萩原朔太郎 短歌八首 明治四三(一九〇二)年一月
ばらばらとせまき路次より女どもはしりかかりぬにぐるひまなし 蒼、修、賢
たのしされどやや足らはぬよ譬ふれば序樂をきかぬオペラみるごと 蒼
夕さればそぞろありきす銃機屋のまへに立ちてはピストルをみる 蒼
死なんとて蹈切近く來しときに汽車の煙をみて逃げ出しき 蒼
始めての床に女を抱く如きものめづらしき怖れなるかな 萬、賢
春の夜は芝居の下座のすりがねを叩く男もうらやましけれ 蒼、蕭、萬、晶、賢
祭の日寢あかぬ床に寺寺の鐘きく如きもののたのしさ 晶、萬、蒼、啄
ひるすぎの HOTEL の窓に COCOA のみくづれし崖のあかつちをみる 萬、修、修、賢
[やぶちゃん注:『スバル』第二年第一号(明治四三(一九〇二)年一月発行)に「萩原咲二」名義で掲載された。朔太郎満二十三歳。底本筑摩版全集の編者注によれば、各首の下は選者の略称で、『蒼(大井蒼梧)・修(平出修)・賢(川上賢三)・蕭(茅野蕭々)・萬(平野萬里)・晶(與謝野晶子)・啄(石川啄木)』とある。複数個は秀逸点か。以下、選者歌人のデータを示す。
・大井蒼梧(明治一二(一八七九)年?~昭和一二(一九三七)年)
・平出修(ひらいでしゅう 明治一一(一八七八)年~大正三(一九一四)年):弁護士で小説家・歌人。大逆事件の弁護人として知られる。
・川上賢三:明星以来の同人か。モ—パッサン「農夫の妻」の訳などがあるから仏文出身である。
・茅野蕭々(ちのしょうしょう 明治一六(一八八三)年~昭和二一(一九四六)年):ドイツ文学者で歌人。長野県生で本名儀太郎、初号は暮雨。東京帝大卒。明星派新進歌人として注目された。『明星』廃刊後は白秋・啄木らと『スバル』に作品を発表した。三高・慶応大学・日本女子大学教授を勤めた。著作に「ゲョエテ研究」「独逸浪漫主義」、訳書に「リルケ詩抄」など(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。
・平野萬里(ひらのばんり 明治一八(一八八五)年~昭和二二(一九四七)年)は歌人・詩人。埼玉県生。明治三四(一九〇一)年、郁文館中学卒業の年に新詩社入社、翌年九月に一高へ入学、明治三十八年、東京帝大工科大学応用化学科に進んだ。『明星』に短歌・詩・翻訳などを多数発表している。明治四〇(一九〇七)年に歌集「わかき日」を刊行、翌年に大学を卒業後は横浜でサラリーマンとなり、明治四十三年には満鉄中央試験所技師として大連に赴任した。その間、『明星』廃刊を受けた『スバル』創刊に尽力、同誌にも小説・戯曲を発表している。大正の初めには三年ほどドイツに留学して帰国後には農商務省技師となり、昭和一三(一九三八)年に商工省を退官するまで勤めた。大正前期に作歌を一時中断したが、大正一〇(一九二一)年の第二次『明星』創刊の参画から与謝野夫妻の没するまで鉄幹・晶子と相い伴うように協力同行して作品を発表し続けた(以上はウィキの「平野万里」に拠る)。
・與謝野晶子(明治一一(一八七八)年~昭和一七(一九四二)年):この時、『スバル』発刊(明治四二(一九〇九)年。終刊は大正二(一九一三)年)の翌年で、当時満三十二歳。
・石川啄木(明治一九(一八八六)年~明治四五(一九一二)年):当時は『東京朝日新聞』校正係をする傍ら、『スバル』創刊発行名義人として尽力した他、前年の初旬に終えた「二葉亭全集」の校正以後、同全集の出版事務全般をも受け持っていた。この年の八月下旬には評論「時代閉塞の現状」を執筆している。当時満二十四歳。]

