日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 44 「日本先住民の証跡」講演 / 一時帰国の送別会
十月十三日の土曜日には、横浜の日本亜細亜(アジア)協会で「日本先住民の証跡」という講演をした。私はかってこんなに混合的な聴衆を前にしたことがない。大部分は英国人、少数の米国人と婦人、そして広間の後には日本人が並んでいた。福世氏は私を助けて材料を東京から持って来て呉れ、私は稀に見る、かつ、こわれやすい標本を、いくつか取扱った。
[やぶちゃん注:「日本先住民の証跡」原文は“Traces of Early Man in Japan.”。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」では、「日本における古代民族の形跡」と訳しておられる。
「日本亜細亜協会」この講演の様子を含め、総て既注。そこにも記したが、残念ながら、この時の講演内容の詳細は不明である。
「福世氏」既注。]
私は冬の講演の為に米国へ帰るので、送別宴が順順に行われる。私は特別学生達を日本料理屋に招いて晩餐を供し、その後一同で展覧会へ行った。これは初めて夜間開場をやるので、美しく照明されている。海軍軍楽隊は西洋風の音楽をやり、別の幄舎(パビリオン)では宮廷楽師達が、その特有の楽器を用いて、日本の音楽を奏していた。日本古有の音楽は、何と記叙してよいのか、全く見当がつかない。私は殆ど二時間、熱心に耳を煩けて、大いに同伴の学生諸君を驚かしたのであるが、また私は音楽はかなり判る方なのであるが、而も私はある歌詞の三つの連続的音調を覚え得たのみで、これはまだ頭に残っている。それは最も悲しい音の絶間なき慟哭である。日本の音楽は、人をして、疾風が音低く、不規則にヒューヒュー鳴ることか、風の吹く日に森で聞える自然の物音に、山間の渓流が伴奏していることかを思わせる。楽器のある物は間断なく吹かれ、笛類はすべて調子が高く、大きな太鼓が物憂くドドンと鳴る以外には、低い音とては丸でない。翌日一緒に行った学生の一人に、前夜の遊楽の後でよく眠られたかと聞いたら、彼は、「あの発光体の虚想が私の心霊に来た為に」あまり眠れなかったといった。これは博覧会に於る点燈装飾のことなのである。
[やぶちゃん注:「幄舎」(“pavilion”)は「あくしゃ」と読む。四隅に柱を立てて棟や檐(のき)を渡し、布帛(ふはく)で覆った仮小屋。
「あの発光体の虚想が私の心霊に来た為に」原文は“imagination of that luminary came to my mind,”。
「点燈装飾」原文は“the brilliant display”。現在ならイルミネーションと訳すところ。]
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