中島敦 南洋日記 十二月九日
十二月九日(火) 晴
正午、はじめて空襲警報を聞く。事無し。三十分ばかりにして解除。午後小田電機にてラヂオを聞く。昨日のハワイ空襲は多大の戰果をあげたるものの如し。マレー半島上陸も大成功なりしと。御用船はパラオに行かず。山城丸も缺航か? 東京にては、さぞ心配せるなるべし。夜、市街闇黑にして、店舖の營業せるものを見ず。餘りに過度の緊張は、却つて、長續せざる所以に非ざるか?
[やぶちゃん注:「マレー半島上陸も大成功」マレー作戦(日本側作戦名「E作戦」)は太平洋戦争序盤に於ける日本軍のイギリス領マレー及びシンガポールへの進攻作戦で、日本の対英米開戦後最初の作戦であった。当時、大本営はこのマレー上陸とアメリカ属領ハワイに対する真珠湾攻撃との関係に苦慮していた。何故なら、陸軍はマレー上陸が長途の海上移動の危険を伴うことから奇襲を絶対条件としたのに対し、海軍も真珠湾での奇襲に絶大なる期待をかけていたためであったが、これは、もし一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなることを意味していたからである。マレーとハワイとでは約六時間の時差があることから、双方を辛くも両立させ得るのが、マレーの深夜、ハワイの早朝、という作戦開始のタイミングなのであった。十二月八日の日本時間午前一時三十分、陸軍第十八師団支隊がマレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。これは真珠湾攻撃日本時間三時十九分(現地時間七時四十九分)、に先立つこと一時間二十分で、所謂、太平洋戦争は実はまさにこの時間に開始されたのであった。世界史的見解に於いては本攻撃によって第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大したとされる。一九四一(昭和一六)年十二月八日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍はイギリス軍と戦闘を交えながら五十五日間で約千百キロを進撃、翌年の一月三十一日に半島南端のジョホール・バル市に突入した(これは世界戦史上稀に見る快進撃であるとする)。作戦は大本営の期待を上回る成功を収めて日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った(以上はウィキの「マレー作戦」に拠る)。
「御用船」戦時に軍が徴発して軍事目的に転用した民間船舶。ここで敦が乗船している「鎌倉丸」はかつてサンフランシスコ航路の客船であったものを海軍が徴用していた日本郵船所属のそれを指すものと思われる(同船はこの二年後の昭和一八(一九四三)年四月十八日に将兵及び民間人多数を乗せてボルネオ島東岸のマッカサル海峡に面したパリクパパンへ向かう途中、米潜水艦からの魚雷攻撃を受けて沈没していることがこちらの頁で確認出来た)。開戦直後であることから、安全を考慮してテニアン行の船便が海軍徴用船鎌倉丸に変更されたものかと思われる。
「山城丸」十月二十一日に既注。]