夏衣 萩原朔太郎 短歌八首 明治三七(一九〇四)年六月
夏衣
御送りの燭灯(ともし)百千は櫻(さくら)とて天童かざす別とあらば。
[やぶちゃん注:ブログでは単独既出であるが再掲する。本首、精霊流しの情景かと思われるが私は歌意が汲めない。識者の御教授を乞うものである。]
昔見し花ちる里の古き井にありける影や幼な君われ。
古山の木樵男が瘤とりし鬼なつかしや舞はむともども。
[やぶちゃん注:「ともども」の後半は踊り字「〱」。本歌は、
ふる山のきこりをとこが瘤とりし鬼なつかしや舞はむともども
の表記で前月の『明星』辰年第六号(明治三七(一九〇四)年六月発行)に発表済み。]
音なしう涙おさへてあればとて春の光はくれであらめや。
スラブみなしはかれ聲に御軍の吾たたゑなむ日をも待つべし。
[やぶちゃん注:ブログでは単独既出であるが再掲する。「しはかれ」「たゝゑなむ」はママ。底本改訂本文では、
スラブみなしはがれ聲に御軍の吾たたへなむ日をも待つべし。
と『訂正』されてある。
「スラブ」はスラヴ民族の連帯と統一を目指す汎スラヴ主義の思想者を指すか。「吾」とはそうした戦闘的汎スラヴ主義を唱える闘士を漠然と指すか。これは何か汎スラヴ主義運動のニュース報道や映像その他に触発された、朔太郎自らを汎スラヴ主義者に仮想したところの空想の一首か。今一つ、歌意を汲めない。識者の御教授を乞う。]
今ぞ世は驚かれぬるパン神の領かたまたま堪へぬ寂寞(しゞま)に。
[やぶちゃん注:ブログでは単独既出であるが再掲する。「たまたま」の後半は踊り字「〱」。
詩人の歎きというか、猥雑なる外界との断絶感は分かるが、私が馬鹿なのか、今一つ、「パン神の領か」が指弾している対象の核心が今一つ見えてこない。どなたか、是非、御教授を願いたい。]
小羊の頸ふる鈴の優し音に似しともきゝし野行く春風。
人の歌は誦さむに寒ういたいたし。つめたければや胸たりるなし。
[やぶちゃん注:「いたいたし」の後半の「いた」は踊り字「〱」。
以上八首は『坂東太郎』第三十九号(明治三七(一九〇四)年七月発行)に掲載された。萩原朔太郎満十七歳。]
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