橋本多佳子句集「海燕」 昭和十一年 野火
野火
葛蔓(くづ)帶の阿蘇のくにびと野(ぬ)火かくる
[やぶちゃん注:「葛蔓(くづ)帶」とは葛を図柄とした帯のことを指しているか。グーグル画像検索「葛 帯 柄」を参照。
「野」を「ぬ」とするのは本来的には上代の東国方言であった。但し、上代特殊仮名遣、所謂、万葉仮名に於いて、「の」の甲類音を表すとされる「努」「怒」「弩」などを主に江戸時代の国学者が「ぬ」と訓(よ)んだことから「野(の)」の義に解して「野火(ぬび)」「野辺(ぬべ)」などと読んだ結果、それが慣用化してしまったものである。]
火の山の阿蘇のあら野に火かけたる
霾(よな)が降る阿蘇の大野(ぬ)に火かけたる
[やぶちゃん注:「霾」は音「バイ」で、黄砂現象の古名。モンゴルや中国北部で吹き上げられた黄土(粒子の大きさは十分の二から十分の五ミリメートル程)が季節風に吹き流されて浮遊し日本まで飛来、空を黄褐色に覆いながら徐々に落下してくる現象を指す。太陽も赤みを帯びる。歳時記では春の季語とする。「霾」一字で「つちふる」とも読む他、「霾曇」「霾晦」で「よなぐもり」と読んだり、音読みして「霾風(ばいふう)」「霾天(ばいてん)」と読んだりもする。他にも「よなぼこり」「つちかぜ」「つちぐもり」「胡沙(こさ)」「黄塵万丈」「蒙古風」など黄砂に関する言葉は多数ある(別称の部分は「Wikipedia日英京都関連文書対訳コープス」による自動英文和訳を参照した)。]
火かければ大野風たち風驅くる
火の山ゆひろごる野火ぞ野を驅くる
[やぶちゃん注:「ゆ」言わずもがなであるが、名詞に付く上代の格助詞で、①動作・作用の起点を表す。「~から」。②動作の移動・経由する場所を表す「~を通って」。③比較の基準を表す。「~に比べて」「~より」。④動作の手段・方法を表す。「~によって」「~で」。ここは無論、①の意であるが、この「ゆ」、俳諧俳句での使用例はあまり多くないものと私は思う。]
野にをらびくにびと野火とたたかへる
[やぶちゃん注:「をらぶ」上代からある古語「叫(おら)ぶ」としか思えないが、だとすれば歴史的仮名遣は「を」であって「お」は誤りである。]
天にちかきこの大野火をひとが守る
草千里野火あげ天へ傾けり
野火に向ひ家居の吾子をわが思(も)へり