耳嚢 巻之八 篠原團子の事
篠原團子の事
江戸市中に篠原團子とて賞翫(しやうかん)す。加賀の篠原にゆえんあるや、また齋藤實盛に由緣あるや、篠原團子、或はさねもり團子など看板出し口ずさみぬるが、みな附會の説にて、篠原團子は江州(がうしう)姥(うば)が餅など商ふ最寄に、篠原村といふあり、至(いたつ)て米性(こめしやう)よきゆゑ、右米にて拵(こしらへ)る故其味ひも佳なりとて、篠原團子ともてはやすと人の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:旧蹟由来検証譚から品名由来検証譚で連関。但し、この名の江戸前の団子は現在は知られていないようである。
・「賞翫(しやうかん)」「しょうかん」で近世までは清音であった。
・「加賀の篠原」石川県加賀市篠原新町。斉藤別当実盛が討死した場所と伝えられ、篠原古戦場実盛塚がある(但し、地図で見る限りでは現在はここだけが篠原町として陥入している。また、底本の鈴木氏注によれば、これは後の時宗の歴代の遊行上人が巡化(じゅんげ:僧が諸国を巡り歩いて説法し教化(きょうけ)すること。)の際、必ずこの塚の前で念仏供養することを仕来りとするようになり、時宗の唱導家らによって実盛の墓と言い習わすようになったものかと推測される、とある)。
・「齋藤實盛」(大治元(一一二六)年?~寿永二(一一八三)年)は越前国生まれで武蔵国長井に移り住む。源義朝に仕えて長井斎藤別当と称し、保元・平治の乱に参加の後、平家に仕えた。寿永二(一一八三)年に源義仲追討のために北国に発向したが、加賀篠原で討死した。かつて幼き日に駒王丸(義仲)を救った彼は義仲の除名を察知し、老武者と侮られぬために白髪白髯を墨を以って黒く染めて、名乗りも上げずに死に赴いた「平家物語」の話はあまりにも有名。
・「江州姥が餅」東海道五十三次の一つで中仙道との分岐点に当たる近江路随一の宿場町草津の名物。近江源氏佐々木(六角)義賢が慶長三(一五九八)年に信長に滅ぼされた際、その三歳になる曾孫を託された乳母福井とのは郷里であった草津に身を潜めて幼児を抱いて住来の人に餅を売って養育の資として質素に暮らした。そのことを周囲の人たちも知り、乳母の誠実さを感じて、誰いうことなく「姥が餅」と言い囃したのを由来とするという(一部で滋賀県草津市大路二丁目に現存する「うばがもちや」の公式サイトの「うばがもち物語」を参考にさせて戴いた。リンク先ではその後、江戸時代に爆発的にヒットしてもて囃され、家康・芭蕉・蕪村らにも食されたことなど、その後の経緯についても詳しい。必見)。
・「篠原村」岩波版長谷川氏注に『滋賀県野洲郡野洲町。また草津市野路辺を野路の篠原という』とある。前者は現在は野洲市で大篠原と小篠原という名が残る。底本の鈴木氏注には、『両地の距離は十キロ程でしばしば混同される』が、『筆者がいずれをさしていうか不明』とされる。私は今に銘菓を伝えている「うばがもちや」に敬意を表し、後者をとりたい。
■やぶちゃん現代語訳
篠原団子の事
江戸市中に「篠原団子」と申し、しきりに賞翫されておる団子が御座る。
これは加賀の篠原に所縁(ゆかり)があるものか、または、そこに関われるところの知られた齋藤別当実盛に由縁するものなるか、「篠原団子」或いは「さねもり団子」などと看板を出だし、巷間にも称して御座るが、これ実は皆、牽強付会の説で御座って、「篠原団子」は、これ、近江国にてやはり知られたる「姥(うば)が餅」など商ふ最寄りに、篠原村と申すところの御座って、ここがまた、いたって米の性(しょう)のよき土地柄ゆえ、その米を以って拵えたるによって、その団子の味わいも佳なるものなりとて、「篠原団子」ともて囃して御座ったを、それをまた真似て、江戸市中にても「篠原団子」として売り出だいたるもの――とは、さる御仁の話で御座った。
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