中島敦 南洋日記 十二月十四日
十二月十四日 (日)
朝來、我が機の低空飛行を見、漸く安堵す、十時頃アルモノグイの水道に入る。擬裝せる燈臺、アルマテン、綠の島々、時々スコールあり。十二時投錨。一時過下船、役所へ行く。喘息面白からず、夜、土方氏の家に行きコーヒーの馳走に預かる。パラオは案外靜かなり。未だ敵機の影を見ずといふ。
[やぶちゃん注:「アルモノグイ」パラオ島中央部西岸の入り江の北方の地名、当時はこの複雑に入り組んだ湾奥に大和村(現地名ガスパン)、その北に朝日村があった。
「アルマテン」湾の北アルモノグイの西に突き出た岬の突端部分の地名。この時にあったかどうかは不明であるが、現在も日本海軍の砲台が戦跡として残っている。
「土方氏」土方久功。冒頭の九月十日に既注。
この日附で太平洋戦争勃発後最初の妻たか宛書簡が残る。以下に示す。
*
〇十二月十四日(中島たか宛。封書。封筒なし。)
いよいよ來るべきものが來たね。どうだい、日本の海軍機のすばらしさは。ラジオの自由に聞けるそちらがうらやましいな。
所で、僕の豫定も急に變つて、いそいでパラオに歸ることになつた。普通の船は無いが、丁度十日(十二月)の日に軍の御用船が寄つたものだから、賴んでそれに乘せて貰ふことにした。御用船といつたつて、鎌倉丸(もとのちちぶ丸)しかも、その一等に乘つてるんだから、たいしたもんだよ。二人一室のかなり廣い洋室を僕一人で占領してゐる。この一室に電燈は五つもつくし、鏡は、むやみにたくさんついてるし、ちよつと、ホテルに泊つてるみたいだ。たゞね、お前もラヂオで聞いたらうけど、パラオ港外で敵の潛水艦が沈められたり、敵機十臺パラオを襲(オソ)うたが十臺とも落されたとか、一寸氣になるやうなニウスがはいつてゐるのでね、しかし、まあ大したこともあるまいとは思ふ。潛水艦が出やしないか、とビクビクしながら航海するのも面白い經驗かも知れない。とにかくこの船は、全く大きな船で、散歩なんかしてると道にまよつて部屋に歸れなくなりさうだ。今日なんて甲板(カンパン)で自轉(テン)車に乘つてた人がある。勿論エレヴェーターもついてゐる。かういふ船の豪奢(ゴウシヤ)な部屋にはいつて、一等の御馳走をたべて、船賃が、なんと、一日につき一圓三十錢とはウソみたいな話だらう? 實際の食費だけ、といふことになつてゐるが、陸に上つたら、この船の食事一食分だつて一圓三十錢では食べられやしない。餘りやすいんで、困る、こちらが氣がひける位だ。
◎昨日十二月分として二百圓送つた。受取つたらうと思ふ。お前は、サイパン支廰宛に飛行便を出しやしないかい? 出さなきやいいが、出したとすると、それを受取らないで、オレは、船にのつて了つたわけだ。いづれ、パラオに廻送はされるが、この際だから、一月や二月はかかるかもしれない。だから、もし、その手紙の中に大事なことでも書いてあるなら、それを(同じことを二度書いたつて構はない)もう一度書いてパラオ宛に出しておくれ。
戰爭が始まつて、そちらでは、さぞ、南洋の方のことを心配してくれてゐることと思ふ。しかし、このサイパン・テニヤン地方は、全く平靜(へイセイ)だ。實際の所、グヮムは他愛(タアイ)なく、つぶれるし、この邊は空襲を受ける心配もまづ無いからね。パラオの方は、フィリッピンに近いので、幾分の危險があることは確かだが、それも、大したことはあるまい。
さう心配してくれなくても大丈夫のやうだ。そりや戰爭のことだから、多少の危險があることは覺悟してゐるさ。しかし、むしろ、怖(コハ)いのは、喘息といふ病氣の方だよ。いづれパラオについたら、防空のために走りまはらなければなるまいが、そのたびに、喘息を起すのでは、ちよつと、やりきれない。これだけは、どうにも憂鬱(イウウツ)だな。この際、個人の病氣のことなど言出すのは、ゼイタクかも知れないが。
◎さて、今迄は少々強がりを言つてゐたが、實は、内心、本當にセンスヰカンが出やしないかと、夜なども、枕もとに、救命具(キュウメイ)(ウキ)を置(オ)いて寐(ネ)るしまつで、あまり良い氣持ぢやなかつたが、もう大丈夫だ。今朝は日本の飛行機が、迎へに來てくれて低空飛行をしてゐる。もう大丈夫。センスヰテイなんか、いくらでも出て來いだ。もうぢきパラオが見えてくるだらう。
◎無事パラオ着。パラオが案外おちついてゐるのでビックリした。空襲警報はあつたけれど、實際に敵機を見た者は誰もないし、爆彈の音を開いた者も無いらしい。パラオと一口にいつても、コロ-ルからは、ずつと離れた南の方の小さい島もあるんだが、どうやら、その邊(ヘン)に敵機が現れて、しかも直ぐ逃げて行つたらしいんだよ。この程度だから、まづく安心してくれ。
たまにパラオに歸つてきて見ると、小雨が降つてゐて、むしあつい。敵機よりも雨と暑さの方がヨツポドゆううつだよ。當分、汽船は駄目かもしれないので、飛行便でばかり、通信することになるだらう。
この前途つた二百圓の中、百五十圓は十二月分として、殘りの五十圓を(少いが、)みんなへのお年玉にしてくれ。おぢいちやんへも十圓、お前へも十圓、澄子へも十圓、桓へも十圓、格のチビへも十圓。おぢいちやんと格が同じぢや、をかしいけれども、とにかく、みんな十圓づつにしておくれ。
さて、明日(十五日)、そち又、三百圓送るつもり。これは、お前への年末(ねんまつ)のボーナス。
今度の出張では、たしかオレはフトツたよ。この前の時より、たしかだ。バナナとイモばかりたべてたせゐだね。とにかく、おしりに肉が出來てきたからヲカシクテ仕方がない。ホツペタも、もうゲソツと落ちてやしないぜ。
◎(パラオに歸つて直ぐ大急ぎで、書いた)
*
太字「ちちぶ」「しり」は底本では傍点「ヽ」、下線「ヨツポド」は傍点「〇」。
「丁度十日(十二月)の日に軍の御用船が寄つたものだから」この抹消は検閲を危惧してのものと思われる。
「鎌倉丸(もとのちちぶ丸)」日本郵船の貨客船秩父丸(日本郵船の保有船大刷新の目玉である浅間丸型客船の一隻として昭和五(一九三〇)年に建造、当時の日本に数少ない本格的客船として北米航路に就航、「太平洋の女王」と称された)は昭和一四(一九三九)年に鎌倉丸(かまくらまる)と改名されていた(以上はウィキの「秩父丸」に拠る)。
「澄子」は異母妹(田人の最初の後妻カツの子)。実家に同居していたものと思われる。
妻の心配を払拭するためでもあろうが、開戦直後の戦地直近乍ら、頗るポジティヴな内容であるのは、敦自身にも戦況への期待に基づく楽観があったことが窺える。]

