栂尾明恵上人伝記 67
寛喜二年〔庚寅〕、和字に八齋戒自誓の式を撰して道俗に示す。
同年七月に孟蘭盆經(うらぼんぎやう)の式を作りて之を行ふ。
又善財(ぜんざい)、五十五の善知識の次位(じゐ)の建立、得法(とくほふ)の軌則(きそく)に依りて、十門の科文(くわもん)を出して大衆に告げて云はく、此の法文は年來習學修練(しゆうがくしゆれん)する處なり。各此の法文を聽聞あるべしとて、常に講じ給ひけり。此の十門を以て華嚴一部の大綱を括(くゝ)り、五十五聖の法門をふさねて、金剛見聞(けんもん)の種(しゆ)を裹(つゝ)みて、善財の跡を尋ね、解行圓滿(げぎやうゑんまん)の果に望みて、十佛の覺(さとり)を開かんが爲なり。
[やぶちゃん注:「裹みて」の「裹」は底本では上部の(なべぶた)がない。
「寛喜二年」西暦一二三〇年。明恵満五十七歳。入滅の二年前。
「和字」国文仮名(恐らくはカタカナ)混りの表記法。
「八齋戒」八戒。在家男女が一日だけ出家生活にならって守る八つの戒め。性行為をしない(在家の信者が普段守らなければならないとされる五戒、不殺生戒・不偸盗戒(盗みを働かない)・不邪淫戒(性行為をしない)・不妄語戒(嘘をつかない)・不飲酒(ふおんじゆ)の五種の内の不邪淫戒(不道徳な性行為の禁止。特に強姦や不倫・性行為に溺れることを指す)をより厳格な性行為を行わないという不淫戒に変え、さらに、不坐臥高広大床戒(高く立派な寝台に寝ない)と、不著香華瓔珞香油塗身戒+不作唱技楽故往観聴戒(装身や化粧をしない+歌舞音曲を視聴しない)と、不過中食戒(非時を摂らない。仏家では食事は午前中の一度だけを原則とするが、それではもたないので、それ以外に食す食事を総て「非時」と言った。具体的には正午から日の出までの間の食事摂取行為である。但し、通常、水はこの限りではない)の三つを加えたもの。
「ふさねて」ナ行下二段活用「總(総)ぬ」(ふさぬ)で、纏める・総括するの意。
「善財」善財童子。「華厳経入法界品」の主人公である菩薩行の理想的修行者の少年。サンスクリット名はスダナ。福城(ダーニヤーカラ)の豪商の子であったが、福城の東の荘厳幢娑羅林(しようごんどうさらりん)で文珠菩薩の説法を聞いて仏道を求める心を発し、その指導によって南方に五十三人(本文には「五十五の善知識」とあるが、これは物語の中の人物の数え方によって五十四人とも五十五人ともされるためである)の善知識(優れた指導者。但し、その中には比丘や比丘尼のほかにも外道(仏教徒以外の宗教者)・遊女と思われる人物・少年や少女なども含まれている)を訪ねて遍歴、再び文珠のもとに戻って遂には普賢菩薩の教導によって修行を完成させたという(ここまでは主に平凡社「世界大百科事典」に拠った)。ウィキの「善財童子」の「派生作品」の項には、まさに『昔からこの様子が多くの絵や詩歌に描かれており、日本では、明恵上人高弁による善財童子の讃嘆が有名であ』るとある。因みに『一説には、江戸時代に整備された東海道五十三次の五十三の宿場は、善財童子を導く五十三人の善知識の数にもとづくものとされる』とある。最後のは驚きだ。
「次位の建立」善財童子の菩薩行によった悟達の次期を自らに願うところの心内の誓いという意味か。
「得法の軌則」「得法」は仏法の真理を会得すること(転じて物事の奥義をきわめることの意にも用いる)。「軌則」は本筋・本質といった意味か。
「十門の科文」三国時代末期から統一新羅初頭にかけて活躍した朝鮮人僧元暁(六一七年~六八六年)は「十門和諍論」(じゅうもんわじょうろん)の中で、仏法は一観であり、説けば十門となって百種類の異論を生ずる。それらを調和させて一味の法海に至るようにする(「和百家之異諍。歸一味之法海)と、根本的な唯一の仏法を「和諍」の思想から世に提示した、とウィキの「朝鮮の仏教」にある。
「科文」「くわもん(かもん)」と読み、経論の本文を解釈する際、その内容を説意によって大小の段落に分け、各部分の内容を簡単な言葉に纏めた評釈文を指す。
「金剛見聞」しっかりとした正しい知見。「金剛」は堅固で崩れぬ形容。
「十佛」この「十」は名数ではあるまい。完全なる総ての仏のことであろう。]