耳嚢 巻之八 寐小便の呪法の事 附笑談の事
寐小便の呪法の事 附笑談の事
小兒はさらなり、壯年に至りて、夜分此病ひ有(ある)もの世にすくなからず。或人の語りけるは、男女に限らず新葬の佛を厚く信じ、朝夕怠らず日數を極め祈りぬれば、彼(かの)やまひを除く事奇々妙々の由かたりぬ。埒なき事ながら、かたりし人我もためしつる事ありと申(まうし)ぬれば、こゝに記しぬ。
[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]
附り 文化四年の春の頃、勤(つとめ)をなせしさる若人かの愁(うれひ)ありと。右呪(まじなひ)を人の教(おしへ)ぬるにまかせ、葬送を見懸(みかけ)その寺まで見屆(みとどけ)、翌日に至り新葬の墓所へ詣で、櫁(しきみ)などたてゝ彼(かの)病を念頃に祈り、それより日毎に詣で櫁をそなへ念頃に祈誓せしに、施主の男新らしき手向(たむけ)を寺よりなせし事と思ひて、納所に逢ふて厚く禮をなせしに、寺にては一向思ひよらざる事なるが、此頃若き侍日毎に來りて櫁を手向、念頃にとむらふ樣子を見しと語りければ、施主なるもの驚きて、夫(それ)はいかなる樣(さま)の人にや右亡者は我等娘にて二八(にはち)の年齡なれば、存生(ぞんじやう)の内にかゝる事ありしとは思ひ知らざりしが、申(まうし)かわせし人にやあらん。かくとしらば、せん樣(やう)も有(ある)べきと深く驚き、何とぞ彼(かの)人來(き)なば住所名前を聞(きき)てしらせ給ひてよと深く賴(たのみ)ければ、翌朝彼(かの)侍例の通(とほり)來りしを引留(ひきとめ)て、一寸(ちよつと)住僧逢度(あひたき)由を申(まうし)ける故、日々の勤遲くなりてはなりがたき迚いなみければ、無理に引留てありし譯語りけるにぞ、名住所もなのるべけれど、けふは急ぐ事あればと斷りて皈(かえ)りしが、かゝる事に墳墓に詣ふでぬると咄(はな)さんも面(おも)ぶせなれば、其後は參詣も思ひ留りしとや。
□やぶちゃん注
○前項連関:民間療法シリーズの夜尿症や尿漏れのための呪(まじな)い物であるが、専ら附けたりの笑話の面白さ故に採録したものである。
・「文化四年」西暦一八〇七年。「卷之八」の執筆推定下限は文化五年夏。
・「櫁」樒。梻。双子葉植物綱シキミ目シキミ科シキミ属
Illicium anisatum。かつてはモクレン科に分類されていた。仏事に用いるため寺院によく植えられるが、全木特に種子・果実にアニサチンなどの有毒物質を含み、食べれば死亡する可能性がある程度に有毒。参照したウィキの「シキミ」によれば『語源は、四季とおして美しいことから「しきみ しきび」となったと言う説、また実の形から「敷き実」、あるいは有毒なので「悪しき実」からともいわれる。日本特有の香木とされるが』、江戸中期の大阪真蔵院住職子登撰の「真俗仏事論」の二には供物の記載で、『「樒の実はもと天竺より来れり。本邦へは鑑真和上の請来なり。その形天竺無熱池の青蓮華に似たり、故に之を取りて仏に供す」とあり、一説に鑑真がもたらしたとも言われる』とある。また、『シキミ(樒)は俗にハナノキ・ハナシバ・コウシバ・仏前草という。弘法大師が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた。なにより年中継続して美しく、手に入れやすいので我が国では俗古来よりこの枝葉を仏前墓前に供えている。密教では葉を青蓮華の形にして六器に盛り、護摩の時は房花に用い、柄香呂としても用いる。葬儀には枕花として一本だけ供え、末期の水を供ずる時は一葉だけ使う。納棺に葉などを敷き臭気を消すために用いる。茎、葉、果実は共に一種の香気があり、我が国特有の香木として自生する樒を用いている。葉を乾燥させ粉末にして末香・線香・丸香としても使用する。樒の香気は豹狼等はこれを忌むので墓前に挿して獣が墓を暴くのを防ぐらしい。樒には毒気があるがその香気で悪しきを浄める力があるとする。インド・中国などには近縁種の唐樒(トウシキミ)があり実は薬とし請来されているが日本では自生していない。樒は唐樒の代用とも聞く。樒は密の字を用いるのは密教の修法・供養に特に用いられることに由来する』とある。
・「納所」納所坊主。狭義には禅宗寺院に於いて金銭や米穀などの出納を行う係の僧。転じて寺院一般で雑務を行う下級の僧をも指す。ここは後者。
・「面ぶせ」面伏せ。顔が上げられぬほどに面目ないこと。不名誉。「おもてぶせ」とも読める。
■やぶちゃん現代語訳
寝小便の呪法の事 附けたり 笑い話の事
小児は勿論のこと、壮年に至りても、夜分にこの尿漏れの病いを患(わずろ)う者は、これ、世に少なく御座らぬ。
ある人の語ったことには、男女に限らず、新仏(にいぼとけ)の菩提を厚く弔い、朝夕怠らず、その祈誓の日数(ひかず)を決めて一心に祈ったならば、かの病いを除くこと、これ奇々妙々の由、語って御座った。
埒もないことながら、語った御仁も、実はかの愁いのあって、
「……我らも試しみたことが御座って、信じられぬほどにすっかり快癒致いて御座る。」
と申されたによって、ここに記しおくことと致す。
根岸附記(そのことにつきて面白き話の御座ったればここにさらに記しおくことと致す。)
文化四年の春の頃、御用勤めをなせる、さる若人(わこうど)、かの尿漏れの愁いが御座ったと申す。
そこで、この呪(まじな)いを人が教え呉れたにまかせて、折よく、葬送を見かけたによって、その菩提寺までも見届けた上、翌日になって、かの新仏の墓所へと詣でて、櫁(しきみ)なんどを誠心に立て、一心にかの病いの平癒を祈り、それより毎日欠かさず、詣でては新しき櫁を供え、懇ろに祈誓致いて御座った。
ところが、さてもその新仏施主の男、墓参りに出向いてみれば、新らしき手向(たむ)けのこれあればこそ、親切にも寺よりなし下されたことと思うて、納所(なっしょ)坊主に逢(お)うて厚く礼を述べたところが、
「……いや……寺にては一向にそのような仕儀は致いて御座らぬ……思いもよらぬことなれど……はて、そういえば……この頃、若きお侍が日ごとに来たっては櫁を手向け、懇ろに弔う様子……これ、遠目に見ては御座った……」
と語ったによって、施主なる者、大きに驚き、
「そ、それは如何なるご様子の御仁で、ご、御座ろうか!?……かの亡き者は我らが娘にて十六にての夭折……存生(ぞんじょう)の内に……その……い、いわくのあることなんどが御座ったとは思いもせず、知りも致さなんだが……もしや!……そ、それは……密かに申し交わして御座った、お人なのでは、御座るまいか!?……かくも、そうしたことを知ったとなれば……その御仁への、それなりの御礼やら仕儀をもなすが、これ、礼儀、また、死者成仏の救けとものならん!……」
と深く感じ入って驚き、
「……何とぞ、かのお人がまた参られたならば、どうか、お坊さまより、住所名前をお訊ね下され、きっと、我ら方へとお知らせ下さいませ!」
と懇ろに頼んで御座った。
翌朝、寝小便祈願のため、かの侍、例の通り詣でたを、納所坊主の見かけて、既に施主の頼みを伝えて御座った住持に告げておいたによって、かの侍を引き留め、
「……ちよっと住持がお侍さまにお逢い致したき儀、これある由なればこそ。……」
と申しところ、何を聴かれんかと思わず慌てた侍、
「……い、いや……そ、その日々の、お、御用勤めにも遅くなりては、こ、これ、な、なりがたきことなれば……」
と辞さんと致いた。
ところが施主の頼みもあったれば、住持自ら出でて参って、無理にも引き留め、
「……実は貴殿の日参なさるる新仏が施主より、かくかくのご依頼方、これ、御座ったによって……」
と切り出したところが、侍、なおも内心、吃驚仰天、小便をちびりそうになりながらも、落ち着きを装い、
「……か、かくなるお訊ねなればこそ……名や住所をも名乗るべきが道理なれど……今日は……これ御用の向き、よんどころなく……急ぐことの御座ればこそ、平に!……」
と断って、早々に帰って御座ったと申す。……
――かかる祈誓がために、かのうら若き娘子の新仏の墳墓に詣でて御座った――
なんどと申さんは、これ、如何にも不名誉極まりなきことなれば、その後(のち)は、かの寺への参詣も、これ思い留まらざるを得なんだと申す。
……夜の尿(しと)の……あとのこと知りたや……
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