耳嚢 巻之八 食物をまづ試るをおにといふ事
食物をまづ試るをおにといふ事
食味を試(こころみ)るを、おにをするといふ事、埒(らち)なき事哉(かな)とおもひぬるに、禁中におにの間といふ所あり。關東御賄所(まかなひどころ)にもおに役といふ者あれば、おにといふ事、古き事なるべし。文字は於煑などゝもかくやと、語りし人に尋(たづね)けるが、それはしらずと答ふ。有職の再論をまつためこゝに記す。
□やぶちゃん注
○前項連関:禁中有職故実由来俚言譚二連発。
・「おに」には飲食物の毒味役の意がある。「鬼食ひ」は貴人の食物の毒味を謂い、禁中に於いて元旦に天皇が飲む屠蘇を薬子(くすりこ)と称する少女が鬼の間(後注参照)から出て試食したことに由来するとされている。酒や湯茶の毒味の場合は「鬼飲み」などとも言った。
・「おにの間」鬼の間。清涼殿内の西南の廂の間の一室の名(南側が天上の間東端で北は女房の詰め所である台盤所)。東の殿上の間との境に当たる南壁に魔除けとして白沢王(はくたくおう:古代インド波羅奈国(はらなこく)の王で鬼を捕らえた剛勇の武将と伝えられる人物。)が鬼を斬る絵が描いてあったことに拠る。
・「關東御賄所」江戸城内の調理担当部署。
・「於煑」食い物を火にて煮て毒を消し去る毒消し、また、地獄の鬼の釜の中で煮るに等しき毒消、いや、毒味なれば地獄の鬼に釜で煮らるる如き苦渋決死の役という冗談ででもあろうか。
■やぶちゃん現代語訳
食物の毒味を致すを「おに」と申す事
食味の毒味を試むることを「おにをする」と申すが、これは埒(らち)もないことじゃとずっと思って御座ったところが、禁中に「おにの間」と申す所が、これ、あるとのこと。
実に関東御賄所(おんまかないどころ)に於いても、「おに役」と申す毒味役の者が御座るによって、実にこの毒味を「おに」と申す、相当に古きことなので御座ろう。
「……字は、これ……『於煑(おに)』なんどとでも書くので御座ろうか?」
と、試しに、これを語って呉れた御仁に訊ねてみたが、
「……いや、どのような字を書くかは、これ、存じませぬ。……」
と答えで御座った。
これが如何なる淵源を持ったる言葉なるか、有職故実の再論議を俟たんがために、ここに記しおくことと致す。
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