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2014/01/03

耳嚢 巻之八 友田金平鑓の事

 友田金平鑓の事

 

 右は文化四年、西丸御先手安藤九郎左衞門組同心塚越大兵衞と申もの、御詮儀筋有候處、出奔いたし候。然る處、右大兵衞先祖書に、甲州御陣の節天正十年、甲州一國御案内申上候に付、於駿州に鑓一筋拜領致候由に有之。右鑓取計ひ方の儀に付、先例相糺候處、御弓矢鑓奉行預り之御多門内に委細之儀難分候得共、友田金平所持鑓其外太刀等納有之間、引渡候はゞ可受取旨、御留守居より申開候得共、大兵衞所持鑓は事實も難分、金平身分は如何樣成譯に候哉、糺之儀御沙汰有之ゆゑ、古例には事實難引合ゆゑ、別段取斗相濟候。右金平何れにも書留しかと無之候得共、享保十巳年御側衆加納迄の斷候て、大久保下野守より御弓矢鑓奉行へ相渡候送り證文、左之通有之候。

     覺

  〔伏見より參〕

  一、的木 但袋入 吉田六左衞門と名判有之 壹張

  〔右同斷〕

  一、中卷之野太刀 銘壽命 壹振

  〔右同斷〕

  一、山刀  〔刀銘來國宗作 脇差無銘貮腰〕

  〔右同斷〕

  一、千鳥形十文字鑓 銘兼光 一本

  〔右同斷〕

  一、友田金平大十文字鑓 一本

    躬の内に南無妙法蓮華經之文字歌兩面に有之候。

    銘若州之住宗長於播州姫路玉井彌三兵衞尉作文錄五年二月日。

    一方に、我等儀吉川樣に奉公仕たる者にて服部兵内共申、又は

    德川八郎左衞門共申候。今程は友田金平と申候。

    込錆申候而文字不分明に候得共、右の通之由傳事送御座候。

 如斯御弓矢鑓奉行書出候。御目付松平伊織儀、何も書とめはこれ無候得ども、承傳候おもむきは、金平は武功のものにて、大十文字の躬に記候歌は、

  咲くときは花の數にもあらねども散にはもれぬ友田金平

と記し有之由、承傳へ候。

 有德院樣御代、伏見より御取寄に相成候と及承候趣、咄し候間、爰にしるす。

 

●読み挿入+書き下し版(読点や記号も追加してある。但し、記銘部分等は書き下さずに読みを附して原形を保存した)

 

 友田金平鑓(やり)の事

 

 右は文化四年、西丸御先手(にしのまるおさきて)安藤九郎左衞門組同心、塚越太兵衞(たへゑ)と申すもの、御詮儀筋有り候ふ處、出奔いたし候ふ。然る處、右大兵衞先祖書に、『甲州御陣(ごぢん)の節、天正十年、甲州一國御案内申し上げ候ふに付き、駿州(すんしう)に於いて鑓一筋拜領致し候ふ』由に之れ有り。右鑓取り計(はか)らひ方の儀に付き、先例相ひ糺し候ふ處、御弓矢鑓奉行預りの御多門内(ごたもんない)に委細の儀分かり難く候得(さふらえ)ども、友田金平所持鑓其の外太刀等、納め之れ有る間(あひだ)、引き渡し候はば受け取るべき旨、御留守居より申し聞け候得ども、大兵衞所持鑓は事實も分かり難く、金平身分は如何樣なる譯に候ふや、糺(ただし)の儀御沙汰之れ有るゆゑ、古例には事實引き合ひ難きゆゑ、別段取り斗(はから)ひ相ひ濟み候ふ。右金平、何れにも書留(かきとめ)しかと之れ無く候得ども、享保十巳年、御側衆加納迄の斷り候ふて、大久保下野守より御弓矢鑓奉行へ相ひ渡し候ふ送り證文、左の通り之れ有り候ふ。

     覺(おぼえ)

  〔伏見より參る。〕

  一、的木 但し、袋入。「吉田六左衞門」と名判(なはん)之れ有り。壹張

  〔右同斷。〕

  一、中卷(なかまき)の野太刀(のだち) 銘「壽命」。壹振

  〔右同斷。〕

  一、山刀(やまがたな)  〔刀。銘「來(らい)國宗(くにむね)作」。脇差。無銘。貮腰。〕

  〔右同斷。〕

  一、千鳥形十文字鑓 銘「兼光」。一本

  〔右同斷〕

  一、友田金平大十文字鑓 一本

    躬(み)の内に「南無妙法蓮華經」の文字、歌、兩面に之れ有り候ふ。

    銘「若州之住(じやくしうのぢゆう)宗長於播州姫路(ばんしうひめじにおいて)玉井彌三(やさ)兵衞尉(ひやうゑのじよう)文錄五年二月日」。

    一方に、「我等儀吉川樣に奉公仕(つかまつり)たる者にて服部兵内共申(ともまうし)、又は德川八郎左衞門共(とも)申候。今程は友田金平と申候(まうしさふらふ)」。

    込錆申候而(こめさびまうしさふらふて)文字不分明に候得共、右の通之(とほりの)由、傳事送御座候(つたへしことおくりござさふらふ)。

 斯くのごとく、御弓矢鑓奉行書き出だし候ふ。御目付松平伊織儀、何も書きとめはこれ無く候得ども、承り傳へ候おもむきは、金平は武功のものにて、大十文字の躬(み)に記し候ふ歌は、

  咲くときは花の數にもあらねども散(ちる)にはもれぬ友田金平

と記し之れ有る由、承り傳へ候ふ。

 有德院樣御代、伏見より御取り寄せに相ひ成り候ふと承り及び候ふ趣き、咄し候ふ間、爰にしるす。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。久々の武辺実録本格公文書物である。今回は公文書を主とする本文の体裁をいじらないようにしたいので、読みを附した上に、一部の漢文脈を読み易く書き下したものを後に掲げる特殊な方法を採った。

・「友田金平」ネット上では大坂の陣で豊臣方に与した豪傑とし、ここに掲げられた一首とはやや異なる歌が拾えた。一応、掲げておく。なお、それ以外はここに書かれた以外の内容は見出せない(例えばグーグル「友田金平」検索では十一件しかヒットせず、その内容も乏しい)。この時代に公文書で誰だかよく分からんから調べよと命じているのだから、今の世に流れているそれらも、怪しい気はする。

  咲くときは遅れ先だつ差はあれど散るには負けぬ友田金平

・「文化四年」「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、かなりホットな事実譚である。

・「安藤九郎左衞門」岩波版長谷川氏注に安藤信姿(のぶたね)とし、文化四年西丸先手頭、同六年に西丸先手鉄砲頭とある。

・「甲州御陣」織田信長が徳川家康らを従えて、長篠の戦い以降に勢力が衰えた武田勝頼の領地駿河・信濃・甲斐・上野へ侵攻、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の甲州征伐の最終局面となった天正一〇(一五八二)年三月の天目山の戦いの前後。

・「御弓矢鑓奉行」留守居役支配。江戸城各門に備品としてある槍・弓矢の管理・補修・製造を担当した。定員二名で支配下に組頭四人と同心十九人がいた。

・「多門」城門の上に据えられた渡櫓(わたりやぐら)。一般には石垣との間を渡すように門櫓が建てられることから、このような形状の門櫓を渡櫓という。また、渡櫓は櫓と櫓との間の長屋状の建物である多門櫓を指す言葉でもある。何れにせよ、当時の江戸城内にあった弓鑓奉行支配の武具宝物の保管庫があった建物のことであるが、これが何処か特定の門の固有名詞なのかどうかは不明。識者の御教授を乞うものである。

・「享保十巳年」享保十年は乙巳(きのとみ)で西暦一七二五年。

・「御側衆」側衆。将軍に近侍し、交替で宿直して城中の諸務を処理した。若干名の者は御側御用取次と称し、将軍と老中以下諸役人との間の取り次ぎをも行った。

・「加納迄の斷候て」底本では右に『(尊經閣本「加納遠江守斷にて」)』とある。加納久通(ひさみち 延宝元(一六七三)年~寛延元(一七四八)年)は紀州藩士加納角兵衛久政の養子で第五代藩主徳川吉宗に仕えて御用役兼番頭となる。享保元(一七一六)年の主君吉宗将軍家相続に伴って幕臣となり、新設の御側御用取次に就任、采地千石を与えられて従五位下近江守(後に遠江守)に叙任、途中加増を受けて同十一年には一万石の大名に取り立てられた。同僚の有馬氏倫と共に享保の改革政治に参画して大きな役割を果たしたが、延享二(一七四五)年の吉宗の隠退後は西ノ丸若年寄に転出した。久通は「おいらかにつつしみふか」い性格で吉宗の信頼が厚かったという(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。訳では正確な名を用いた。

・「大久保下野守」底本では右に『(尊經閣本「大久保下總守」)』とある。底本鈴木氏注によれば、大久保忠位(ただたか 寛文元・万治四(一六六一)年~寛保二(一七四二)年)で、彼は先立つ二年前の享保八(一七二三)年に勘定奉行から留守居役となっている。訳では正確な名を用いた。

・「伏見」旧伏見城。元和五(一六一九)年廃城。

・「的木」木製の弓の的。但し、「一張」とあるのは不審。「張」ならば弓本体である。

・「吉田六左衞門」底本鈴木氏注に、『弓術雪荷流(吉田流の流れ)の創始者吉田六左衛門重勝雪荷以来、代々六左衛門を称した。初代』(永正一一(一五一四)年~天正一八(一五九〇)年)は『射芸のみでなく弓の製造にも優れていた』とある。

・「右同斷」前の「的木」と同じく、「伏見より參」の意。

・「中卷之野太刀」長い柄相当部分を持った太刀の一種。鎌倉時代に武人として剛漢であることを誇るための三尺(約九十センチメートル)を超える長大な刀身をもった太刀が造られ、「大太刀」「野太刀」と称されたが、非常に重い上に扱いづらく、それまで太刀の拵えと同じ形状の柄では実用的でなかった。そのため野太刀の柄は次第に長くなり、より振り回し易いように刀身の鍔元から中程の部分に太糸や革紐を巻き締めたものが作られるようになった。このように改装した野太刀は「中巻野太刀」と呼ばれ、単に「中巻」とも呼ばれた。これらは、小柄な体格でも扱いが容易で、しかも通常の刀よりも威力が大きく、振る・薙ぐ・突くといった技で幅広く使えたため広く普及、やがて野太刀をわざわざ改装するのではなく、最初からある程度の長さを持った刀身に長さの同じ若しくは多少長い柄を付けたものが造られるようになり、長い柄に太刀同様に柄巻(つかまき:刀剣の柄を組糸や革などで巻くこと。)を施したことから「長巻」の名で呼ばれるようになった。(以上はウィキの「長巻」に拠る)。

・「山刀」本来は山林伐採や狩猟の際の獲物の皮剝ぎなどに用いる刀、マチューテのようなものを言うが、ここでは脇差と並んでいるから、鉈状にやや歯が広く厚い脇差をことをかく呼んでいるととるべきであろう。平凡社「世界大百科事典」の記載によれば、本来の山刀自体が脇差を切り詰めて製作されることが多くあったとある。

・「壽命」寛永二年に丹後守を受領し、名古屋城下に移って尾張徳川家の庇護を受けた丹後守寿命を始祖とする幕末五代まで本国美濃や隣国尾張で活躍し続けた刀工一門の名である。

・「來國宗」鎌倉時代後期に来派という一派を成した名工来国俊(名刀工国行の子)の子と伝えられる刀工。

・「兼光」備前国に住した刀工備前長船兼光(びぜんおさふねかねみつ)。備前長船兼光を称する刀工は四人いる。一般には南北朝時代に活躍した刀工を指すことが多い。詳細は参照にしたウィキ備前長船兼光を見られたい。

・「千鳥形大十文字鑓」穂先が三叉に別れた槍で、鳥の翼のように横手の両端を張らせたものを言う。グーグル画像検索「千鳥形大十文字鑓」を見られたい。

・「躬」身・槍の穂の部分。

・「若州」若狭国。

・「宗長」これは日本刀サイトを見ていると、刀工ではなくて刀身や込(こみ)に模様や字を彫る彫技師であるようだ。即ち、後に書かれている和歌や記名をした人物ということである。彼は肥前鍋島藩のお抱え工であった同門の初代忠吉(橋本新左衛門)と慶長元年に藩命によって一門の宗長とともに京都埋忠明寿の門に入って、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだと、日本刀販売サイト記載にあるからである。とすれば同所には忠吉の没年を寛永九(一六三二)年としてあるから、次の注と合わせて考えるなら(地名等の考証はしていないが)、この鑓の本体の鍛刀は、まさにこの名刀工忠吉であった可能性が高いような気がする。

・「文錄五年二月日」底本では右に『(祿)』と訂する。訳では正しい字を用いた。西暦一五九六年。

・「込」小身とも書く。刀身や槍の穂の、柄(つか)に入った部分。中子(なかご)。

・「松平伊織」松平康英(明和五(一七六八)年~文化五(一八〇八)年)は旗本。伊織は通称。二千石、図書頭。中奥御番・西ノ丸徒頭・西ノ丸目付・目付・船手頭兼帯を経、文化四(一八〇七)年に長崎奉行となった。ロシア船対策の警備を定めるなどの対外防備を固めた矢先の翌年八月十五日に英国艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎に侵入、佐賀藩の警備不備により撃退が出来ず、食料など給与の要求を受け入れ、捕縛していた人質を解放の上、二日後の十七日退去させたが、その夜に康英は責を負って切腹自害した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。まさにこの「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年夏のことであった。……この和歌と彼の自死……根岸がここでこの話柄を敢えて記したのは……何か偶然ではなかったような気がしてくるのである……

・「有德院」吉宗。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 友田金平の鑓(やり)の事

 

 以下に示す記録は文化四年、西丸御先手(にしのまるおさきて)安藤九郎左衞門組同心、塚越太兵衞(つかごしたへい)と申す者が、さる嫌疑にて御詮儀の筋、これあると申す砌り、何処(いず)かへ出奔致いて行方知れずと相い成って御座った。

 ところが、本来の嫌疑に加えて出奔致せしことへの処置も含め、かの塚越が屋敷へ担当の者が参って家内の者から事情を聴いた上、屋敷内(うち)を改めたところが、この大兵衞(たへい)先祖の書き記した手記の中(うち)に、

『神君家康公甲州御陣の砌り、天正十年、甲斐国一国を御案内申し上げ奉ったにつき、駿河国に於いて、鑓一筋を拝領致いて御座った。』

由の記載のあって、実際にその鑓の現物も御座った。

 されば、この大権現様より御拝領と申す御鑓の取り計らい方儀につき、どのような処置の先例が御座るものかを、その方面の担当の者に糺いてみてところ、

「――御弓矢鑓奉行が管理致いておる御多門内(ごたもんない)には、入手経路や真偽などの正確な委細の儀は不分明なれども、『友田金平所持の鑓・その外の太刀等』と称するものが、実際に保管されてあるにつき、こちらに引き渡したいと申すのであれば、受け取って保管することには問題はない。――」

という旨の回答が、御留守居役より申し下されて御座った。

 但し、不届きにも出奔致いた大兵衛(たへい)所持のその鑓が、畏れ多くも神君家康公より御拝領の鑓であるということが、まことに事実であるかどうかを検証することも難く、いや、そもそもが、この御弓矢鑓奉行の報告の内にあったる『金平』なる人物の氏素性は如何なる者であって、何ゆえにかくも渡櫓の内に保管なされて御座ったものか、まるで分からぬ。さればこそ、その辺りのことをまず、十全に糺いて調べるよう、とのお上の御沙汰が、これ御座ったによって、古い判例の中にはこの『金平』なる人物につき、同一人として適合するような記載が見当たらざればこそ、これだけは別格に、新たに詳しく取り調べを行うことと決し、相応の資料見聞を、ようよう仕上げることが出来た。

 さて、この『金平』なる人物についてであるが、大方の信頼出来る記録の何れにも、明確に彼の出自事蹟等について書き留めたと思われる記載は、これ、残念ながら認めることは出来なかった。が、一つだけ、享保十年巳年(みどし)の、御側衆であらせられた加納遠江守久通(ひさみち)殿が許可をなさり、御留守居役大久保下野守忠位(ただたか)殿より、保管実務担当者であった御弓矢鑓奉行へ確認の上、引き渡しされたるところの品々についての、入庫保管目録受取證文に、次の通り、記されてあることが判明致いた。

   ―――――――――

   覺(おぼえ)

〔伏見城より運び込まれたるもの。〕

一つ、的の木 但し、袋入り。「吉田六左衛門」と名判(なはん)が記されてある。一張

〔右に同じ。〕

一つ、中巻(なかまき)の野太刀(のだち) 銘は「壽命(じゅめい)」。一振

〔右に同じ。〕

一、山刀(やまがたな)〔刀。銘は「來國宗(らいくにむね)作」。脇差。無銘。二腰。〕

〔右に同じ。〕

一、千鳥形十文字鑓 銘、「兼光」。一本

〔右に同じ。〕

一、友田金平大十文字鑓 一本

躬(み)の内には「南無妙法蓮華経」の七字名号の文字(もんじ)及び和歌が各面に、これ彫られて御座る。

銘は「若狭国の住人、宗長(むねなが)、播磨国姫路に於いて玉井弥三兵衛尉(たまいやさひょうえのじょう)。文祿五年二月日」。

一方に、「我等儀、吉川様に奉公仕(ほうこうつかまつ)った者にして服部兵内とも申し、又は、德川八郎左衛門とも申して御座った。今の程は友田金平と申して御座る。」と彫られてある。

 込みはすっかり錆(さび)てしまっておるために文字は不分明にて御座るものの、右の通りに彫られております由、伝え送られたことをそのまま確かにここに確認致しまする。

   ――――――――――

 以上の通り、御弓矢鑓奉行がその古文書を書き写し、御報告申し上げた。

 当時の御目付であらせられた松平伊織(いおり)殿儀、この報告をご覧にならるると、

「……これ以外には『友田金平』なる人物の事蹟は特に見当たらぬものの……この證文によって承り、また今に伝えて御座るところの趣きによれば――この金平なる御仁、確かに武功の者にして――何でも、この千鳥形大十文字鑓の躬(み)に記しおかれたる和歌には、

 

  咲くときは花の數にもあらねども散にはもれぬ友田金平

 

と、これ、記して御座る由、我ら、かねてより伝えられたるを承って御座る。……この鑓は有徳院吉宗公の御代、かつての伏見城より特に将軍家が御取り寄せに相いなられたものであるとと承って御座る。……」

というお話を伊織殿より直々に伺って御座れば、懐かしく、ここに特に記しおくことと致す。

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