水市覚有秋 萩原朔太郎 短歌七首 明治四一(一九〇八)年十二月
水市覺有秋
むらさきす路上の花のちひさきを愛づるばかりにゆく車かな
千石の水あぶ心地日ぐらしの一時に啼きぬ木蔭路入れば
海戀し山に登れば遠山は波のやうなり風の音さへ
櫻貝二つ並べて海の趣味いづれ深しと笑み問はれけり
[やぶちゃん注:三年前の前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十二号(明治三八(一九〇五)年七月発行)に発表した「ゑかたびら」十二首連作の掉尾の、
さくら貝、ふたつ重ねて海の趣味、いづれ深しと笑み問(と)はれけり。
の改作。初出に劣る。]
大坂やわれをさなうて伯母上が肩にすがりし木遣(きやり)街かな
[やぶちゃん注:三年前の前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十二号(明治三八(一九〇五)年七月発行)に発表した「ゑかたびら」十二首連作の一首、
大坂やわれ小なうて伯母上が、肩にすがりし木遣り街かな。
の標記違いの同一作。]
あめつちの途(みち)にははぢぬ我ながら歌を一人の君にかくしぬ
ほと〻ぎす女に友の多くしてその音づれのたそがれのころ
[やぶちゃん注:前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に発表した八首連作の一首、
ほとゝぎす女(をんな)に友(とも)の多くしてその音(おと)づれのたそがれの頃
の標記違いの同一作。
以上七首は、第六高等学校『交友会誌』明治四一(一九〇八)年十二月号に掲載された。朔太郎満二十二歳。彼はこの前年九月に熊本の第五高等学校第一部乙類(英語文科)に入学したが、この年の七月に第一学年を落第、同月、岡山の第六高等学校を受験して合格、同年九月に同校第一部丙類(独語文科、独語法科)に入学していた。因みに但し、結局、定期試験を受けずに問題視されて六高も翌明治四十二年七月に落第、翌四十三年四月には慶応義塾大学部予科一年に入学するも同月中に退学(理由不明)、同年六、七月頃には六高もまた退学している(当時、チフスに罹患しており、表向きの退学理由はそれであるように底本年譜の記載では読めるように書かれてある)。学歴の仕切り直しは明治四四(一九一一)年五月の応義塾大学部予科一年の再入学であるが、ここもまたしても六ヶ月後の同年十一月に退学し、これが萩原朔太郎の最終学歴となった。]