寄生蟹の歌 萩原朔太郎 (「寄生蟹のうた」初出形) 附 全再録形
寄生蟹の歌
潮みづのつめたくながれて
貝の齒はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けてしまつた
ああ ここにはもはや友だちもない 戀もない
渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる
その草の根はけむりのなかに白くかすんで
春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです
おぼろにみえる沖の方から
船びとはふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く檝の音がきこえてくる
あやしくもここの海邊にむらがつて
むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる
それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹(やどかり)の幽靈ですよ。
[やぶちゃん注:『日本詩人』第二号第六号・大正一一(一九二二)年六月号に掲載され、後に多少の標字の変更と句点追加を施して詩集「靑猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)に所収され、後の詩集「蝶を夢む」(大正一二(一九二三)年七月新潮社刊)及び「定本靑猫」(昭和一一(一九三六)年版畫莊刊)にも同様の仕儀がなされて再録されている朔太郎遺愛の詩の一つである。「檝」は「かぢ」と読む。
広く知られるようになった「靑猫」版は以下の通り。
*
寄生蟹のうた
潮みづのつめたくながれて
貝の齒はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けてしまつた
ああここにはもはや友だちもない 戀もない
渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる
その草の根はけむりのなかに白くかすんで
春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです。
おぼろにみえる沖の方から
船人はふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く楫の音がきこえてくる。
あやしくもここの磯邊にむらがつて
むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる
それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹(やどかり)の幽靈ですよ。
*
次に「蝶を夢む」版を示す。
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寄生蟹のうた
潮みづのつめたくながれて
貝の齒はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けてしまつた
ああ ここにはもはや友だちもない戀もない
渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる
その草の根はけむりのなかに白くかすんで
春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです。
おぼろにみえる沖の方から
船びとはふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く楫の音がきこえてくる。
あやしくもここの磯邊にむらがつて
むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる
それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹やどかりの幽靈ですよ。
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最後の「定本靑猫」版。
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寄生蟹のうた
潮みづのつめたくながれて
貝の齒はいたみに齲ばみ 酢のやうに溶けてしまつた
ああ ここにはもはや友だちもない 戀もない。
渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる
その草の根はけむりのなかに白くかすんで
春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです。
おぼろにみえる沖の方から
船びとはふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く楫の音がきこえてくる。
あやしくもここの磯邊にむらがつて
むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまわる
それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹(やどかり)の幽靈ですよ。
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「定本靑猫」版の「這ひまわる」はママ。また、そこでは、「寄生蟹(やどかり)」のルビは「寄生」の「やど」が一字ずつで、「蟹」に「かり」の二字が割り当ててある ]
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