耳嚢 巻之八 爲家千首和歌の事
爲家千首和歌の事
爲家卿は俊成の孫定家の子なりしが、壯年のころ數多(あまた)歌よみ給ひしに、父定家かくはあらじとて、幾度見給へど稱譽もなくて過(すぎ)しが、我心にも詠(よみ)得たると思はざれば、歌は詠(よま)じとて述懷ありしを、慈鎭聞(きき)て、父租の業(わざ)を捨(すて)給はんは本意(ほい)なし、よく味(あじは)ひ讀(よみ)なば其道も得給はんと異見ありし故、夫(それ)より寐食をわすれて此道を修行なし、五日の内に千首までよまれしを、慈鎭と西行評して點なせしを、千首の家の集とて今も好人(すきびと)のとりなやむなり。物は積進によりて、其業を成就なすと人の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特にないが、和歌技芸譚だが鎌倉時代と恐ろしく古く、歌道の故実考証譚の一種と考えてよかろう。
・「爲家千首和歌」藤原為家(建久九(一一九八)年~建治元(一二七五)年:定家と内大臣藤原実宗娘の子。法名は融覚。早くに後鳥羽上皇次に順徳天皇に近仕したが歌道よりも蹴鞠に熱中して父定家を嘆かせた。承久の乱後は作歌活動も本格化し、後嵯峨院歌壇の中心的存在として「続後撰和歌集」を単独で選進、また「続古今和歌集」の選者にも名を連ねた。晩年は後妻阿仏尼との間にもうけた冷泉為相を溺愛し、二条・京極・冷泉の歌道三家分立の因を残した。以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)が貞応元(一二二二)年、満二十四歳の時に日吉(ひえ)神社に詣でて献じた「為家卿千首」。千首和歌は和歌の修練などを目的として一人或いは数人で和歌一千首を続けて詠んだものであるが、本作は現在最古といわれるものである。岩波の長谷川氏注には、『歌人としての前途を悲観し出家しようとし、慈円に諌められ思い止まり五日間で詠んだもの』とあり、底本の鈴木氏注には、『これに定家が朱点を、慈円(西行は誤り)が黒点を加えた。為家の代表作』とある。
・「述懷」ここでは、一般的な思いや過去の出来事や思い出などを想起して述べるというフラットな用法ではなく、「恨み言を述べること・愚痴や不平を言うこと」の意である。
・「慈鎭」慈円(久寿二(一一五五)年~嘉禄元(一二二五)年)は天台僧。没後十三年して慈鎮と諡(おくりな)された。「愚管抄」の著者で歌人としても知られる。父は摂政関白藤原忠通。永万元(一一六五)年に十歳で延暦寺青蓮院に入り、翌々年に鳥羽天皇第七皇子覚快法親王の下で出家して道快と名乗った後、養和元(一一八一)年に慈円と改めた。混乱の続く貴族社会の中にあって関東の武家との協調を図る同母兄兼実の庇護の下で活動し、建久三(一一九二)年には天台座主、建仁三(一二〇三)年には大僧正に任ぜられて後鳥羽上皇の護持僧にもなったが、政局の推移につれて天台座主の辞退と復帰を繰り返し、補任は四度に及んでいる。源頼朝死後、後鳥羽上皇の周囲が討幕に傾いていく中、公武協調派であった兼実と同じ立場に立っていた彼が自身のゾルレンとしての史観に基づいて記したものが「愚管抄」であった。なお、後鳥羽上皇は西行のそれを慕った慈円の平明な歌風を高く評価しており、「新古今和歌集」には西行の九十四首に次ぐ九十一首もの歌が収められた。家集に「拾玉集」(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。底本の鈴木氏注によれば、為家が自身の歌才に絶望して出家を決意し、『慈鎮に諌止されたことは『井蛙抄』に出ている』とある。「井蛙抄(せいあしょう)」は正平一五・延文五(一三六〇)年〜正平一九・貞治三(一三六四)年頃の成立になる頓阿著の歌論書。
・「とりなやむ」小学館「日本国語大辞典」に、「とりなやむ」(取悩・他動詞マ行四段活用・「とり」は接頭語、「なやむ」は扱う意)として「取り扱う」「扱う」とする。そこに出る例文は近世以降のものであり、「なやむ」を「扱う」とする記載も同じ。
・「積進」底本には右に『(精進)』と訂正注がある。
■やぶちゃん現代語訳
「為家千首和歌」の事
為家卿は俊成卿の孫であらるる定家卿の御子息に当たらるるが、壮年の頃、あまた、和歌を詠んでみられたにも拘わらず、これ、父君定家卿は、
「……こげな代物にては……全く話に、ならぬわ。」
とけんもほろろに突き返され、幾度ご覧じにならるるも、一言一句の褒め言葉さえ、これ、御座なく、ただただ無為に過ごしておられたところが、遂には、
「……我らも会心の詠みを得たると思うこと、これ、一度たりとも御座らなんだによって……かくなる上は……歌は――詠むまい。」
とお嘆き遊ばされ、出家を決意、歌人としても名高き知れる慈鎮殿が元へ参って、かく告解致いたところが、それを聴かるるや、慈鎮殿、
「――父租伝来の業(わざ)を捨て給わんは本意(ほい)なきことじゃ!――よぅく味おうて詠みあげたならば――必ずや、その道を得らるること、これ、間違い御座らぬぞ!」
と、強ぅに異見なさったゆえ、それより一念発起なされた為家卿は、寝食を忘れて和歌の道の修行を、まずはなさんと、五日の内に、たったお独りで、一気に千首までもお詠みあそばされたを、慈鎮殿とかの西行法師さまがこれを点評なされたを、これ、「千首の家の集」とて、今も和歌の道を志す好き人は頻りに教導の歌集として大いに奉じ扱うとのこと。
物は精進によって、その技(わざ)を成就致すことこれあり、とは、さる御仁の語りで御座った。
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