杉田久女句集 11 押し習ふ卒業式の太鼓判
私立女學校に圖畫を教ふ 一句
押し習ふ卒業式の太鼓判
[やぶちゃん注:久女は特別な絵画教育を受けたわけではないようだが、夫で中学校美術教師であった宇内は東京上野美学校西洋画科卒でもあり、大正一一(一九二二)年に橋本多佳子が弟子入りした際も、『作句もしたし絵も描かされた』(底本年譜。因みにこの年譜は久女の長女石昌子氏の編になる、めったにない書く人の情の伝わってくる優れた年譜である)とある。ここで言う「私立女學校に圖畫を教ふ」というのは、年譜に於いて、大正一二(一九二三)年『四月に私立勝山女学校(現在の市立三萩野商業)にて宇内の代理として図画と国語を教える。校長吉村女史の経営の苦労を援助して、市立に昇格するまで数年間教壇に立』ったとあることを指している(珍しく作句時期が限定出来る句である)。他にも大正一三(一九二四)年の項に福岡『県立京都(みやこ)高等女学校(福岡県京都(みやこ)郡行橋(ゆくはし))にて、卒業生と父母を対象とする手芸、フランス刺繡の講習会講師。鍛冶町にメソジスト教会建設のバザー出品のため、刺繡、手工芸品(貝合わせ玩具など)製作』とあり、久女には美術工芸の素養があり、手先も器用であったことが窺われる。]
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