日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 45 精神病患者の悲哀
市立救貧院へ行った時は悲しかった。ここには何人かの狂人が入れられていた。これ等の不幸な人達が、長く並んだ、前に棒のある部屋に、まるで動物園の動物みたいに入っているのは、悲しい光景であった。番人達は、恐怖の念を以て彼等を見るらしく思われる。彼等は親切に取扱われてはいるが、全体として、狂人を扱う現代的の方法には達していない。私はニューヨーク州のユテイカにある大きな収容所で見たのと同じ様な、痴呆と欝憂病の典型的な容態を見た。私はある人々と握手をし、彼等はすべて気持よく私と話したが、彼等の静かな「サヨナラ」には何ともいいようのない哀れな或物があった。
[やぶちゃん注:「市立救貧院」原文“the city poorhouse”。この“poorhouse”とは、アメリカ合衆国の郡や基礎自治体に於いてかつて公的に運営されていた、要支援状態にある貧者や病者のための住居提供施設を指すが、ここでモースが訪れたのは恐らく、ウィキの「精神障害者」の「日本の歴史」の項にある、明治五(一八七二)年にロシア皇太子が訪日するに当って明治政府が、モースの住んでいた教師館と同じ敷地内であった元加賀藩邸跡(現在の東京大学構内)空き長屋に営繕会議所附属養育院(現在の地方独立行政法人東京都健康長寿医療センター)を設置、巷間の生活困窮者などを狩り込み収容する、とある。明治七(一八七四)に文部省医務課が医務局になった翌年、文部省は東京府・京都府・大阪府に対して医制を発布、癲狂院設立を規定しているから、既に別にそうした精神疾患を患うと断じられた人々を強制監禁した施設がどこかにあったものかとも思われるが、私はモースの謂いから見て、同じ加賀屋敷内の人目に触れない場所という感じがする。さらに同ウィキには、精神障害者部門はこの後の明治一二(一八七九)年七月に上野恩賜公園内に「東京府癲狂院」(後の東京都立松沢病院)が設置されたのを濫觴とするとする記載があるのだが、一方、ウィキの「都立松沢病院」の沿革の項を調べてみると、明治一二(一八七九)年七月に養育院が東京府神田に移転した際に収容者を調査したところ、百二十人中六十八人が精神疾患者であることが判明し、彼らを収容する目的として同年七月に東京府上野の上野恩賜公園内に松沢病院が建てられたとあるから、私の推理は正しいと信ずるものである。
「ユテイカ」“Utica”。ユティカはニューヨーク州中央部の商工業都市。人口六万九千(一九九〇年)。モホーク川とニューヨーク州エリー運河に面する。周辺は酪農業の盛んな地域で、その取引中心地である。各種の繊維製品や自動車部品・航空機部品・電子部品・機械器具などの工業も盛ん。一七七三年に集落が建設され、一七九二年にはモホーク川に架橋されて駅馬車の宿駅となった。一八二五年のエリー運河開通によって工業が発達した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。]

