道寸は三浦新井城に逃れたが、道香は最後まで戦って七騎で落ちのびた末に、ここ延命寺で自刃したと伝えられている。これらは道香とその家臣たちの冥福を祈るために家臣菊池幸右衛門が延命寺に建立したもの。本文には五輪塔とあるが、ネット上の写真(私は未訪問)を見ると孰れも宝篋印塔である。]

