鬼城句集 冬之部 風邪~湯婆 38句一挙掲載
風邪 風邪ひいて目も鼻もなきくさめかな
足袋 禰宜達の足袋だぶだぶとはきにけり
[やぶちゃん注:「だぶだぶ」の後半は底本では踊り字「〱」。]
麥蒔 麥蒔や土くれ燃してあたゝまる
麥蒔くいて一草もなき野面かな
麥踏 麦踏の影いつしかや廻りけり
[やぶちゃん注:「廻」の用字はママ。]
小男のこまごまと蹈むや麥畑
[やぶちゃん注:「こまごま」の後半は底本では踊り字「〲」。]
麥踏んですごすごと行く男かな
[やぶちゃん注:「すごすご」の後半は底本では踊り字「〱」。]
餅搗 のし餅や狸ののばしゝもあらむ
餅搗に祝儀とらする夜明かな
雀來て歩いてゐけり餅筵
[やぶちゃん注:「餅」の用字はママ。]
酉の市 人の中を晏子が馭者の熊手かな
[やぶちゃん注:他人の権威に依存して得意になることを意味する「晏子の御」(あんしのぎょ)を酉の市(十一月の酉の日に行われる鷲(おおとり)社〔「おおとり」を社名とする神社で日本武尊の白鳥伝説と関わるとされる。大阪府堺市西区鳳北町(おおとりきたまち)にある大鳥大社を総本社とするという。〕を祀った神社の祭礼に立つ市で最初の酉の日を一の酉とし以下、二の酉・三の酉〔三の酉まである年は火事が多いといわれる〕と呼ぶ。金銀を搔き集めるというところから熊手が縁起物として売られ、東京浅草の鷲神社のものが有名。とりのまち。お酉様。)の嘱目にカリカチャライズした。「晏子の御」は「史記」の管晏列伝による故事成句で、春秋時代の斉(せい)の名宰相晏嬰(あんえい ?~前五〇〇])の御者(馭者)を務めていた男がそのことを得意としているのを知った彼の妻が恥じて離縁を求めた。御者は大いに恥じて精励し、晏嬰に認められて大夫にまで出世したという故事から。]
冬籠 緣側に俵二俵や冬籠
頭巾 親の年とやがて同じき頭巾かな
深く着て耳いとほしむ頭巾かな
日向ぼこ 大木(たいぼく)に日向ぼつこや飯休み
うとうとと生死の外や日向ぼこ
[やぶちゃん注:「うとうと」の後半は底本では踊り字「〱」。]
亥の子 草の戸や土間も灯りて亥の子の日
[やぶちゃん注:そうした習俗環境に育たなかったことから全く知らないので、以下、ウィキの「亥の子」(いのこ)から引用する。亥の子とは旧暦十月(亥の月)の上(上旬=最初)の亥の日に行われる年中行事。玄猪(げんちょ)・亥の子の祝い・亥の子祭りとも呼ぶ。『主に西日本で見られる。行事の内容としては、亥の子餅を作って食べ万病除去・子孫繁栄を祈る、子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回る、などがある』。歴史的には古代中国に於いて旧暦十月亥の日亥の刻に『穀類を混ぜ込んだ餅を食べる風習から、それが日本の宮中行事に取り入れられたという説』や、古代日本に於ける『朝廷での事件からという伝承もある。具体的には、景行天皇が九州の土蜘蛛族を滅ぼした際に、椿の槌で地面を打ったことに由来するという説である。つまりこの行事によって天皇家への反乱を未然に防止する目的で行われたという。この行事は次第に貴族や武士にも広がり、やがて民間の行事としても定着した。農村では丁度刈入れが終わった時期であり、収穫を祝う意味でも行われる。また、地面を搗くのは、田の神を天(あるいは山)に返すためと伝える地方もある。猪の多産にあやかるという面もあり、またこの日に炬燵等の準備をすると、火災を逃れるともされる』。『行事の実施形態はさまざまで、亥の子餅を食べるが石は搗かない、あるいはその逆の地方もある』亥の子餅は一般には旧暦十月亥の日亥の刻に食べるとする。『餅は普通のものや茹で小豆をまぶした物などが作られるが、猪肉を表した特別なものが用意されることもある』。また「亥の子石」と呼ばれる石が用いられる地方もある。これは旧暦十月の亥の日の『夕方から翌朝早朝にかけて、地区の子供たち(男子のみの場合もある)が集まり一軒一軒を巡って、歌を歌いながら平たく丸いもしくは球形の石に繋いだ縄を引き、石を上下させて地面を搗く。石の重さ』も一~一〇キログラムと『地方により異なる。地方によって歌の内容は異なるが、亥の子のための歌が使用される。歌詞は縁起をかつぐ内容が多いが例外もある。子供たちが石を搗くとその家では、餅や菓子、小遣いなどを振舞う。振る舞いの無い家では悪態をつく内容の歌を歌われることもある。石のほか藁鉄砲(藁束を硬く縛ったもの)を使う地方もある。藁鉄砲を使う事例により、東日本における旧暦』十月十日『に行われる同様の行事、十日夜(とおかんや)との類似性が指摘できる』とある。以下、引用元には各地方のこの時に歌われる「亥の子の歌」なども採録されているので必見である。]
柴漬 柴漬やをねをね晴れて山遠し
[やぶちゃん注:老婆心ながら、「柴漬」は「ふしづけ」「しのづけ」「しばづけ」で、一般に冬場、河川湖沼や河口内湾に於いて魚を獲るために柴を束ねて沈めておき、それに棲みついた魚を捕らえる漁法を指す語である。]
石藏 石藏をめぐりて水の流れけり
註、石を積上げて柴漬をつゝみたらんが如く
冬の山川に魚を誘ふ仕掛なり
[やぶちゃん注:「石藏」は「いしくら/いしぐら」または「いはくら(いわくら)」と読むものと思われる。三重大学図書館の「三重県漁業圖解」のデータベースの第五巻にある「鰻漁の圖」の中に『石藏或ハ漬石ト唱ヒカラ石トモ云/大河海ニ注入ナス近傍ニ設ケ置三月頃ヨリ十月頃迠此漁事』(事は旧字「古」+「又」表記)とある。これは図を見たところでは円形の網代を作りその中に石を多量に配しておき鰻を潜ませ易くした漁法である。非常に美しい図絵で必見。]
冬座敷 片隅に小さう寐たり冬座敷
北窓塞 北窓を根深畑に塞ぎけり
襟卷 襟卷や猪首うづめて大和尚
毛布 冬の野を行きて美々しや赤毛布
[やぶちゃん注:老婆心ながら、「赤毛布」は「あかげつと(あかゲット)」と読む。一般には田舎から都会見物に来た人、お上りさんのことを指すが(慣れない洋行者を指す場合もあった)、ここはあくまでフラットな意味。揶揄の意は明治初期に東京見物の旅行者の多くが赤い毛布を羽織っていたことに基づく東京人が評した蔑称であって、耳にする響きは私などには頗るよくない。「ゲット」は“blanket”(ブランケット)の略である。]
冬構 あるたけの藁かゝへ出ぬ冬構
はらはらと石吹き當てぬ冬構
[やぶちゃん注:「はらはら」の後半は底本では踊り字「〱」。]
乾鮭 乾鮭や天秤棒にはねかへる
爐開 四五人の土足で這入る圍爐裏かな
[やぶちゃん注:京都の和菓子店「甘春堂」公式サイトの「亥の子餅・玄猪餅」の商品解説に、先に上がった部立「亥の子」に絡んで、以下のような記載がある。『亥は陰陽五行説では水性に当たり、火災を逃れるという信仰があります。このため江戸時代の庶民の間では、亥の月の亥の日を選び、囲炉裏(いろり)や炬燵(こたつ)を開いて、火鉢を出し始めた風習ができあがりました。茶の湯の世界でも、この日を炉開きの日としており、茶席菓子
として「亥の子餅」を用います』とある。]
柚子湯 柚子湯や日がさしこんでだぶりだぶり
[やぶちゃん注:「だぶりだぶり」の後半は底本では踊り字「〱」。]
竹※ 小舟して竹※沈める翁かな
[やぶちゃん注:「※」=「竹」(かんむり)+「瓦」であるが、「廣漢和辭典」にも載らない。国字に「笂」があり、これは矢を背負うための壺形の具である靱(うつぼ)の意で、これは川漁に用いる同形の漁具と似ているから、この字と同字ではないかと推測する。この漁具は「竹筒」「鰻筒」などと現在呼ぶが地方によってはウケ・モジリ・セン・ドウ・ツツ・カゴ・サガリ・モンドリ・モドリ・マンドウなどとも呼ぶ。ここで鬼城はルビを振っていないので確定は出来ないが、音数律と響きからは「もじり」「さがり」「もどり」であろうか。識者の御教授を乞うものである。]
柚味噌 柚味噌して膳賑はしや草の宿
柚子味噌に一汁一菜の掟かな
埋火 埋火や思ひ出ること皆詩なり
燒芋 苦吟の僧燒芋をまゐられけり
寒行 寒行の提灯ゆゝし誕生寺
[やぶちゃん注:「誕生寺」誕生寺は千葉県鴨川市小湊にある日蓮宗大本山。建治二(一二七六)年に日蓮の弟子日家が日蓮の生家跡に高光山日蓮誕生寺として建立したが、後に二度の大地震と大津波に遭い、現在地に移転された。現在、生家跡伝承地は沖合いの海中にある(以上はウィキの「誕生寺」に拠る)。但し、既に見てきた通り、村上家の宗旨は曹洞宗である。]
褌 演習
雜兵や褌を吹く草の上
飾賣り 飾賣りて醉ひたくれ居る男かな
[やぶちゃん注:「飾賣り」は年末に出る正月用の注連飾り売りのこと。しめうり。ここも音数律から「しめうりて」と訓じているか。]
湯婆 兩親に一つづゝある湯婆かな
[やぶちゃん注:老「婆」心乍ら、「湯婆」は「たんぽ」と読む。湯たんぽのこと。「兩親」も言わずもがなであるが、「ふたおや」と訓ずる。]
生涯の慌しかりし湯婆かな
[やぶちゃん注:私は『境涯俳句』という呼称や分類に頗る嫌悪を感ずる人間である(それについては私の「イコンとしての杖――富田木歩偶感――藪野直史」をお読み戴ければ幸いである)。この句、まさに鬼城自身がそうした『境涯』と呼ばれる他者の格附けを美事にカリカチャライズした句として好ましいと感じている。]
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以上を以って「鬼城句集 冬之部 人事」を終わる。
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