中島敦 南洋日記 十二月十日
十二月十日(水) 晴
午前十時、武德殿にて長官の訓示あり。急に、御用船鎌倉丸便乘と決る。高里氏は後に殘ることとなる。大急ぎで支度。ニュースによれば、パラオ港外にて敵潛水艇一隻を撃沈せりと。この航海相當に危險ならんか? 午後四時乘船。流石に巨船なり。乘船後のニュースによれば、シンガポールにて、我が海軍機、敵戰艦二隻を撃沈せりと。又曰く、本日、敵飛行機十臺パラオ空襲、但し全部撃墜さると。
甲板上に群がる鮮人人夫。女、幼兒、十二月の朝鮮より來りしものとて、皆厚着せり。板の上に死物の如く伸び横たはれる子持の女。
[やぶちゃん注:「十二月の朝鮮より來りしもの」当時、朝鮮は日韓併合によって朝鮮総督府の統治下に置かれていたが、この頃の日本政府は未開発である朝鮮半島の開発に力を入れ、開発工事や運営の主な労働力を朝鮮人に求めることで雇用を創出、これにより朝鮮人の海外への流失を抑制し、日本本土への流入も抑えて本土の失業率上昇や治安悪化をも防止しようとしていた(この部分、ウィキの「日本統治時代の朝鮮」の「概要」を参照した)。この南洋にやってきた朝鮮人の人々は日中戦争による治安の悪化を避けるためとも思われるが、いわばそうした本土外移民の積極政策の一環であったともとれるように思われる。]
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