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2014/01/06

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 明治村

    ●明治村

明治村は。相模國高座郡に屬し。鵠沼村の西隣なり。町村制施行の際。羽鳥(はとり)、大庭(おほば)、辻堂、稻荷の四村を合(がつ)して。此の稱を附せり。改稱の日尚ほ淺きを以て。近邊に至り明治村を問ふも。知る者なく。舊稱を唱ふれは直ちに答へり。海水浴場は。舊辻堂村の海濱に係れは。今聊か同村の事を記すべし。新編相模國風土記に云。

[やぶちゃん注:以下、一行字数を底本に合わせたが、割注を同ポイントで示したため、不揃いとなっている。]

 小田原北條氏の頃は。關兵部丞知行す。

  役帳に。關兵部丞五十二貫四百文。東郡羽鳥辻堂と載す。

 今は御料所にして。

  寶曆十二年より御料となる。其已前は保々藤助、戸田靫負

  高木富三郎、森川左近等知行す。

  又小許の新田あり。明和八年開闢(かいべき)し。翌年江川太郎左衛門

  英征撿地して高入(かふにふ)とす。飛地鵠沼村にあり。〔八段五畝歩〕西北に

  東海道係る。〔當村に一里塚あり〕又大山路あり。〔東海通往還小名四谷より右折す〕南方海

  濱に砲術場の曠原あり。此地(このち)魚獵(ぎよれう)の利多し。又松露初茸を

  産す。

八松稻荷社

田畑明神社 社後に片葉(かたは)の葭(よし)生す

諏訪社 村の鎭守とす。寛永の棟札(むねふだ)あり。〔寛永十五年三月檀主保々石見守と記す〕

寶珠寺 八松山明王院と號す。古義眞言宗。〔藤澤宿感應院末〕本尊不動を

 置く開山を元朝〔元曆三年三月八日寂〕中興を玉鉉〔享和三年寂す寺記の類は元祿七年八月雷火に烏有〕

[やぶちゃん注:上記は底本では頭も一字下げで「寶珠寺八松山明王院と號す……」となっているが、組版の誤りと判断してかくした。]

寶泉寺 海龍山觀音院と號す。本尊正觀音を安置せり。

[やぶちゃん注:「明治村」明治二二(一八八九)年四月一日の町村制施行によって高座郡辻堂村・大庭村・羽鳥村・稲荷村が合併して出来た村であったが、その九年後である明治三十一年の本誌発行から今度はたった十年後の明治四一(一九〇八)年四月一日 には明治村・藤沢大坂町・鵠沼村が合併して藤沢町となった。当時の明治村は現在の藤沢市の辻堂地区・湘南大庭地区及びその旧名を残す明治地区(辻堂駅の東北直近)が該当する。

「寶曆十二年」西暦一七六二年。

「小許」は「すこしばかり」と訓ずる。

「明和八年」西暦一七七一年。

「英征」「ひでゆき」と読むか。

「高入」郡村名や村高(検地によって定められた一村の総石高のこと。原則、年貢・諸役はこの村高に応じて賦課した。風水害等によって耕地が損壊しても次期検地までは原則的に村高は変更されなかったが、現実の年貢収取に当たっては実際に作付けされた耕地の石高(毛付高)を基準とする場合が多かった。)を列記した帳簿を「高帳」と称し、村高に編入することを「高に結ぶ」「高結(たかむすび)」「高入」と言った。

「大山路あり。〔東海通往還小名四谷より右折す〕」大山詣でルートの中でも最も有名な、現在の神奈川県藤沢市から大山へ向かう田村通り大山道。起点の藤沢四ツ谷(現在の辻堂駅北東北約一キロメートル地点)には「一の鳥居」が置かれた。御花講大山道・御花講道とも呼ばれ、東海道と藤沢宿で接続し、藤沢宿を挟んで対称位置にある江の島道にも通じるため、最も賑いをみせた経路であった。現在の神奈川県道四四号伊勢原藤沢線や神奈川県道六一一号大山板戸線が近似したルートを辿っている。

「八松稻荷社」「八松」は「やまつ」と読む。藤沢市辻堂元町四丁目にある。文治年間(一一八五年~一一九〇年)の勧請とされ、名前はこの地域が古くは「八松(やまつ)ヶ原」「八的(やまと)ヶ原」と呼ばれていたことに由来する。これについては次の項の「八松原」で詳述する。

「田畑明神社」藤沢市辻堂元町四丁目にある。現在の社は元禄年間(一六七〇年前後)建立のもの。田畑御繩打ち納めの時にこの縄がここに納められたという。

「片葉の葭」「でんばくさまのさかさあし」というこれに類似した呼称を含んだ辻堂東町に伝わる民話では、梶原景季が戦さのため、この「でんばくさま」(田畑明神の通称である)近くを走りかかった際、畑にいた村人らが景季の鎧が立派でないのを笑ったところ、景季が怒り、鞭代わりにしていた葦を逆さに泥沼の中に挿し込んだ。それ以来、ここの葦は逆さに伸びるようになった、とある(「地域新聞辻堂タイムズ」の「辻堂物語 その1」に拠った)。

「諏訪社」藤沢市辻堂元町三丁目にある。「地域新聞辻堂タイムズ」の「辻堂諏訪神社例大祭」の以下の記載を見る限り、この「辻堂諏訪神社」を指していると考えてよい。本社は『長野県上諏訪、下諏訪の両大社の分神であり、推定、西暦1159年創建以来広く崇拝され『辻堂のお諏訪様』として親しまれてきた。明治6年、神佛分離により、辻堂村社として認可を受け、辻堂総鎮守となる。末社として、八松稲荷神社他6社がある』。

「寛永十五」西暦一六三八年。

「寶珠寺」藤沢市辻堂本町にある。現在は辻堂駅南口から徒歩約十分程のところにあるが、かつては旧辻堂村の中心地付近にあった。文化元(一八〇四)年に現在地へ移築されたもので、辻堂の地名は旧鎌倉街道と村道の交差する辻にあった本寺の不動堂に由来するものである(「藤沢市まちづくり協会」の「辻堂のはなし」に拠る)。

「元曆三年」不審。元暦は二年(西暦一一八五年。文治元年に改元)までしかない。国立国会図書館版(巻之六十・高座郡巻之二)の「鳥跡蟹行社」版及び「大日本地誌大系」版の画像で視認したが間違いではない。識者の御教授を乞うものである。

「玉鉉」「ぎよくげん(ぎょくげん)」と読むか。

「享和三年」西暦一八〇三年。

「元祿七年」西暦一六九四年。

「寶泉寺」藤沢市辻堂元町三丁目にある。真言宗。本尊十一面観音。源頼朝が勧請したとされ、建久元・文治六(一一九〇)年~正治元・建久十(一一九九)年頃の創建と考えられる。俗に「南の寺」と呼ばれ、江戸時代は大山詣での帰りに必ず参詣する寺として賑わった。]

 

【2016年1月13日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】

Ekzk_meijimura

山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 明治村明治館の図

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)の挿絵。上部欄外に「明治村明治館の圖」というキャプションがあり、左(東方)に「江ノ嶌」の貼り込みがあって、その上の句は、

 

すゝ

  しさや

 冨士

  江の島

     も

  嶋のうち

  惠美ひ壽樓主人

      泉山(○囲み)

 

とある。これは――『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 15 恵比寿楼――に注した、またしても恵比寿楼主人永野泉山政康の句である。江の島の上に配して画賛代わりとしたものであるが、彼はよっぽど『風俗画報』に広告料を払ったものと見える。なお、私は旧明治村の位置(前に注した通り、現在の藤沢市の辻堂地区・湘南大庭地区及び辻堂駅の東北直近の明治地区)に行って検証した訳ではないが、どう考えても、こんなところに富士山が見えるはずはない。寧ろ、句に合わせて景観を盆景化したものと解釈するしかない。ガイド・ブックの挿絵としては事実に反する歪曲画像で今なら、吊るし上げられるところだろう。]

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