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2014/02/28

會話   山之口貘

 

 會 話 

 

お國は? と女が言つた

さて、僕の國はどこなんだか、 とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、 刺靑と蛇皮線などの聯想を染めて、 圖案のやうな風俗をしてゐるあの僕の國か!

ずつとむかふ 

 

ずつとむかふとは? と女が言つた

それはずつとむかふ、 日本列島の南端の一寸手前なんだが、 頭上に豚をのせる女がゐるとか素足で步くとかいふやうな、 憂欝な方角を習慣してゐるあの僕の國か!

南方 

 

南方とは? と女が言つた

南方は南方、 濃藍の海に住んでゐるあの常夏の地帶、 龍舌蘭と梯梧と阿旦とパパイヤなどの植物達が、 白い季節を被つて寄り添ふてゐるんだが、 あれは日本人ではないとか日本語は通じるかなどゝ談し合ひながら、 世間との既成槪念達が寄留するあの僕の國か!

亞熱帶 

 

アネツタイ! と女は言つた

亞熱帶なんだが、 僕の女よ、 目の前に見える亞熱帶が見えないのか! この僕のやうに、 日本語の通じる日本人たちが、 卽ち亞熱帶に生れた僕らなんだと僕はおもふんだが、 酋長だの土人だの唐手だの泡盛だのゝ同義語でも眺めるかのやうに、 世間の偏見達が眺めるあの僕の國か!

赤道直下のあの近所

[やぶちゃん注:「龍舌蘭」常緑多年生草木である、単子葉植物綱クサスギカズラ目クサスギカズラ科リュウゼツラン亜科リュウゼツラン属アオノリュウゼツラン Agave americana 。但し、メキシコ原産で、沖縄のそれは、明治期に移入されたものであろう。

「梯梧」双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科デイゴ属デイゴ Erythrina variegate当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『インド、マレー半島などの熱帯アジア、オーストラリアが原産。日本では沖縄県(あるいは奄美大島)が生育の北限とされている』。『鹿児島県奄美群島でも加計呂麻島の諸鈍海岸で約』八十『本の並木道となっているなど、あちこちでデイゴの大木が見られるが、交易船の航海の目印とするため等で沖縄から植栽されたものといわれる』とある。

「阿旦」単子葉植物綱タコノキ目タコノキ科タコノキ属アダン Pandanus odorifer 

「パパイヤ」双子葉植物綱アブラナ目パパイア科パパイア属パパイア Carica papaya 。熱帯アメリカ産で、十八世紀に沖縄に移入された。

【2014年6月17日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注を全面改稿した。】初出は昭和一〇(一九三五)年十一月号『文藝』で、戦後の昭和二二(一九四七)年十二月発行の『青年沖縄』、昭和三二(一九五七)年十月十三日附『琉球新報』他に再掲されている。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では読点が総て除去され、字空きとなっており、三・五・六行目の「ずつとむかふ」の表記が、

 

ずつとむかう

 

という表記に改められてある。但し、これは訂正とは言い難い。距離を隔てたあちらの方の意の名詞「むかふ」(「向かふ」)の表記はこれで歴史的仮名遣として正しいからである(言わずもがな乍ら、現代仮名遣では「むかふ」は「むこう」である)。但し、それではバクさんの改変は誤っているかというと、実は、誤りとも言えない。何故なら、名詞「むかふ」は動詞「向(むか)ふ」の終止形・連体形が名詞化したものとして歴史的仮名遣を「むかふ」とするのが、一般的なのだが、一方では、その連用形である「むかひ(むかい)」のウ音便形と考えて「むかう」と表記するのが寧ろ正しいとする学説もあるからである。

 また、第二連の二行目の「憂欝」が「憂鬱」に改められてあり、さらに、第三連の二行が、

 

南方は南方 濃藍の海に住んでゐるあの常夏の地帶 龍舌蘭と梯梧と阿旦とパパイヤなどの植物達が 白い季節を被つて寄り添ふてゐるんだが あれは日本人ではないとか 日本語は通じるかなどと談し合ひながら 世間との既成槪念達が寄留するあの僕の國か!

 

と「あれは日本人ではないとか」と「日本語は通じるかなどと談し合ひながら」の間に字空きが施されてある。【二〇二四年十月二十日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正し、植物注を追加した。

耳嚢 巻之八 淨土にていふ七夕の事【漢土にていふ七夕の事】

 淨土にていふ七夕の事【漢土にていふ七夕の事】

 

 南アメリカ洲の中に、アマサウネンといふ所あり。アマサウネンにて天河(あまのかは)といふ事なりとぞ。此山に女ばかりすむ所あり、一年に一度づつ男に逢ふと云(いふ)。其外の時に男來れば、竹鎗を以て防(ふせぎ)ていれずと云。是淨土【漢土】にいひ傳へし七夕の事ならんかと、人の語りぬ。紅毛通詞(こうもうつうじ)物語りの由、崎陽へ至りし人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。題名で引っかかり、内容を読んでそのトンデモさ加減に呆然とするのだが、これ、やはり「淨土」というのは如何にも通じぬ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は以上の【 】で示した通り、「漢土」で腑に落ちる(落ちるが全体のトンデモ性に変わりはないが)。今回のみ以上のような本文表示を行い、訳は「漢土」を採った。

・「アマサウネン」ギリシア神話に登場する女性だけの部族アマゾーン(Amazōn)又はアマゾニス(Amazonis)。日本では長音記号を省略してアマゾン(亜馬森)と呼ばれるが、この語はそれが由来となった地名などを指すのに使われて、それと呼び分けられて、この女族は専ら「アマゾネス」と呼称している。フランス語ではアマゾーヌ(Amazones)、ポルトガル語ではアマゾナス(Amazonas)、スペイン語ではアマソナス(Amazonas)という。参照したウィキの「アマゾン」によれば、『神話上では軍神アレースとニュンペーのハルモニアーを祖とする部族で、当時のギリシア人にとっては北方の未開の地カウカソス、スキュティア、トラーキア北方などの黒海沿岸に住んでいた。黒海はかつてアマゾン海と呼ばれていたこともある。アマゾーンは黒海沿岸の他、アナトリア(小アジア)や北アフリカに住んでいた、実在した母系部族をギリシア人が誇張した姿と考えられている』。以下、神話上における描写。『アマゾーンは馬を飼い慣らし戦闘を得意とする狩猟民族だったと言われる。最初に馬を飼い慣らしたともいわれ、騎馬民族であったようだ。アマゾーンは弓の他に、槍や斧、スキタイ風の半月型の盾で武装した騎士として、ギリシア神話中多くの戦闘に参加している。後のヘレニズム時代にはディオニューソスもアマゾーン征伐の主人公となっている』。『基本的に女性のみで構成された狩猟部族であり、子を産むときは他部族の男性の元に行き交わった。男児が生まれた場合は殺すか、障害を負わせて奴隷とするか、あるいは父親の元に引き渡し、女児のみを後継者として育てたという』。『絵画では、古くはスキタイ人風のレオタードのような民族衣装を着た異国人として描かれていたが、後代にはドーリア人風の片袖の無いキトンを着た姿で描かれるようになった』。『アマゾーンの語源は、弓などの武器を使う時に左の乳房が邪魔となることから切り落としたため、"a"(否定)+"mazos"(乳)=乳無しと呼ばれたことからとされるが、これは近年では民間語源であると考えられており』、伝承的には『すべてのアマゾーンが左乳房を切り落としていたわけではない』。『アマゾーン、アマゾネスは、強い女性を意味する言葉としてよく使われる。また、南アメリカのアマゾン川もその流域に女性のみの部族がいたという伝説があることからそう名付けられたとする説がある』とする。

・「紅毛通詞」「紅毛」は狭義には江戸時代にオランダ人を呼んだ語。ポルトガル人やスペイン人は「南蛮人」と呼んで区別して用いるられた。但し、町方にては広く西洋人のことを指した。しかしここは長崎の通詞であるから、オランダ通詞、オランダ人との通訳に当たる公職に就いていた者を指す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 漢の地に於いて呼称する「七夕(たなばた)」の真相についての事

 

 南アメリカ州の中に「アマサウネン」という地方がある。

 「アマサウネン」という語は――その響きからも分かるように――「天の河(アマノガハ)」という意味であるという。

 この「アマサウネン」という山岳地域に、女ばかりが住んでおる所がある。

 この女族は一年に一度だけ、下界の異人種の男と逢うという。

 しかし、それ以外の時に男が「アマサウネン」に入らんとすると、竹槍を以って激しく防戦致いて、決して山内には立ち入らせぬと申す。

 さても……これこそが……漢の地にて言い伝えており、しかも我が国にても祭っておるところの……かの「七夕」の正体……なのでは、なかろうか?……

……と、まあ……私の知れる御仁の語りで御座った。

 何でも――オランダ通詞(つうじ)から聴いた話の由にて――長崎へ行ったことのある御仁の語って御座った話ではある。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 25 砂糖菓子の細工物

M325
図―325

 日本人は散歩に出ると、家族のために、おみやげとして、如何につまらぬ物であっても、何かしら食品を買って帰る。竹中は、これは一般的な習慣だという。彼等は不思議な贈物をする。尊敬をあらわす普通の贈物は、箱に鶏卵を十個ばかり入れたもので、私は数回これを受取った。金子を贈る時には、封筒なり包み紙なりの上に、「菓子を買うに入用な資金」ということを書く。パーソンス教授は、大久保伯爵家から贈物として、背の高い、純白の松のお盆に、種々な形と色の糖菓を充したものを贈られた。それ等の一つ一つに意味がある。私はそれを写生せずにはいられなかった(図325)。先端が曲った物の、小さな束は、彼等が食用とする羊歯の芽である。弓形を構成するように曲げられた大きな物の上には、いう迄もないが彩色した、完全な藤の造花がついている。お菓子の上には菊の花形が押捺してある。これ等は紅白で、豆の糊(ペースト)と砂糖とで出来ている。日本人は非常にこの菓子を好むが、大して美味ではない。お盆は高さ十八インチもある。糖菓の大きさも、推察されよう。全体の思いつきが清澄で、単純で、芸術的であった。

[やぶちゃん注:「竹中」前出の竹中恒次郎か竹中成憲であるが、如何にも親しげにぽっと述べている感じからはモースの可愛がった恒次郎であるように思われる。

「菓子を買うに入用な資金」「御菓子料」という表書きのこと。

「パーソンス教授」東京大学理学部(数学担当)教授ウィリアム・パーソン(William Edwin Parson)。既注。

「大久保伯爵家」“the family of Count Okubo”。この直前に暗殺された大久保利通であろうが、正しくは彼は生前は伯爵の上の侯爵(marquis)であった。ただ、ウィキの「大久保利通」を見ると明治一七(一八八四)年七月に長男で継嗣であった大久保利和が侯爵に叙爵されたとあるから、この時点では利和は侯爵であって、かく呼称しているものか。

「紅白で、豆の糊(ペースト)と砂糖とで出来ている」「日本人は非常にこの菓子を好む」としつつ、モースは敢えて「大して美味ではない」と述べているところからは、落雁であろうか。私は落雁を美味しいと思わないからである。

「十八インチ」45・72センチメートル。]

中島敦 南洋日記 補注追加について

一月五日から十六日までの日記は記されていない。この間、一月七日附たか宛葉書(旧全集「書簡Ⅰ」番号一五五)と同じくたか宛の非常に長い書簡(同書簡番号一五六)が残るが、それを電子化し忘れていたので、同「南洋日記」を編年で読んで下さっておられる方の便宜を考え、只今、当該箇所に挿入する形で、「中島敦 南洋日記 補注」としてアップした。悪しからず。

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(7)

振り袖の桔梗の花の色のよき

なづかしひとゝ涙もよほす

 

[やぶちゃん注:ちょっと迷ったが「なづかし」はママとした。朔太郎満十九歳の時の、前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された「ろべりや」七首連作の三首目に、

 振袖(ふりそで)の桔梗(きゝやう)の花の色(いろ)のよきなつかし人(びと)と涙もよほす

とはある。]

 

夏ばなの趣ある小家の人なれば

面影に似し戀もする哉

 

[やぶちゃん注:同じく朔太郎満十九歳の時の、前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された「ろべりや」七首連作の三首目に、

 夏花(なつばな)に趣(しゆ)ある小家(こいへ)の人なれば面影(おもかげ)に似し戀もする哉

の類型歌。]

 

鬼どもが笑ふ聲にて戰爭(たゝかひ)は

終りぬ勝ちぬ民よ悦べ

 

からくりに見たる地獄の叫喚が

待ち居るものと思ふ可笑しさ

 

[やぶちゃん注:「地獄」の「獄」は原本では「獄」の上に(くさかんむり)が附く字。朔太郎満十九歳の時の、前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された(前に注した「ろべりや」連作の後の歌群)にある、

 からくりに見(み)たる地獄(ぢごく)の叫喚(けいかん)が待(ま)ち居(ゐ)るものと思(おも)ふ可笑(をか)しさ

の表記違いの相同歌。]

 

願はくば我なるものを五人(いつたり)に
十人(とたり)になして笑ひ
代さむ

 

[やぶちゃん注:校訂本文は「代さむ」を「交さむ」と訂する。]

 

たゞ一人座すれば淋し天地が

われのくびきにかゝる苦しみ

 

     よろこびは千夜に一夜

     たまたまの逢瀨を何なれば更かし給はぬ

     あはたゞしの別れ、せちなの君かな

あはたゞし燃ゆる熖の火ぐるまを

忘れて去にしつらき君かな

 

[やぶちゃん注:前書の「たまたま」の後半は原本では踊り字「〱」、「あはたゞし」はママ、本文の「あはたゞし」もママ。「燃ゆる」は原本は「燒ゆる」であるが、誤字と断じて校訂本文を採った。朔太郎満十八歳の時の、『白虹』第一巻第四号(明治三八(一九〇五)年四月発行)の「小鼓」欄に掲載された五首の巻頭の、

 あはた〻し燃ゆる災の火車を忘れていにしつらき君かな

(「災」はママ。誤植と思われる)があるが、前書はない。]

 

君まつと一日は樂し君を戀ふと

千夜は果敢なき夢みてしがな

飯田蛇笏 靈芝 大正九年(十四句)

   大正九年(十四句)

 

三月の筆のつかさや白袷

 

[やぶちゃん注:「つかさ」の「つか」は「柄」で筆の軸で、握った感触のことをいう造語か。]

 

かしこみて尼僧あはれや花御堂

 

一鷹を生む山風や蕨伸ぶ

 

薙ぎ草の落ちてつらぬく泉かな

 

[やぶちゃん注:「薙ぎ草」横ざまに払うように、刈り倒したように生える長い葉の雑草の謂いであろうか。特定の種を指しているようには思われない。]

 

   信州なにがしの郷を過ぎて

やまぎりに濡れて踊るや音頭取

 

流燈や一つにはかにさかのぼる

 

[やぶちゃん注:個人的に好きな句である。蛇笏鬼趣調の一句。

 

蝶ながるゝ風にはねあそぶ蜥蜴かな

 

夜長爐に土間の柱や誰かある

 

[やぶちゃん注:個人的に好きな句である。]

 

秋の星遠くしづみぬ桑畑

 

   笛吹川舟遊

舟をりをり雨月に舳ふりかへて

 

[やぶちゃん注:「をりをり」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

夜相撲や眼球とばして土埃り

 

[やぶちゃん注:「山廬集」では「眼球」は「目玉」。]

 

瀧風に吹かれ上りぬ石たゝき

 

[やぶちゃん注:「石たゝき」スズメ目スズメ亜目セキレイ科 Motacillidae に属するセキレイ類の別名。ウィキの「セキレイ」によれば、実は『標準和名がセキレイである種はなく、和名にセキレイが含まれるのはセキレイ属(Motacilla)とイワミセキレイ属 (Dendronanthus)の種である。ただし、イワミセキレイ属はイワミセキレイの1属1種で、大部分はセキレイ属である。日本で普通に見られるセキレイは、セキレイ属のセグロセキレイ(固有種)』(Motacilla grandis)『ハクセキレイ』(Motacilla alba)『キセキレイ』(Motacilla cinerea)『の3種だが、他に旅鳥などで希に見られる種もある』。『主に水辺に住み、長い尾を上下に振る習性がある(ただしイワミセキレイ』(Dendronanthus indicus)『は左右に振る)。イシタタキなどの和名、英名WagtailWag:振る tail:尾)はその様子に由来する。人や車を先導するように飛ぶ様子がよく観察される』。『イシタタキ(石叩き・石敲き)、ニワタタキ(庭叩き)、イワタタキ(岩叩き)、イシクナギ(石婚ぎ)、カワラスズメ(川原雀)、オシエドリ(教鳥)、コイオシエドリ(恋教鳥)、トツギオシエドリ(嫁教鳥)、ツツナワセドリ(雁を意味することもある)、など多くの異名を持つ』とある。]

 

汲まんとする泉をうちて夕蜻蛉

 

谷々や出水瀧なす草の秋

篠原鳳作句集 昭和七(一九三二)年九月



雲の峰夜は夜で湧いてをりけり

 

   沖繩糸滿風景

くり舟を軒端に吊りて島の冬

 

[やぶちゃん注:以上二句は九月の発表句。]

杉田久女句集 87 秋暑し熱砂にひたと葉つぱ草


秋暑し熱砂にひたと葉つぱ草

[やぶちゃん注:「葉つぱ草」同定不能。福岡の方言か? 識者の御教授を乞う。]

橋本多佳子句集「海燕」昭和十五年 島への旅 

 島への旅

 

面を過ぐる機關車の灼け旅はじまる

 

潮騷を身ちかく火蛾と海渡る

 

[やぶちゃん注:多佳子マジックの呪文「火蛾」の初出である。]

 

ひとの家に實櫻熟るる一夜寢し

 

玫瑰に紅あり潮騷沖に鳴る

 

[やぶちゃん注:「玫瑰」は「はまなし」又は「はまなす」と読む。バラ目バラ科バラ属

ハマナス Rosa rugosa。和名は「ハマナス」であるが、元来は「はまなし」が正しい。砂地の海浜に生えていて果実がナシに似た形をしていることが和名由来で、それが「はまなす」と訛ったものであるからである。なお、この「島」とは直後に鳴門の嘱目吟が続くことから、淡路島若しくはその周辺の瀬戸内海の諸島と考えてよいであろう。年譜上の記載はない。]

人間   八木重吉

 

巨人が 生まれたならば

人間を みいんな 植物にしてしまうにちがいない

 

[やぶちゃん注:「ちがいない」はママ。]

音樂   山之口貘

 

   音 樂

 

あれとは口など利くなと言ふのに

あれに口を利くんだから

僕に口利く暇がなくなるんだ

だからあれを好きになつたんだらうと言ふんだが

だからあんたなんかは嫌ひとくる

だからそれみろ それはおまへが あれを好きになつたんだからであらうと言ふんだが

雨天のたびには

雨が降る

僕がものいふたびに降るものは

あの男のことばつかり

だからもういふまいと口を噤んでみるんだが

みるほどにきこえてくる音

なんの音

たとへやきもちやいてはゐてもこの僕そのものは

物はたしかに愛なんだがときこえるばかり

 

[やぶちゃん注:初出は昭和九(一九三四)年十一月号『日本詩』で、前の「無機物」及びずっと後に載る「立ち往生」と併せて三篇が掲載された。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では十四行目の「たとへ」が、

 

たとひやきもちやいてはゐてもこの僕そのものは

 

に変えられてある。但し、これは訂正とは言い難く、あくまでバクさんの好みによる変更である。何故なら、このように、後に逆接条件を表わす「ても」を伴う反実仮想の副詞「たとひ」(「假令」「縱令」「縱ひ」)の語源は、ハ行四段活用の動詞「たとふ」の連用形と推測されており(但し、「たとふ」の確かな使用例は、和文脈では、厳密には存在せず、漢文訓読系統から派生した語とされている)、古語には、別に、この「たとひ」の音変化とも思われる副詞「たとへ」(「假令」「縱令」「縱ひ」)が存在し、これは「たとひ」と、用法も意味も全く同じものだからである。【2014年6月17日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注を改稿した。】【二〇二四年十月十九日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

 

2014/02/27

歴史資料 飲食店営業許可に係わる警視庁命令書

[やぶちゃん注:以下は私の行きつけの大船の鮨屋「寿司正」の御主人が若き日に修行された新橋「寿司正」の親方の店の営業許可に際しての命令書(原本コピー2種)である。御主人は、親方は既に亡くなられており、現在はこの店は存在しないのでいいでしょうとおっしゃられたが、一応、個人情報に相当する一部にマスキングをしておいた。現代史の風俗的資料(私自身初めて見るものであった)として拝借し、電子化した。電子化に際しては一部の略字を正字化(若しくは新字の最も近いもの)に直した箇所があるが、概ね原本通りとした。一部は推定判読した。]

Meireisyo1_2


Meireisyo2

     命  令  書

      營業所 芝區新橋四丁目三十■番地

      飲食店(すし)佐藤■正

明治二十八年四月警視廰令第八號待合茶屋遊船宿

貸席料理屋飲食店及藝妓ニ関スル取締規則第二

條ノ二ニヨリ左記事項ヲ命令ス

右相違ス

 昭和十年十一月六日

         芝愛宕警察署長

          警視 宮澤文作 (公印)

 

 一、婦女ハ客ノ接待ヲ為ササルコト

 二、客席ノ構造設備ヲ變更セントスルトキハ其ノ三日前迄ニ變更

   要旨並圖面ヲ附シ届出ツルコト

 三、營業種目ヲ變更セムトスルトキハ届出ツルコト

 

■やぶちゃん補注

・「明治二十八年四月警視廰令第八號待合茶屋遊船宿貸席料理屋飲食店及藝妓ニ関スル取締規則」というのは、通称「警八」と呼ばれた明治二八(一八九五)年四月に制定された待合等の営業許可に関わる細目を定めた規則。以下に国立国会図書館蔵「市民法典」から全条を電子化しておく(文字の大きさの違いは無視した。〔 〕はポイント落ちの割注様部分、各條は底本では二行目以降は一字下げ。「改正略符」は底本では(ろ)と(は)の上にある)。

   *

    ●待合茶屋遊船宿貸席料理屋飲食店及藝妓ニ關スル取締規則〔明治二十八年四月廰令第八號〕

    

改正略符(い)三十年十月廰令三十四號

    (ろ)三十八年六月同二十四號

 

    (は)四十二年十月同二十八號

    (に)四十三年四月同二 十 號

第一條 左ノ營業ヲ爲サントスル者ハ族籍住所足業氏名年齡屋號及營業ノ場所ヲ詳記シ所轄警察署又ハ警察分署ニ願出免許ヲ受クヘシ其營業ノ場所ヲ轉スルトキ亦同シ(い)

 一 待合茶屋遊船宿貸席料理屋

 二 銘酒喫茶麥湯氷水其他客席ノ設ケアル飮食店

 三 藝妓屋

 四 芝居茶屋(は)

第一條ノ二 前條ハ其ノ種類ニ依リ家屋ノ構造ヲ制限スルコトアルヘシ(は)

第一條ノ三 目的方法ノ何タルカヲ問ハス他人ノ委託ヲ受ケ若ハ他人ノ名義等ヲ利用シテ物品ノ配付ヲ爲シ又ハ爲サシメ若ハ財物ヲ徴收セシムヘカラス(に)

第二條 營業者公安若クハ風俗ヲ害スルノ虞アリ又ハ他人ニ名義ヲ假スノ事實アリト認ムルトキ警視廰ハ其營業ヲ停止シ又ハ其營業ノ免許ヲ取消スコトアルヘシ(い)

第三條 營業者族籍住所氏名屋號ニ異動ヲ生シ又ハ廢業シタルトキハ五日以内ニ所轄警察署又ハ警察分署ヒ屆出ヘシ(い)

第四條 營業者雇人ヲ雇入レタルトキハ其住所氏名年齡竝前住所職業ヲ詳記シ三日以内ニ所轄警察署又ハ警察分署ニ屆出へし其事項ニ異動ヲ生シタルトキ亦同シ 但シ郡部ハ巡査派出所又ハ巡査駐在所ニ其ノ屆書ヲ差出スコトヲ得(ろ)(は)

第五條 本則第一條第一條ノ三第三條第四條ヲ犯シタル者ハ一日以上三日以下ノ拘留又ハ二十錢以下ノ科料ニ處ス(に)

      附  則

從前ノ營業者ニシテ尚引續キ營業ヲ爲サントスル者ハ來五月三十一日迄ニ本則第一條ノ手續ニ依リ屆出許可ヲ受クヘシ

      附  則(は)

明治四十二年十月二十七日ニ於テ現ニ芝居茶屋營業ヲ營ム者ニシテ尚引續キ營業ヲ爲サムトスル者ハ明治四十二年十一月二十五日迄ニ本則第一條ノ手續ニ依リ家屋ノ構造仕樣及圖面ヲ添附シ屆出認可ヲ受クヘシ

   *

井上章一氏の日本人の男女が愛し合う場所の移り変わりを探る性愛空間の建築史「愛の空間」(角川書店一九九九年刊行)によれば、この規則の第二條にある公安・風俗を害するという表現の内実は賭博と売春の取り締りにあった。この「警八」が出された頃はまさにこの親方の鮨屋のあった新橋界隈では相当に厳しいチェックがあったらしく、同書によれば(以下の引用は恣意的に正字化した)、『近ごろ新橋邊は最とも警八風の吹廻し方烈しく、夫(そ)れが爲め待合茶屋はげっそりと不景氣を感じ』(同一八八五年十二月五日附『朝日新聞』)とあり、他にも『警八風は花柳の巷に吹きすさみて穩かならねば、此の難をさけてデンデンの音に寄りつどう冶郎(やろう)ども近來頗(すこぶ)る多く、娘義太夫の懷冬を知らず』(一八九六年二月七日附『都新聞』)、『警八風情花を散す……待合萬松亭女將大草ふきは、此頃警察令の嚴しきをも懼(おそれ)ず、一昨夜蠣殼町米商某の求めに應じて……兩美形を招きて箕箒の勞を執らしめたる咎に依り、女將と美形とを連ねて其筋に引致せられたり』(一八九六年十二月十二日附『東京日日新聞』)とある。「警八風」の「風」は風俗取り締りのことであろう。また、「デンデン」とは恐らく娘義太夫の義太夫節(「デンデン」は太棹三味線の音)のこと、「箕箒」は「きそう」と読み、「箕箒の妾(しょう)」でここは売春行為を指す(「史記」の「高祖本紀」に基づくが、そこでは本来は掃除女で、ここは、単純に妻とする、という謂いで用いている)。しかし、こうした厳しい取り締りは長続きせず、五年後の『読売新聞』(一八九九年七月三日附)には、『彼の有名なる警八風と稱する警視廰令の發布以來、一時は關係營業者間に非常の恐慌を來せしが、今やはかなく警八令などは誰人も念頭に留めざる有樣にして、爲に待合、船宿其他藝妓抔(など)の取締に就ては、恰(あた)かも有名無實の感ありて、甚だしきは其筋の默許する處(ところ)なりとまで風評するに至り』とまで報じられるほどのザル法に化していた、とある。断っておくが、以上の私の注は本規則の実態を述べたものであって、この親方の店は無論、普通の健全なる鮨屋であることは言うまでもない。

・「右相違ス」「みぎあひたがはず」と訓じているものと思われる。謂わば「以上の通り、相違なし」、守りなさい、という確認の一文である。

・「昭和十年十一月六日」同年の内外の動きをウィキの「1935から抜粋しておく。

 2月10日 築地市場が開場。

 3月16日 アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄してナチス・ドイツの再軍備を宣言。

 2月18日 菊池武夫が貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を反国体的と糾弾。

 4月 6日 満洲国皇帝溥儀が来日し、靖国神社を参拝した。

 4月 7日 美濃部達吉が天皇機関説のため不敬罪で告発される。

 4月 9日 美濃部達吉の「憲法概要」など著書三冊が発禁となるも買手殺到し、書店で売切れとなった。

 6月 7日 有楽座が開場。

 6月10日 梅津・何応欽協定成立(日本軍による華北分離工作の開始)。

 7月 1日 船橋・千葉間省線の電化完成(東京・千葉間全通)。

 7月14日 フランス人民戦線結成。

 8月 1日 警視庁で無線自動車が登場。中国共産党が抗日救国統一戦線を提唱(八・一宣言)。

 8月10日 国体明徴声明が発表される。

 8月12日 陸軍内部の統制派として知られた永田鉄山が暗殺される。

 9月15日 ナチス・ドイツにおいてニュルンベルク法(ユダヤ人公民権停止・ドイツ人との通婚禁止)が制定され、ハーケン・クロイツ旗が正式なドイツ国旗とされる。

 9月30日 和辻哲郎の「風土 人間学的考察」が出版される。

10月 3日 イタリアがエチオピアへ侵攻を開始(第二次エチオピア戦争)。

10月 6日 大阪市営地下鉄御堂筋線の梅田駅本駅が開業(30日には心斎橋駅 - 難波駅間が開業)。

10月21日 ナチス・ドイツが国際連盟を脱退。

11月26日 日本ペンクラブが発足(初代会長島崎藤村)。

11月28日 土讃本線三縄―豊永間が開通(最後の「陸の孤島」高知県が鉄道で結ばれる)。

12月 8日 関東軍支援の下に李守信軍がチャハル省に進軍。大本教教祖出口王仁三郎と幹部三十余名が不敬罪・治安維持法違反で検挙される(第二次大本事件)。

・「芝愛宕警察署」現在の東京都港区新橋六丁目十八番十二号にある警視庁管轄になる愛宕警察署。現在の同署は港区の東北部を管轄し、管内には東京タワーやオランダ大使館・日本テレビやテレビ東京の本社ビル・世界貿易センタービルなどの施設がある(当署横には機動捜査隊の拠点として各種犯罪対策を担っている)。管轄地域は港区芝地域の一部で東新橋一・二丁目(全域)、新橋一・二・三・四・五・六丁目(全域)、西新橋一・二・三丁目(全域)、海岸一丁目(二・三丁目は三田警察署の管轄)、浜松町一・二丁目(全域)、芝大門一・二丁目(全域)、芝公園一・二・三・四丁目(全域)、愛宕一・二丁目(全域)、虎ノ門一丁目、二丁目(3番から9番のみ)、三・四・五丁目(前記以外の二丁目は赤坂警察署の管轄)。明治五(一八七二)年に巡査屯所が設置され、明治一四(一八八一)年一月に宮本町警察署となるも凡そ二ヶ月後の同年四月一日には芝宮本町警察署となり、大正二(一九一三)年に芝愛宕警察署に改称している。この命令書の二年後の昭和一二(一九三七)年に現在の愛宕警察署に改められた(以上はウィキ愛宕警察署に拠った)。

・「宮澤文作」この部分のみゴム印である。この人物は国立国会図書館の雑誌資料の中の『警察協会雑誌』の明治四二(一九〇九)年十一月発行のそれに寄稿している「警察官の方言に就て 宮澤文作」とある人物と考えてよかろう。また、東京都の歴代区長一覧を見たところ、芝区(港区)区長の欄に「宮沢文作」の名が見え、そこには昭和一一(一九三六)年九月就任、昭和一三(一九三八)年十月退任とあり、その日附と連続するように、赤坂区(港区)区長の欄にはやはり「宮沢文作」の名があって、そこには昭和一三(一九三八)年十月二十日就任、昭和一七(一九四二)年九月二日退任とある。同姓同名の異人の可能性もあるが一応、記しておく。

・「(公印)」判然としないが、「警視庁警視之印」とあるように見える。

雛飾りのため閉店

本日は雛飾りのため一時閉店 心朽窩主人敬白

中島敦 南洋日記 一月二十日

        一月二十日(火) 晴、オギワル

 九時過舟の用意とゝのひたりとて、ウバルにリュックを擔がせ公學校前迄到る。其處より小舟に乘る。漕手は金太郎。リーフの水澄み、海岸の風光も佳し。一時間足らずにして南貿に着く、上陸。金太郎に荷をかつがせ陸橋を行く。途中、橋の壞れたるあり。舟を呼んで渡る。製材所より先は自らリュックを負うて歩む。椰子林中の道なり。途にコプラ剝きの一團に合ふ。山間の赭土道。ヘゴ羊齒。タコ。道に出合ふ女ども。正午前、オギワル村に入る。レンゲが邸。この部落は一本の大道中央を眞直に貫く。その兩側に家あり。頗る整然たり。アバイに行きて、ルバク共の會談を見る。貯金獎勵についての寄合なり。オイカワサン座にあり。彼等の會談に遲々として一向に進捗せず、五分間に一人位ポツンと發言するものの如し。村長宅にて晝食。ひるね。一向に村長も誰も歸り來らず。村長の名はエラッテウェズ。餘り長者らしからぬ風貌なり。<○村長の薄綠のワイシャツ、>四時近く歸宅し、大きなるバナナを馳走す。夕方迄土方氏と濱の干潟に下り立ち soko’(z) なる白き小あさりを掘る。持歸りて味噌汁とす。夕食には之と、タカオと出づを喰ふ。土方氏の爲には腐り氣味(ブラオ)なる魚あり。蓄音機(何が彼女をさうさせたか。コロール青年哥。ラヂオ體操その他の盤あり)、動かぬ時計三つ。その中の一つは鳩時計。卓子。籐椅子セット。低い机。皇室の寫眞多數掲げらる。明治的色彩に富む戰爭畫南苑激戰の圖四枚。富士山の額一つ。選獎狀の額(倅なるべし)ムレンヤパンの公學校修業證書、賞狀、圖書。日本(女)の着物一枚。手提。ミシン。天井よりぶら下がれる豪奢なるランプ。シャンデリヤの如し。獨乙時代のものなるべし、東郷元帥の畫。四圍のヴェランダへ日除の板簾。その外(ソト)の大ザボン。夜は、する事もなく、暗ければ、早く寐る。

[やぶちゃん注:太字「あさり」は底本では傍点「ヽ」。「腐り氣味(ブラオ)」の箇所は「腐り氣味」全体に「ブラオ」のルビがつく。

「ヘゴ羊齒」シダ植物門シダ綱ヘゴ目ヘゴ科ヘゴ Cyathea spinulosa。常緑性の大形木生シダ。湿度の高い林中を好み、茎は高さ四メートル、基部の径は五〇センチメートルに達し、稀に枝分れする。茎の上部には、長さ二メートルを超す葉が開出し、葉柄は葉身より短く、紫褐色で刺が密生し、暗褐色の辺縁に刺のある鱗片をつける。葉身は二回羽状に分裂、小羽片は羽状に深裂し、裏面に薄い包膜で覆われた胞子嚢群を多数つける。参照したウィキの「ヘゴ」によれば、『ヘゴ科の茎は樹木の幹と異なり肥大成長をしないが、茎から出る無数の不定根に厚く覆われ、基部が太くなる。この不定根の層は湿度と空気とを適度に保持するため、着生のランやシダ類の栽培に適し、ヘゴ板として市販される。東南アジアや中南米では、茎や根塊を彫刻して土産品とする。ゼンマイ状に伸びた新芽は山菜として利用されることもある。また、茎はデンプンを多量に含むため、かつてはニュージーランドをはじめ多くの地域で、原住民がこれを食用としていた』とある。

「ルバク」長老の謂いであろう。土方日記を管見すると、元来はパラオ語で「年寄」を意味するが、そこから「旦那」という敬称に用いられるとあり、また「ルバク制度」という表現も出、これはどうもパラオ社会の長老達による決定機構のことらしい。また当時、占有していた日本人(内地人)のことも敬意を込めて「ルバク」と呼んだとある。]

飯田蛇笏 靈芝 大正八年(三十九句)

   大正八年(三十九句)

 

火に倦んで爐にみる月や淺き春

 

月褒めて雪解渡しや二三人

 

家鴨抱くや凍解の水はればれと

 

[やぶちゃん注:「はればれ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

 

月いよいよ大空わたる燒野かな

 

[やぶちゃん注:「いよいよ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

牧霞西うちはれて獵期畢ふ

 

草喰む猫眼うとく日照雨仰ぎけり

 

落汐や月になほ戀ふ船の猫

 

谷川にほとりす風呂や竹の秋

 

尿やるまもねむる兒や夜の秋

 

[やぶちゃん注:「尿」は「すばり」と訓じていよう。]

 

  白骨温泉

三伏の月の小さゝや燒ヶ嶽

 

うち越してながむる川の梅雨かな

 

から梅雨や水面もとびて合歡の禽

 

[やぶちゃん注:「水面」は「みなも」と読みたいが、「山廬集」では、

 

 から梅雨や水ノ面もとびて合歓の鳥

 

と表記されてあり、「みのも」と読ませている。]

 

  白骨檜峠一軒茶屋

高山七月老鶯をきく晝寢幮

 

  白骨温泉行、七句

川瀨ゆるく波をおくるや靑嵐

 

[やぶちゃん注:「山廬集」では、

 

   信濃山中梓川

 川瀨ゆるく浪をおくるや靑あらし

 

とある。]

 

深山雨に蕗ふかぶかと泉かな

 

[やぶちゃん注:「ふかぶか」の後半は底本では踊り字「〲」。この句は「山廬集」では、『大正八年六月二十六日家郷を發して日本アルプスの幽境白骨山中の温泉に向ふ。途中 三句』という前書を持つ三句目に配されてある。但し、「山廬集」は季題別(以下、この注記は略す)。]

 

夏蝶や齒朶搖りてまた雨來る

 

汗冷えつ笠紐浸る泉かな

 

[やぶちゃん注:この句は「山廬集」では、『大正八年六月二十六日家郷を發して日本アルプスの幽境白骨山中の温泉に向ふ。途中 三句』という前書を持つ二句目に配されてある。]

 

夏山や又大川にめぐりあふ

 

[やぶちゃん注:この句は「山廬集」では、『大正八年六月二十六日家郷を發して日本アルプスの幽境白骨山中の温泉に向ふ。途中 三句』という前書を持つ三句目に配されてある。]

 

雲ゆくや行ひすます空の蜘蛛

 

後架灯おくやもんどりうつて金龜子

 

[やぶちゃん注:「山廬集」では、

 

 後架灯おくやもんどりうちて金龜子

 

とする。]

 

風向きにまひおつ芋の螢かな

 

ふためきて又蟲とるや合歡の禽

 

陰曆八月虹うち仰ぐ晩稻守

 

[やぶちゃん注:「晩稻守」は「おしねもり」と読み、稲が実ってきた頃に鳥獣に田を荒らされぬように番をすること、又、その人を指す。「おしね」は「おそいね」の略といい、遅れて実のる晩稲(おくて)のことを指す。]

 

はつ秋の雨はじく朴に施餓鬼棚

 

月高し池舟上る石だゝみ

 

名月や耳聾ひまさる荒瀨越え

 

[やぶちゃん注:「聾ひ」は「しひ」と読む。ハ行上二段活用の自動詞「廢ふ」で、器官が働きを失う意の古語。「廢(しひ)」と名詞化されて「目しひ」「耳しひ」などと造語された。]

 

新月や掃きわすれたる萩落葉

 

  白林和尚葬儀

秋月や魂なき僧を高になひ

 

[やぶちゃん注:「白林和尚」蛇笏の菩提寺(山梨県笛吹市境川町曹洞宗松尾山智光寺)の僧か。]

 

舟べりをおちてさやかや露の蟲

 

鳥かげにむれたつ鳥や秋の山

 

嘴するや榛高枝の秋鴉

 

[やぶちゃん注:「榛」は音「ハン」、落葉低木のブナ目カバノキ科ハシバミ属 Corylus ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii を指すが、実は本邦ではしばしば全くの別種である落葉高木のブナ目カバノキ科ハンノキ Alnus japonica に誤って当てる。この光景は高枝の鴉であるから後者と思われる。]

 

極月や雪山星をいたゞきて

 

  上曾根渡舟場所見、一句

冬風に下駄も結べる鵜籠かな

 

月いでゝ雪山遠きすがたかな

 

月の樹にありあふ柝や寒稽古

 

[やぶちゃん注:「柝」は通常は「き」で、拍子木のことだが、どうも音数律が悪い。「タク」と音読みしているか。]

 

  山居即事

雞たかく榎の日に飛べる深雪かな

杉田久女句集 86 袂かむやまなじり上げて秋女

袂かむやまなじり上げて秋女

杉田久女句集 85 秋のごと瞳澄めば嬉し鏡拭く

秋のごと瞳澄めば嬉し鏡拭く

杉田久女句集 84 秋來ぬとサファイア色の小鰺買ふ

秋來ぬとサファイア色の小鰺買ふ

杉田久女句集 83 親雀キャベツの蟲を喰へ飛ぶ

親雀キャベツの蟲を喰へ飛ぶ

橋本多佳子句集「海燕」昭和十五年 雜愁 

 雜愁

 

發車する列車と歩み春日面(も)に

 

春落暉歩廊に列車の尾も疾くなり

 

黄砂航く朱の一輪の月一夜

 

日覆ふかく疲れ港の照るを瞳に

 

[やぶちゃん注:「日覆ふ/かく疲れ港(かう)の/照るを瞳(め)に」と私は読む。大方の御批判を俟つ。]

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年四月から八月



門入りて徑の露けくなりにけり

 

寄生木の影もはつきり冬木影

 

極月や榕樹のもとの古着市

 

[やぶちゃん注:「榕樹」「ヨウジュ」は沖繩でお馴染みのガジュマルの漢名。イラクサ目クワ科イチジク属ベンガルボダイジュ Ficus bengalensis。インド原産で高さは三〇メートルにも達する。樹冠部は大きく広がって横に伸びた枝から多くの気根を出す。果実は小形の無花果状で赤熟する。インドでは聖樹とされる。バニヤン・バンヤン(banyan)ともいう。

 以上三句は四月の発表句。]

 

手袋の手をかざしゐ芦火かな

 

[やぶちゃん注:「芦」は底本の用字。]

 

   櫻島

火の島の裏にまはれば蜜柑山

 

炭馬の下り來徑あり蜜柑山

 

[やぶちゃん注:以上三句は五月の発表句。]

 

   富士山麓

霧しづく柱をつたふキヤンプかな

 

はひ松に郭公鳴けるキヤンプかな

 

   山中湖

山垣とキヤンプの影と映るのみ

 

刈跡のみなやにたらし蘇鐡山

 

奥津城の庭の蘇鐡の刈られけり

 

[やぶちゃん注:以上五句は六月の発表句。]

 

   首里城

南殿のしとみあげあり花樗

[やぶちゃん注:「花樗」は「はなあうち(はなおうち)」と読む。センダン、一名センダンノキの古名。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach の花。初夏五~六月頃に若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数円錐状に咲かせる。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album)なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。]

 

うすうすと峰づくりけり夜の雲

 

[やぶちゃん注:個人的に好きな句である。

 以上二句は八月の発表句(昭和七(一九三二)年七月の発表句はない)。

 なお、この八月二日、鳳作は博多に『天の川』主宰の吉岡禪寺洞(明治二二(一八八九)年~昭和三六(一九六一)年 福岡生。本名、善次郎。大正七(一九一八)年に福岡で『天の川』を創刊して後に主宰となる。富安風生・芝不器男らを育て、昭和四(一九二九)年には『ホトトギス』同人となったが、新興俳句運動に参加して昭和十一年に除名された。戦後は口語俳句協会会長を務めた。句集に「銀漢」「新墾(にいはり)」(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る))を訪ねている。それを「銀漢亭訪問記」として昭和七年十一月の『天の川』に載せているが、その中で、鳳作が「沖繩の句をつくりたいと思つてゐますが、どうも季感が乏くて句になりにくいです」と質問したのに対し、禪寺洞は「この前臺灣の人もさう云つてゐた。だがまあ云つて見れば夏だけの所なんだから、夏の季のものだけ句作したらよいだらう。從來の季題にない動植物でも何でも句にしてみたまへ。沖繩や臺灣みたいな所は季と云ふものにさうとらはれる必要はないと思ふ」と答えているのが注目される。

あほい 水のかげ   八木重吉

    あほい 水のかげ

 

たかい丘にのぼれば

内海(ないかい)の水のかげが あほい

わたしのこころは はてしなく くづをれ

かなしくて かなしくて たえられない

 

[やぶちゃん注:二ヶ所の「あほい」は総てママ。]

無機物   山之口貘

 

   無 機 物

 

僕は考へる

ふたりが接吻したそのことを

娘さんを僕に吳れませんかといふ風に

緣談を申し込みたいと僕は言ふのだが

浮浪人のくせに、 と女が言ふたんだといふやうに 

 

ところが僕は考へる

浮浪人をやめたいとおもつてゐるそのことを

緣談はまとめて置いて直ぐにもその足で

人並位の生活をなんとか都合したいと僕は言ふのだが

それではものわらひになる、 と女が言ふたんだといふやうに 

 

ところが僕はまた考へるのか

とにかく緣談をはなしだけでもまとめて置きたいとおもふそのことを

だからこんなに僕が話しても僕のこゝろがわからぬのかと言ふのだが

さよなら、 と女が言ふたんだといふやうに 

 

戀愛してゐるその間

僕は知らずにゐたんだよ

現實ごとには仰天してゐるこの僕を。


[やぶちゃん注:【2014年6月17日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」との対比検証によって注を附した初出は昭和九(一九三四)年十一月号『日本詩』(発行所は東京市神田区三崎町の「アキラ書房」)で、次の「音樂」及びずっと後に載る「立ち往生」と併せて三篇が掲載された。「定本 山之口貘詩集」では読点は除去されて字空き、最後の句点も除去されてある。バクさん、三十一歳、放浪時代の詩である(この女性は従って妻となる静江さんではない)。【二〇二四年十月十九日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

2014/02/26

献体した母の納骨された多磨霊園慶応大学医学部納骨堂――ここが僕の――おくつき――なんだなぁ……

死後、慶応大学医学部に献体した母の遺骨は多磨霊園の多磨霊園慶応大学医学部納骨堂に納められてある……

恐らく凡そ皆さんは信じられないと思うが不肖の僕は未だに母の墓参りをしていない……いや……今日まで――誰一人として母を参ってはいないのであった……

しかし今日――近くに住む私の親族から電話を貰い、話の中でその親族の墓所が多磨霊園にあること、母の遺骨がそこに祀られていることを話したところ……ついさっき早速に墓参をしたとのメールと画像を貰った……

Content

母さん……待っててね……いつかは僕もそこに一緒に入るからね…………

……誰も――僕に語る必要などなかったのだ……退屈なのは君じゃなくて――僕――だった…………

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 四 精蟲 (2)屈んだホムンクルスのいる風景

Mukasinoseisinozu
[昔の精蟲の畫]

  その後さまざまの動物の精液を調べて見ると、いずれにもかならず無數の精蟲が游いで居るので、これは偶然に入り込んだ寄生蟲ではなく、精液には必ず含まれて居る一要素であらうと考へるに至つた。動物が卵を産むことも、卵に精液が加はると卵が孵化し發育することも前からわかつて居たが、精液中に蟲の如きものが常に無數に游いで居るのを見ると、卵を孵化するに至らしめるものは精液の液體であるか、またはその中の精蟲であるかといふ疑問が生じた。そこでこの疑を解決するために、イタリヤのスパランザニといふ熱心な研究家が次の如き試驗を行つた。まづ一つの器に水を盛り、その中に雌の蛙の體内から取り出した成熟した卵を澤山に入れ、別に雄の蛙の體内から取り出した精液を濾紙で濾して精蟲を除き去つた液だけを加へて見た。所が精蟲を含んだまゝの精液を加へると卵は悉く發育して幼兒と成るが、精蟲を除いた精液を混じたのでは卵は一つも發育せず、悉くそのまゝに死んでしまつた。この實驗で、精蟲なるものは精液中の最も主要な部分で卵を孵化するに至らしめるのは全くその働によることが明になつた。精蟲のあることを知らぬ間は、子は全く卵から生ずるものの如くに思つて居た所、子の出來るには精蟲が必要であることが明になってからは、急に精蟲に重きを置くやうになり、別して獸類の如き卵の知れぬ動物に於ては、後に子となつて生まれるのは精蟲自身であると考へられ、如何なる動物でも子になるのは雄の精蟲であつて、卵の如きは單にこれにこれに滋養分を供給するに過ぎぬとの説が盛に唱へられるに至つた。即ち女の腹は畠で、男がそこへ種を蒔くものと考へたのであるが不完全な顯微鏡を用ゐ、かかる想像を逞しうして覗いたから、實際精蟲が子供の形に見えたものか、その頃の古い書物には、人間の精蟲を恰も頭の大きな赤子から細長い尾が生えて居る如き形に畫いてある。

[やぶちゃん注:ここに掲げられた知られた精子の絵は精虫論における前成説(卵などの内部には生まれて来る子の構造が既に存在しているという考え方。古くは支配的であったが十八世紀にはほぼ否定された)的主張の典型例で、オランダの科学者ニコラス・ハルトゼーカー(Hartsoeker 一六五六年~一七二五年)が唱えた精子の姿である。頭部に入っているのは錬金術でいうホムンクルス(Homunculus:ラテン語で「小人」の意)である。参照したウィキの「前成説」及び同仏文ウィキの“Théorie de la préformationには加えて、ダレンパティウス(Dalempatius 一六七〇年~一七四一年 十七世紀中葉のフランス人貴族フランソワ・ド・プランタード François de Plantade のペン・ネーム)は一六九九年に『精子の皮膜を脱いで小人が出るのを見たとの報告をしている』とある。孰れのウィキにもここで丘先生の掲げたものと殆ど同じ図が示されてある。……私は不思議にこの図を見ると妙な懐かしさとともに不思議な一抹の淋しい気持ちが過ぎるのを常としている……

「スパランザニ」イタリアの生物学者スパランツァーニ(Lazzaro Spallanzani 一七二九年~一七九九年)。スカンディアーノ生まれ。神学校を経てレッジョ大学・モデナ大学で物理学・哲学などを講じた後、パビア大学自然史学教授となった。J.T.ニーダムらの自然発生説に反対して巧妙な実験技術を駆使した自然発生否定実験を行った。また、発生学の分野においては後成説に反対して前成説に立った。ほかに血液循環やシビレエイの発電に関する生理学的研究などの多くの分野ですぐれた実験的研究を進め、十九世紀の実験生物学の先駆となったが、進化論などの自然観に関わる問題に関しては保守的で機械論的固定的な見解をとった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

耳嚢 巻之八 加川陸奧之助教歌の事

 加川陸奧之助教歌の事

 

 賀川が一族の娘、人の許に嫁(かす)と聞(きき)て、反物やうの品餞別として贈りしに添(そへ)て詠(よめ)る、

  そむくなよ人に隨ふみちのくの細布衣むねあはずとも

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じられない。何よりこれは「卷之七 加川陸奧介娘を嫁せし時の歌の事」と重複する。あちらとは加川自身の娘への教訓歌である点と、和歌が、

 

  わするなと人にしたがふみちの奧のけふの細布むねあわずとも

 

と第一句と下句に微細な表現差があるのみである。しかも鈴木氏は第一句を「わするなよ」の誤りかとするから、

 

  わするなよ人にしたがふみちの奧のけふの細布むねあわずとも

 

でますます酷似し、しかも岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の巻の七の当該条では、

 

  忘るなよ人に從ふみちのくのけふの細布(ほそぬの)むねあわずとも

 

とあるのである。根岸センセ! また、やらかっしゃいました! 十巻千話に偽りありですぞ! 以下、注も基本、「卷之七 加川陸奧介娘を嫁せし時の歌の事」に譲る。

・「細布衣」は「ほそぬのごろも」と読む。「細布」に同じ。「卷之七 加川陸奧介娘を嫁せし時の歌の事」の同歌の私の注を参照のこと。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 加川陸奧之助殿の教訓歌の事

 

 賀川殿の一族の娘が、人のもとに嫁すと聞きて、反物のようなる品を餞別として贈られたが、それに添えて詠める歌、

 

  そむくなよ人に随ふみちのくの細布衣むねあはずとも

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 森戸川

    ●森戸川

源を葉山村字長柄に發し、堀内に至り龜井戸川の稱を得、又木の下川とも呼ぶ、森戸より海に注ぐ、川幅源五間、末流十四間。

[やぶちゃん注:サイト「水の旅」内に地図入りの完全な河口から源流までの決定版ともいうべき三浦半島を縦断する森戸川探訪があり、文句なしの圧巻。また、なずな氏のサイト「花の家」内に「森戸川源流」という上流部分、現在の長柄(ながえ)交差点から水源域までをフォトで辿れるページがある。源流域は予想外になかなかの自然である。

「五間」約九・一メートル。

「十四間」約二五・五メートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 24 花市の花掛け

M324
図―324
 

 六月十五日。大学から遠からぬ、ある寺院で花市が開かれた。道路の両側には、あらゆる種塀の玩具や、子供の花かんざしや、砂糖菓子や菓子を売る、小さな一時的の小屋が立並び、道路はあらゆる種類の花の束や、かたまりで、殆どふさがっていた。機嫌のよい群衆が、あっちへ行ったりこつちへ来たりしていたが、人力車を下りて歩き出したジョンには、日本人の老幼が群をなして、感嘆しながらついて来た。ある小屋には木を植えた小さな植木鉢と、紙片を書いた物とがある懸垂装置があった。この品は高さ三フィートばかり、不規則な輪郭の薄い木の板で出来ていて、それに小さな楯を支持する枝が固着してある。如何なる叙述よりも、図324の方がよく判るであろう。木材は熱で褐色にしてあり、古そうに見えた。

[やぶちゃん注:「三フィート」約九十一センチメートル。]

中島敦 南洋日記 一月十九日

        一月十九日(月) マルキョク

 終日、東の烈風。ウバルトを旅行中荷物擔ぎに連れ行かんとオイカワサンに(海邊のアバイにて)交渉せしも成立せず。但し、村から村へと順送りに何とか荷物を送る世話をしようといふ、些か失望。八時半、土方氏と、家の前の大甃路を西に上る。新しきアバイ。中に入りて見る。コロールのそれよりも大分安手に出來居れり。たゞ、此のアバイを中心とせる舊マルキョク盛時の諸遺跡、酋長會議席、その他の宏壯なる、頗る觀るに足る。殊に縱横に通ぜる大敷石造は最もマルキョク酋長往時の威權を想望せしむべし。熱帶の巨樹鬱々。芋田所々。熔樹。昔の家趾の前を多く通りて海岸通に出づ。公學校を訪ぬ。庭前のタマナ、ヨウジュ・アミーアの相倚り立てる巨木見事なり。

 バナナを喰ひつゝ森校長と語る。十一時辭去。海沿に歸る。午後リーフの干潟に、(hi’)nll 蟲を(枕蟲)採らんとて降立つ。巨いなる蚯蚓の如き醜怪なる生物なり。土方氏とウルポサン部落へ散歩。ウルトイ島。ボートハウス。潮招き。宿かり。海鳥。タマナの大木。芝生。エラケツ(島民鍛冶屋)の家。石甃路を辿り山路傳ひに歸る。芋田。老婆。家趾のビンロージ。赭山路の眺望。カイシャル水道。搦手よりマルキョクに入る。樹下石上に晝寐せる女。一軒の家に立寄る。老爺一人。少女二人。赤ん坊に乳をふくませをる若き細君の顏。妙に煽情的なる所あり。パイプ(竹)を創る土方氏。歸つて晝寐。五時頃又、土方氏と外出。オルケョク(マルケョク始祖の石像)を見る。ゲルボーソコの家に行き揚魚と薯の馳走になる。歸途、森校長の所に寄り明日のサンパンのことを賴む。七時歸宅。新月の細きを見る。夜又、燈火の下にウバル等と語る。

[やぶちゃん注:「アバイ」パラオの伝統的建築物バイ(Bai)。「アバイ」ともいう。参照したウィキ「バイ」によれば、『釘やネジを用いない建築物で、二等辺三角形の草葺屋根が特徴的である。正面の三角形の壁面(日本建築でいうところの破風)には、パラオに代々伝わる物語が彫刻や絵で描かれている。このバイの彫刻技法を後世に残すべく考案されたのが、現在パラオの民芸品として知られているストーリーボードである』。『2種類のバイがあり、「酋長用のバイ」と「集会用のバイ」がある。酋長用のバイは女人禁制で、酋長クラスの身分の高い男性専用の施設である。集会用のバイでは、年長者が年少者に生活の様々な知恵を授ける一種の学校のような役割を果たしていた』。『かつてはパラオのあらゆる集落に存在していたが、19世紀後半より徐々に減り始め、太平洋戦争の戦火で大幅に激減した。最近ではパラオ文化の再評価に伴い、徐々に復興されつつある。現存する最古のバイはアイライ州にあるバイで1890年頃に建てられた』とある。リンク先ではベラウ国立博物館の敷地に伝統的技法を再現して建てられた観光客向けのバイの建造風景を撮った多くの写真が見られる。

「熔樹」「ヨウジュ」既注。沖繩でお馴染みのガジュマルのこと。イラクサ目クワ科イチジク属ベンガルボダイジュ Ficus bengalensis。インド原産で高さは三〇メートルにも達する。樹冠部は大きく広がって横に伸びた枝から多くの気根を出す。果実は小形の無花果状で赤熟する。インドでは聖樹とされる。バニヤン・バンヤン(banyan)ともいう。

「アミーア」不詳。識者の御教授を乞う。これは単なる直感に過ぎないのであるが、南洋熱帯の巨木というとアオイ目アオイ科サキシマスオウノキ Heritiera littoralis が思い浮かぶ。この属名を凝っと見ていたら、ふと、これが「アーリア」ではなかろうか、と思ったものである。ラテン語の“H”は発音しないから、これは「エリティエラ」であろう、すると「エーテーラ」……「アーリア」に何となく似ている気がするのである。現地ではサキシマスオウノキが用材(ウィキの「サキシマスオウノキによれば、沖繩では『かつてこの板根を切り出してそのまま船(サバニ)の舵として使用した。樹皮は染料、薬用として利用される』とある)がとして取引されいるが、この属名がそのままパプア・ニューギニアの木材取引名として使われていると平井信二氏の「樹木と木材の研究」のサキシマスオウノキにある。

「(hi’)nll 蟲」「枕蟲」不詳。残念! 環形動物門多毛綱遊在目イソメ科イソメ目イワムシMarphysa sanguinea か若しくはユムシ動物門ユムシ目ユムシ科ユムシ Urechis unicinctus か? 「枕蟲」という名と「巨いなる蚯蚓の如き醜怪なる生物」という表現、どうもこれを食用としている風がある点(ユムシはかつては日本でも沿岸域でよく食べられ、朝鮮や中国では現在でも普通に食材とされる。私も刺身で食べたが非常に旨いものである。但し、イワムシ食も本邦の山口県宇部市に例がある。嘘だと思われる方は私の博物学古記録翻刻訳注 ■9 “JAPAN DAY BY DAY” BY EDWARD S. MORSE  “CHAPTER XII YEZO, THE NORTHERN ISLAND に現われたるエラコの記載 / モース先生が小樽で大皿山盛り一杯ペロリと平らげたゴカイ(!)を同定する!をお読みあれ)からはユムシ Urechis unicinctus の類ではないかと想像する。

「ゲルボーソコ」不詳。現地人の名か?

「サンパン」サンパン(広東語の「舢舨」。英語:Sampan)は中国南部や東南アジアで使用される平底の木造船の一種を指す語であろう。ウィキサンパンによれば、『港や川岸から比較的低速、安全に人や少量の荷物を輸送するのに適した形状に作られた、全長』五メートル『程度の小型船である。現在は香港や広東省の漁村でよく目にし、湾内でいわゆる水上タクシーとして客を対岸、水上レストラン、釣り場などに輸送したり、湾内観光などに用いられている』。『ほかに、台湾の台南やマレーシア、インドネシア、ベトナムなど東南アジアの華僑・華人が多い漁港などでも使用されている』。『従来は、船尾に取り付けた』二~三メートルほどの『艪を手で操って進ませていたが、現在はエンジンを備えて、ある程度のスピードを出せるようになっている。また、木造にかぎらず、FRP(ガラス繊維強化不飽和ポリエステル樹脂)製のものも作られている』。『また、従来はかまぼこ型の低い屋根を備えていたものが多かったが、現在は周りの見通しが利く、比較的高いテント屋根を備えているものに変わっている』とあり、さらに『中国との交流が盛んであった明治時代の長崎県長崎市でも小型の通船をサンパンと呼んでいた。黒船に似た屋形を供え、舳先はとがって中国船のように彩色されていた。当地では深堀領主の発明と伝えられていた』ともある。]

「中島敦 南洋日記 十二月二十一日」の「マリヤ」の注を大幅追加リロード

「中島敦 南洋日記 十二月二十一日」の「マリヤ」の注を大幅に追加してリロードした。

この習作「マリヤン」は近い将来、全文(別稿・草稿ともに)電子化する予定である。

飯田蛇笏 靈芝 大正七年(五句)

   大正七年(五句)

 

萬歳にたわめる藪や夕渡舟

 

[やぶちゃん注:「山廬集」では、

 

 萬歳にたわめる藪や夕渡し

 

とあることから「夕渡舟」は「ゆふわたし」と読んでいるととってよい。]

 

花火見や風情こゞみて舟の妻

 

つまだちて草鞋新たや露の橋

 

秋草や濡れていろめく籠の中

 

うらうらと旭いづる霜の林かな

 

[やぶちゃん注:底本では「うらうら」の後半は踊り字「〱」。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(6)

その香ゆへにその花ゆへに人は老を

泣きぬ泣かれぬ濃きべにつばき

 

[やぶちゃん注:二箇所の「ゆへ」はママ。朔太郎満十七歳の時の、『文庫』第二十四巻第六号・明治三六(一九〇三)年十二月に「上毛 萩原美棹」の名義で掲載された十四首の第二首目、

 その香ゆゑにその花ゆゑに、人は老を、泣きぬ泣かれぬ、こき紅(べに)椿。

の表記違いの相同歌。]

 

瑠璃鳥(るりとり)の鳴けば朝雲さむうして

人とすなほに別れける哉

 

[やぶちゃん注:原本は「瑠璃鳥」を「瑠理鳥」とするが誤字と断じて訂した。底本校訂本文も「瑠璃鳥」とする。こちらは、朔太郎満十七歳の時の、『明星』卯年第十二号・明治三六(一九〇三)年十二月の「金鷄」欄に「萩原美棹(上野)」の名義で掲載された四首の第二首目、

 ひよ鳥の啼くや朝雲寒うして人とすなほに別れけるかな

の類型歌。]

 

抱きては交互(かたみ)に泣きし日もありき

世にそむきしも何日の二人ぞ

 

野に見るは泣くによろしき秋の雨

こし路戀路の思ひ出ぐさよ

 

相(あひ)似たる人か木精(こだま)かひそみきて

呼べは應ふる日なるに似たり

 

[やぶちゃん注:「呼べは」はママ。前と同じ『明星』卯年第十二号・明治三六(一九〇三)年十二月の「金鷄」欄に「萩原美棹(上野)」の名義で掲載された四首の内の巻頭の、

 相似たる人か木精(こだま)かひそみきて呼べは應(こた)ふる日なるが如し

の類型歌。]

 

たゞきくは人の泣く聲むせぶ聲

陰魔地を這ふこがらしの風

 

手をあげて招けば肥えし野の牛も

來りぬ寄りぬ何を語らむ

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十七歳の時の、『明星』辰年第六号(明治三七(一九〇四)年六月発行)の「鳴潮」欄に「萩原美棹」の名義で掲載された六首の第五首目、

 手をあげて招けば肥えし野の牛も來りぬよりぬ何を語らむ

の表記違いの相同歌。]

 

おとなしう涙ぬぐひてあればとて

十九の春はくれであらめや

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十七歳の時の、『坂東太郎』第三十九号(明治三七(一九〇四)年七月発行)に掲載された「夏衣」八首の四首目、

 音なしう涙おさへてあればとて春の光はくれであらめや。

の類型歌であるが、本歌の方がいい。]

杉田久女句集 82 麥湯湧かしくど日もすがら松の根に

  櫓山臨海學校 一句

麥湯湧かしくど日もすがら松の根に

 

[やぶちゃん注:橋本豊次郎・多佳子夫妻の別荘櫓山(ろざん)荘(現在の小倉北区中井浜。「櫓山」は地名としては「やぐらやま」と読む。江戸時代、この一帯は筑前と豊前の国境近くで海に突き出た地形から「堺鼻」と呼ばれ、この小山には小倉藩見張番所があった)の敷地内にあった広場ではしばしば林間学校や催しが行われた。北家登巳氏のサイト「北九州のあれこれ」の櫓山荘跡を参照されたい。]

橋本多佳子句集「海燕」昭和十五年 南紀

 南紀

 

貝ひかり冬の薊の濃きを得ぬ

 

わが眉に冬濤崇(たか)く迫り來る

 

冬濤のうちし響きに身を衝たる

 

子が驅り吾驅り北風(きた)の波うてり

 

眞夜の雛われ枕燈(まくらび)をひくゝとぼし

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。]

 

女(め)の雛描かれて男の袖に倚り

 

[やぶちゃん注:この句では「雛」は「ひひな/ひいな」と読んでいよう。]

篠原鳳作句集 昭和七(一九三二)年三月

岩の上にロープ干しあるキヤンプかな

 

冬木影道に敷きゐるばかりなり

 

坐らんとすれば露けきほとりかな

 

[やぶちゃん注:以上三句は三月の発表句。]

マンネリズムの原因   山之口貘

 

   マンネリズムの原因

 

子の親らが

產むならちやんと產むつもりで

產むぞ、 といふやうに一言の意志を傳へる仕掛の機械

親の子らが

生れるのが嫌なら

嫌です、 といふやうに一言の意見を傳へる仕掛の機械

そんな機械が地球の上には缺けてゐる

うちみたところ

飛行機やマルキシズムの配置のあるあたりたしかに華やかではあるんだが

人類くさい文化なのである

遠慮のないところ

交接が、 親子の間にものを言はせる仕掛になつてはゐないんだから

地球の上ではマンネリズムがもんどりうつてゐる

それみろ

生れるんだから生きたり

生きるんだから產んだり

 

[やぶちゃん注:【2014年6月16日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」との対比検証により、注を附した】初出は昭和九(一九三四)年九月号『日本歌人』(発行は大阪天王寺の日本歌人発行所。これは同年六月に奈良在住の歌人前川佐美雄が創刊した歌誌で、後に塚本邦雄ら前衛歌人を輩出した)。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題によると、掲載された当該号の総タイトルは『人類』であるとする。

 初めの部分でインスパイアされている芥川龍之介の「河童」は、本詩発表に先立つ五年前、龍之介が自死する四か月前の昭和二(一九二七)年三月発行の『改造』に発表されている。

 「定本 山之口貘詩集」では三箇所ある読点が、総て、除去されて字空きとなり、さらに後ろから四行目の、

 

地球の上ではマンネリズムがもんどりうつてゐる

 

が、

 

地球の上がマンネリズムである

 

と大きく改稿されている(この異同は旧全集の校異一覧には漏れており、新全集との対比検証で初めて明らかとなったものである)。コーダの「それみろ/生れるんだから生きたり/生きるんだから產んだり」の畳み掛けによる連用中止で裁ち切るという大胆な手法のリズム感からいうと、私は初出の「地球の上ではマンネリズムがもんどりうつてゐる」という執拗な膨張感の方が遙かによいと感じている。【二〇二四年十月十九日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

新発見のバクさんの児童詩  キカンシャ   山之口貘

「山之口貘の児童詩確認 米プランゲ文庫、1947年雑誌掲載」(2010年10月25日附「琉球新報」記事)

『これまで作品名のみ知られていたが、このほど至学館大学の齋木喜美子教授(児童文学)が原本を確認、内容が初めて明らかになった。同作品の複写は、県立図書館開館100周年を記念して11月1日に開設する山之口貘文庫の資料として収められる予定。貘の子ども向け詩作品は極めて少なく、今回の発見は児童文学分野で貘研究の深化につながりそうだ』。これは『占領期日本の雑誌や新聞を収蔵する米国メリーランド大学のプランゲ文庫所蔵の児童雑誌「こどものまど」6月号(1947年5月発行)』から発見された詩で淀井敏夫氏の機関車のカラー挿絵附き。『これまで「占領期新聞・雑誌記事情報データベース」に作品名と著者名のみが紹介されていた。雑誌の表紙に検閲番号が書かれている。データベースに2巻5号と記載されていたが、実際は2巻2号であったことも分かった』。『同作品について、山之口貘研究者の松下博文筑紫女学園大学教授は「貘さんの詩でカタカナ書きのものはこれまで、戦時中に書いた『アカイマルイシルシ』『オホゾラノハナ』の二つしかなかった。これらが日の丸や落下傘を隠喩(いんゆ)化したくぐまった形の児童詩であるのに対し、『キカンシャ』は非常におおらかで力強い。戦後復興のけん引力になるような形の書き方をしている」と語る』。『齋木教授は「これまで山之口貘の作品に対する関心は大人を対象としたものに限られ、児童文学については関心が低かった。これを機に貘の児童文学にも関心が高まるとうれしい」と話している』(高良由加利氏の上記記事より抜粋)。

以下、同記事に掲載された山之口貘作「キカンシャ」――



 キカンシャ
    山之口 貘
オトナノ
キカンシヤ
オオキナ
オカオ ダ
ハコニ
イツパイ
ミンナヲ ノセテ
ツヨイ
チカラ ダ
オトナノ
 キカンシヤ
テツノ
オカオ ダ
オオキナ
オカオ ダ

食ひそこなつた僕   山之口貘

 

   食ひそこなつた僕

 

僕は、何を食ひそこなつたのか! 

 

親兄弟を食ひつぶしたのである

女を食ひ倒したのである

僕をまるのみしたのである 

 

どうせ生きたい僕なんだから何を食つても生きるんだが

食へば何を食つても足りないのか

いまでは空に脊を向けて

物理の世界に住んでゐる

泥にまみれた地球をかじつてゐる 

 

地球を食つても足りなくなつたらそのときは

風や年の類でもなめながら

ひとり、 宇宙に居のこるつもりでゐるんだよ

 

[やぶちゃん注:【2014年6月14日追記:ミス・タイプを補正し、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により注を附した】初出は昭和一〇(一九三五)年九月号『行動』(紀伊国屋出版部発行)に後の「光線」と同時掲載され、二年後の一九三七年十月八日附『琉球新報』に『山之口バク詩集より』として再掲されているが、この時未だ処女詩集「思辨の苑」は刊行されていないから、これは未刊詩集からという謂いになる(同詩集の刊行は翌一九三八年八月)。「定本 山之口貘詩集」では、

 

   食ひそこなつた僕

 

僕は、何を食ひそこなつたのか!

 

親兄弟を食ひつぶしたのである

女を食ひ倒したのである

僕をまるのみしたのである

どうせ生きたい僕なんだから何を食つても生きるんだが

食へば何を食つても足りないのか

いまでは空に脊を向けて

物理の世界に住んでゐる

泥にまみれた地球をかじつてゐる

 

地球を食つても足りなくなつたらそのときは

風や年の類でもなめながら

ひとり 宇宙に居のこるつもりでゐるんだよ

 

と、第一連と第二連が繋がって、最終行の読点が除去されている。【二〇二四年十月十八日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

存在   山之口貘

 

   存 在

 

僕らが僕々言つてゐる

その僕とは、 僕なのか

僕が、 その僕なのか

僕が僕だつて、 僕が僕なら、 僕だつて僕なのか

僕である僕とは

僕であるより外には仕方のない僕なのか

おもふにそれはである

僕のことなんか

僕にきいてはくどくなるだけである

 

なんとなればそれがである

見さへすれば直ぐにも解る僕なんだが

僕を見るにはそれもまた

もう一𢌞はりだ

社會のあたりを𢌞はつて來いと言ひたくなる。

 

[やぶちゃん注:初出は一応、昭和一一(一九三六)年五月号『現代詩』であるが、この雑誌は詳細が不詳である(参考データは思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題に載るので参照されたい)。

 原書房刊「定本山之口貘詩集」では十四行目が、

 

もう一𢌞りだ

 

に、十五行目が、

 

社會のあたりを𢌞つて來いと言ひたくなる。

 

に改稿されており、総ての句読点が除去されている。【2014年6月14日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証し、注の一部を改稿した。【二〇二四年十月十八日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

2014/02/25

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 森戸の浦

    ●森戸の浦

西岸堀内海濱の總稱にして前は相模灘を隔てゝ遙かに伊豆の翠黛を相對し、海上數町の處には名島の小島嶼(せうとうしよ)點在し、富岳函嶺悉く眉宇の間に集まり、風光絶佳、個人の咏歌多し、海水浴場の設けあり、舟を浮べて棹(さをさ)すに、危巖潮痕斑らに、亂礁欹つ處石門を形(な)し、巨浪常に其窩を洗ひ、鱗族(りんぞく)簸弄(ひろう)せられて潑溂たるも快。

[やぶちゃん注:何だか小難しい漢語を連ねた妙に気張った文体である。ヘン。何度か訪れたことがあるが(一度は同僚の手伝いで正式許可を受けた上での「生物」の授業の人工放精実験用のウニ採取のために深夜に行った)、現在は後の関東大震災による隆起と戦後の海岸部の開発で、この頃と比べるとかなり変容してしまったと考えた方がよい。

「名島」「なしま」と読む。後掲される。

「數町」一町は約一〇九メートル。名島は約七〇〇メートル沖にある。

「函嶺」箱根の旧別称。

「眉宇」は「びう」で、「宇」は軒(のき)、眉(まゆ)を目の軒と見立てた謂いで、眉の辺り又は眉を指す。

「欹つ」は「そばだつ」と訓ずる。

「簸弄」の読みは「はろう」が正しい。もてあそぶの意。

「潑溂」ここでは、魚の生き生きと飛び跳ねるさまの謂い。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 23 日本料理屋での晩餐と芸妓の歌舞音曲そして目くるめく奇術師の妙技

M320
図―320

 晩方早く、日本の料理屋へ食事に来ないかという招待には、よろこんで応じた。我々は二階へ通され、部屋部屋の単純な美と清潔とを、目撃する機会を得た。このホテルは(若しホテルといい得るならば)、東京の、非常に人家の密集した部分にあるのだが、それでも庭をつくる余地はあった。その庭には、まるで天然の石陂(いあわだな)がとび出したのかと思われる程、セメントで密着させた、大きな岩石の堆積があった(図320)。その上には美しい羊歯(しだ)や躑躅(つつじ)が一面に生え、天辺(てっぺん)には枝ぶりの面白い、やせた松が一本生えていた。岩には洞穴があり、その入口の前には小さな池があった。我々以外はすべて日本人で、その殆ど全部が知人だったが、幸福な愉快な人々ばかり。私の小さな伜と、誰かしら絶えず跳ね廻っていない時は無かった位である。日本人の教授の外に、新聞記者が一人いたが、彼は気高い立派な人であった。彼等は皆和服を着ていた。これは彼等にとっては、洋服よりも遠かに美しい。服部氏は夫人を、江木、井上両氏は母堂を同伴された。

[やぶちゃん注:「石陂」音「せきは」で原文は“ledge”。「陂」は坂・堤の他に岸の意があり(現代中国語では他に池塘の意がある)、石川氏はそうした突出した崖、切岸の謂いで用いているようである。翻って英語の“ledge”はというと、壁や窓から突き出た棚、岩壁側面や特に岸に近い海中の岩棚の意である。

「服部」法理文三学部綜理補(予備門主幹兼任)服部一三。既注。

「江木」東京大学予備門英語教諭江木高遠。既注。

「井上」東京大学法学部教授(イギリス法律学担当)井上良一。既注。]

M321

図―321 

 正餐の前にお茶と、寒天質の物にかこまれた美味な糖菓とが持ち出され、後者を食う為の、先端の鋭い棒も出された。床には四角な、莚に似た布団が一列に並べられ、その一枚一枚の前には、四角いヒバチが置かれた。布団は夏は藁で出来ているが、冬のは布製で綿がつめてある。食事は素晴しく、私も追追日本の食物に慣れて来る。私は砂糖で煮た百合の球根と、塩にした薑(しょうが)の若芽とを思い出す。日本のヴェルミセリを盛った巨大な皿が出て、これは銘々自分の分を取って廻した。蕪の一種を薄く切ってつくった、大きな彩色した花は、非常に自然に見えたので、私はそれを真正の花に違いないと思った(図321)。日本人は食卓の為のこのような装飾的な細工を考え出して、彼等の芸術的技巧を示す。彼等の食物は常にこのもしい有様で給仕され、町で行商される食物にさえも、同様な芸術があらわれている。

[やぶちゃん注:この献立は前のものに比べて不思議に同定がし易い。

「寒天質の物にかこまれた美味な糖菓とが持ち出され、後者を食う為の、先端の鋭い棒も出された」羊羹とおそらくはクロモジの楊枝である。

「塩にした薑の若芽」矢生姜(はじかみ)。

「日本のヴェルミセリ」原文“Japanese vermicelli”。「ヴエルミセリ」は底本では直下に石川氏の『〔西洋索麪(そうめん)〕』という割注が入る。「麪」は「麺」に同じで、「索麪」は素麺・索麺と同義。「“vermicelli”イタリア語語源の英語で、一般には「バーミチェリ」「バーミセリ」と表記し、所謂、通常のスパゲッティよりも細いパスタのこと。イタリア語の原義は「細長い虫」。]

M322

図―322 

 食事中、三味線を持った娘が二人と、変な形の太鼓を持った、より若くて、奇麗な着物を着たのが二人と、出現した。一人は砂時計の形をした太鼓を二つ持ち、その一つを左の腋にはさみ、他は左手で締め紐を持って、右肩にのせた。この二つを、右手で、代る代るたたくのだが、それは手の腹で辺を打ち、指が面皮に跳ね当るのである。音は各違っていた。別の娘の太鼓は我々のと同じ形で、写生図(図322)にあるように、傾斜して置かれた。これは丸い棒で叩く。彼等は深くお辞儀をしてやり始め、私が生れて初めて聞いたような、変な、そしてまるで底知れぬ音楽をした。三味線を持った二人は、低い哀訴するような声で歌い、太鼓がかりは時々、非常に小さな赤坊が出すような、短いキーキー声と諸共に、太鼓を鳴らした。この歌が終ると、小さい方の二人が姿態舞踊をやった。ある種の姿勢と表情からして、ジョンはこの二人を誇りがましいと考えた。時々彼等が、特に人を莫迦にしたような顔をしたからである。美麗な衣装と、優雅な運動とを伴うこの演技は、すべて実に興味が探かったが、我々は彼等がやっている話の筋を知らず、また動作の大部分が因襲的なので、何が何だか一向判らなかった。舟を漕いだり、泳いだり、刀で斬ったりすることを暗示するような身振もあった。彼等が扇子をひねくり廻す方法の、多種多様なことは目についた。これが済むと、三つにはなっていないらしい、非常に可愛らしくて清潔な女の子が二人、この上もなく愛くるしい様子をして、我々の方へやって来た。ジョンは彼等に近づこうとしたが、彼等は薄い色の捲毛を持った小さな男の子が現れたので吃驚仰天し、そろってワーツと泣き出して了い、とうとう向うへ連れて行かれて、いろいろとなだめすかされるに至った。

[やぶちゃん注:芸者遊びをしたことがない私にはこれらの舞踊を同定出来ない。通人の御教授を乞いたい。

「砂時計の形をした太鼓を二つ」図で分かるように一つが小鼓で、もう一つが大鼓。

「ある種の姿勢と表情からして、ジョンはこの二人を誇りがましいと考えた。時々彼等が、特に人を莫迦にしたような顔をしたからである」原文“From certain attitudes and expressions John thought they felt proud ; for at times they would make a peculiarly contemptuous sort of face.”。“proud”は「尊大な」という訳の方がしっくりくる気がする。これは芸妓の舞踊の見えを切る型を指しているように思われるが、誇り高い江戸以来の芸者気質をも伝えて、これはこれでいい感じである。

「三つにはなっていないらしい、非常に可愛らしくて清潔な女の子」芸妓附きの禿(かむろ/かぶろ)と思われるが、「三つにはなっていないらしい」という推測はやや若過ぎる気がする。]

M323

図―323 

 次に我々は、手品を見せて貰った。最初男の子が、この演技に使用する各種の道具を持って、入って来た。彼は舞台で下廻がかぶるような、黒いレースの頭覆いの、肩の下まで来るのをかぶっていた。次に出て来たのは手品師で、年の頃五十、これからやることを述べ立てて、長広舌をふるった。そこで彼は箸二本を、畳の上のすこしへだたった場所へ置き、しばらくの間それを踊らせたり、はね廻らせたりした。続いて婦人用の長い頭髪ピンを借り、それも同様に踊らせたあげく、今度は私の葉巻用パイプを借りて、それをピョンピョンさせた。彼は紙をまるめて、粗雑に蝶々の形にし、手に持った扇であおいで空中に舞わせ、もう一つ蝶をつくり、両方とも舞わせ、それ等を頭の上の箱にとまらせさえした。勿論これ等の品は、極めて細い綿糸で結んであるのだが、糸は見えず、手際はすこぶるあざやかだった。手品の多くは純然たる手技で、例えば例の蝶の一つをとってそれをまるめ、片手に持った扇で風を送って、紙玉から何百という小紙片を部屋中にまき散した如き、手を一振振って、十数条の長い紙のリボンを投げ出し、それを片手で、いくつかの花絲にまとめて火をつけると、熖々たる塊の中から、突如大きな傘が開いた如き、いずれもそれである。これ等の芸は、すべて非常な速度と、巧妙さとで行われた。その後彼は我々の近くへ来て、色な品物を神秘的に消失させたり、その他の手技を演じたりした。日本人は実に楽しそうだった。彼等は子供のように、心からそれを楽しみ、大声で笑ったりした。引き続いて、井上氏が簡単に歓迎の辞を述べ、私は謝辞を述べねばならなかった。我々が帰宅したのは真夜中に近く、子供達は疲れ果て、私の頭も、その晩見た不思議な光景で、キリキリ舞いをしていた。図323は手品師の心像である。

[やぶちゃん注:「心像」は「しんぞう」で、原文は“an idea”。大まかな概念的スケッチの謂い。「心像」は“image” の訳語で「表象」「心象」又はそのまま「イメージ」で訳としてここは実に自然にはなるのだが、“image”という語は元来が過去の経験や記憶などから具体的に心の中に思い浮かべたもの、ここではそうした視覚的心像に相当するものを指すのであって、スケッチ魔のモースがその場か、あまり時間の経たぬうちにさっと描いたであろうこの図のような、彼が言う“idea”の訳語としては私には必ずしも相応しいとは思われないのである。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(5)

     白百合の君と別れし夜

     よめる

み別れに奉る夜のましろ百合

君を一人の姉とも知れな

 

君は去りぬ殘るはわれと小さき世の

月も月かは花は花かは

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十六歳の時、『文庫』第二十四巻第三号(明治三六(一九〇三)年十月発行)に「上毛 美棹」名義で掲載された九首の三首目、

 君は去りぬ殘るは吾と小さき世の月も月かは花は花かは

と分かち書きを除けば相同歌。]

 

その舟よ我等が棹にとゞめあへず

ついに空しく流れて去りにき

 

[やぶちゃん注:「ついに」はママ。]

 

大御代はこゝに美し春は戀に

かたちどられて咲く櫻花

 

足んぬ智はあへて願ふ歌の幸(さち)

來ん世思はずいらず桂も

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十七歳の時の『文庫』第二十五巻第六号(明治三七(一九〇四)年四月発行)に「上毛 萩原美棹」名義で掲載された九首の六首目、

 足んぬ智は、敢えてしねがふ歌の幸。來む世思はず、欲らず桂も。

の類型歌。]

 

才(ざえ)たらで御國はぐゝむ歌もなし

身は弱うしてよる胸もなし

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十六歳の時の、『明星』卯年第十一号・明治三六(一九〇三)年十一月号の「紗燈涼語」欄に「萩原美棹(上毛)」の名義で掲載された三首の第二首目、

 かよわくて御國(みくに)はぐくむ歌もなし身は孤獨(ひとり)にてようる胸もなし

の類型歌。]

 

この戀よ亂れて末は知らなくに

おどろにまとふ紅づたのごと

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十七歳の時の、『文庫』第二十四巻第六号・明治三六(一九〇三)年十二月に「上毛 萩原美棹」の名義で掲載された十四首の十一首目、

 この戀よ、亂れて末は知らなくに、おどろにまとふ紅づたのごと。

の表記違いの相同歌。]

 

草に伏して美しひとは泣きもやまず

別れもあへず野は暮れせまる

 

[やぶちゃん注:前歌と同じく、『文庫』第二十四巻第六号・明治三六(一九〇三)年十二月に「上毛 萩原美棹」の名義で掲載された十四首の十一首目、

 草に伏して美し人は泣きもやまず、別れもあへず、野はくれせまる。

の表記違いの相同歌。]

飯田蛇笏 靈芝 大正六年(二十五句)

   大正六年(二十五句)

 

臼音も大嶺こたふ彌生かな

 

戀ざめの詩文つゞりて彌生人

 

還俗の咎なき旅や花曇り

 

雪解や渡舟に馬のおとなしき

 

 大黑坂昌應寺、一句

 

ゆく春や僧に鳥啼く雲の中

 

[やぶちゃん注:「大黑坂」は現在の山梨県笛吹市境川町大黒坂と思われるが、「昌應寺」は恐らく同所にある甲斐百八霊場第四十四番臨済宗長国山聖応寺の誤りと思われる。]

 

梅若忌日も暮れがちの鼓かな

 

[やぶちゃん注:「梅若忌」は一般には「うめわかき」と読む。謡曲「隅田川」中の悲劇の少年梅若丸(北朝頃の京は北白川の吉田少将惟房の子であったが人買いに攫われて東国に下るも隅田川辺で病死した)の忌日とされる陰暦三月十五日(現在は四月十五日)に現在の東京都墨田区にある梅若丸由縁の天台宗梅柳山木母寺で修される。春の季語。]

 

屠所遠く見る吊り橋や竹の秋

 

  山ノ神祭典、一句

いにしへも火による神や山櫻

 

三伏の月の穢に鳴く荒鵜かな

 

[やぶちゃん注:「三伏」は「さんぷく」と読み、夏の最も暑い時期のこと。夏至後の第三の庚(かのえ)の日を「初伏」とし、第四のそれを「中伏」、立秋後の最初のそれを「末伏」と呼んでその三つを合わせていう語。]

 

笛ふいて夜凉にたへぬ盲かな

 

ながれ藻にみよし影澄む鵜舟かな

 

蚊の聲や夜深くのぞく掛け鏡

 

浮き草に間引きすてたる箒かな

 

流水にたれて蟻ゐる苺かな

 

日向葵に鑛山(やま)びとの着る派手浴衣

 

秋の晝ねむらじとねし疊かな

 

酒坐遠く灘の巨濤も秋日かな

 

森低くとゞまる月や秋の幮

 

[やぶちゃん注:「幮」は既出。「かや」と読む。]

 

灯ともして妻の瞳黑し秋の幮

 

[やぶちゃん注:「瞳」は「め」と読んでいる。「山廬集」に、

 

 灯して妻の眼黑し秋の幮

 

とある。]

 

寢てすぐに遠くよぶ婢や秋の幮

 

山蟻の雨にもゐるや女郎花

 

[やぶちゃん注:「山廬集」には、

 

 山蟻の雨にもゐるやをみなへし

 

と載る。]

 

芋の葉や孔子の教今も尚

 

[やぶちゃん注:句意不通。これはこの句が詠まれた村の名であるとか若しくは特定の風習と関わるか。識者の御教授を乞うものである。]

 

かりくらや孟春隣る月の暈

 

月入れば北斗をめぐる千鳥かな

 

  龍安寺法會

月明に高張たちぬ萩のつゆ

 

[やぶちゃん注:「高張」長い竿の先につけて高く掲げる高張提灯(たかはりぢょうちん)のことか。]

篠原鳳作句集 昭和七(一九三二)年一月から二月

昭和七(一九三二)年

 

霜圍ひされし芭蕉と日向ぼこ

 

[やぶちゃん注:一月発行の『馬酔木』発表句。前掲の前月『不知火』発表の「からからに枯れし芭蕉と日向ぼこ」の改稿かとも思われる。]

 

掃くほどのちりもなかりし御墓かな

 

西郷どんと眠りゐる墓掃きにけり

 

[やぶちゃん注:鹿児島市上竜尾町にある南洲墓地。西南戦争で戦死した西郷隆盛を始めとして二千二十三名の将士の墓が錦江湾の入口を向いて眠っている。]

 

島人や重箱さげて墓參り

 

掃苔やこごみめぐりに祖の墓

 

[やぶちゃん注:「祖」は「おや」と訓じていよう。]

 

屋根解くや誰が誰やら煤まみれ

 

[やぶちゃん注:以上六句は一月の発表句。]

 

美しき人の來てゐる展墓かな

 

[やぶちゃん注:「展墓」は「てんぼ」と読み、墓参りをすること。墓参。「展」は原義の一つ「見る」からこれ自体で「墓参りをする」の意を持つ。有季俳句では八月十三日の盂蘭盆会の墓参で秋の季語であるが、鳳作のこれは二月の発表句であり、そんな意識は毛頭ない。しかもこれは間違いなく宮古の新春の嘱目吟、参っている墓は亀甲墓で、そこに佇む美人は南国沖繩の美人(ちゅらかーぎー)でなくてはならぬ。]

 

千鳥釣る童等がいこへる礁かな

 

[やぶちゃん注:ここでの「礁」は恐らく海中の岩を指す和語で、「いくり」と訓じているものと思われる。]

 

土の上に地圖ひろげあるキヤンプかな

 

[やぶちゃん注:以上三句は二月の発表句。]

僕の詩   山之口貘

 

   僕 の 詩

 

僕の詩をみて

女が言つた 

 

ずゐぶん地球がお好きとみえる 

 

なるほど

僕の詩 ながめてゐると

五つも六つも地球がころんでくる 

 

さうして女に

僕は言つた 

 

世間はひとつの地球で間に合つても

ひとつばかりの地球では

僕の世界が廣すぎる。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一三(一九三八)年二月発行の『むらさき』であるが、本詩集の逆編年体の順列からは前後数篇の詩の初出を見ると、一見、齟齬があるように見えるが、バクさんは本詩集後記で『作品の配列を、卷尾の方から卷頭へと製作順にして置いた』とあって発表順とは述べておらず、バクさんが恐るべき長時間をかけて推敲することから、これらは確かに製作順なのである。松下氏の書誌データには『掲載誌の目次タイトルは「私の詩」。「詩」に「うた」のルビあり』とある。

 「定本 山之口貘詩集」では最終行の句点は除去されている。【2014年6月13日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証し、注を一部改稿した。【二〇二四年十月十八日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現を確認した。

橋本多佳子句集「海燕」昭和十五年 枯るる墓地

 枯るる墓地

 

わが手向冬菊の朱を地に點ず

 

閼伽の水豐かに冬の日とも思へず

 

墓地をゆき黑き手套をぬがざりき

 

[やぶちゃん注:「手套」は「しゆたう(しゅとう)」と読む。無論、手袋のこと。]

不思議をおもふ   八木重吉

たちまち この雜草の庭に ニンフが舞ひ

ヱンゼルの羽音が きわめてしづかにながれたとて

七寶莊嚴の天の蓮華が 咲きいでたとて

わたしのこころは おどろかない、

倦み つかれ さまよへる こころ

あへぎ もとめ もだへるこころ

ふしぎであらうとも うつくしく咲きいづるなら

ひたすらに わたしも 舞ひたい



[やぶちゃん注:「七寶莊嚴」は底本では「七寶壮嚴」であるが、これは誤字若しくは誤植であるから、例外的に訂した。]

杉田久女句集 81 季語嫌いの僕が敢えて評釈するとこうなるという例



寂しがる庵主とありぬ唐菖蒲

 

[やぶちゃん注:「唐菖蒲」は通常は「とうしやうぶ(とうしょうぶ)」で単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科グラジオラス属 Gladiolus に属するグラジオラス類。本邦には自生しない。オランダショウブ(阿蘭陀菖蒲)ともいう。属名はラテン語で古代ローマの「剣」の意“Gladius”(グラディウス)で葉が剣に似ることに由来するとされる。日本では明治時代に輸入されて園芸種として栽培されている。夏期七~八月にかけて開花する春植え球根として流通しているものが一般的で、晩夏の季語としている(以上はウィキの「グラジオラス」に拠る)。春咲き品種もあり、それを読んだら春であることを句や前書に記さねばならぬのを有季俳句の掟とするのなら、こんな馬鹿馬鹿しいことはない。]

 

子犬らに園めちやくちやや箒草

 

[やぶちゃん注:「箒草」は個人的には「ははきぐさ」と読みたい。ナデシコ目ヒユ科バッシア属ホウキギ Bassia scoparia。黄緑色の小花を穂状につける晩夏に合わせて季語としているが、秋の鮮やかに赤く色づく頃こそ歳時記としては相応しいように季語嫌いの私としては強く感じる。]

 

つれづれの小簾捲きあげぬ濃紫陽花

 

[やぶちゃん注:「濃紫陽花」無論、ミズキ目アジサイ科アジサイアジサイ節アジサイ亜節アジサイ Hydrangea macrophylla で濃紫陽花(こいあじさい)なる種が存在するわけではない。俳句では比較的よく見かける語であり、仲夏の季語とするらしいが、この語、一見、情緒的には響きはよいが、すこぶる非博物学的でいい加減な俳語(季語)である。その証拠にこの紫陽花の色は読者によって紫陽花の別名の文字通り、「七変化」「八仙花」「四葩変化(よひらへんげ)」することになるからである(私は鑑賞者の自在勝手でそれはそれでよいと思う人間だが伝統俳句でそんな許容は噴飯物であろう)。「万葉集」に既に現れる「味狹藍・安治佐爲」(あぢさゐ。源順(したごう)の「和名類聚抄」では「阿豆佐爲」の字を当てている)という語の語源説の有力な一つは、「あづ」(集まる)に「さあい」(真の藍色)から生まれたとすることや「赤」「紫」ではなく一般的には青や空色が「紫陽花」(但し、ウィキの「アジサイ」によれば、『日本語で漢字表記に用いられる「紫陽花」は、唐の詩人白居易が別の花、おそらくライラックに付けた名で、平安時代の学者源順がこの漢字をあてたことから誤って広まったといわれている』とある)の一般的な嘱目の色彩イメージであると考えれば、「赤」や「濃い紫」ひいては「白」を心象像に交えてはいけないことになるのであろうか? ところがそもそもが「濃」とつけるのはその発色が最も鮮烈であることを指すから、例えば久女の句としてこの句をイメージするのに「赤」をそこから排除することは私には到底あり得ない。ところが、諸記載を見るとやはり俳諧サイトでは「濃紫陽花」とは濃い青の種を指すとする見解が主流のように見受けられる。そんな最大公約数的な陳腐感覚の歳時記事大絶対主義こそ非芸術的であり非博物学的であり非科学的であると私は断ずるものである。]

 

箒目に莟をこぼす柚の樹かな

 

[やぶちゃん注:ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン属ユズ Citrus junos。五月頃に花が咲き、六~七月頃に実成、秋に黄色く色づくが、その時期で晩秋の季語とするらしい。二月末の今も私の家の下の庭には芳しい柚子の実はたわわに実っているというのに。]

 

蓮咲くや旭まだ頰に暑からず

 

[やぶちゃん注:歳時記では「蓮」は晩夏だそうである。この句は晩夏の句ではない。寧ろ「旭まだ頰に暑からず」こそが、総て季の詞ならざるものなしと喝破した芭蕉の言った優れた真正の「季の詞」というべきである。季語とは一箇の句の内的世界に於いて自然に湧き出る自然の持った本来的なパトスであると私は思っているのである。]

 

水暗し葉をぬきん出て大蓮華

 

日を遮る廣葉吹きおつ日ごと日ごと

 

汲みあてゝ花苔剝げし釣瓶かな

 

[やぶちゃん注:「花苔」(はなごけ)は仲夏の季語だそうである。無論、俳諧で用いられる「花苔」はそんな「生物種」を指しているわけではない(但し、蘚苔類ではなく地衣類に生物種としてのハナゴケ科ハナゴケ属 Cladonia rangiferina は存在する。極地及び温帯の高山帯に分布し体は灰白色、密に繰り返し分枝して長さ五センチメートル以上の樹枝状となっている。別名トナカイゴケとも。因みにこれを有季定型として詠んだ場合は「ハナゴケ」と片仮名表記した上、前書きに「Cladonia rangiferina を詠める」と記して、しかも句中には別の季語を配して初めて有季定型俳句として許されるということになる)。この「花苔」とは蘚類・苔類・ツノゴケ類(以上三類を蘚苔類とする)・地衣類から立ち上がる生殖器官としての胞子体等の視認形態(苔類では雌器床・雄器床、蘚類・地衣類では胞子嚢)の総称で、梅雨の頃に形成された白色や薄紫色のそれを「花」に見立てて言った語である。]

 

瓜一つ殘暑の草を敷き伏せし

 

[やぶちゃん注:……ああ、いいな……この句!]

2014/02/24

杉田久女句集 80 針もてばねむたきまぶた藤の雨

針もてばねむたきまぶた藤の雨

杉田久女句集 79 簀戸たてゝ棕梠の花降る一日かな

   虛子先生御來關 下ノ關にて

簀戸たてゝ棕梠の花降る一日かな

 

[やぶちゃん注:「簀戸」は「すど」で葭簀(よしず)を張った戸で、「棕櫚」とともに夏の季語である。季節と場所及び年譜の記載からは、大正八(一九一九)年五月の年譜にある『虚子先生歓迎関門俳句大会(下の関市三日会倶楽部)出席』の折りの句と思われる。久女二十九歳。]

杉田久女句集 78 葉がくれに星に風湧く槐かな

葉がくれに星に風湧く槐かな

杉田久女句集 77 茄子 牛蒡



富家の茄子我つくる茄子に負けにけり

 

月に出て水やる音す茄子畠

 

牛蒡葉に雨大粒や竿入るゝ

もうじきやってくるのは

君の退屈じゃあ――ない

僕の退屈――

僕はすっかりつまらない

あんたのそれより

遙かにつまらない――「それ」――だ……

數學   山之口貘

 

   數 學

 

安いめし屋であるとおもひながら腰を下ろしてゐると、 側にゐた靑年がこちらを降り向いたのである。 靑年は僕に酒をすゝめながら言ふのである

アナキストですか

さあ! と言ふと

コムミユニストですか

さあ! と言ふと

ナンですか

なんですか! と言ふと

あつちへ向き直る

この靑年もまた人間なのか! まるで僕までが、 なにかでなくてはならないものであるかのやうに、 なんですかと僕に言つたつて、 既に生れてしまふた僕なんだから

僕なんです

 

うそだとおもつたら

みるがよい

僕なんだからめしをくれ

僕なんだからいのちをくれ

僕なんだからくれくれいふやうにうごいてゐるんだが見えないのか!

うごいてゐるんだから

めしを食ふそのときだけのことなんだといふやうに生きてゐるんだが見えないのか!

生きてゐるんだから

反省するとめしが咽喉につかへるんだといふやうに地球を前にしてゐるこの僕なんだが見えないのか! 

 

それでもうそだと言ふのが人間なら

靑年よ

かんがへてもみるがよい

僕なんだからと言つたつて、 僕を見せるそのために死んでみせる暇などないんだから

僕だと言つても

うそだと言ふなら

神だとおもつて

かんべんするがよい 

 

僕が人類を食ふ間

ほんの地球のあるその一寸の間 

 

[やぶちゃん注:前掲の通り、初出は昭和一〇(一九三五)年二月号『文藝』(改造社)で前の「座布團」とともに総題「數學」二篇の一篇として掲載された。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では句読点が総て除去されて当該箇所は総て一字空けとなっている。

 この詩、個人的に非常に好きである。私も人生の中でこの「まるで僕までが、なにかでなくてはならないものであるかのやうに」誰も彼もから要求され、「なんですかと僕に言」われたって、「既に生れてしまふた僕なんだから/僕なんです」と答えざるを得ないではないかという違和感をずっと感じ続けてきたからである。【2014年6月13日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した。その際、注に一部追加をした。【二〇二四年十月十七日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

北條九代記 株瀨川軍 付 關東勢手賦 承久の乱【二十】――株瀬川の戦い後の幕府軍配備の一件

さる程に、東山、東海兩道の軍勢一つになりて、上りければ野も山も兵共(つはものども)充滿(みちみち)て、幾千萬とも數知らず。野上、埀井に陣を取り、爰にて軍の手賦(てくがり)をぞ致されける、「相摸守時房は、勢多へ向ひ給ふべし。供御瀨(ぐごのせ)へは、武田〔の〕五郎、宇治〔の〕渡(わたり)は武藏守泰時、一口(いもあらひ)へは毛利藏人入道、淀渡(よどのわたり)は駿河守義村向はれ候へ」とさだめられし所に、相摸守の手の者に、本間兵衞尉〔の〕忠家と云ふもの進み出でて申しけるは、「駿河守殿は惡くも討ひたまふものかな、相摸守殿の若黨等(ら)には、軍をなせそと思し候か、如何なる心にて、かくはあてがひたまふやらん」と申しければ、義村申されけるやうは、「某(それがし)當家に久しきものなり。關東より、斯樣(かやう)の事をも計(はから)ひ申せとて、上洛せしめ給ふ、我往初(そのかみ)より御大事には度々に逢うて多くの事共見置きて候。平家追討の時、關東の兵共を差上せられ候ひしに、勢多へは三河守範賴、宇治へは九郎判官義經向はせ給ひ、上下の手にて平家を追落し、軍に打勝(うちかた)せ給ひて候。是は先規(せんき)の御吉例なれば、かく手賦は致して候、軍(いくさ)せさせじとは思ふべき事にても候はず、然るを斯樣に申さるゝ條存外の至(いたり)に候。勢多へは敵の向ふまじきにて候歟。軍は何所(いづく)も嫌はず、只兵の心にあるべきものを」と申されしかば、本間は、兎角申すに及ばず、赤面して引退(ひきしりぞ)く。「用なき咎事(とがめごと)かな」と笑ふ人も多かりけり。北陸道は、小笠原〔の〕次郎を大將として、千葉介、筑後〔の〕太郎左衞門尉、中沼〔の〕五郎、伊吹七郎を差添へられ、都合一萬餘騎、小關(こぜき)より伊吹山の腰を廻り、湖水の西を近江路指して攻(せめ)上らる。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十】――株瀬川の戦い後の幕府軍配備の一件〉

「野上、埀井」美濃国不破郡野上は同郡東の垂井と同郡西の関ヶ原の間に当たる。

「供御瀨」近江国供御瀬は現在の滋賀県大津市の瀬田川筋。供御瀬とは朝廷へ献じる魚を獲る場所の意。

「一口」芋洗。現在の京都府久御山町。

「先規の御吉例」三浦義村は、頼朝卿の両弟君が挟撃して美事、平家に勝ったことを引き合いに出し、同じように義時の長子泰時とその子時氏を宇治に、義時弟時房を勢多に配して朝廷軍を挟み撃ちにすることが目出度い先例に基づくことを述べたのである。

「北陸道」この箇所、増淵氏は、『(遅れている)北陸道(の式部丞朝時しきぶのじょうともとき)の許)へ』、以下の兵を友軍として送った旨の補助訳をなさっておられる。以下の「承久記」を参照のこと。

以下、「承久記」(底本の編者番号50のパートの中ほどから最後まで)の記載。

 東海道ノ大勢一ニ成テ上リケレバ、野モ山モ兵共充滿シテ、幾千萬上京數ヲ不ㇾ知。野上・埀井ニ陣ヲ取テ、軍ノ手分ヲセラレケルハ、「相模守殿ハ勢多へ向ハセマシマシ候へ。供御ノ瀨ハ武田五郎向ハレ候へ。宇治へハ武藏守殿向ハセ給ヒ候へカシ。芋洗へハ毛利藏人入道殿向ハレ候ベシ。義村ハ淀へ罷向候ハン」ト申セバ、相模守殿ノ手者、本間兵衞尉忠家進出テ申ケルハ、「哀レ、駿河守殿ハアシウ被ㇾ申物哉。相模殿ノ若黨ニハ軍ナセソト存テ被ㇾ申候カ」。駿河守、「此事コソ心得候ハネ。義村昔ヨリ御大事ニハ度々逢テ、多ノ事共見置テ候。平家追討ノ時、關東ノ兵共被差上候ヒシニ、勢多へハ駿河守殿向ハセ御座シテ、宇治へハ九郎判官殿向ハセ給ヒ、上下ノ手ニテヲヤカタニテ、平家ノ都ヲ追落シ、輙ク軍ニ打勝セ給フ。是ハ先規モ御吉例ニテ候へバト存テコソ、加樣ニハ申候へ。爭カ軍ナセソト思ヒテ、角ハ可ㇾ申候。加樣ニ被ㇾ申條、存外ノ次第ニ候條、勢多へハ敵ノ向フマジキニテ候歟。軍ハ何クモヨモ嫌ヒ候ハジ。只兵ノ心ニゾ可ㇾ依」ト申ケレバ、本間兵衞尉、始ノ申狀ニハ由々敷聞へツレ共、兎角申ヤリタル方モナシ。武藏守安時ハ、駿河守ノ議ニ同ゼラル、時ニ、「宇治へ向ハンズルト皆人々被ㇾ向候べシ。但、式部丞北陸道へ向ヒ候シガ、道遠ク極タル難所ニテ、未著タリ共聞へ候ハズ。都へ責入ン日、一萬透テハアシカリナン。小笠原次郎殿、北陸道へ向ハセ給へ」。「長淸ハ、山道ノ惡所ニ懸テ馳上候ツル間、關太良ニテ馬共乘ツカラカシ、肩・背・膝カケ、爪カヽセテ候。又大炊渡ニテ若黨共手負セテ候へバ、叶ハジ」ト申ケレバ、武藏守、「只向ハセ給へ。勢ヲ付進ラセン」トテ、千葉介殿・筑後太郎左衞門尉・中沼五郎・伊吹七郎、是等ヲ始テ一萬騎被ㇾ添バ、小關ニ懸リテ伊吹山ノ腰ヲスギ、湖ノ頭ヲヘテ西近江、北陸道へゾ向ケル。]

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 四 精蟲 (1)レーウェンフックによる発見

     四 精蟲

Hitonoseisi
[人間の精蟲]

  卵には大きなものや小さなものがあるが、最も小さな卵でも細胞としては餘程大きい。人間の卵などは卵の中では隨分小さな方であるが、それでも肉眼で見えるから、普通の細胞が皆顯微鏡的であるのに比べると、なほ頗る大きいといはねばならぬ。されば最も小さな卵の外は昔から誰でもよく知つて居たが、その相手となるべき精蟲の方は、細胞の中でも特に小さく、且形狀も普通の細胞とは著しく違ふから、その發見せられ了解せられたのも、卵に比べて遙に新しいことである。抑々精蟲の初めて見付けられたのは、今から二百何十年か前のことで、恰もオランダ國で顯微鏡が發明せられて間もない頃とて、何でも手當たり次第に覗いて見て居る中、或る時一人の若い學生が、屠處から新しい羊の睾丸を貰うて來て、その汁を擴大して見た所が、單に濁った粘液の如くに思うて居た物の中に、小さな粒が無數に活潑に游いで居るので、大に驚いて早速師匠のレウエンフークといふ人に知らせた。この人は、水中の微生物などを顯微鏡で調べ、悉く寫生して大部な書物を著したその頃の顯微鏡學の大家であつたが、かやうなものは初めて見ること故、素よりその眞の素性を知る筈はなく、たゞ運動が活潑で、如何にも生きた動物らしく見える所から推して、これを寄生蟲と鑑定し、精液の中に棲んで居るから、「精蟲」といふ名を附けた。即ち精蟲の實物を見ることは見たが、これを「さなだむし」や「ヂストマ」などの如き偶然の寄生蟲と見做し、これが卵と相合して新な一個體を造るべき、生殖上最も重要な細胞であらうとは夢にも心附かなかつたのである。

[やぶちゃん注:「レウエンフーク」アントニ・ファン・レーウェンフック(Antonie van Leeuwenhoek 一六三二年~一七二三年)。オランダの顕微鏡学者。生れ故郷デルフトで織物商を営み、後には市の下級役人として勤めた一方、独特の構造をもった単レンズ顕微鏡を製作、原生動物・細菌・淡水性藻類等の微生物(一六七四年)及び魚類の赤血球の核(一六八二年)や横紋筋の微細構造(一六八三年)等の多数の新発見の含まれる手紙を五十年に亙ってロンドン王立協会等に書き送り続けた。中でもヒトの精子の発見(一六七七年)は精原説に物的根拠を与えた他、水中を泳ぎ廻る夥しい数の微生物の存在は当時の人々に大きな衝撃を与え、ピョートル大帝・ジェームズ二世などオランダ内外の著名人が顕微鏡を覗きにデルフトに集まったという(以上は主に平凡社「世界大百科事典」に拠る)。レーウェンフックの名は、小学校三年生の時にポール・ド・クライフの「微生物を追う人々」(成人向けの「微生物の狩人」の小学生版)を貪るように読んだ時以来、私の中の永遠の偉人の名であり続けている。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 鐙摺古城

    ●鐙摺古城

小名鐙摺にあり、海岸の孤山なり、高五六丈、山上松あり、今軍見山と云ふ、東麓(とうろく)を木戸際(ぎわ)と唱ふ、三浦義澄の城跡と云傳ふ。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字(以下のポイントでは二字)下げで、ポイントが有意に小さい。]

源平盛衰記曰、治承四年、三浦畠山小坪合戰條曰、小太郎伯父の別當に云けるは、其れには東地に懸りてアズスリに垣楯かきて待給へかし、こは究竟の小城なり敵左右になく寄かたし、義盛は平に下て戰はんに、敵弱らは兩方より差はさみ、中に取寵て畠山を討んにいと安し、若又御方弱らば義盛もアブスリに引寵て一所にて軍せんといふ、別當然べきとて、百騎を引分て後のアブスリに陣を取て、左右を見る、さる程にアブスリの城固たる三浦別當義澄爰にて待も心苦し、小坪の戰きひしきなり、つゝけ者共とて道は狹し、二騎三騎づゝ打下ける

[やぶちゃん注:「源平盛衰記」の引用は、後半部に大きな省略がある。前掲小坪」の私の注の全文引用を参照されたい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 22 塵芥車 / 金魚鉢 / インク壺

M317
図―317

 私は塵芥車に(それは手車である)、如何にも便利に、また経済的に尾板を取りつけた方法を屢々見た。それは単に一本の棒に、窓掛みたいな具合に、一枚の粗末な莚をくっつけた物で、この短いカーテンの末端は、車の尾端からたれ下り、塵芥の重量は莚を押えつけ、棒は莚が落ちることを防ぐ(図317)。称讃すべきは、この物全体の簡単と清潔とである。かくの如き簡単な実際的の装置が、屢々我々の注意を引く。屋敷の中の道路の末端で、新しい地面を地ならししている。すでに出来上った場所の上を、塵芥車を引いて行く代りに、彼等はすべてのバラ土を莚に入れ、棒にひっかけて二人で肩に担う。遠くから見ると、蟻の群みたいである。

M318
図―318

 図318は、瓢形に吹いた硝子(ガラス)器である。板にとりつけ、中に金魚が入れてあるが、花生に使用することも出来る。

M319
図―319

 学校へ通う子供達は、外国風のインク瓶に糸を結びつけ、手にぶら下げる(図319)。いろいろな小さな物品は、こんな風に、糸を結び、手を通す環をつくってはこぶ。糸は紙で出来ていて、たいてい非常に強い。紙を長い条片に切って振り、膝の上でまるめるのだが、一片一片を捩り合せる方法は、手に入ったものである。これで包をしばったりするが、我国の麻紐ほどの強さがあるらしく思われる。

中島敦 南洋日記 一月十七日

        一月十七日(土) 雨

 昨夜、熱出で、發汗數次。眠る能はず。朝に至りて未だ大いに疲る。勞しあり。リュックサックの重荷は肩に痛く、よほど、今日の出發は止めにせんかとも思ひたれども八時半過土方氏を誘うて出立。ちゝぶ丸十時出帆。かなり搖れたり。板緣の間にずつと寐たきり。カイシャルを過ぐる頃船尾に二匹の魚掛かる。鮪の類なるべし、相當の大きさなり。一時マルキョク着。雨。ビシヨ濡れになりて村吏事務所オイカワサン宅に逃げこむ。榊原氏あり。小猿。山鳩。熱又出でゝ、苦し。直ちに毛のスウェーターをまとひて横になる、夕食は名も知れぬ魚の燒きたるものなれど、うまし。夜、熱。苦し。アスピリン、テラポール服用、

[やぶちゃん注:「テラポール」現在の第一三共株式会社の第一製薬株式会社が昭和一二(一九三七)年に国産第一号サルファ剤として発売した細菌性疾患薬。国産の独創的新薬として知られる。

 同日附のたか宛葉書(旧全集「書簡Ⅰ」番号一五七)が残る。以下に示す。

   *

〇一月十七日附(消印パラオ郵便局一七・一・一七。南洋パラオ島南洋庁地方課。東京市世田谷区世田谷一ノ一二四 中島たか宛。葉書)

 今から出張旅行に出る。今度は土方さんと一緒だから樂しい。大體二週間の豫定で、月末に歸つて來る。充(じゆう)分に島民の生活を見てくる積り。久しぶりのリュックサックが大分肩にこたへる。

 十七日朝。

   *]

飯田蛇笏 靈芝 大正五年(十四句)

   大正五年(十四句)

 

春あさし饗宴の灯に果樹の靄

 

髮梳けば琴書のちりや淺き春

 

立春や朴にそゝぎて大雨やむ

 

尼の珠數を犬もくはへし彼岸かな

 

山寺の扉に雲あそぶ彼岸かな

 

  舟行、一句

ゆく春や人魚の眇(すがめ)われをみる

 

巒はれてちる花に汲む泉かな

 

百雞をはなてる神や落椿

 

[やぶちゃん注:どこかの神事のようであるが、不詳。識者の御教授を乞う。]

 

毛蟲燒く火幽し我に暮鐘鳴る

 

花桐や敷布くはへて閨の狆

 

詩にすがるわが念力や月の秋

 

[やぶちゃん注:蛇笏にしては珍しい正面切って主情を吐露した句である。]

 

甲斐の夜の富士はるかさよ秋の月

 

葬人は山邊や露の渡舟こぐ

 

稻扱くや無花果太き幹のかげ

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(4)



美しう君よそほへて船にのせて

港いづべき戀もあらぢか

 

[やぶちゃん注:「よそほへて」「あらぢか」は孰れもママ。底本の注には校訂本文でも「よそほへて」を維持し乍ら(他では歴史的仮名遣や誤字に対して鮮やかに文句なし注なしの確信犯の『補正』を英断しているにも拘わらず)、『「よそほへて」は「よそはせて」の意の誤用と思われる』という注を附すに留めている。]

 

くちなはの瞳おかしや世にはぢて

狐の如く野に迷ふわれ

 

[やぶちゃん注:「おかしや」はママ。原本では「迷ふ」は「述ふ」であるが、先行する誤字と校訂本文から訂した。]

 

かくて尚千代もあるべし世は小さう

君が胸にといたつけ白鳩

 

[やぶちゃん注:「いたつけ」は他動詞タ行下二段活用の古語「射立(いた)つ」を「射た立つく」というカ行五段活用に誤って変化させたその命令形か。――射た矢が突き立つように君の胸へと飛び込んでゆけ、白鳩よ――大方の御批判を俟つ。]

 

くらやみに動くものあり日は知らで

いたちむぐらの眞洞に似る世

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十七歳の時の、『文庫』第二十四巻第六号・明治三六(一九〇三)年十二月に「上毛 萩原美棹」の名義で掲載された十四首連作の掉尾、

 くらやみに動くものあり。日はしらで、いたち、もぐらのによべる如く。

の類型歌であるが、下句のイメージは聴覚的な唸り声から視覚的なブラック・ホールの冥界へと変じて全く異なっている。「呻吟(によ)べる」という分かり難い古語とイメージの衝突の分かり難さは解消されたものの、「世」という上位構造の比喩が明らかにされてしまい、分かりが良過ぎる優等生短歌になってしまった感がある。句読点を配した独特のリズム感覚からも先行(と考えてよい)句形を私は支持する。]

 

 

別れても人待つほどはかへり來よ

岩にせかるゝ瀧川ならぬ

 

なべて世は美くしなべてけがらはし

解(げ)しえぬものと死は迫るかな

 

[やぶちゃん注:「美くし」はママ。]

 

     時事を憤りて

ますらをはたゝず小麥は穗に笑めど

哥薩克(コサク)かへらず秋やゝたけぬ

 

[やぶちゃん注:「穗」は原本では「※」(=「禾」+「尃」)であるが、文脈から訂した。校訂本文も「穗」とする。「哥薩克(コサク)」かつてウクライナと南ロシアなどに生活していた軍事的共同体であったコサック(козак)。本「ソライロノハナ」の製作は大正二(一九一三)年四月頃で、この歌自体の「時事を憤りて」とは、ロシア帝国の革命派に対する容赦ない弾圧やロシア帝国の第一次世界大戦参戦(一九一四年)への軍靴の音を指すものか。なお、コサック軍は同大戦ではロシア騎兵団の中心を成した。後のことながら、しかしこの後の一九一七(大正六年)年のロシア革命が勃発するとウクライナ・ドン・クバーニに於いてコサック三国は独立を宣言、三国はロシア白軍及びシベリアのコサック諸軍ととともにロシア共産党及び赤軍に抵抗したが敗北、一九一八年から一九二〇年にかけてコサック階級は排除されてコサック諸軍も廃軍となった。なおこの後、裕福なコサックの一部は欧米諸国へ逃亡したが、残されたコサックは共産党による弾圧の対象となり、ソヴィエト政権はコサックの大部分とそれらの家族全員を死刑や流刑に処し、ホロドモール(Голодомо́р:一九三二年から一九三三年にかけてソビエト連邦ウクライナ社会主義ソビエト共和国・カザフスタン共和国・現ロシア連邦のクバーニ・ヴォルガ川沿岸地域・南ウラル・北シベリアなどのウクライナ人が住んでいた各地域で起こされた人工的な大飢饉。ウクライナ人たちは強制移住によって家畜や農地を奪われて、このジェノサイドによって四百万から千四百五十万人が死亡したとされる。これの大飢饉は現在、ウクライナ議会によってスターリンによる計画的な飢餓と認定されている)によって餓死させられた。このため、第二次世界大戦においてはコサック残党はドイツ軍に味方してソ連軍と戦ったが、ドイツの敗北とともにコサックは共同体としての姿を消した(ここは主にウィキのコサック」及びホロドモールに拠った)。これ以前のコサック関連の情報を私は不勉強にしてよく知らない。ここで朔太郎が憤ったコサックに関わる時事とは何だったのか? 今一つ分からぬ。識者の御教授を乞うものである。]

 

淋しけれど人は怨まじ嘆くまじ

己が世なれば瘠せもしてまし

 

[やぶちゃん注:本首も同じく朔太郎満十七歳の時の、『文庫』第二十四巻第六号・明治三六(一九〇三)年十二月に「上毛 萩原美棹」の名義で掲載された十四首連作の六首目、

 淋しけれど人は恨まじなげくまじ。おのが世なればやせもしてまし。

と表記違いの相同歌である。]

傘   山之口貘

 

   

 

あのひとはあのやうに 每日美しいのであらうか 

 

僕はさうおもつた さうしてもう一足 僕は前へ出た 

 

あのひとには 亭主があるのであらうか 

 

そのとき僕はみたのである

 

曇る空 

 

だが友よ 空が曇つて來ても氣にするな 雨にならうが泣き出すな 

 

僕でさへ 男のつもりで生きるんだから生きるつもりの男なら なほさらなんだよ元氣を出せ 

 

だつてあのひとに

 

僕を紹介したのは誰なのか。 

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一九(一九三四)年七月号『詩人時代』。

 本詩は標記通り、各行間が優位に広い。原書房刊「定本 山之口貘詩集」ではこの行空けはなくなり、七行目が、

 

僕でさへ 男のつもりで生きるんだから生きるつもりの男ならなほさらなんだよ元氣を出せ

 

とかえって読みにくく改められ、最終行の句点が除去されている。

【2014年6月10日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、注も全面改稿した。【二〇二四年十月十七日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

杉田久女句集 76 茄子もぐや天地の祕事をさゝやく蚊



茄子もぐや天地の祕事をさゝやく蚊

 

[やぶちゃん注:私偏愛の久女の句。蚊の音が気になるのはね……それは私たちの悩ましい秘め事を……私たちの耳元で囁いているからなのだった……]

橋本多佳子句集「海燕」昭和十五年 囘想の壁炉

 昭和十五年

 

 

 囘想の壁炉

 

壁の外(そと)海鳴り壁に炉がもゆる

 

壁炉もえ吾が寢る闇を朱にしたり

 

囘想の炉がもえひとを炉に映えしめ

 

筑紫なるかの炉かなしみ炉を焚ける

 

[やぶちゃん注:諸データによって櫓山荘はこの前年の昭和一四(一九三九)年まで別荘として使用されていたとあるから、この時すでに多佳子の手を離れ、売却されていたものと思われる(年譜にはそうした記載はない)。]

黎明   八木重吉

 

れいめいは さんざめいて ながれてゆく

やなぎのえだが さらりさらりと なびくとき

あれほどおもたい わたしの こころでさへ

なんとはなしに さらさらとながされてゆく

中島敦 南洋日記 補注

[やぶちゃん注:一月五日から十六日までの日記は記されていない。この間、一月七日附たか宛葉書(旧全集「書簡Ⅰ」番号一五五)と同じくたか宛の非常に長い書簡(同書簡番号一五六)が残る。以下に示す。多くの太字は底本では傍点「ヽ」(一部例外は文中で注した)。

   *

〇昭和十七年一月七日附(消印パラオ郵便局一七・一・八。南洋パラオ島南庁地方課。東京市世田谷区世田谷一の一二四 中島たか宛。葉書)

 菓子だのタオルだのパンツだの、今、着いた所。タオルもパンツも丁度ほしかつた所だが、何といつても、お菓子は有難いな。ほんたうに有難いな。今度は罐(くわん)もこはれず、カリントウもあまり濕(シメ)らず、之で、當分たんのうできる。フクちやん人形も有難う。たゞ、手紙の來ないのが物足りないな。もう五十日も、たよりを見ないわけだから。

   *

〇同年一月九日附(消印パラオ郵便局一七・一・九。杉並区神明町一一九。市内東京市世田谷区世田谷一の一二四 中島たか宛。封書)

 別に横濱東京に來てゐる譯ではないが、便宜(ベンギ)上、かう書いた迄だ。この手紙は、内地に歸る人に託(タク)して、東京か横濱でポストに入れてもらふからだ。戰爭になつてから、凡(すべ)て、南洋・内地間の手紙は、開封(カイフウ)して、中を、しらべられることになつてゐる。僕は、別に、國家の機密に關することを書きはせぬが、しかし、一家の私事を一々他人に讀まれるのはイヤだから、内地に歸る人に賴むんだよ。今は飛行便でも檢閲(ケンエツ)にひまがかかるので、一(ひと)月もかかるらしいから、恐らく十二月になつて僕の出した手紙(三四通ぐらゐ出した)も、そちらでは受取つてゐないらしいのではないかと思ふ。或は、僕がサイパンからパラオに歸つて來たことも、まだ知らないのではないか。もつともパラオから電報爲替(ガハセ)を二度送つたから、それで大抵は分つてもらへたと思ふが。パラオへ歸つて來たことを電報で打たうと思つたんだが、そんなことの(人の生死に關すること。商賣の取引に關することなら許される)電報は今の所、扱(アツカ)つてくれないんだ。仕方がなく、電報爲替を打つたわけだ。これからも電報爲替の振出(フリダシ)局の名を見て、オレのゐる所を承知してくれ。これからは先づ、パラオ以外に出ることはあるまいと思ふが。所で、十一月十日付のお前の手紙を受取つて以來、ずつと、そちらからの便(たよ)りを見てゐない。これも途中でひつかかつてゐるか、或ひはサイパンに行つてゐるのかと思ふ。どちらにしても、いづれはこちらへ着くに決(きま)つてゐるが、相當時日がかかるらしいな。

 戰爭とは言つても、こちらは至つて靜か。敵の飛行機は、一向(イツコウ)、やつて來さうもないし、全く有難い話だ。内地では相當こちらのことを心配してゐるかと思ふが、その點は安心してもらひたい。たゞ内地からの船が一向來ないので、色々不便だ。(食物その他の物資が)それで十日ばかり前の飛行便で「菓子だの、手拭(ヌグヒ)だの、海苔(ノリ)だの、新聞だのを送つてくれ。飛行便小包で。」と書いたんだが、その手紙も勿論とどかないだらうし、又、今の所、飛行便では小包を扱(アツカ)はないやうだから、話にならない。又、その手紙の中に、別に急がないが、エフェドリンが買へたら送つてくれと書いたが、その後パラオの町の或る小さな藥屋で、「喘息エキス」といふ藥が相當澤山(タクサン)見付かつた。この藥で間に合せることが出來るから、エフェドリンは當分いらないだらう。しかし、東京の町で、みつかつたら、買つておいてくれ。毎晩、管制の暗い夜がつゞくので弱る。空襲される場合のことを考へたら、ゼイタクはいへないが。窓に黑い紙をはりつけて、戸をしめて了へば、明るい電燈もつけられるんだが、内地の冬と違つて、何しろ南洋は暑くて暑くて、部屋をしめ切つては、とてもがまん出來ない。つい、部屋をあけつぱなしにして、電氣を消す、といふことになる。本も讀めないので、毎晩土方(ひぢかた)さんの所へ行つては、無駄話ばかりしてゐる。土方氏は最近獨身宿舍を出て、一軒の官舍を持つやうになつたんだ。此の間も、この家で純粹(ジユンスヰ)の島民料理を御馳走になつた。土人がこしらへたものだ。雞のむしたもの。魚の燻製(クンセイ)。タピオカ(芋(イモ)の一種)のふかしたもの。タピオカで作つたチマキ。タロ芋のゆでたもの。タピオカで團子をつくつて、椰子蜜(ヤシミツ)に漬(ツ)けたキントンみたいなもの。指でつまんでタベル。箸(ハシ)は使はない。そんな風な料理が出た。中々ウマかつたよ。土方氏の所へ集まつてくるのは、みんなカハツタ人ばかり。熱帶生物研究所の人で、鰹(カツヲ)の腦(ナウ)の中の水分の分量について、研究してゐる人や、目高(メダカ)の心臟(ツンザウ)の研究をしてゐる學者などがやつて來る。中々面白いよ。土方さんの家の屋根裏の部屋に[やぶちゃん注:「屋根裏」は底本では傍点「◎」。]、一人、面白い藝術家(工藝の方をやる人)が住んでゐる。この人と仲良くなりさうだ。この人は草花のことなんかトテモ良く知つてゐるので、話が合ふんだ。屋根裏に住んでるなんて中々いいぢやないか。

 パラオでは、毎日雨が降るんでね、カラリと地面の乾くことがない。之では喘息に良くない譯さ。内地の五月から十月迄の方が、パラオよりは、ずつと喘息に、いいよ。戰爭が終る迄喘息と戰ひながら、こんな所で頑張るのでは、身體がもつか、どうか怪(アヤ)しいから、なるべく東京出張所勤務にして貰つて、上野の國書館へ通はして貰ふやうにしようと考へてゐる。全然參考書も何もなしでは、僕の仕事は出來ないから。しかし、この時節がら、何時になつたら東京へ廻して貰へるやら見當(ケンタウ)が付かない。四五日前から、お灸(キユウ)をやつてゐる。隨分熱(アツ)いものだなあ。我慢(ガマン)して、續けてゐる。喘息には良いか、どうか分らぬが、胃には確かに效(キ)くやうだな。もつとも、食物の餘り無い此の頃、胃が良くなつて腹が空(ス)いては、實は、困るんだがね。サイパンのさつまいもとバナナとを今更戀しがつてゐる。パラオでは、サイパンみたい豐かではないからね。罐詰(かんづめ)も配給で、僕等獨身者は一つも買ふことができなくなつた。

 東京はもう隨分寒いだらうが、桓も格も元氣かしら? お前も、肩をこらしたり齒を痛くしてゐるのではないか。二學期の桓の成績が惡くつても、叱らないでやつて呉れ。學校のかはつた時は仕方のないものだから。桓のそばにゐて、色々指導(シダウ)してやりたいと思ふ。子供は叱るばかりぢや仕方がない。將來その子の性質に適した方面に伸びて行くやうに、その方に興味を持つやうに導いてやらなければならない。之はお前に出來ることではない。オレが傍にゐてやりたいと思ふよ。ノチヤスケの奴、どんな樣子をしてるかな? しよつちうお前のあとばかり迫ひかけてるんだらうなあ。晝間は、子供のことを決して考へないやうに自分を抑(オサ)へることが出來るけれど、夜中に、ひよいと目のさめた時などは、どうにもしやうがない。この手紙がお前の手に屆(とゞ)く頃には、もう春場所の相撲が始まつてゐるだらう。

 相變らず桓は一生懸命ラジオを聞いてるだらうな。オレも聞きたくてたまらぬが、パラオでは仕方がない。本郷町の家では隨分熱心に聞いたつけな。桓と相撲(スマフ)がとりたいな。格のやつは又、シコをふむ眞似(マネ)をするだらう。オレもせいぜい氣をつけて(といつても、これ以上氣を付けようが無いんだがね、喘息の起るのは土地と氣候のせゐで、本當は、どうにもならないんだ。)何とかしてさうひどく瘦(ヤ)せもせずに、お前達の所まで歸りたい(何時(イツ)になるか分らぬが)と思つてゐるから、どうか、お前たちも三人とも元氣で待つてゐておくれ。

 近い中に、パラオ本島の視察に出かけようと思つてゐる。これは一週間ぐらゐで歸つてくる。船も三時間程乘るだけだから、危險はない。

 クリスマスの日には、スペイン人の教會へ見に行つて來た。島民達が澤山集つてゐた。黑い女の子がいい着物服を着(キ)て、顏に白粉(オシロイ)(? だらうと思ふ)クリーム? を塗つてゐるのは、トテモをかしい。黑光りのする顏が、ツヤ消(ケ)しになつてゐる。それに、赤く塗つた日本の下駄をはいてゐるんだよ。妙なものさ。

 空襲のないのは有難いが、ずつとそれでも、夜の當番(外を見廻る)をチヨイチヨイしなければならない。出來るだけ身體には氣をつけるつもりだが。

 近頃は又、月がひどく明るい。霜がおりたやうにマツ白で、とてもきれいだ。椰子(ヤシ)の葉が濡(ヌ)れたやうに光つてゐて美しい。この前の手紙で注文(チユウモン)した菓子もノリも手拭も何も送るに及ばぬ。送つたつて何時こちらヘ着くか判(わか)らないものからね。それより菓子でも手に入つたら子供等にウント喰べさせてやつてくれ。

 

 河野(コウノ)の伯母樣は、その後どうしてらつしやるだらう? おとしがお年だからなあ。もう一度お目にかかり度いが、恐らく駄目だらうな。僕が、今の格ぐらゐの時分から、面倒を見ていたゞいたんだが、本當に良い伯母樣だつたなあ。僕も身體をなほして、一人前の人間としてになつて(今のままぢや、半人前にも當らない)お目にかかり度かつたが、それも到頭(トウトウ)出來ない譯だな。もう、桓が十に、格が三つか。早いものだな。綠ヶ丘の二階で桓が「オバケー」のマネをして見せたり、大きな、をかしなマントを着て歩きながら、ボタン、タクチヤンつて言つて喜んでゐたのも、つい此の間のやうな氣がするね。桓と格とが一緒に水ボウソウになつて、顏中ブツブツだらけになつたこともあつたな。格の生れる日の夜明の寒かつたこと(これはお前は、それ所ぢやなかつたから、覺(オボ)えてゐないだらうが)も思出す。あの時テイちやんは本當に良く働いてくれたなあ。お前から、ティちやんに(オレからだといつてもいい)十圓位お年玉を送つちやどうだい? おぢいちやんから格まで、みんな十圓づつだから、テイちやんも十圓でいいだらう? (この事を書いた手紙が、とゞいてゐないと困るから、又、書くよ。十二月十日にサイパンから二百圓送つたが、その中百五十圓は十二月分で、殘り五十圓は、オヂイチヤン十圓、お前十圓、澄子十圓、桓十圓、格十圓づつのお年玉のつもりなんだ。テイちやんへの十圓はお前の小遣からでも出しておいてくれ。それから、十二月十五日にパラオから三百圓(これはお前へのボーナス)、又二十三日に百五十圓(これは少し早いが一月分)送つたが、勿論、受取つたことと思ふ。

 今日は暮(くれ)の二十九日、もう三日すればお正月だが、今年は役所は、ずつと休みなしだし、それにこの暑さでは(昨日はとくべつ暑かつた。朝つぱらから九十度を越してゐるんだもの)どうしても年末の感じが出ない。それでも、僕等にも元日の朝だけはお雜煮(ゾウニ)が出るらしいぜ。毎日の飯の中に、色んな芋(イモ)がまじつてはいる。サツマ芋(イモ)のはいつてる時は、いいんだが、キャッサバといふ南洋産のまづいいものまざつてゐる時は閉口(ヘイコウ)だ。ゼイタクは此の際言へないが。オレはサツマイモが好きだから、米は足(タ)りなくても、サイパンの時のやうに、フカシイモさへ十分喰へてゐれば滿足するんだがね。普通の一軒の家ならサツマイモ位、かなり十分に廻(マハ)つてくるかも知れないのだが、獨身者の所へは何一つ配給がないので、困る。菓子なんか、くはうひたいといふ氣はもうなくなつた。そんなゼイタクは考へられないから。この一月程の間、島中どこを探(サガ)してウドンコのウの字もないんだからね。今、虎屋のヨウカンでもたべたら、却つて腹をこはすだらうと思ふ。久しく、さういふ上等な甘(アマ)さに慣(ナ)れてゐないから。今は、もう何でもいいから、分量さへたりれば、それでいいと思はねばならない。その分量が十分でないんだ

 サイパンから歸(カヘ)つて、しばらくの間、喘息の工合(グアヒ)が面白くなく、四五日缺勤(ケツキン)したが、もう、今は出てゐる。サイパンは乾(カハ)いてゐて、喘息にはごく良いんだがなあ。もう少しサイパンにゐたかつたよ。東京横濱の夏の方がパラオよりは (喘(ゼン)息に)ずつと良い。今の樣子ぢや、パラオは内地の冬とたいして變らない。イヤになつてしまふ。全くえらい目算(モクサン)違ひだつたなあ。役所での生活は相變らず、不愉快。毎日々々イヤーナ氣持バかり味ははせられてゐる。夜、土方さんの所へ行つて、お茶をのみながら、話をするのだけが唯一(たゞひと)つの樂しみさ。東京ではどうだい? 桓や格のオヤツぐらゐ手にはいるかい? まさかこちらの樣なことはないと思ふが。やつぱりお前達を一緒に連れて來ないで良かつたと思ふよ。連れて來てゐたら、子供達が可京さうなものさ。オレだけは寂(さび)しくなくて助かつたかもしれないが。

 暑いパラオの一日も、午後四時となると、さすがに少しラクになつてくる。今役所で之を書いてゐる。今ハ四時少し前、これから宿舍に歸(カヘ)つて一風呂浴(ア)びてから、夕食だ。その中に明るい(實(ジツ)に明るい)月も出てくる。南洋の月の美しさだけは見せてやりたいな。星だつて内地よりズツト明るいよ。

 この間、「野鳥(ヤチヤウ)」といふ雜誌を見てゐたら、執筆者(シツピツシヤ)の中に名古屋山嶽會の村瀬圭といふ名前が見えてゐた。お前のよくする話を思出した。成程、山の好きな人らしいね。

 萬葉集(マンエフシフ)を讀んでゐたら、「あをみづら、よさみの原」といふ言葉が出て來た。あをみといふのは碧海(アヲミ)といふこと。だから、碧海郡の依佐美の原つぱ、といふことになる。從つて、お前や桓の生れた所には、千年以上も前から碧海郡の依佐美といふ名前のついてゐたことが分る。之は一寸面白い發見だつたよ。

 

 内地からもう一(ひと)月以上も、般が來ない。(僕がサイパンから乘つてきたのは御用船(ゴヨウセン)(軍の)だから、新聞も手紙も荷物ものせて來はしない。)これからは、一月に一度どころではなく、もつと、船が來なくなるのだらう。手紙もも次第に[やぶちゃん注:太字「物」は底本では傍点「◎」。]、たまにしか來なくなるのは淋しい。僕の乘つた御用船は、もと秩父(チチブ)丸といつた今の鎌倉丸さ。一萬七千トンの豪華(ゴウクワ)船さ。その一等にのつて來たんだよ。すてきだらう? それでもね、途中に敵の潛水艦(センスヰカン)が出るかもしれないといふので、ビクビクものだつたよ。

 さて、色々書いたけれど、結局、「これからの手紙はみんな中を見られるものと思つて、餘りをかしいこと、(あまつたるいことなんか)書かないこと」「飛行便でも相當ヒマがかかること」「船便なら尚一層ヒニチがかかること」「從つて、僕の手紙も今迄のやうには頻繁(ヒンパン)には出せないが、別に心配しないで貰ひたいこと」「中をあけて、しらべられるため、僕の方でも十分に言ひたいことを言へないやうなこともあるが、それは、そちらで宜しく察して貰ひたいこと」

 以上のことを心得て貰ひたいため、わざく人に賴んで内地へ持つて行って貰ふわけだよ。これだけ書いただけでも、普通で出したら、中をしらべられたらて、破り棄てられて了つて、そちらへとゞかないだらうと思ふ。

 

 …………………………………………………………

 

◎内地から船が來ないうちに、とうとう正月になつてしまつた。おぢいちやんもお前も澄子も桓も格も、みんなお目出たう。ノチヤが三つになり桓が十になつたんだねえ。合宿でも今朝は「おぞうに」。しかし、お餅(モチ)の少ない(おまけに燒きもしない)おつゆのうすい、味のない、まづいまづいおぞうに。それが、ドンブリの中にはいつてゐる。いつもの、オレの所の、一寸ゼイタクな、お餅よりも雞や芋や大根やカマボコのタクサンはいつたおぞうにのことを考へると、ナサケナカツタ。キントンもカマボコもミカンも黑豆もゴマメも何一つ出やしない。それでも朝はまだ良かつたが、晝と夜が大變だ。元日だけは食堂の人も休ませなければならないので、晝食と夜食とは、オベンタウの折詰(ヲリヅメ)なんだが、晝飯と晩食とあはせて一食分しかゴハンもオカヅも無いんだ。つまり、オゾウニのお餅を作るために、割りあてられた米の量を使ひすぎたので、元日の晝と晩の米が足(タ)りなくなつちやつたんだらう。全くかなしい話だけど、十一時(朝のオゾウニが少いので腹が早く、へるので)頃、その折(ヲリ)づめをたべちまふと、二日の朝まで、もう何もたべるものがないんだ。お菓子一つ、ミカン一つ、つまむものもない。スキバラをかかへて、ねてゐるよりはかはない。例の杉山氏(娘を横濱の女學校にやつてゐる)の所へでも行けば、何か、タべモノにありつけるとは考へたが、何だか食物をネダリに行くのがイヤなので、やめて、ひとりで寐てゐた。やつと土方さんから救ひが來て、土方氏の親(シタ)しい或る人の家で夕食にありつけた。その家に八つと四つとになつた二人の男の子がゐた。上の子が餘り桓に似てゐるので、胸のつまる思ひがした。下の子は格よりも大分上等な顏をして、とてもカハイイ子で、アツチヤンといふ名前だ。二人の男の子を見てゐたら、妙な氣特になつてしまつた。

 

 今(一月二日午後一時)シャボンの小包がとどいた。そちらを十一月二十七日に出したやつだ。ムヤミに澤山(タクサン)シャボンを呉(ク)れたものだなあ。丁度元日に船がはいつたんだよ。内地からパラオまで船で一(ヒト)月近くかかつて、やつて來たんだ。潛水艇(センスヰテイ)の現れさうな所を避(サ)けて、大廻(マハ)りをして、とんでもない所を通つて行くもんだから、とてもヒニチがかかるんだよ。

 氷上の所からも山口君の所からも結婚の挨拶(アイサツ)狀が來た。山口君のお嫁さんは、元町の女學校の卒業生。オレも少し教へたことがあるらしいが、ハツキりおぼえてはゐない。氷上のお嫁さんは帝大(東京)教授の娘。間に立つてくれた人は三谷(ミタニ)さんといふ一高の先生。(オレや氷上がよく話をするんで、おぼえてゐないかなあ? 長谷(ハセ)川伸(シン)の生(う)みのお母さんが中々わからず、やつと見つかつたんだが、それが、この三谷さんのお母さんだつた、つていふ話を何時かオレがしたらう?)我は東、オレも南洋にゐるもんだから二度御馳走をくひはぐつたよ。山口君の方の媒杓(バイシヤク)は滋賀さん。

   *]

 

        一月十七日(土) 雨

 昨夜、熱出で、發汗數次。眠る能はず。朝に至りて未だ大いに疲る。勞しあり。リュックサックの重荷は肩に痛く、よほど、今日の出發は止めにせんかとも思ひたれども八時半過土方氏を誘うて出立。ちゝぶ丸十時出帆。かなり搖れたり。板緣の間にずつと寐たきり。カイシャルを過ぐる頃船尾に二匹の魚掛かる。鮪の類なるべし、相當の大きさなり。一時マルキョク着。雨。ビシヨ濡れになりて村吏事務所オイカワサン宅に逃げこむ。榊原氏あり。小猿。山鳩。熱又出でゝ、苦し。直ちに毛のスウェーターをまとひて横になる、夕食は名も知れぬ魚の燒きたるものなれど、うまし。夜、熱。苦し。アスピリン、テラポール服用、

[やぶちゃん注:「テラポール」現在の第一三共株式会社の第一製薬株式会社が昭和一二(一九三七)年に国産第一号サルファ剤として発売した細菌性疾患薬。国産の独創的新薬として知られる。戦中は化膿止めとして衛生兵が使用していた。

 同日附のたか宛葉書(旧全集「書簡Ⅰ」番号一五七)が残る。以下に示す。

   *

〇一月十七日附(消印パラオ郵便局一七・一・一七。南洋パラオ島南洋庁地方課。東京市世田谷区世田谷一ノ一二四 中島たか宛。葉書)

 今から出張旅行に出る。今度は土方さんと一緒だから樂しい。大體二週間の豫定で、月末に歸つて來る。充(じゆう)分に島民の生活を見てくる積り。久しぶりのリュックサックが大分肩にこたへる。

 十七日朝。

   *]

2014/02/23

杉田久女句集 75 茄子もぐや日を照りかへす櫛のみね



茄子もぐや日を照りかへす櫛のみね

 

[やぶちゃん注:私偏愛の久女の句。このハレーションは凄い!]

杉田久女句集 74 茄子苗の日除し置いてまた縫へり


茄子苗の日除し置いてまた縫へり

杉田久女句集 73 傘にすけて擦りゆく雨の若葉かな


傘にすけて擦りゆく雨の若葉かな

杉田久女句集 72 厨着ぬいでひとり汲む茶や若楓



厨着ぬいでひとり汲む茶や若楓

 

[やぶちゃん注:「厨着」は「くりやぎ」と読むか。]

杉田久女句集 71 住みかはる扉の蔦若葉見て過し


住みかはる扉の蔦若葉見て過し

杉田久女句集 70 蕗むくやまた襲ひきし齒のいたみ


蕗むくやまた襲ひきし齒のいたみ

杉田久女句集 69 夏草



夏草に愛慕濃く踏む道ありぬ

 

月光搖れて夏草の間を流れかな

杉田久女句集 68 貧しき家をめぐる野茨月貴と

貧しき家をめぐる野茨月貴と

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年二十八の時、本格的な作句最初期の作と思われる。私はこの句が好きである。]

杉田久女句集 67 黄薔薇や異人の厨に料理會



黄薔薇や異人の厨に料理會

 

[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年二十九の時の作。「黄薔薇」花言葉は――あなたを恋します/友情/友情/献身/可憐/美/さわやか――薄らぐ愛/恋に飽きた/別れよう/誠意がない/不貞/嫉妬……]

杉田久女句集 66 笑みをふくんで牡丹によせし面輪かな


笑みをふくんで牡丹によせし面輪かな

杉田久女句集 65 おのづから流るゝ水葱の月明り


おのづから流るゝ水葱(なぎ)の月明り

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 鐙摺

    ●鐙摺

軍見山の麓(ふもと)より此邊を總稱せる小名なり、新編相模風土記曰、土人の傳に賴朝三浦に遊覽の時、山路狹く乘馬の鐙をすり、徃來自由ならず故に此名起るといふ、今はさる嶮難の地にはあらす且盛衰記あふすりの名見ゆ、下の城跡の條に詳なり、又按するに東鑑に、壽永元年十一月十日、伏見冠者(くわんじや)盛綱は賴朝の蝶寵女龜前を伴ひ遁れて大多和五郎義久が鐙摺の塚に到ると見ゆ、其頃義久が邸此地に在りしなるべし、今其遺趾をつたへず。

[やぶちゃん注:ここに記された、壽永元(一一八二)年十一月に起こった新興鎌倉幕府あわや転覆という女好きの頼朝の不倫スキャンダルの事故の顛末について私は、新編鎌倉七」の「飯島」の注に、面白おかしく且つマニアックに詳細に書いた。お読み戴ければ幸いである。]

耳嚢 巻之八 入木の道知水性妙の事

 入木の道知水性妙の事

 

 入木(じゆぼく)の道に名高き松花堂は、書畫とも人の珍重する所なり。ある時云(いひ)しは、京地(けいち)にては、加茂川のかくかくの所、柳の本の水ならでは、筆にそゝぎ墨に和して用(もちゐ)るによしなしと有(あり)しを、或人聞(きき)て、好事(かうず)の過(すぎ)たる事也(や)とて、加茂川の水を取寄せ、松花堂を招(まねき)て書畫を好み、兼て松花堂の好む珍味、器物の莊嚴(しやうごん)心を盡しぬ。松花堂筆を取(とり)て墨すり筆をてんじて、此水宜(よろし)けれども、此墨水にては畫(かく)事かたしとて斷りぬ。主人大きに驚き、此水は加茂川の水なり、御身好み給ふにあらずやと尋(たづね)ければ、加茂川の水にても、かくかくの所にあらずしては其筆意を延(のぶ)る事なしといふに、主人手を打(うち)て歎息し、實は加茂川のしかる所柳の元の水を取寄せ置(おき)ぬれど、御身の好みの所、實事とも思わず疑ひて最初の水を出せしと、慙悔(ざんくわい)して拜謝せしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:通の拘りで直連関。

・「入木の道知水性妙の事」は「じゆぼくのみちすゐしやうのみやうをしるのこと」と読む。「入木」とは、名書家王羲之が書いた字は筆勢が強く、その筆跡は墨が木に三分の深さにまで染み入っていたという故事に基づき、本来は書跡・墨跡の意。ここは入木の道、書道のこと。

・「松花堂」桃山末から江戸初期の学僧で書家として知られた松花堂昭乗(天正一二(一五八四)年~寛永一六(一六三九)年)。中沼左京亮元知の弟として摂津国堺に生まれた。俗名は中沼式部、号は惺々翁・空識、晩年になって松花堂と号した。十七歳で男山石清水八幡宮滝本坊実乗の元で出家、真言密教を修めて阿闍梨法印となり、寛永四(一六二七)年四十四歳の時に滝本坊住職となった。書は尊朝法親王に青蓮院流を学び、また空海の書を慕って大師流を修得、自らの書風を確立した。漢字は空海の唐風。仮名は平安時代の和風を復興したもので松花堂流又は滝本流という。松花堂流は後に流行して昭乗の書跡は多数板行された。本阿弥光悦・近衛信尹とともに「寛永の三筆」と称される。画は狩野山楽に学んだといわれ、さらに土佐派を折衷して彩色の密画もよくしたが、晩年には枯淡な水墨画を多く描いて歌絵屏風や道釈画などを遺した。作例に「葡萄に鶏図」など。また茶人としても知られ、小堀遠州について遠州流を修め、その収集した茶道具は「八幡名物」と呼ばれて後世「松花堂好み」として模された。昭乗の名声は高く、近衛家の恩顧を受けて広く公家に出入し、また烏丸光広・林羅山・石川丈山などと交流があった)以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年であるから、実に百六十年も前の都市伝説の古形である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 書の道に達した御仁は神妙にもその水の性(しょう)をも知尽するという事

 

 書の道に名高き松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)殿は、その書画ともに人の珍重する所で御座る。

 ある時、昭乗殿の言われたことに、

「――京の地にては、加茂川のかくかくの所に御座る柳の本から汲みおきたる水ならでは――筆に注ぎ墨に和して用いるには――これ――よう御座らぬ――」

と申されて御座ったを、ある人のこれを聞いて、

「……なんとまあ……流石は好事(こうず)の過ぎたる……もの謂いじゃのぅ……」

とて、酔狂にも加茂川の水を取り寄せ、松花堂殿を屋敷へ招いて書画一筆を請い受け、兼ねてより松花堂殿の好むところの珍味の器物を以って、仏道にも擬えなば、その荘厳(しょうごん)、まっこと、心を尽くして満を持して御座ったと申す。

 さて、松花堂殿、やおら筆を取らんとて、墨をすり、筆からその雫を垂らし――それを見られた……

……と

「――この水――よろしゅう御座る水にてはあれど――やはり――この墨水にては――我ら――描くこと――これ――出来申さぬ――」

とて、静かに筆を置かれた。

 されば、主人、大きに驚き、

「……い、いや、この水は加茂川の水で御座るぞッ?!……お、御身のお好みにならるるそれにては御座いませぬかッ?!……」

と質いたところが、

「――我ら――加茂川の水にても――かくかくの所の水にあらずしては――その筆――思うがままに描くことは、これ――出来申さぬ――」

と仰せられたによって、主人、タン! と手を打って、深く歎息致いた上、

「……実は加茂川のしかる所の柳の元の水を……我ら……取り寄せ置いて御座ったれど……かく伝えられたる御身(おんみ)の好みと仰せらるる神妙なるそのところ……これ……真実(まこと)ととも思わずに疑(うたご)うたるまま……最初に出だしましたる、別なところからわざと汲みおいたる加茂の水を……これ、出いてしまいまして御座ったじゃ……」

と、深く懺悔致いて、拝謝してかの水を差し出だいては、再度、一筆を請うたと申すことで御座る。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 21 モース遺愛の少年宮岡恒次郎

 ジョンの日本人の友人達が、何人か遊びに来た。可愛がっている小宮岡もいた。私は彼を膝にのせ、彼の喋舌る風変りな英語に耳を傾けていたが、しばらくすると、彼は片手を上げて、静に私の鬚髯に触れた。私は彼の手に、口でパクンとやると同時に、犬がうなるような音をさせた。驚いたことに、彼は飛び上りもしなければ、その他何等の動作もしなかった。米国の子供ならば、犬が本当にパクリと指に嚙みついて来たかの如く、直覚的に手を引込ませるであろう。これを数回くりかえした上、彼に彼の両親がこんなことをしたことがあるかと聞いたら、彼は無いと答え、そしてこれが何を意味するのか知らないらしく見えた。で、これはつまり犬が嚙みつく動作を現すのだと説明すると、彼は日本の犬は嚙みついたりしないといった。ここでつけ加えるが、犬に注意を払う――例えば、頭を撫でたりして可愛がる――のは見たことがなく、また日本で見受ける犬の大多数は、狼の種類で、吠える代りにうなる。ジョン(私の子)は大いに日本人に可愛がられているが、彼の色の薄くて捲いた頭髪は、日本人にとっては驚く可き、そして奇妙な光景なのである。

[やぶちゃん注:「小宮岡」原文は“little Miyaoka”。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」からこの人物は当時の東大予備門の生徒であった宮岡恒次郎(慶応元(一八六五)年~昭和一八(一九四三)年)であると断定してよい。この当時、未だ満十二歳であったが、早くも翌年にはモースの冑山周辺横穴(現在の埼玉県比企郡吉見町にある吉見百穴)の調査に随行し、驚くべきことに当地での講演で通訳を勤めている。これは川越原人氏のサイト「川越雑記帳」内のモースと山田衛居の「図説埼玉県の歴史」(小野文雄責任編集河出書房新社一九九二年刊)からの「外国人の見た明治初年の埼玉」の「モースの失言―熊谷・川越」という引用を参照されたい。そこには同行者にこの恒次郎の兄竹中成憲がいたとあり、この竹中成憲(当時は東京外国語学校学生であったと思われ、後に東大医学部に進み軍医となった)はこの弟恒次郎とともにモースや彼が日本への招聘に尽力したフェノロサの通訳や旅にも同行した人物である。そこからこの“little Miyaoka”という呼称も自然、氷解するように思われる。これらの事実は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」からも類推出来る。なお、恒次郎は磯野先生の同書によれば後、フェノロサの美術収集旅行の通訳として同行。彼にとって欠かせない存在となったとあり、明治二〇(一八八七)年東京帝国大学法学部を卒業して外交官となり、後に弁護士となったと記す。また、床間彼方氏のブログ「青二才赤面録」の宮岡恒次郎・その1によれば、『明治16年、18才の恒次郎は李氏朝鮮の遣米使節団に顧問として加わっていたロウエルの要請により、同使節団の非公式随員となっている』ともあり、恒次郎のお孫さんによれば、実は本人曰く、『7才で蒸気船の石炭貯蔵室に隠れてアメリカに密航したと語っていたと』のこと。なかなか面白い。]

中島敦 南洋日記 一月四日

        一月四日(日)

 スヴュン・ヘディンの中亞探檢記、之亦大いに面白し。

[やぶちゃん注:知られたスウェーデンの地理学者で探検家スヴェン・アンダシュ(アンデシュ)・ヘディン(Sven Anders Hedin 一八六五年~一九五二年)の「中央亜細亜探検記」は、昭和一三(一九三八)年に富山房百科文庫から岩村忍訳の邦訳本が出ている。但し、敦が読んだのがこれであるかどうかは不詳。前日に読んでいるポール・エミール・ヴィクトールの著作は邦訳ではないように窺えるからである。]

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年十二月

犬とゐて春を惜める水夫かな

 

   舊曆十月十五日は僧月照の忌日たり

うるはしき入水圖あり月照忌

 

[やぶちゃん注:「僧月照」これは幕末期の尊皇攘夷派の僧で西郷隆盛とともに錦江湾に入水自殺した月照(文化一〇(一八一三)年~安政五年十一月十六日(グレゴリオ暦一八五八年十二月二十日)のことと思われるが、日のズレは誤差範囲としても月がおかしい。誤植か、鳳作の記憶違いであろう。名は宗久(他に忍介・忍鎧・久丸とも。本姓は玉井か)、ウィキの「月照」によれば、『文化10年(1813年)、大坂の町医者の長男として生ま』れ、『文政10年(1827年)、叔父の蔵海の伝手を頼って京都の清水寺成就院に入る。そして天保6年(1835年)、成就院の住職になった。しかし尊皇攘夷に傾倒して京都の公家と関係を持ち、徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派に与したため、大老の井伊直弼から危険人物と見なされた。西郷隆盛と親交があり、西郷が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死しようとする西郷に対し止めるように諭している』。安政五(一八五八)年八月に『始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷と共に京都を脱出して西郷の故郷である薩摩藩に逃れたが、藩では厄介者である月照の保護を拒否し、日向国送りを命じる。これは、薩摩国と日向国の国境で月照を斬り捨てるというものであった。このため、月照も死を覚悟し、西郷と共に錦江湾に入水した。月照はこれで亡くなったが、西郷は奇跡的に一命を取り留めている。享年』四十六。『「眉目清秀、威容端厳にして、風采自ずから人の敬信を惹く」と伝えられ』、『墓は、月照ゆかりの清水寺(京都市東山区)と西郷の菩提寺である南洲寺(鹿児島市)にあり、清水寺では月照の命日である11月16日に「落葉忌」として法要を行っている(新暦の毎年同月同日に実施)』とある。入水の前後を詳しく語るブログ『「明治」という国家』の西郷隆盛、僧月照と薩摩潟に投身によれば、月照が、

 

 雲りなき心の月も薩摩潟沖の波間にやがて入りぬる

 

という辞世の一首を詠んだところ、西郷は答えて、

 

 二つなき道にこの身を捨小舟波立たばとて風吹かばとて

 

と詠んで硬く抱き合ったまま、追放のために遣わされた役人方の舟から入水したとある。驚いた役人が『両人が堅く抱合ったまま骸となって浮上ったのを発見』、『岸辺に船を急がせ、火を焚いて応急手当をしたので、西郷だけは漸く息を吹返したが、月照は遂に46歳を一期として、帰らぬ旅に上ってしまった』、薩摩藩はしかし表向き西郷もともに死んだということで『幕府へ届出』、西郷は名を『菊池源吾と改名し奄美大島に身を潜め』たとある。ここに出る「入水圖」というのは推測であるが、西郷隆盛の菩提寺で月照の墓がある鹿児島市南林寺町にある臨済宗南洲寺にあったものではなかろうか? 識者の御教授を乞うものである。]

 

おぼえある繪卷の顏や月照忌

 

[やぶちゃん注:恐らく鹿児島県人であった鳳作にとって尊王の偉人として月照の絵姿を小さな時から見知っていたのであろう。]

 

椰子の月虹の暈きてありにけり

 

からからに枯れし芭蕉と日向ぼこ

 

枯芭蕉卷葉ひそめてをりにけり

 

破れ芭蕉羽拔けし鷄の如くなり

 

[やぶちゃん注:以上七句は十二月の発表句。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(3)

君にとて投げたる謎のとけもやらで

この春くれぬ悲しからずや

 

    從兄、姉どちと京都に

    あそびて

はらからが朝院參西の院

比叡(ひえ)やゝ寒き梅に參うでびと

 

[やぶちゃん注:原本は「參(まう)うでびと」であるが、底本全集校訂本文と同じく衍字と判断しつつも、校訂本文のように「參(まう)でびと」という『補正』を行わず、本文原型を壊さないように「まう」のルビを示さずに「う」を残した形とした。]

 

野よりいま生まれける魂(たま)幼(おさな)くて

一人しなれば神もあはれめ

 

[やぶちゃん注:「幼(おさな)くて」の「幼」は原本では「※」=「糸」+「刀」であるが、以下の公開作から誤字と断じて校訂本文と同じく「幼」の字を採った。「おさな」のルビはママ。朔太郎満十六歳の時の、『明星』卯年第八号・明治三六(一九〇三)年八月号の「無花果」欄に「萩原美棹」の名義で掲載された五首の巻頭歌、

 

 野より今うまれける魂をさなくて一人しなれば神もあはれめ

 

と表記違いの相同歌。]

 

天地に水ひと流れ舟にして

君とありきとおぼへしや夢

 

[やぶちゃん注:「おぼへ」はママ。この一首は、朔太郎満十六歳の時の、『文庫』第二十四巻第三号(明治三六(一九〇三)年十月発行)に「上毛 美棹」名義で掲載された九首の五首目、

 天地に水ひと流れ舟にして我もありきと忘るべしや夢

の類型歌。]

 

菫つむと何時しか岡の三里こえて

迷ひ出でぬる桃多き里

 

[やぶちゃん注:原本では「迷ひ」は「述ひ」。先行例(本「歌群「若きウエルテルの煩ひ」五首目)及び全集校訂本文に従い、訂した。]

 

名なし小草はかな小草の霜柱

春の名殘と蹈まむ二人か

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十六歳の時の、『文庫』第二十三巻第六号(明治三六(一九〇三)年八月発行)に「上毛 萩原美棹」名義で掲載された七首の掉尾、

 名なし小草はかな小草の霜ばしら春の名殘とふまむ人か

の類型歌。]

 

み歌さらになつかしみつゝ慕ひつゝ

忘れかねては行く萩が原

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十六歳の時の、『文庫』第二十四巻第三号(明治三六(一九〇三)年十月発行)に「上毛 美棹」名義で掲載された九首の第六首目、

 み歌さらになつかしみしたひつゝ忘れかねては行く萩が原

の類型歌。]

 

花におちて花に歌えし身は胡蝶

戀のもだえに狂ひぬ惓みぬ

 

[やぶちゃん注:原本は、

 

花におちて花に歌えし身は胡蝶

戀のもたひに狂ひぬ惓みぬ

 

全集校訂本文は、

 

花におちて花に歌へし身は胡蝶

戀のもだえに狂ひぬ倦みぬ

 

である。「もたひ」の部分のみ、意味が通らぬので校訂本文を採った。]

座布團   山之口貘

 

   座 布 團

 

土の上には床がある 

 

床の上には疊がある 

 

疊の上にあるのが座蒲團でその上にあるのが樂といふ 

 

樂の上にはなんにもないのであらうか 

 

どうぞおしきなさいとすゝめられて 

 

樂に坐つたさびしさよ 

 

土の世界をはるかにみおろしてゐるやうに 

 

住み馴れぬ世界がさびしいよ 

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一〇(一九三五)年二月号『文藝』(改造社)。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題によれば、掲載誌には後の「數學」とともに総題「數學」の中の一篇として掲載された、とある。本詩は標記通り、各行間が優位に広い。なお、原書房刊「定本山之口貘詩集」では、この行空けはない。【2014年6月7日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証し、注の一部を変えた。【二〇二四年十月十七日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

杉田久女句集 64 睡蓮や鬢に手あてて水鏡

睡蓮や鬢に手あてて水鏡

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 湖畔雜章

 湖畔雜章1

 

霧昏れて落葉松(からまつ)にゐし吾よばる

 

いなづまに落葉松の幹たちならぶ

 

郭公は野の富士靑き夜を啼ける

 

寂しさの極みなし靑き螇蚸とぶ

 

[やぶちゃん注:「螇蚸」は通常通りの「ばつた(ばった)」と読んでいると採る。]

 

 湖畔雜章2

 

熔岩野(らばの)來て秋風の中に身を置ける

 

秋空と熔岩野涯なし歩みゐる

 

熔岩の原薊を黑く咲かしむる

 

富士薊日輪に翳するものなし

 

熔岩の砂熱きを掬び掌をもるる

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「掬び」は「むすび」と読む。両手を合わせて(本来は水を)すくう・掬(きく)するの謂い。]

 

地を翔くる秋燕ひとりの道をかへる

 

[やぶちゃん注:両章ともに、前注の通り、避暑した山中湖畔の「ニューグランドロッヂ」滞在時の吟詠である。]

秋   八木重吉

秋が くると いふのか

なにものとも しれぬけれど

すこしづつ そして わづかにいろづいてゆく、

わたしのこころが

それよりも もつとひろいもののなかへ

              くづれて ゆくのか

 

[やぶちゃん注:最終行は、底本では、組の一行字数の関係からかく表示されてあるのであるが、これを、例えば、

 

それよりも もつとひろいもののなかへくづれて ゆくのか

 

とするテクストには私は従えない。そもそも重吉はここを、物理的な版組から仕方がなく連続した詩句を無理矢理断絶させて機械的に改行したもの――ではない。そこに明確な重吉の許容出来る休止(一字空け相当の若しくは改行して下方へ配するだけの)が存在するからに他ならないからである。]

飯田蛇笏 靈芝 大正四年(四十五句)

   大正四年(四十五句)

 

餅花に髮ゆひはえぬ山家妻

 

閨怨のまなじり幽し野火の月

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「幽し」は「かそけし」と読む。]

 

陽にむいて春晝くらし菊根分

 

虛空めぐる土一塊や竹の秋

 

[やぶちゃん注:本句、私には今一つ句意を摑めない。識者の御教授を乞う。]

 

花に打てばまた斧にかへる谺かな

 

夏風やこときれし兒に枕蚊帳

 

夏雲濃し厩の馬に若竹に

 

梅雨の灯のさゞめく酒肆の鏡かな

 

深山花つむ梅雨人のおもてかな

 

   南ア連峰窻に聳え、春日山の翠微眉におつ

夏山や急雨すゞしく書にそゝぐ

 

青巒の月小さゝよたかむしろ

 

大空に富士澄む罌粟の眞夏かな

 

日蔽たるゝ水に明るき花藻かな

 

山百合にねむれる馬や靄の中

 

飼猿を熱愛す枇杷のあるじかな

 

紫陽花に八月の山高からず

 

山風のふき煽つ合歓の鴉かな

 

大木を見つゝ閉す戸や秋の暮

 

滄溟に浮く人魚あり月の秋

 

秋風や水夫にかゞやく港の灯

 

[やぶちゃん注:「水夫」は「かこ」と読んでいよう。]

 

槍の穗に咎人もなし秋の風

 

露さだかに道ゆく我を愉しめり

 

秋の嶽國土安泰のすがたかな

 

かきたてゝ明き御燈や山の秋

 

俳諧につぐ鬪菊や西鶴忌

 

[やぶちゃん注:浮世草子の作者であると同時に談林を代表する俳諧師でもあった矢数俳諧の創始者二万翁井原西鶴の忌日は八月十日。因みに大正四(一九一五)年の陰暦のそれは九月十八日土曜日に相当する。]

 

薰(たきもの)に八朔梅や守武忌

 

[やぶちゃん注:「八朔梅」旧暦の八朔(八月一日)の頃に咲く梅で八重の淡紅色の花をつける珍しい梅。「守武忌」山崎宗鑑とともに俳諧の祖とされる戦国期の伊勢神宮祠官で連歌師であった荒木田守武の忌日は八月八日。因みに大正四(一九一五)年の陰暦のそれは九月十六日木曜日に相当する。前の句と前後している理由は分からない。一つの可能性は前者の西鶴忌が新暦で行われてしまい、後者の供養が正しく旧暦であったとすればおかしくはない。但し、後の「山廬集」では順序が入れ替わっている(但し、「山廬集」は季題別)から、単なる(ストイックな彼にして「単なる」とは言い難い重大なミスではある。しかも西鶴と守武では普通ならば詠日が多少前後しても守武を前に持って来るべきであろう。しかも守武の方が三日早いのである)蛇笏の配置ミスかも知れない。]

 

たましひのしづかにうつる菊見かな

 

月さむくあそべる人や萩の宿

 

料理屋の夜の闃寂や白芙蓉

 

[やぶちゃん注:「闃寂」は「げきせき」と読ませていよう(「げきじやく(げきじゃく)」とも読むが私の印象は「よのげきせき」である)。ひっそりと静まりかえって寂しいさま。]

 

書樓出て樵歌またきく竹の春

 

はしばみにふためきとぶや山鴉

 

[やぶちゃん注:]

 

山國の虛空日わたる冬至かな

 

髭剃つて顏晏如たり冬日影

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「晏如」は「あんじよ(あんじょ)」で、安らかで落ち着いているさま。]

 

冬空や大樹くれんとする静寂(しゞま)

 

[やぶちゃん注:底本ルビの踊り字は「ヾ」(片仮名用踊り字)であるが訂した。]

 

霜とけの囁きをきく獵夫かな

 

雪國の日はあはあはし湖舟ゆく

 

[やぶちゃん注:「あはあは」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

大艦をうつ鷗あり冬の海

 

爐をきつて出るや椿に雲もなし

 

雪晴れてわが冬帽の蒼さかな

 

爐によつて連山あかし橇の醉

 

死病得て爪うつくしき火桶かな

[やぶちゃん注:芥川龍之介は大正十三(一九二四)三月一日発行の雑誌『雲母』に「蛇笏君と僕と」(後に「飯田蛇笏」と改められる)を発表しているが、その中で、

 その内に僕も作句をはじめた。すると或歳時記の中に「死病得て爪美しき火桶かな」と云ふ蛇笏の句を發見した。この句は蛇笏に對する評價を一變する力を具へてゐた。僕は「ホトトギス」の雜詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。勿論その句境にも剽竊した。「癆咳の頰うつくしや冬帽子」「惣嫁指の白きも葱に似たりけり」――僕は蛇笏の影響のもとにさう云ふ句なども製造した。

と告白している。ちなみに、「惣嫁」とは上方で言う最下級の売春婦の夜鷹のこと。更に、この作品には後半、次の芥川の句が示されてある。

 春雨の中や雪おく甲斐の山

 おらが家の花も咲いたる番茶かな

前の「春雨の」の句の直後に「これは僕の近作である。次手を以て甲斐の國にゐる蛇笏君に獻上したい。」と書き、最近は時々句作するが、忽ち苦吟に陥ってしまうとし、「所詮下手は下手なりに句作そのものを樂しむより外に安住する所はないと見える。」と書いて、「おらが家の」を示す。句の後に、「先輩たる蛇笏君の憫笑を蒙れば幸甚である。」と文を結んでいる。【2013年4月2日追記】芥川龍之介「飯田蛇笏」の全文はこちらに私のマニアックな注を附したものがあるので是非お読み戴きたい。]



埋火に妻や花月の情にぶし

 

火を埋めて更けゆく夜のつばさかな

 

かりくらの月に腹うつ狸かな

 

[やぶちゃん注:「かりくら」狩倉・狩蔵。領主の独占的な狩猟区域で所領内の狩猟に好適な山や野を選んで四至を定めて囲い込んだ地域を指す。獣類の生態系を守るために百姓等の出入りや採草・伐木などを厳しく禁じた。狩倉の成立時期は不明であるが十二世紀の前期には「神狩蔵」の存在が知られ、この神の狩倉は十三世紀初めに肥後国阿蘇神社などで確認される狩猟神事を営むための狩倉と考えられており、和泉国大鳥神社では十一世紀末から十二世紀初頭にかけて四ヶ所の「狩庭」が確認出来る(以上は「世界大百科事典」に拠る)。]

 

落葉ふんで人道念を全うす

飯田蛇笏 靈芝 大正三年(十五句)

   大正三年(十五句)

 

幽冥へおつる音あり灯取蟲

 

海鳴れど艪は壁にある夜永かな

 

竈火赫つとたゞ秋風の妻を見る

[やぶちゃん注:上五「竈火赫つと」は「くどびかつと(くどびかっと)」と読む。大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」(明治書院昭和四二(一九六七)年刊)によれば、蛇笏の初期作品には一種の小説風な着想があり、この句にもそれを指摘する。まず、この句には以下の自注があるとされ(底本引用は新字体であるが、恣意的に正字化した)、

山郷の晩景。〝農となつて郷國闊し柿の秋〟と詠じ、その實、眞の農たり得ない夫の心理は、つれそふ妻っさへ秋風の中に一片の落葉か何ぞのやうに眺めやつた。生活の中に躬自らをおとした表現。

を引用、この後の大正四年の選句に出る、

 埋火に妻や花月の情にぶし

を引いて、『この「花月」は風流心のことであり、ただ家事に忠実、夫に貞淑な妻と、文学志向に燃える夫との心のへだたり』が述べられていると指摘、次に大正三年の本作の頃は蛇笏結婚四年目で、この年の蛇笏の年譜には、虚子が俳壇に復帰したことを知った蛇笏が絶えて手に取ることもなかった『ホトトギス』を取り寄せてみれば、同誌が俳句に重点をおくものになっており、『未知の新人が活躍してゐた。燃えかけてゐた作句熱が熾烈になつたことを感じた』とあるのを引用、最後に本句を評して、『颯々と吹き渡った一種の秋風が竈火に照らしだされいる貞淑な妻を吹くとともに、作者の心をひえびえと吹きすぎたのである。その対照がきわやかである』と記す。]

 

芋の露連山影を正うす


[やぶちゃん注:蛇笏真骨頂の代表句。私はかつて中学生の頃、この句に出逢った折り、接写レンズで撮った里芋の葉の上に置かれた丸い大きな銀色の露(私はこれを小さな頃から偏愛してきた)の表面に甲斐の山並みが反転して映るのを、否、芋の露の中にある別世界の奇峰の連なりを幻視したのを今も忘れない。大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」によれば、この句には以下の自注があるとする(例によって恣意的に正字化して示す)。

今日に至るまでの歳月の中で、最も健康がすぐれなかった時である。隣村のY病院へ毎日薬瓶を提げて通つてゐた。南アルプス連峰が、爽涼たる大氣のなかに、きびしく禮容をととのへてゐた。身邊の植物(植物にかぎらず)は決して芋のみではなかつた。

大野氏は以下、『家郷にとじこめられ、肉体は病のため衰弱しても、精神はつねに昂揚して彼岸を見つめていたのであろう。礼容をととのえているのは甲斐の山々のみでなく、作者もまたこれらの山の偉容に襟を正して向っている』と評しておられる。蓋し名評である。]


刈田遠くかゞやく雲の袋かな

 

案山子たつれば群雀空にしづまらず

 

牛曳いて四山の秋や古酒の醉

 

かりがねに乳はる酒肆の婢ありけり

 

句また燒くわが性淋し蘭の秋

 

農となつて郷國ひろし柿の秋

 

山門に赫つと日浮ぶ紅葉かな

 

人すでに落ちて瀧なる紅葉かな

 

   萍生の骨を故郷の土に埋む、一句

葬人の齒あらはに哭くや曼珠沙華

 

[やぶちゃん注:飯田蛇笏の処女句集「山廬集」(昭和七(一九三二)年)に、

  (蘆の湖に溺死せる從兄萍生を函嶺の頂に荼毘にして)

 秋風や眼前湧ける月の謎

 

及び、全く同じ前書で、

 

荼毘の月提灯かけし松に踞す

 

という句があるようである(小川春休氏の電子テキスト山廬集を正字化したが、「灯」は考えた末にそのままにした。以下、断りのない「山廬集」は総てこの春休氏のものを参照させて戴いた)。]

 

ある夜月に富士大形の寒さかな

 

書樓出てさむし山の襞を見る

2014/02/22

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年十一月



門川のあふれてさみし魂祭

 

荷のすぎし精靈舟となりにけり

 

大風のあしたを出でて耕せり

 

月の江や波もたてずに獨木舟

 

吹きあほつ日覆のうちの櫻島

 

[やぶちゃん注:「吹きあほつ」ネット上で発見した歌人長澤英輔歌集の一首、

 夏暮るる軒の簾を吹きあほつ雨風涼しきちきょうの花

から、「吹き煽る」の謂いであることが分かる(老婆心乍ら、「きちきょう」とは「桔梗」のこと)。とすればこれは「あふつ」の歴史的仮名遣の誤りかと思われる。「煽(あふ)つ」は現代音「あおつ」で他動詞タ行四段活用の「風が吹き動かす」「風のために火や薄い物が揺れ動く。ばたばたする」の古語で、自動詞の「あふる」の転かとある(但し、この意に限ってみれば「あふる」との自・他動詞の明確な区別は国語学嫌いの私には判然としない)。

 ここまでの五句は十一月の発表句。]

「数学者に数式を見せたら、芸術的な「美」を感じる脳の部分が反応した――英国の研究者による実験結果」

「数学者に数式を見せたら、芸術的な「美」を感じる脳の部分が反応した――英国の研究者による実験結果」

フェイスブックの友人の数学者が紹介していた記事を読んだ。

読みながらこんなことを感じた。……

……私は8歳の頃から NGC ( New General Catalogue 天体カタログ)を覚えたり、数式や化学式を意味も解らずノートに写すのが好きだった……そういう意味では私の眼窩前頭皮質はそれらに「美」を感じていたものらしい(今も予備校の広告の数式が載るそれを見ただけで暫くその前に佇んでしまう)……しかし残念なことに同じ頃から学校の算数が苦手になり、家に間借りしていた中学数学教師の特訓を毎夜受けては更に嫌いになり、中学に上がると決定的に数学を嫌悪するようになった(しかし相変わらず夏休みには図書館に行ってやはり訳も分からず原子物理学の専門書やオレンジ色の科学普及新書を書写することで独り悦に入っていた)……高三の時にはテストで人生最初で最後の「0点」をとったのも数学だった……私はサリエリみたような人間なんだろうか?――そういえば父は画家を目指したデザイナーで自称シュールレアリスト(瀧口修造を師とするから必ずしもいい加減ではない)であるが、私は小さなころから伝統画は無論、エルンストやダリやタンギーやラムをも偏愛しながら、これもおぞましいことに絵や彫刻の才能は全くなかった――私の眼窩前頭皮質若しくはそこから連動する数学や芸術へのシナプスは――きっと壊れてしまっているのに違いない……

などと考えたら、ちょっと淋しい気がした。……

再會   山之口貘

 

   再 會

 

詩人をやめると言つて置きながら詩ばつかりを書いてゐるではないかといふやうに

つひに來たのであらうか

失業が來たのである

 

そこへ來たのが失戀である

寄越したものはほんの接吻だけで どこへ消えてしまふたのか女の姿が見えなくなつたといふやうに[やぶちゃん注:「寄越した」は「よこした」と訓ずる。] 

 

そこへまたもである

またも來たのであらうか住所不定 

 

季節も季節

これは秋 

 

そろひも揃つた昔ながらの風體達

どれもこれもが暫らくだつたといふやうに大きな面をしてゐるが

むかしの僕だとおもつて來たのであらうか

僕をとりまいて

不幸な奴らだ幸福さうに笑つてゐる。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一一(一九三六)年十一月発行の『むらさき』。【二〇二四年十月十六日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

 バクさんは、昭和一二(一九三七)年十二月の静江との結婚前後(但し、正式な婚姻届の提出は昭和一四(一九三九)年十月二十六日)、それまでの水洗便所のマンホール掃除や、「東京材木新聞社」などを経て、温灸器販売や、ニキビ・ソバカスの治療薬の通販の仕事などに従事していたものが、この同じ十二月に倒産・失業は、している。しかし、ここでは、時期を「秋」と設定してしていること(但し、これは実際の季節の「秋」ではないという読みも可能ではあるし、実際には、同年秋には、実質上の失業状態にあったと考えても、おかしくはない)、結婚直後であるのに、「失戀」と言っていること(但し、実際にこの前に貘さんは、行きつけのコーヒー店の女給「そこ子」に、正に「どこへ消えてしまつたのか女の姿が見えなくなつたといふやうに」見捨てられていること、前に示したように、実際の婚姻届は出していないことからも、「失戀」を語っても少しもおかしくはないとはいえる)など、幾分、事実との微妙な違和感がないわけではない。但し、暫くはこれは昭和十二年秋を舞台とした創作と考えてよかろう。

 原書房刊「定本山之口貘詩集」では一行目が、 

 

詩人をやめると言つて置きながら 詩ばつかりを書いてゐるではないかといふやうに 

 

に、六行目が、 

 

寄越したものはほんの接吻だけで どこへ消えてしまふたのか 女の姿が見えなくなつたといふやうに 

 

に改稿されている。【2014年6月7日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正した。【二〇二四年十月十四日追記】見落としていたが、旧版「山之口貘全集」でも最終行に句点があるのに、新編版では句点がない。これは明らかにミスである。

杉田久女句集 63 子ら



仮名かきうみし子にそらまめをむかせたり

 

忍び來て摘むは誰が子ぞ紅苺

 

苺摘む盗癖の子らをあはれとも

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 吉田火祭

 吉田火祭

 

火のまつりくらき燈火を家に吊り

 

火祭の道よりひくく蚊帳吊られ

 

火まつりの戸口にちかく子がねまり

 

火のまつり子等は寢(い)ねしか町に見ず

 

火祭の戸毎ぞ荒らぶ火に仕ふ

 

湖(うみ)をへだて火まつりの火がおとろふる

 

火祭のその夜の野山月に靑く

 

[やぶちゃん注:山梨県富士吉田市上吉田(かみよしだ)地区で行われる日本三奇祭の一つとされる鎮火大祭。同地区の北口本宮冨士浅間神社と境内社(摂社)諏訪神社の両社の秋祭りで、毎年八月二十六日と二十七日に行われ、通称「吉田の火祭り」と呼ばれる。現在、重要無形民俗文化財。二十六日の午後に本殿祭・諏訪神社祭が催行され、大神輿・御影は参拝者で賑わう氏子中に神幸、暮れ方に御旅所に奉安されると同時に高さ三メートルの筍形に結い上げられた大松明七十余本、家ごとに井桁に積まれた松明が一斉に点火され、街中は火の海と化して祭りは深夜まで賑わう。二十七日の午後に二基の神輿が氏子中を渡御、夕闇迫る頃に浅間神社に還御する。氏子崇敬者が「すすきの玉串」を持ち、二基の神輿の後に従って高天原を廻るこの時を本祭りのクライマックスとし、二十七日を「すすき祭り」とも称している(ここまで「ふじよしだ観光振興サービス」の吉田火祭公式サイトの記載に拠った)。私は残念ながら実見したことがなく、例えば二句目などは実際に祭りを体験すればもっとすんなり腑に落ちる句なのであろうなどと感じている。ただ、ウィキの「吉田の火祭に載るところの、「火祭の伝承と変遷」と、特に「祭礼をとりまく風習と伝承組織」パートの中の、前年の祭りから一年間の間に身内に不幸のあった死の穢れにある者を「ブク(忌服)」「ブクがかかる」とする禁忌、ブクのかかった者は祭礼の期間中、上吉田地区以外へ出ることになっていてそれを「テマ(手間)に出る」と表現するという一連の記載は、総じて祭りが苦手な私でさえ非常に興味深く読んだ。このウィキの記載は詳細を極め、筆者の火祭りへの正に熱い思いが伝わってくる非常に素晴らしい必読ものである。なお、六句目の「湖(うみ)」は山中湖と思われる。この年の一夏、多佳子は健康すぐれず、七月から山中湖畔の「ニューグランドロッヂ」(現在の山梨県南都留郡山中湖村平野にある「ロッヂ花月園」は跡地に建つ)に一家で避暑している。年譜には滞在を終えての『帰路は村人の曳く木箱の橇であった』とある。]

虹   八木重吉

 

この虹をみる わたしと ちさい妻、

やすやすと この虹を讃めうる

わたしら二人 けふのさひわひのおほいさ

 

[やぶちゃん注:「讃」は底本の用字。]

老いた町

市警から私の居住地界隈で振り込め詐欺が頻発しているので注意されたいという電話を妻が受けたという。……そういえば昨日、犬の散歩をさせながらこんなことを考えていた。……僕が小学生の頃、僕の十数軒の町内の組だけでも常時十人近くの小学生がいたものだった。……しかし今、目にする小学生はもう一人もいない(いつも朝挨拶を交わした子は昨年中学へ進学した)。……この町内から子供の歓声が聴こえなくなって久しい。……確かに僕だけではなく……世界そのものが老いたのだなあ、と感じたのだった……

2014/02/21

僕は

昔――僕が若い教師の頃知っていた少年がいた――彼はブログであらゆる現実に対して僕がいつも怒っていることを、いつも見ては、心配しては知人に語っていたという……昔馴染みのあの少年……僕はもっと愛さねばならなかった……あの少年のことを……僕はもっと愛さねばならなかった……

あの少年はもう……この世にはいないのだ……

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 20 実験室のスタッフ

 実験室の仕事はドンドン進んで行く。大学当局が助手として私につけてくれた、ハキハキした利口な男が、私が米国から持って来た蒐集品に、札をつけることを手伝う以外に、ボーイが一人いて、部屋を掃除し、片づけ、解剖皿から残品を棄て、別に用がなければ近郊へ行って、私のために陸産の貝や、淡水産の貝を採集してくれる。これ等の人々が如何にもいそいそと、そして敏捷に、物を学び、且つ手助けをすることは、驚くばかりである。学生の一人、佐々木氏は、人力車をやとって、市中の遠方へ採集に出かけた所が、車夫も興味を持ち出して採集した為に、材料を沢山持って帰ったと私に話した。

[やぶちゃん注:「大学当局が助手として私につけてくれた、ハキハキした利口な男」は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「18 教室・弟子・講義」に載る助手(正式職名は「教場助手補」)の種田織三(安政三(一八五六)年~大正三(一九一四)年)である。磯野先生によれば(前掲書一六八~一六九頁)、

   《引用開始》

種田織三は、舘(たて)藩(明治二年北海道檜山郡厚沢部(アッサブ)に新設)の出身。諸藩から推挙された「貢進生」の一人として明治三年に大学南校に入り、九年に東京開成学校予科を出た。松浦や佐々木、松村任三とは同級になる。しかし、理由はわからないが、種田は本科には進まなかった。そしてモースの助手になるのだが、モース留守中の大森貝塚発掘には参加していないので、雇傭はその後であろう。モース在任中は動物学教室の標本の採集や整理に従事、モースの北海道・東北旅行ならびに九州・関西旅行にも同行、モースにとっては無くてはならぬ人物だった。やがて、モース帰国直後に完成した博物場の管理を受け持ったが、明治十八年九月に東大を去る。その後、東京商業学校、山形県中学校、山形県師範学校などで教えていたらしいが、のちの消息は不明である。

 いま東京大学理学部動物学教室には、ダーウィンの『種の起源』第六版(一八七二年米国版)が一冊残されているが、それには『固(モ)ト此書ハ種田織三氏ノ所有ナリシモ故松浦氏ノ所有トナリ次テ佐々木忠次郎ノ所有スルモノナリ』と記した付箋がついている。種田は日本で『種の起源』にもっとも早く目を通した人の一人だったのである。

   《引用終了》

と記す。『のちの消息は不明である』とあるのだが、ネットで検索を掛けると、脇本茂紀氏(社民党で現在は広島県竹原市市会議員をなさっておられる)の公式サイトの内の「旧制忠海中学校初代校長・種田織三」(二回連載)に、上記の箇所を引用された後、

   《引用開始》

 この本では「種田ののちの消息は不明である」と書かれているが、この種田織三こそ、明治30年忠海中学校初代校長として「荊棘に満ちた過渡期を担い、光輝ある忠中史の礎石を固める」(梅林慈円「忠中先史時代への回想」『忠海高等学校の100年』P66)のである。

 忠海高等学校では創立百周年を記念して、書庫を整備したが、その蔵書のなかには、種田織三がその博学にもとづいて収集したであろう稀覯本が存在するそうである。

   《引用終了》

とあり、第二回の部分によって種田織三が明治二九(一八九六)年四月から明治三一(一八九八)年四月までの三年間忠海(ただのうみ)中学校初代校長として赴任していた事実が明らかになる。この忠海中学校とは現在の広島県竹原市忠海床浦四丁目にある広島県立忠海高等学校のことである。さらに「ひろしま英学・英語教育史」のサイト内に種田織三ページがあり、そこには明治二六年五月九日附で「尋常師範学校尋常中学校高等女学校英語科教員タルコトヲ免許ス(文部大臣井上毅)」(徳島県脇町中学校所蔵職員履歴書)というデータが、さらに『忠海中学ではデクラメーションと英文解剖の授業を行った。発音と一字一句の文法的解剖を徹底的に教えた』という附記が載る。これによって磯野先生が『消息は不明』とされていた種田氏の生涯は、晴れて明らかになったといってよいであろう。

「ボーイが一人」彼は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「18 教室・弟子・講義」に載る職員で、雑用係の菊池松太郎(正式職名は「雇」)である。その記載によれば、本書の他の箇所では「小使」「従者」「マツ」(この「マツ」という用字は今のところ、ここまででは出てきていないと思う。原文で検索もかけたが不明)と記されている人で、『前歴は皆目不明。またいつ動物学教室に来たかもわからない。モースの旅行には種田とともに従い、モースを助けた。器用なひとだったらしく、標本作成に熟練して重宝がられ、明治二十七年まで動物学教室にいた。その後、敬業社という博物学関係書の出版社にあった標本部に移ったが』、『以後の足取りはわからない』とある。

「佐々木氏」佐々木忠次郎。既注。]

中島敦 南洋日記 一月三日

        一月三日(土)

「きたかぜ」を讀む、エスキモー(グリインランド東岸の)生活記錄。著者はポール・エミイル・ヴィルトオルなる土俗學者。面白し、

[やぶちゃん注:これは恐らくフランスの極地探検家で民俗学者であったポール・エミール・ヴィクトール(Paul-Émile Victor 一九〇七年~一九九五年)の著作と思われる。彼はフランス極地探検隊の創設者で、一九四七年から一九七六年の約三十年の間に遠征隊を率いて北極圏のグリーンランドと南極圏のアデリー沿岸の極地探査に携わった。但し、「きたかぜ」に相当する書名は仏語ウィキ“Paul-Émile Victorには見出せなかった。ただ、精神科医藤田博史氏の公式サイト内に晩年の彼(引退後、彼はポリネシアのボラボラ島の環礁内にあるモツ・タネ島に住んでいた)と親しくした藤田氏がものしたポール・エミール・ヴィクトールを偲んでという感動的なエッセイがあり、それによれば、『一九三四年、二十七歳の時に、グリーンランドのエスキモー文化に強く惹かれるようになった』とあり、加えてそこには驚くべきことに、若き日の彼は実は当初の興味は極地なんどでにはなく、南太平洋のポリネシア文化であったとあるのである。敦が聴いたらきっと快哉を叫ぶ気がする事実ではないか。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(2)

紅棹に山吹流す小歌舟

君が醉歌に眠る春の川

 

小雨黄に垣木蓮に低うして

忍ぶに人の口疾(くちど)なる夜や

 

[やぶちゃん注:「垣木蓮」は原本では「桓木蓮」。少し迷ったが全集校訂本文を採った。「口疾」は形容詞ク活用の「口疾(くちと)し」で、返事や返歌の受け答えがす早いこと、または、もの言うさまが軽率だという謂いである。後者の意であろう。]

 

いさゝかは我と興ぜし歌も見き

いま寂寞にたえぬ野の路

 

[やぶちゃん注:「たえぬ」はママ。萩原朔太郎満十六歳の時の、『文庫』第二十三巻第六号(明治三六(一九〇三)年八月発行)に「上毛 萩原美棹」名義で掲載された七首の第四首、

 いささかは我れと興ぜし花も見き今寂寞にたえぬ野の道

と分かち書きを除けば相同歌。]

 

     何とてかの人の臆病なる

よれば戸に夢たゆたげの香ひあり

泣きたる人の宵にありきや

 

[やぶちゃん注:同じく『文庫』第二十三巻第六号(明治三六(一九〇三)年八月発行)に「上毛 萩原美棹」名義で掲載された七首の第二首、

 よれば戸に夢たゆげたげの香ひあり泣きたる人の宵にありきや

と分かち書きを除けば相同歌。]

 

      旅にいづる日

母や指をあしたかむなの百合の薰り

今宵枕の月にえたえぬ

 

[やぶちゃん注:「たえぬ」はママ。上句は、母が旅に出るその日に、「お前の癖の、朝の寝起きに指を嚙むのはいけないよ」と言ってくれた、その百合のような母の薫り、若しくはそれが現にある旅宿の百合の実際の薫りに導かれたという表現だろうか。識者の御教授を乞うものである。]

 

艷の名をたれや負はせし桃緋桃

ゆうべこの子に情もたぬ雨

 

[やぶちゃん注:「ゆうべ」はママ。「桃緋桃」は原本では「桃※桃」(「※」=「糸」+「兆」)。校訂本文を採った。]

 

雨細う情に春ゆく伏見途

京へ三里の傘おもからぬ

 

罪許せ臙脂(ゑんじ)梅花の緣(ゑにし)ふかき

別れなればの一夜の枕

 

[やぶちゃん注:読みの「ゑんじ」「ゑにし」はママ。]

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年十月

   那覇にて

ハブ壺をさげて從ふ童かな

 

   高野山

飮食(をんじき)のもの音もなき安居寺

 

[やぶちゃん注:「安居」は「あんご」と読み、元来はインドの僧伽に於いて雨季の間は行脚托鉢を休んで専ら阿蘭若(あらんにゃ:寺院)の内に籠って座禅修学することを言った。本邦では雨季の有無に拘わらず行われ、多くは四月十五日から七月十五日までの九十日を当てる。これを「一夏九旬」と称して各教団や大寺院では種々の安居行事がある。安居の開始は結夏(けつげ)といい、終了は解夏(げげ)というが、解夏の日は多くの供養が行われて僧侶は満腹するまで食べることが出来る。雨安居(うあんご)・夏安居(げあんご)ともいう(平凡社「世界大百科事典」の記載をもとにした)。この年、鳳作は紀州高野山に於ける俳誌『山茶花』夏行に参加するため近畿地方に旅行しているが、それは年譜によれば八月のことである。とすれば、この安居寺とは狭義の夏安居の時期ではなく、夏安居に相当する暑い夏の静寂に満ちた高野山金剛峯寺のそれを詠じたものであろう。

 

十方にひびく筧や安居寺

 

一方の沙羅の香りや安居寺

 

[やぶちゃん注:「沙羅」は「さら」若しくは「しやら(しゃら)」と読み、ツバキ目ツバキ科ナツツバキ Stewartia pseudocamelli の別名である。本邦には自生しない仏教の聖樹フタバガキ科の娑羅樹(さらのき アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta)に擬せられた命名といわれ、実際に各地の寺院にこのナツツバキが「沙羅双樹」と称して植えられていることが多い。花期は六月~七月初旬で、花の大きさは直径五センチメートル程度で五弁で白く、雄しべの花糸が黄色い。朝に開花し、夕方には落花する一日花である(ここは主にウィキのナツツバキ及びサラソウジュに拠った)。]

 

一痕の月も夕燒けゐたりけり

 

雨蛙をらぬ石楠木なかりけり

 

[やぶちゃん注:「石楠木」は「しやくなげ(しゃくなげ)」と読んでよかろう。「石楠花」では花に視点がフレーム・アップしまうのを避けた用字と思われる(但し、シャクナゲをかく表記するのは一般的とは言えない)。

 ここまでの六句は十月の発表句。]

飯田蛇笏 靈芝 大正二年(二十句)

   大正二年(二十句)

 

ゆく春や流人に遠き雲の雁

 

木戸出るや草山裾の春の川

 

古き世の火の色うごく野燒かな

 

人々の坐におく笠や西行忌

 

[やぶちゃん注:「西行忌」西行は建久元(一一九〇)年二月十六日に享年七十三歳で没した。但し、広く「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃」の詠歌に従い、西行が臨んだ前日の釋迦入滅の同日二月十五日を忌日とする傾向が強いから、これも十五日であろうか(私はこの習慣を頗るおかしいと思っている。西行も後世のそのような風習を決して望んでいないと私は思う)。なお、旧暦だと大正元年の二月十六日は三月七日(水曜)に相当する。]

 

林沼の日の靜かさや花あざみ

 

[やぶちゃん注:「林沼」は「りんせう」と音で読んでいよう。]

 

ひえびえと鵜川の月の巖かな

 

[やぶちゃん注:「ひえびえ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

行水のあとの大雨や花樗

 

[やぶちゃん注:「大雨」は「たいう」と音で読んでいよう。

「花樗」は「はなあうち(はなおうち)」と読む。センダン・一名センダンノキの古名。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach の花。初夏五~六月頃に若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数円錐状に咲かせる。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album)なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。]

 

あまり強き黍の風やな遠花火

 

囮鮎ながして水のあな淸し

 

[やぶちゃん注:「囮鮎」老婆心ながら、「をとりあゆ(おとりあゆ)」と読む。友釣り用のそれである。一般には雄よりも雌の方を用いた方が釣果が良いとされる。]

 

人の國の牛馬淋しや秋の風

 

秋風や野に一塊の妙義山

 

碪女に大いなる月や濱社

 

[やぶちゃん注:「碪女」は「きぬため」と読む。これは薪能での世阿弥の能「砧」の奉納舞の光景ででもあろうか。]

 

大峰の月に歸るや夜學人

 

ともし火と相澄む月のばせをかな

 

春隣る嵐ひそめり杣の爐火

 

冬の日のこの土太古の匂ひかな

 

雞とめに夕日にいでつ榾の醉

 

[やぶちゃん注:「雞とめに」の「雞」は「とり」で、恐らく庭に離してあった鷄を籠か小屋の内に留めに出たという景であろうが、下の句の「榾の醉」が分からぬ。蛇笏の真摯さからはこんなに早々と一人囲炉裏端に一献傾けていたとも思われぬから、これは囲炉裏端で榾を燃やしていたその熱気にふらりときたことをいうか。]

 

月低く御船をめぐる千鳥かな

 

山晴をふるへる斧や落葉降る

來意   山之口貘

 

   來 意 

 

もしもの話この僕が

お宅の娘を見たさに來たのであつたなら

をばさんあなたはなんとおつしやるか 

 

もしもそれゆえはるばると[やぶちゃん注:「ゆえ」はママ。]

旗ヶ岡には來るのであると申すなら

なほさらなんとおつしやるか 

 

もしもの話この話

もしもの話がもしものこと

眞實だつたらをばさんあなたはなんとおつしやるか 

 

きれいに咲いたあの娘

きれいに咲いたその娘

眞實みないでこの僕がこんなにゆつくりお茶をのむもんか。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月6日:ミス・タイプを訂正、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により注を全面改稿した】初出は昭和一〇(一九三五)年五月号『詩人時代』(発行所は東京市小石川区戸崎町の現代書房)。後に昭和一五(一九四〇)年三月十八日刊の萩原朔太郎編「昭和詩鈔」(冨山房)に同じく本詩集の「襤褸は寢てゐる」「鼻のある結論」と合わせて三篇が収録されている(他にも三回の再録あり。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題を参照されたい)。【二〇二四年十月十六日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

「旗ヶ岡」現在の東京都品川区旗の台(グーグル・マップ・データ)。旧荏原郡荏原町大字中延字旗ヶ岡。池上電気鉄道開業時(昭和二(一九二七)年八月)に「旗ヶ岡」駅(現在の東急の「旗の台」駅よりやや五反田寄りのあった)が出来、長くここの地域名として用いられて、現在も商店街にその名を冠する(ここまでは主にウィキの「旗の台駅」を参考にした)。推測であるが、本詩集刊行の前年の昭和一二(一九三七)年十二月に結婚した安田静江の実家がここにあったものか。これ以前にもバクさんには何人かの女性との恋愛関係はあったが、実家を訪ねる景からも、また、本詩集の祝祭性からも、貘の純情さからも、これは、妻静江への貘の『おもろそうし』なのだ!」と私は信じて疑わぬのだが。]

杉田久女句集 62 夕顔

 

夕顏に水仕もすみてたゝずめり

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年三十九の時の作。「水仕」は「みづし(みずし)」と読み、台所で水仕事をすること。]

 

夕顏やひらめきかゝりて襞(ひだ)深く

 

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年の作。]

 

夕顏を蛾の飛びめぐる薄暮かな

 

[やぶちゃん注:昭和三(一九二八)年の作。]

 

逍遙や垣夕顏の咲く頃に

 

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年の作。]

 

夕顏を見に來る客もなかりけり

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年三十九の作。個人的にこの夕顔句群、頗る附きで好きである。但し、以上に注した通り、実際には連作ではない。]

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 稻妻

 稻妻

 

いなづまを負ひし一瞬の顏なりき

 

[やぶちゃん注:芭蕉の名句「稻妻や顏のところが薄の穗」のインスパイアに見えるが、並べてみると不思議にこちらが自然、女性の句だと印象され、しかもそう感じた時に芭蕉のそれとは異なる凄絶さが読むものを襲うところが如何にも多佳子の句らしい。]

 

いなびかり想ひはまたもくりかへす

夜の 空の くらげ   八木重吉

くらげ くらげ

くものかかつた 思ひきつた よるの月

2014/02/20

耳嚢 巻之八 奢侈及窮迫事

 奢侈及窮迫事

 

 ある人かたりけるは、椀屋久兵衞といふ町人椀久(わんきゆう)と名を唱へ、遊興侈(し)をなす事人口にかいしやし、淨瑠璃又戲場の取組にもなしけるが、右久兵衞は大阪の町人にて甚(はなはだ)有德(うとく)の者なりしに、椀久と唱ふる者奢を極め遊興に長じ、身上(しんしやう)沒落して後は農人橋(のうにんばし)とか天滿橋(てんまばし)とかの邊りに幽(かすか)に家居(いへゐ)して、其さま乞食同樣に成りしを、世に有(あり)し時のとも是を憐み、誠にいにしへ椀久ともいはれし者、かゝる仕合(しあはせ)氣の毒なり、椀久いにしへあくまでも菜飯(なめし)に田(でん)がくを好みたる事なればと、彼(かの)久兵衞が小屋へたづね、昔を物語りして、好物の品ふるまわん間いつか來れと約し、厚く忝(かたじけなし)と禮いふて其日に至り來りけるゆえ、兼て奢れる久兵衞なれば迚、菜飯田樂ともにいかにも心を用ひ振まひしに、菜飯一二盃田がく二三本を食して、最早給(た)べまじきといふゆゑ、格別の好物と聞(きき)て心を用ひしに、いかに少しくたべ給ふと尋(たづね)しに、是(これ)にて事たれりとて箸を止めけるゆゑ、衰へぬれば食事もかくあるやと思へど、譯もあらんと切(せち)に尋ねければ、しからば可申(まうすべし)、菜飯は美濃の上白米にて、京菜を一枚づつ撰びて焚き、田樂も祇園の水にて拵(こしらへ)し豆腐、其外串(くし)幷(ならび)に附(つく)る味噌も、しかじかになして給(たべ)しゆゑ、むかし菜飯田樂の好物の名を取りしなりと答(こたへ)し由。かゝる奢にては衰へしもしかあるべしといひし事を、今は聞(きき)傳へしと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:笑われることへの武士の恥の拘りから零落すれどもお大尽の拘りという点では何か不思議に繋がって読める。

・「奢侈及窮迫事」は「しやしきゆうはくにおよぶこと」と読む。「奢侈」(しゃし)は度を過ぎて贅沢なこと、身分不相応に金を費やすこと。

・「椀屋久兵衞」一説に椀屋久右衛門とも。大坂難波御堂前に住んでいた豪商であったが、新町の傾城松山と馴染み、豪奢の果てに破産、親族によって座敷牢へ押し込められた末、気鬱から発狂して京都五条坂辺で養生したが、延宝五(一六七七)年六月二十一日に病死(狂死又は水死)したという。底本の鈴木氏注によれば、『その豪遊ぶりは、中元に正月の遊びをするという企てで、廓中の青楼に門松を立てさせ、自ら年男となり、歩金小粒を桝に入れて座敷々々を撒き歩いて、太鼓末社』(幇間。太鼓持ちのこと。弁慶・男芸者などの別称が多い)『に拾わせた』とある。彼と松山の情話は当時、数多くの歌舞伎・浄瑠璃・音曲・小説などに仕組まれた。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年であるから、彼の死からは既に百三十年も経過している。都市伝説としては頗る古いものである。

・「農人橋」現在は大阪府大阪市中央区を流れる東横堀川に架かる中央大通平面道路の橋及び東詰周辺の町名。

・「天滿橋」現在は大阪市北区を流れる大川に架かる橋及び同天満橋南詰周辺の地域名。現在の農人橋とは直線で凡そ千二百メートルほど離れており、現行では常盤町から天満橋京町まで多くの町を含む。

・「祇園」岩波版で長谷川氏は「祇園の水にて」に注されて、『京都祇園の二軒茶屋の田楽豆腐は名物』とある。平凡社「世界大百科事典」の「茶店」の項には『祇園社内の2軒の店と北野社門前の店に始まるとされ、〈二軒茶屋〉の名で知られた前者の〈祇園豆腐〉と後者の粟餅は,江戸初期すでに著名なものであった』とあり、同「豆腐」の項には、『豆腐料理店は各地にあったが、最も古いのは慶長年間(1596―1615)までにできた京都祇園社境内の二軒茶屋で、祇園豆腐と呼ぶ田楽を売物にし、江戸にもこれを称する店が多くあった』とある(孰れの引用もコンマを読点に変えた)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奢侈の果て窮迫に及べる事

 

 ある人の語ったことに……

 

……椀屋久兵衛と申す町人、これ「椀久(わんきゅう)」と自称致いて、その遊興、奢侈に及びしことは、これ、人口に膾炙致いております通りで、浄瑠璃やら、はたまた歌舞伎芝居なんどへも仕組まれて御座りまする。……さてもこの久兵衛と申すは、これ、大阪の町人にて、もとは世にも大層なる豪商として知られた商家にて御座いましたが、「椀久」と唱えしこのの者、これ、奢侈を極め、遊興に現をぬかし、身上(しんしょう)没落致しまして後は……これ、農人橋(のうにんばし)とか天満橋(てんまばし)とかの辺りの、みすぼらしき茅屋に住まいなして御座ったものの、その有様は、もうこれ、乞食同前のもので御座いました。……「椀久」がお大尽として世に知られて御座った折りの友が、これを知って憐み、

「……誠に……古え「椀久」とも評判をとった者……かかる始末と相い成りしこと……実に気の毒なことじゃ。……そうじゃ……かの「椀久」……古えにては、飽くまでも菜飯(なめし)に田楽を好んで御座ったればこそ……」

と、かの久兵衞が小屋を訪ね、往時の物語りなんど致いた上、

「……一つ、好物の品なんど振る舞わんと思うによって……何時何時(いついつ)に拙宅へ参らるるがよろしい。……」

と約したところが、厚く、

「……それは忝(かたじけな)きこと……」

と礼を述べて御座ったと申す。

 さてもその日に至り、かの「椀久」、友が屋敷へ参ったによって、その友は兼ねてよりの奢りたる久兵衛なればとて、菜飯も田楽も、ともに相応の上製の品を素材に、如何にも心を込めて振る舞(も)うて御座った。

 ところが、菜飯は茶碗一、二杯――

 田楽も二、三本を食うたところで――

「……最早……食べとうは御座らねば……」

と申したによって、

「……格別の好物と聞いて御座ったればこそ、心を込めてよきものを拵えて御座ったに…如何にも少ししかお食べになられぬとは……これ……」

と訊ねたところ、「椀久」、

「……いやいや……これにてすっかり満足致いたれば……」

と静かに箸を置いた。

 されば、かの友なる者、

『……すっかり年老いたによって……これ、食事も細ぅなったるものか……』

と思うたれど、どうも様子のおかしきところの見えたれば、何か悪き病いにでも罹って御座るのではと心配致いて、

「……これ以上はお食べにならぬとは……何か……これ、きっと訳の御座ろうほどに……一つ正直にお聞かせ下さらぬか?……」

と切(せち)に訊ねたところが、遂に「椀久」、

「……しからば……申し上げましょうぞ。――そもそも菜飯は美濃の上白米にて製し、よき京菜を一枚ずつこれ選びて炊き、田楽も祇園の水にて拵えたる豆腐にて――その外にも串並びにつくるところの味噌もこれ、しかじかの産のものをしかじかに調え製したるものを用いて食べて御座ったによって――我ら「椀久」――昔――「菜飯田楽を好物とせる者」――との名を世間にて貰(もろ)うて御座った。……この度……供されたこれらは……残念なことに……我らが口には……合い申さねば、のぅ。……」

と答えたと申しまする。……

 ……かかる奢侈にては、これ、衰えんは必定ならんと、世間にても言い習わして御座った……ということを、我ら、今に伝え聞いて御座いまする。……

 

とのことで御座ったよ。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 日蔭の茶屋 

    ●日蔭の茶屋

今は昔軍見山の山蔭に些(さゝや)かなる茶店ありき鎌倉より三浦三崎の往還とて、日々(にちにち)往復するもの、此茶店に憩ひて、晝飯をしたゝめける、三崎よりするも鎌倉よりするも、殆むと道程(みち)の中央(なかば)なればにや、誰(た)れ彼となく休憩(やす)むことゝしつ、いつしか隱れなきものにせられつる斯くて海水浴場の開くるに從ひ、純然たる旅館となり、一大宏樓を起す、日蔭の茶屋を知らぬものもなし。

東京或は横濱(はま)より來て、別莊の用意などなき人々は、概ね此茶屋に宿(しゆく)するか、さなくは別項に記したり、養神亭、長者園に投す、此日蔭の茶屋は外國人を迎ふるの準備も聊か整ひ居れば、時たま碧眼紅毛の客を見ることあり。宿泊のみならず、料理も營めば、何のこともなし、手を三ッ鳴らせば、鮮肴佳酒立ろに呼ぶを得べく、凉風攔を吹いて衣袂爲めに濕(うるほ)ひ、前面は開く遠淺の海水浴場、豆相の翠巒煙の如し。

[やぶちゃん注:「軍見山」は「いくさみやま」と読む。鐙摺山のこと。既注。

「日蔭の茶屋」は既注。

「養神亭」は項として前出。

「長者園」の既注で項としては後に出る。

「衣袂」は「いべい」と読む。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 19 晩餐二景

 今晩菊池教授が晩餐に来た。我々は十時までドミノをして遊んだ。我々がそれをやっている最中に、彼の人力車夫が縁側へ上って来て、閉ざした鎧戸の間から声をかけた。日本の家屋には呼鈴というようなものがないので、彼も鈴を鳴らすことは知らなかったのである、彼は先ず低い声で(日本語であることはいう迄もない)、「一寸お願いがあります」といい、次に自分の主人がいるかどうかを質ねた。姿の見えぬ彼の声を聞くことは、実に奇妙だった。私は単に、日本人が生れつき丁寧であることの一例として、この出来ごとを記するにとどまる。

[やぶちゃん注:「菊池」東京大学理学部教授(純正化学及び応用数学担当)菊池大麓。既注。当時数えで二十四歳。

「ドミノ」底本では直下に石川氏の『〔卓上遊戯の一種〕』という割注が入る。

「記するにとどまる」はママ。]

 

 純日本風の生活をしている外山教授が、自宅へ我我一家族を、晩餐に招待してくれた。家へ入るに先立って、我々はすべて靴を脱ぎ、それを戸外に置いた。子供達は、水をジャブジャブやる時か、寝床へ入る時か以外に、靴をぬいだことなんぞ無いので、大きに面白がった。外山氏の夫人と令妹とが我々にお給仕をし、我々の食事が終ると彼等が食事をした。家へ入ると、先ずお茶と、一種の甘いジェリー菓子とが出た。正餐は四角な漆器に入れて持ち出され、我々は床に坐っていて、盆も我々の前に置かれる。子供達が、慣れ親んでいる食物とはまるで味の違う、いろいろな食品を食おうとする努力は、見ていて興味が深かった。私は徐々に、殆どすべての味がわかりつつあり、非常に好きになった料理もいくつかある。お汁が二種類出た。一つは水のように澄んでいて、中に緑色の嫩枝(わかえ)がすこしと、何等かの野菜を薄く切ったものとが入っていた。他の一つはカスタードに似ていて、煮た鰻と茄子とが入っていた。次には一種のオムレツ、百合根、ヤムの白いようなもの、それから色は赤味がかった緑色で、実に美味な一枚の長い葉とが出た。食品の主要部分は野菜である。外山の小さな姪が、我々のために彼女の母親の三味線に合わせて、踊って見せてくれた。この舞踊は、典雅な姿態と様子とからなり、誠に可愛らしかった。これは事実に於て無言劇で、歌い手が言葉で主題を提供し、舞い手は身ぶりによって、その物語の要点を真似するのである。

[やぶちゃん注:「外山教授」外山正一。既注。当時数えで三十一歳。

私の乏しい和食・和菓子の知識では、ここ出る「一種の甘いジェリー菓子」であるとか、「カスタードに似ていて、煮た鰻と茄子とが入っ」た料理(私の妻曰く、「茶わん蒸しじゃないの?」)、果ては「色は赤味がかった緑色で、実に美味な一枚の長い葉」とは何物か、見当もつかない。これまた情けなくも識者の御教授を乞うものである。

「カスタード」底本では直下に石川氏の『〔牛乳と鶏卵とを混ぜて料理したもの〕』という割注が入る。

「ヤム」底本では直下に石川氏の『〔薯蕷〕』という割注が入る。「薯蕷」は音「しょよ」であるが恐らくは「ながいも」と訓じておられよう。長芋(単子葉植物綱ユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea batatas)のことである。]

中島敦 南洋日記 一月二日

        一月二日(金)

 午後より、中島幹夫、材料を仕入れ來り、土方氏方にて、鍋三杯のしるこを作り、腹一杯喰ふ。うまし。餅も充分あり、砂糖は三百匁使ふ。

[やぶちゃん注:「中島幹夫」二十四日の注で示した岡谷公二氏の「南海漂蕩 ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦」に、南洋群島での文化活動を行っていた南洋庁の外郭団体「南洋群島文化協会」で月刊誌『南洋群島』の編集長で、土方久功と親しく交わった人物である旨の記載がある(但し、敦はここコロールに来て土方を通じて初めて逢ったらしい)。彼の姓名はここ一ヶ所にしか現れないが、岡谷氏はフル・ネームの記載で「氏」を附していない点に着目し、敦より『年下で、かなり気安くつきあっていたふしがある。しかし敦は滞在わずか八ヶ月で帰国し、その年に早逝してしまうし、島に残った幹夫のほうも、昭和十八年、アメリカ軍の爆撃によって死亡したため、二人の間柄がどのようなものであったかは、今となってはわからない』と記しておられる。

「三百匁」一キロ二百五十グラム。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(1)

[やぶちゃん注:向後暫く、底本の「萩原朔太郎全集」第十五巻所収の「ソライロノハナ」(昭和五二(一九七七)年に萩原家が発見入手したもので、それまで知られていなかった自筆本自選歌集。死後四十年、製作時に遡れば実に六十余年を経ての驚天動地の新発見であった。「自敍傳」のクレジットは『一九一三、四』で一九一三年は大正二年で同年四月時点で朔太郎は満二十七歳であった)の歌群「若きウエルテルの煩ひ」の章から順次短歌を掲載する。

 私は既に「ソライロノハナ」の内、

 自敍傳

 大磯ノ海

 平塚ノ海

をブログにて電子化しているので参照されたい。最終的には「ソライロノハナ」総てを電子化する予定である。]

 

柴の戸に君を訪ひたるその夜より

戀しくなりぬ北斗七星

 

春こゝにこゝに暫しの花の醉に

まどろむ蝶の夢あやぶみぬ

 

ゑにし細う冷たき砂にたゞ泣きぬ

戀としもなき濱のおぼろ月

 

[やぶちゃん注:「ゑにし」はママ。この一首は、一ノ宮青松館から出された明治三五(一九〇二)年八月十三日消印萩原栄次宛葉書に載る三首の内の一首、

えにし細う小き砂にたゞ泣きぬ歌は名になき濱のおぼろ月

の相似歌であるが、かなり印象が異なる。]

 

朝ざむを桃により來しそゞろ路

そゞろ逢ふひとみな美しき

 

[やぶちゃん注:この一首は萩原朔太郎満十六歳の時、『坂東太郎』第三十四号(明治三五(一九〇二)年十二月発行)に掲載された、最初期の短歌五首連作「ひと夜えにし」の三首目、

 

 あけぼのの花により來しそぞろ道そぞろあふ人皆うつくしき

 

の類型歌である。]

 

忍ひつゝ人と添ひ來し傘の一里

香は連翹の黄と迷ふ雨

 

[やぶちゃん注:「忍ひつゝ」はママ。下句は「ソライロノハナ」原本では「香は連翹の黄と述ふ雨」となっているが、これでは如何にも意味も通らず、韻律も悪い。やや躊躇は感じるが底本の誤字を支持し、ここは校訂本文の「迷ふ」を採った。]

 

繪日傘は桃につゞきて淸水院の

御堂十二に晝の鐘なる

 

[やぶちゃん注:「淸水院の御堂十二」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

我れ寧ろ煩(もだ)へに悶へ戀に戀ひて

野邊に我が世を笛吹かん願ひ

 

[やぶちゃん注:「煩へ」「悶へ」は孰れもママ。]

 

君に逢はず山百合つみて歸りくる

小出松原なくほとゝぎす

 

[やぶちゃん注:「小出松原」「純情小曲集」(大正一四(一九二五)年八月新潮社刊)の「郷土望景詩」の私の偏愛する一篇「小出新道」の自註「郷土望景詩の後に」に「小出松林」で出る。一群の鳥(歌) 萩原朔太郎 短歌十三首  附習作ニ十首 大正二(一九一三)年八月の私の注を参照されたい。]

飯田蛇笏 靈芝 明治四十五年(五句)

   明治四十五年(五句)

       ――大正元年――

 

門前に牛羊あそぶ社日かな

 

野おぼろに水口祭過ぎし月

 

[やぶちゃん注:「水口祭」は「みなくちまつり」と読み、稲作儀礼の一つ。一年の豊作を祈願して苗代に種籾をまいた日に水口(水田への水の取り入れ口)で行う田の神への神饌の儀式。この水口に土を盛って躑躅・山吹・栗などの当季の花や木の小枝などを刺し立て、お神酒や籾の残りで作った焼き米を供える。]

 

二三人薄月の夜や人丸忌

 

[やぶちゃん注:「人丸忌」歌聖柿本人麻呂の忌日。陰暦三月十八日で明治四五(一九一二)年は五月四日の土曜に当たっていた。当日の月齢は一六・六で大潮で十五夜であった五月一日から三日目の居待月であった。]

 

雪掃けば驛人遠く往きにけり

 

[やぶちゃん注:この「驛人」(えきびと)とは馬で荷を運送す人夫のことであろうと私は読んだが、後に「踏切」の句が並ぶとやや自信がなくなる。しかしこれが鉄道の「驛」だとすると、「驛人」という語の如何にもな生硬さ(それは人足の意であっても異例で大差ないが)と「遠く往きにけり」の表現が嚙み合わないように私には感じられる。]

 

踏切の灯を見る窻の深雪かな

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「深雪」は「みゆき」と読み、本来は「み」は美称の接頭語で雪の美称、或いは、深く積もった雪・深雪(しんせつ)をもいう。「窓の」とあるから前者でとるのが自然であろう。]

思辨   山之口貘

 

   思 辨

 

科學の頂點によぢのぼる飛行機類

海を引き裂く船舶類

生きるとかいふ人間類 

 

ではあるが

生きつ放しの人間なんてないもんか

生きるのであらうかと思つて見てゐるとみるみるうちに死んでしまふ人間類

ゆきつ放しの船舶なんてないもんか

出帆したのかと思つてゐたら戾つて來てゐる船舶類

飛びつ放しの飛行機なんてないもんか

昇天するのかと思ふまに垂下して來る飛行機類 

 

まるで

風におびえる蛾みたいに

金粉を浴びては

翅をたゝみ

胴體にひそんでは

ふるえあがり

文明ともあらう物達のどれもこれもが夢みるひまも戀みるひまもなく 米や息などみるひまさへもなくなつてそこにばたばたしてゐても文明なのか

あゝ

かゝる非文化的な文明らが現實すぎるほど群れてゐる

みんなかなしく古ぼけて

むんむんしてゐる神の息吹を浴び

地球の頭にばかりすがつてゐる。

 

[やぶちゃん注:「ふるえ」はママ。【以下、2014年6月6日 ミス・タイプを訂正、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により全面改稿】初出は昭和一一(一九三六)年十一月発行の『歴程』で、後の昭和一六(一九四一)年二月発行の『歴程詩集 紀元二千六百年版』に先に示したように「加藤淸正」「友引の日」「彈痕」「日曜日」の四篇とともに再録された。【二〇二四年十月十六日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。本文にミス・タイプがあったので修正した。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では七行目が、

生きるのであらうかと思つて見てゐると みるみるうちに死んでしまふ人間類

に、十九行目が、

 

文明ともあらう物達のどれもこれもが 夢みるひまも戀みるひまもなく 米や息などみるひまさへもなくなつてそこにばたばたしてゐても文明なのか

 

に改稿されている。]

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年九月 

   毒蛇

  沖繩にはハブ捕りを先祖代々より

  の家業としてゐる者があり、方言

  にて「ハブトヤー」と称してゐま

  す。砂や石垣を嗅ぎ歩いてハブの

  所在を知り多くは是を手捕りにし

  ます。鎌首を捉へるのです。簡単

  な罠にかけて捕る場合もあります。

  捉へたハブは一しごきすると死に

  ます。

 

炎天に笠もかむらず毒蛇とり

 

炎天や笠もかむらず毒蛇とり

 

[やぶちゃん注:前者は九月の『泉』発表句形、後者は昭和八(一九三三)年前後に自身が編んだ作品集「雲彦沖繩句輯」(公刊されたものではない)に載る句形。]

 

手捕つたるハブを阿呍の一しごき

 

飴伸ばす如くにハブをしごきける

 

[やぶちゃん注:「ハブトヤー」の文字列では検索で捕捉出来ない(これが本土ならば祭儀主催者を意味する「頭屋」や「当屋」を当てたくなるところだが無論違う)。沖縄方言で「家」は「やー」で「ト」は「捕る」の意か。「本家」を「むーとやー」「うふやー」と呼ぶが、もしかすると「ハブ(捕りの)本家」で「はぶむーとやー」が約されたもののような気もした。沖縄方言にお詳しい方の御教授を乞うものである。なお、「嗅ぎ歩いてハブの所在を知」るとあるが、実際のハブの体表は人間の嗅覚上はほぼ無臭に近い。ではこのハブ捕り職人は何を嗅ぎ分けているのかといえば、恐らくはヘビ類一般が持つところの尾の基部にある一対の臭腺からの臭いを嗅いでいるものと思われる。沖縄県の配布しているハブについての文書「ハブはこんな動物」によれば、この臭腺の内部に強い臭いを持った褐色の液体が入っていて、人が摑んだりするとこの液体を霧状に噴出させることがあり、種によって多少の差があるものの、キナ臭い匂いに近いもので、手などに附着するとなかなか落ちないとある(これは他個体に対して外敵からの攻撃の危険を知らせる効果があるという説がある)。]

 

   我が宿

この島の乏しき菖蒲葺きにけり

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「菖蒲葺きにけり」は一般には「あやめふきにけり」(但し、「菖蒲」はそのまま「しやうぶ(しょうぶ)」と読んでも構わない)と読んで端午の節句の行事として前の夜から軒に菖蒲(しょうぶ)をさす行事をいう。邪気を払い家を火災から防ぐとされる。]

 

濱木綿や礁に伏せある獨木舟

 

[やぶちゃん注:「礁」は音「せう(しょう)」であるが、それでは如何にもである。私は「いは」と読みたくなる。また言わずもがな乍ら、「獨木舟」は「まるきぶね」と読む。]

 

干されある藻の金色や紫や

 

[やぶちゃん注:例えば心太や寒天の材料になる紅色植物門紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae に属するテングサ類(「テングサ」とは一種の名称ではなく、そうした材料となるテングサ藻類の総称である。テングサ属マクサ Gelidium crinale を代表種として、他にも同テングサ属のオオブサ Gelidium pacificum・キヌクサ Gelidium linoides・オニクサ Gelidium japonicum・ヒラクサ属のヒラクサ Ptilophora subcostata・オバクサ属のオバクサ Pterocladiella tenuis・ユイキリ属ユイキリ Acanthopeltis japonica 等多様の種を含む)は概ね採取時には種によって強い濃淡の違いがあるものの全般に赤紫色を呈しているが、海岸で天日干しと何度もの水洗い作業を繰り返すことによって黄色い飴色(金色)に変じてゆく。]

 

  那覇の廓

港より見えて廓の土用干

 

[やぶちゃん注:実に色彩鮮烈な諧謔に富んだ洒落た句である。]

 

芭蕉林ゆけば機音ありにけり

 

玉卷ける芭蕉を活けてありにけり

 

短夜守宮しば鳴く天井かな

 

破れなき芭蕉若葉の靜けさよ

 

榕蔭の晝寢翁は毒蛇捕り

 

[やぶちゃん注:「榕蔭」は「よういん」又は「ゆういん」で、「榕」は半常緑高木であるイラクサ目クワ科イチジク属 Ficus superba 変種アコウFicus superba var. japonica を指す。ウィキアコウ」によれば、漢字では「榕」「赤榕」「赤秀」「雀榕」などと表記し、国内では紀伊半島及び山口県・四国南部・九州・南西諸島などの温暖な地方に自生する。樹高は約一〇~二〇メートル、樹皮は木目細かい。幹は分岐が多く、枝や幹から多数の気根を垂らして岩や露頭などに張りつく。新芽は成長するにつれて色が赤などに変化して美しい。葉は互生し、やや細長い楕円形で滑らかで光沢はあまりなく、やや大ぶりで約一〇~一五センチメートル程。年に数回、新芽を出す前に短期間落葉する。但し、その時期は一定でなく同じ個体でも枝ごとに時期が異なる場合もある。五月頃にイチジクに似た形状の小型の隠頭花序を幹や枝から直接出た短い柄に付ける。果実は熟すと食用になる。『琉球諸島では、他の植物が生育しにくい石灰岩地の岩場や露頭に、気根を利用して着生し生育している』とある。]

 

ハブ捕にお茶たまはるやお城番

 

ハブ捕の嗅ぎ移りゆく岩根かな

 

ハブ踊る罠ひつ提げて去りにけり

 

ハブ穴にまぎれもあらぬ匂かな

 

兩側に甘蔗の市たつ埠頭哉

 

[やぶちゃん注:以上十八句は九月の創作・発表句。]

杉田久女句集 61 雨のごと降る病葉の館かな

雨のごと降る病葉の館かな

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 霧を航く

 霧を航く

 

埠頭の燈(ひ)去りゆき霧の航につく

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。本歌群内では以下同じ。]

 

あかつきの舷燈よごれ霧をゆく

 

霧を航き汽笛の中を子が驅くる

 

霧を航き船晩餐の燈を惜しまず

 

船室(キヤビン)も霧寢臺(ベツド)の帳ひきて寢る

草に すわる   八木重吉


わたしの まちがひだつた

わたしのまちがひだつた

こうして 草にすわれば それがわかる

 

[やぶちゃん注:一行目と二行目の違いは朗読を愛する者ならば神韻絶妙のものでそれが三行目の搖るぎないリズムの重厚さとマッチする。こういう詩は最も朗読が難しい代わりに最も朗読したくなる麻酔的誘惑を持っている。]

2014/02/19

第一版新迷怪国語辞典 あ(感動詞)

(感動詞)

1 何かを急に思い出すか若しくは気づいた際(そこでは「あ」に示した通り、無批判に本来的に手前勝手に所有を認識していたはずの対象が喪失・離脱するケースが多い)に思わず(というところに既にして対象喪失を齎すところの安易な所有意識前提が見え隠れしている)発する語。それはしばしば発生した個人の絶対的エゴイズムを露呈させる属性をも持つ。「アツ苦しいナ、痛いナ、アーアー人を馬鹿にして居るぢやないか、馬鹿、畜生、アツ、アツ痛、痛イ痛イ、寢返りしても痛いどころか、じつとして居ても痛いや。」(正岡子規「煩悶」)

2 応答で用いる語。但し、「はい」という丁寧な応答が面倒なので一音化している点で対象を無意識的に対等以下に見下している場合に多用する。さらに近年では「あ↺?」と語尾を尻上げて戻ることによって疑問化しつつ、対象者を完膚なきまでに侮蔑するおぞましい方法を男女老若問わず好んで使用するようになった。これは「応答」語としては最下劣な用法であるが、麻薬的な蔓延を見せている。

第一版新迷怪国語辞典 始動 / あ

ブログ・カテゴリ「第一版新迷怪国語辞典」(藪野直史編)を創始する。

見出し語は太字で示し、意味は適宜改行する。

これによって五十七歳の私の新しい絶対に完成し得ないプロジェクトを新たに始めるのである。一部では大槻文彦編「言海」などの個性的な辞書を参考にしつつ、オリジナルの「悪魔の辞典」を目指すが、完成は出来ないであろう。それでよい。そんなものが欲しかった。――それだけのことです――

 

 

五十音図あ行第一段の仮名で国語学では「後舌の広母音」という。

人間の幼児(それも如何なる人種に於いても、と推測してよい)が最初に発するであろう確率の最も高い音。

それは何かを発見したり、初めて認識したりして驚いたり、若しくは喪失したりする要因に基づくものである。

とすれば「あ」とは辞書の初めであるのみならず、ヒトが最初に発音するところの感情的にして知性的な「音」の原器である。問題はそれが「発見」とその発見による所有欲の「認識」とその速やかな「喪失」に関わるものであることである。

「あ」は従って常に発見と喪失と同義の原音に他ならない。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 鳴鶴が崎

    ●鳴鶴が崎

富士見橋を東方に渡りて南に往く此の處岬なり、里俗往昔賴朝公此處を通行ありて景色の秀美なるを眺め給ふ折りしも鶴啼き渡りて耳を掠めければ、賞觀(しやうくわん)ありて暫時休憩せらしことあり、鳴鶴(なきつる)が崎と呼ぶ、眺望濶くしって富岳江の島雨降山の嶺など遠く白波の末に連なり、實に佳絶勝絶の地といふべし。

[やぶちゃん注:「鳴鶴が崎」田越川に沿って逗子湾に落ちる低い峰の旧称。現在の桜山九丁目附近。]

モースの出逢った「ショーリン」とは元福山藩士で画家であった藤井松林である!

「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 14 「ショーリン」という絵師のこと」に只今、追記した。僕はこのモースが逢った“Shorin”(ショーリン。訳文は「松林」で訳者石川氏は「?」を附す)とは元福山藩藩士「藤井松林」であったと断定し、今回、更に追記を附した。その論拠はリンク先のそれをご覧あれ! これ――僕にはかなり自信がある!



今回のモースの一件で僕にとって何より素晴らしかったことは、教え子の「ゆうき」やミクシィのマイミクの「からからこ」姐御が全くの無私で、この僕の貧しい注記をより優れた高みへと導いてくれたことである。これこそがネット世界の僕へのこの上ない賜物なのである。

中島敦 南洋日記 昭和十七年一月一日

      昭和十七年一月一日(木)

 八時半より役所にて式、

 食堂の雜煮は凡そすさまじきものなり。しかも晝・夜二食分の折詰は、どう見ても一食分にしか當らず、十一時迄に二食分の折詰食ひ終る、十一時半土方、高松氏とアラカべサンに向ふ。途中スコールに降られる。渡船場に到る頃はすでに止む。渡し舟十分にして島に着き佐伯氏宅に行く。鰐魚を見る、試みに石を投ずれば、怒りて、カツと血の氣なき口を開く。コーヒーうまし。家鴨。晩食の馳走に預かり、七時過の渡船にて歸る。

 昨夜の土方氏の蛸とりの話頗る面白し。リーフの穴に潛める靖をピスカンにて突くに突かれながら蛸が足を長く伸ばして、突手の手に吸ひつく話。ピスカンの尖端が蛸の身體を突貫くや、直ち蛸は、貫かれたるまゝ手許まで上つてきて、吸ひつく話。大蛸に胸をだかれて嚙みつかれ、その頭をつかんで離さんと格鬪する話。月夜に蛸が上陸し、椰子の木に登りて椰子蜜を飮む話。剽悍なる巨口の大魚タマカイの話。魚の巣なる岩穴にピスカンを突込みし瞬間ブルブルッと電氣に觸るゝ如き手應へありし時の感じ。魚大きく穴小さくして、引出し難き時、石もて、リーフの岩を碎く話。波荒き時、作業困難なる時、ピスカンを穴中の獲物につき立てたる儘、水面に浮かび出て息(イキ)をつく話。小さき蛸なれば、揃へて直ちにその口にかみつきて殺すも、嚙まんとする時、忽ち墨を吹かるゝことありと。

 阿刀田氏によれば、熱帶の生物は凡て雄に比べて雌の數壓倒的に多しと。

[やぶちゃん注:「アラカべサン」アラカベサン島(Ngerekebesang Island)。現在のパラオ共和国コロール州に属する島の一つで同国のコロール島の北西沿岸にある。参照したウィキアラカベサン島によれば、マルキョク州に遷都するまではこの島に大統領府があった。コロールの中心部からはやや離れており、リゾート・ホテルが多く点在、日本大使館もこの島にある。『アラカベサン島とコロール島の間には陸橋で接続されている。この陸橋は日本統治時代に建設され、今でも改修しながら使用されている』とあるが、敦は船で渡っている。地図上で見ると約一キロメートルほどの橋である。

「鰐魚」これは実際の鰐で、パラオに棲息するワニ目クロコダイル科クロコダイル属イリエワニ Crocodylus porosus のことと思われる。ウィキイリエワニ」によれば、現生爬虫類の中では最大級の一種で、オスの平均は全長五メートル・体重は四五〇キログラムに及ぶ(最大個体では全長八・五メートルを超えるものが記録されている)。口吻はやや長く基部の一・七五~二倍に達し、隆起や畝がよく発達する。下顎の第一歯が上顎の先端を貫通しており体色は緑褐色で、『主に汽水域に生息し、入江や三角州のマングローブ林を好む。イリエワニという和名もこれに由来する。地域によっては河川の上流域や湖、池沼などの淡水域にも生息する。海水に対する耐性が強く、海流に乗り沖合に出て島嶼などへ移動することも』可能であることから、実は日本でも奄美大島・西表島・八丈島などでの発見例があるとある。

「椰子の木に登りて椰子蜜を飮む話」「椰子蜜」は単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ココヤシ Cocos nucifera(又はその仲間)に咲く花の蜜で、実際に「ナチュレハニー」という蜜が採れる。さて、ここに出た蛸の上陸摂餌の話については、寺島良安の和漢三 第五十一 魚類 江海無鱗魚の「章魚 たこ」の章にも『性、芋を好き、田圃に入り、芋を掘りて食ふ』」とあり、そこで私も以前長々と注した。それを少し加工して以下語らせて貰う。この現象は本邦でもかなり人口に膾炙した話なのではあるが、残念ながら私は一種の都市伝説の類いであると考えている。しかし、タコが夜、陸まで上がってきてダイコン・ジャガイモ・スイカ・トマトを盗み食いするという話を信じている人は実は確かに結構いるのである。事実、私は千葉県の漁民が真剣にそう語るのを生まで聞いたことがある。また一九八〇年中央公論社刊の西丸震哉著「動物紳士録」等では西丸氏自身の実見談として記されている(農林水産省の研究者であったころの釜石での話として出てくる。しかしこの人は、知る人ぞ知る、人魂を捕獲しようとしたり、女の幽霊にストーカーされたり、人を呪うことが出来る等とのたまわってしまうちょっとアブナい人物である。いや、私は実はフリークともいえるファンなのだが)。実際に全国各地でタコが畠や田圃に入り込んでいるのを見たという話が古くからあるのだが、生態学的にはタコが海を有意に離れて積極的な生活活動をとることは不可能であろうと思われる。心霊写真どころじゃあなく、実際にそうした誠に興味深い生物学的生態が頻繁に見受けられるのであれば、当然、それが識者によって学術的に、また好事家によって面白く写真に撮られるのが道理である。しかし、私は一度としてそのような決定的な写真を見たことがない(タコさま……じゃあない……イカさまの見え見え捏造写真なら一度だけ見たことがあるが、余程撮影の手際の悪いフェイクだったらしく、可哀想にタコは上皮がすっかり白っぽくなり、そこを汚く泥に汚して芋の葉陰にぐったりしていたシロモノであった)。これだけ携帯が広がっている昨今、何故、タコ上陸写真が流行らないのか? 冗談じゃあ、ない。信じている素朴な人間がいる以上、私は「ある」と真面目に語る御仁は、それを証明する義務があると言っているのである。例えば、岩礁帯の汀でカニ等を捕捉しようと岩上にたまさか上がったのを見たり、漁獲された後に逃げ出したタコが畠や路上でうごめくのを誤認した可能性が高い(タコは海の忍者と言われるが、海中での体色体表変化による擬態や目くらましの墨以外にも、数十センチメートルを超える極めて大型の個体が蓋をしたはずの水槽や運搬用パケットの極めて狭い数センチメートルの隙間等から容易に逃走することが出来ることはとみに知られている)。さらにタコは雑食性で、なお且つ極めて好奇心が強い。海面に浮いたトマトやスイカに抱きつき食おうとすることは十分考えられ(因みに魚のクロダイでもサツマイモ・スイカ・ミカン等を食う)、さらに意地悪く見れば、これはヒトの芋泥棒の偽装だったり、西丸氏の上記の記事も載るように禁漁期にタコを密猟し、それを芋畑に隠しているのを見つけられ、咄嗟にタコの芋食いをでっち上げた等といった辺りこそが、この伝説の真相ではないかと私は思うのである。いや、タコが芋掘りをするシーンは、実は是非見たいのだ。信望者の方は、是非とも実写フィルムを私に提供されたい!……海中からのおどろどろしきタコ上陸→農道を「目を怒らし、八足を踏みて立行す」るタコの勇姿→腕足を驚天動地の巧みさで操りながら起用に地中のジャガイモを掘り出すことに成功するタコ→「ウルトラQ」の「南海の怒り」のスダールよろしく、気がついた住民の総攻撃をものともせず、悠々と海の淵へと帰還するタコ……だ!……円谷英二はあの撮影で、海水から出したタコが突けど触れど一向に思うように動かず、すぐ弱って死んでしまって往生し、生き物はこりごりだと言ったと聴いている……。

「剽悍」は「へうかん(ひょうかん)」で「慓悍」とも書き、すばしこくて荒々しく強いことをいう。

「タマカイ」スズキ目スズキ亜目ハタ科マハタ属タマカイ Epinephelus lanceolatus(英名 Giant grouper)。全長二メートルにも及ぶタ巨大魚でハタ科の中では最大で、よく知られているマハタ属クエ Epinephelus bruneus などよりも大きくなる。『タマカイは太平洋やインド洋に分布しているハタ科の海水魚で、太平洋では東シナ海から南シナ海を経てグレートバリアリーフ、ミクロネシアなどの西太平洋のほか、ハワイ諸島やライン諸島などの中部太平洋にも分布して』おり、『インド洋でもアフリカの東海岸まで見られ、国内では和歌山や琉球列島、伊豆・小笠原諸島などの南日本に分布している』。『体は長い楕円形で側扁し、口はやや大きく、上顎の後縁は眼の後縁下を超える』。『尾びれの後縁は丸く、鰓蓋骨には三本の棘が見られる』。『体色は灰褐色や暗褐色で、白い斑模様があり、各鰭にも黄色と黒の虫食い状の班がある』。『また、体色や班は成長と共に変化し、10cm程度の幼魚では淡褐色の地に不規則な幅広い黒色の横帯が見られるが、老成すると体や鰭の斑は不明瞭になる』。『岩礁やサンゴ礁域などに生息しているが、サンゴ礁域に生息するものの内でも最も大きく、体長は3m近くにまで成長し、体重も400kg程になるものもいると言われている』。『水深100m程のところでも生息しているが、大型魚にも関わらず水深50m位までの比較的浅場に多く見られる』。『魚や甲殻類などを主に食べるが、小型のサメやエイ、ウミガメの子どもなども食べることがある』。『餌は水と一緒に吸い込んで食べてしまうが、この時の吸引力は強力で、南太平洋などでは、タマカイはサメよりも恐れられている』。『しかし、サンゴ礁などではホンソメワケベラなどに鰓を掃除してもらったりして共生していることも多く、これを食べたりすることはない』。『タマカイは鍋物や刺身など、食用に利用されるが、大型のものは希にシガテラ毒をもつことがある』。『また、台湾では養殖されている他、幼魚は観賞用などに利用されることもあるが、自然分布するタマカイの生息数は減少していて、国際自然保護連合(IUCN)の保存状況評価では絶滅危惧種(VU)に指定されている』と参照したサイト「アクアリウム・ゲート」のタマカイ」にはある。ツアー・ガイドを見ると現在のパラオのダイビング・ツアーでもこのタマカイに出逢えるというのが一つの目玉のようである。]

萩原朔太郎 短歌六首 大正二(一九一三)年十月

[やぶちゃん注:以下に示す六首は底本の筑摩書房版全集第十五巻(昭和五三(一九七八)年刊)の「短歌補遺」に載る(掲載はこれらのみ)もので、先行する第三巻の短歌の編集の際に漏れたものと思われるもの。『創造』第三十七号・大正二(一九一三)年十月号の「詠草欄」に掲載されたものである。朔太郎満三十二歳。]

 

寂しさに少しく慣れてなにがなしこの田舍をも懷しみをる

 

[やぶちゃん注:初出では「なにがなし」が「なにがし」であるが、以下の習作などから脱字と断じ、底本校訂本文通り、「なにがなし」とした。この一首は、先に全歌を掲載した底本第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」所収の二十首連作の歌群「一群の鳥」の第三首目、

 

 淋しさに少しく慣れて

 なにがなし

 この田舍をば好しと思へり

 

が原案に見え、またこれを改稿した、この『創造』での掲載の二ヶ月前、大正二(一九一三)年八月九日附『上毛新聞』に発表した「一群の鳥」の第三首目、

 

 寂(さび)しさに少(すこ)しく慣(な)れて

 なにがなし

 この田舍(いなか)をば好(よ)しと思(おも)へり。

 

の更なる改稿と思われる。]

 

しんしんとする水の音かな滊車はまたトンネルを出でてひた走りけり

 

[やぶちゃん注:初出は上句を「しんしんとする水の音がな滊車はまた」とするが、以下の習作から訂した。この一首は、底本第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」所収の十七首連作の歌群「林檎の核」(大正二(一九一三)年七月十三日相当のクレジットを最後に持つ)の第「4」首目に、

 

ヽしんしんたる水の音かな

 汽車はまた

 トンネルを出でゝひたに走れり

 

とある(首巻の「ヽ」は圏点。太字「ひた」は底本では傍点「ヽ」)。初案の方が韻律はよいものの何か平板で、この改作の方が汽車のリズムに合っている気が私はする。]

 

油日照りつく日にしきりなく黑くつづける蟻の列かな

 

[やぶちゃん注:初出は上句を「黑くつつける蟻の列かな」とするが、以下の習作から訂した。この一首も前の一首と同じく底本第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」所収の十七首連作の歌群「林檎の核」の掉尾第「17」首目に、

 

 かんかんたる酷熱の日に

 きりもなく

 {赫土(あかつち)に}

            續ける蟻の列かな

 {黑く       }

 

とあるものの改作である(「{」の二行は二つの語句が並置されて残っていることを示す)。漢詩めいた佶屈聱牙な初期形が和歌の響きとなっている。]

 

酒飮めどこのごろ醉はぬさびしさに唄へどもああああ遂に涙もいでず

 

[やぶちゃん注:初出は「酒飮めどこのごろ醉はぬさびしきに唄へども」。少し迷ったが、以下の習作などから校訂本文と同じく「さびしさに」と訂した。この一首はやはり、先に全歌を掲載した底本第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」所収の二十首連作の歌群「一群の鳥」の第十二首目、

 

 酒のめど

 このごろ醉はぬさびしさ

 歌へども

 あゝあゝ遂に涙出でざり

 

が原案と思われ、またこれを改稿した、この『創造』での掲載の二ヶ月前、大正二(一九一三)年八月九日附『上毛新聞』に発表した「一群の鳥」の第八首目、

 

 酒(さけ)のめど

 このごろ醉(よ)はぬさびしさ

 うたへども

 あゝあゝ遂(つひ)に涙(なみだ)出(い)でざり。

 

の更なる改稿とも思われる。短歌らしくはなったもののパッションが行儀よくなってしまった分、初期形二稿の方が私は好きである。]

 

時にふと盃投げてすゝり泣きいとほしき母の寢顏をながむ

 

[やぶちゃん注:この一首もやはり、先に全歌を掲載した底本第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」所収の二十首連作の歌群「一群の鳥」の第十三首目、

 

ヽ時にふと

 盃投げてすゝり泣く

 いとほしや母も流石に思へり

 

が原案と思われ(「ヽ」は朔太郎自身の附した圏点)、またこれを改稿した、この『創造』での掲載の二ヶ月前、大正二(一九一三)年八月九日附『上毛新聞』に発表した「一群の鳥」の第十一首目、

 

 時(とき)にふと

 盃杯(さかづき)を投(な)げてすゝり泣(な)く

 いとほしやと母(はゝ)も流石(さすが)思(おも)へり。

 

の更なる改稿とも思われる。この三稿目で確かな和歌となったという気が私にはする。]

 

わかき日はとくとく過ぎてわれわれは今饐えくされたる林檎の核なり

 

[やぶちゃん注:「とくとく」の後半は底本では踊り字「〱」。「饐えくされたる」は初出では「饐らくされたる」であるが、意味が通らないので、次の習作をもとに全集校訂本文と同じく訂した。この一首も同じく底本第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」所収の十七首連作の歌群「林檎の核」の巻頭第「1」首目の、

 

 若き日は既に過ぎ去り

 今の我れは

 いたく饐えたる林檎の核(たね)なり

 

の改稿である。説明的な初期形が歌らしくなっていると私は思う。]

飯田蛇笏 靈芝 明治四十四年(十句)

   明治四十四年(十句)

 

琵琶の帆に煙霞もすえの四月かな

 

[やぶちゃん注:「琵琶」は琵琶湖か。知られた元禄三(一六九〇)年芭蕉数え四十七歳の作、

 行く春を近江の人と惜しみける

をインスパイアしたものであろう。因みに当時、蛇笏は数え二十七歳であった。]

 

雛の日や遲く暮れたる山の鐘

 

久遠寺へ閑な渡しや雉子の聲

 

[やぶちゃん注:「久遠寺」山梨県南巨摩郡身延町にある日蓮宗総本山身延山久遠寺。なお、蛇笏の墓所は山梨県笛吹市境川町の曹洞宗松尾山智光寺である。]

 

夏海へ燈臺みちの穗麥かな

 

午過ぎの磧に干せる鵜繩かな

 

[やぶちゃん注:鵜が呑んだ鮎は引いて吐かせる「鵜繩」は晩夏の季語。]

 

日の秋や門茶につどふ草苅女

 

[やぶちゃん注:「門茶」は「かどちや(かどちゃ)」と読み、陰暦七月初旬から二十四日まで寺や個人の家の門前で死者の供養を目的として茶を入れて通行人に施す行事で、「摂待(せったい)」ともいう。秋の季語。]

 

帆もなくて冬至の海の日影かな

 

牧へとぶ木の葉にあらる小禽かな

 

ありあけの月をこぼるゝ千鳥かな

 

[やぶちゃん注:「千鳥」は特定の鳥類ではなく水辺に群がって棲息する小型のそれを指し、冬の季語である。]

 

岬山の綠竹にとぶちどりかな

 

[やぶちゃん注:「崎山」は「さきやま」と読んでいよう。「岬」とするからには海か湖での景と思われる。]

轉居   山之口貘

 

   轉 居 

 

詩を書くことよりも まづ めしを食へといふ

それは世間の出來事である

食つてしまつた性には合はないんだ

もらつて食つてもひつたぐつて食つても食つてしまつたわけなんだ

死ねと言つても死ぬどころか死ぬことなんか無駄にして食つてしまつたあんばいなんだ

ここに食つたばかりの現實がある

空つぽになつて露はになつた現實の底深く 米粒のやうに光つてゐた筈の 兩國の佐藤さんをもついに食つてしまつた現在なんだ

陸はごらんの通りの陸である

食はふとしてもこれ以上は 食ふ物がなくなつたんだといふやうに電信柱や塵箱なんか立つてゐて まるでがらんとしてゐる陸なんだ

言はなくたつて勿論である。

めしに飢えたらめしを食へ めしも盡きたら飢えも食へ飢えにも飽きたら勿論なんだ

僕を見よ

引つ越すのが僕である

白ばつくれても人間面をして 世間を食ひ𢌞はるこの肉體を引き摺りながら 石や歷史や時間や空間などのやうに なるべく長命したいといふのが僕なんだ

お天氣を見よ

それは天氣のことなんだ

海を見よ

陸の隣りが海なんだ

海に坐つて僕は食ふ

甲板の上のその 生きた船頭さんをつまんで食ひながら 海の世間に向つては時々大きな口を開けて見せるんだ

魚らよ

びつくりしなさんな

珍客はこんなに肥つてゐても

陸の時代では有名な いはゆる食へなくなつた詩なんだよ。 

 

[やぶちゃん注:「兩國の佐藤さん」「両国の思い出の人たち」(昭和三五(一九六〇)年三月十日附『沖繩タイムス』)や「ぼくの半生記」(一九五八年十一月から十二月にかけての『沖繩タイムス』への二十回連載)などを読むと、昭和四、五年頃から、貘は両国にあった「両国ビルディング」を根城にして一風変わったやや怪しげな人々と交友していたことや、鍼灸師や汚濊汲取・ダルマ船の船頭をしていたことが分かる。この「兩國の佐藤さん」という人物もそうした付き合いの中で知り合った一人と考えてよく、何より、小説ながら、実録性の強い貘の「詩人便所を使ふ」(『中央公論』昭和一三(一九三八)年九月号)の中で、主人公の「食えない詩人」である「僕」が、ある「ビルディングの管理をしてゐる佐藤さん」の勧めに従って「おわい屋」になって、そこに「佐藤衞生硏究所」を開業、営業主任となって……というエピソードが記されている。この「兩國の佐藤さん」とは限りなくこの「僕」に、文字通り。「臭い仕事」をさせておいて、只管、自身が儲けることに邁進する「ビルディングの管理をしてゐる佐藤さん」であると考えてよかろう。なお、この同時期に詩人佐藤惣之助とも親しくしていて、それらの作品にも頻繁に名が出るが、彼は川崎住まいであるから、「兩國の佐藤さん」とは呼べない。また、序文を寄せている佐藤春夫が両国に住んでいたことがあるかどうかは不明ながら、文京区公式サイトによれば、佐藤春夫は、昭和二(一九二七)年から没するまで文京区関口に住んでおり、本詩集「思弁の苑」の発行は昭和一三(一九三八)年で、何より、山之口貘の「ぼくの半世紀」の中で、佐藤春夫を山之口貘が訪ねた下りには、『佐藤春夫を知ったのは、大正の終わりごろである。小石川の小日向町にあった佐藤氏宅を、はじめて訪ねた』とあるから、やはりこの「兩國の佐藤さん」は佐藤春夫では、ない。

【以下、2014年6月3日 思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により全面改稿】
 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では、一行目が、

 

詩を書くことよりも まづめしを食へといふ

 

字空けはあった方がよいのに除去されており、四行目が、

 

もらつて食つてもひつたくつて食つても食つてしまつたわけなんだ

 

と「ひつたぐつて」が「ひつたくつて」に変更され、七行目が、

 

空つぽになつて露はになつた現實の底深く 米粒のやうに光つてゐた筈の 兩國の佐藤さんをもつひに食つてしまつた現在なんだ

 

に、九行目が、

 

食はうとしてもこれ以上は 食ふ物がなくなつたんだといふやうに電信柱や塵箱なんか立つてゐて まるでがらんとしてゐる陸なんだ

 

になっている。十行目の句点が除去され、十四行目が、

 

白ばつくれても人間面をして 世間を食ひ廻るこの肉體を引き摺りながら 石や歷史や時間や空間などのやうに なるべく長命したいといふのが僕なんだ

 

とあり、「𢌞はる」の送り仮名が「𢌞る」に、そして最後の句点が除去されている。【二〇二四年十月十五日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年八月


梭の音しづかに芭蕉玉ときぬ

 

梭の音靜かに芭蕉玉ときぬ

 

[やぶちゃん注:前者が八月刊の『馬酔木』掲載の、後者が翌九月刊の『泉』掲載の句形。無論、言わずもがなながら、この「梭」(ひ)は芭蕉布(ばさーじん)を織る機(はた)のそれである。]

 

靑芭蕉吹かるる音と機音と

 

炎天や甘蔗のはたけは油風

 

[やぶちゃん注:「油風」(あぶらかぜ)は「油まじ」「油まぜ」ともいい、油を流したような静かな南寄りの風をいう語。「まじ」は南又は南西の風、「まぜ」「まじの風」で、多くは西日本での謂い(季語としては夏)。]

 

   嘉手納製糖工場附近

縱横にはせ交ふトロや甘蔗の秋

 

[やぶちゃん注:「トロ」はトロッコのこと。]

 

   琉球燒

踏ん張れる獅子の口より蚊火煙

 

[やぶちゃん注:「琉球燒」一応、ウィキの「壺屋焼をリンクさせておく(但し、同ウィキには一ヶ所も「琉球焼」という語は用いられてはいない)。この那覇の壺屋焼が琉球の焼き物の本流であることは間違いないのだが、実は現在では「壺屋焼」と「琉球焼」は区分された別箇な伝統工芸製品指定を受けているからである。その論争記事は一九九八年三月二十八日附『琉球新報』の伝統めぐり論争、琉球焼と壺屋焼に詳しい(個人的には何か残念な論争である気がする)。

「獅子」「しーさー」のこと。無論、ここは「しし」と読んでいる。]

 

炎天や水を打たざる那覇の町

 

浦風のあはれに強し走馬灯

 

守宮啼くこだまぞ古き機屋かな

 

[やぶちゃん注:ヤモリは沖縄言葉(うちなーぐち)で「やーるー」と呼ぶ。宮古島在住の「さんごのたまご」さんのブログに写真入りで「ケケケケケケケ」と鳴く旨の記載がある。女性の方の個人サイト「たびかがみ」の解説ヤモリいう虫」によれば、本邦には少なくとも十四種以上が棲息すると考えられ、その中に鳴くことに由来すると思われるナキヤモリ属 Hemidactylus があり、以下の同属の二種を掲げておられる(一部データや情報を「国立環境研究所」その他のそれと差し替えさせて戴いた)。

タシロヤモリ Hemidactylus bowringii

分布は奄美諸島・沖縄諸島・宮古諸島・八重山諸島に分布するとされるほか、台湾・東南アジアなどに棲息。人家付近で夜間照明に集まり、昆虫を食べること以外には生態は殆ど知られていない。全長は九〇~一二〇ミリメートルで暗い場所で見ると明瞭な横帯が現れて見え、一見「虎柄」のように見える。一部のネット記載には殆んど鳴かないともある。

ホオグロヤモリ Hemidactylus frenatus

原産地ははっきりしないが分布は奄美諸島・沖縄諸島・大東諸島・先島諸島のほぼ全ての有人島および小笠原諸島で人為的な移入による外来種であり、世界的分布域は大陸の内陸部を除く熱帯・亜熱帯域広範に及ぶ。民家などの建造物を好み、かなりの密度で棲息し、逆に人里から有意に離れた自然林内ではあまりみられない。「ケケケ」又は「チッ、チッ」と鳴き、灯りに集まり虫などを摂餌する。全長は九〇~一三〇ミリメートルで南西諸島では最も普通にみられるヤモリである。

これらから見るに、鳳作の聴いた「こだま」するほど吃驚したそれは後者ホオグロヤモリ Hemidactylus frenatus の可能性が高いか。南洋系と思われる種を突いて鳴かせている動画も幾つかあるが、何となくいじめているようで不快であるからリンクしない。しかしかなり大きな声で高い鳴き声ではある。]

 

松風を蘇鐡のみきにとらへけり

 

藻の如く靡く芭蕉や大南風

 

[やぶちゃん注:「大南風」は「おほみなみ(おおみなみ)」と読む。夏の湿って暑苦しい季節風のこと。「みなみ」と「風」の読みを省略する呼称はもとは漁師や船乗りの用語であったことに由来する。]

 

實を垂れて枯れそめたる芭蕉哉

 

[やぶちゃん注:「垂」の字の旧字体「埀」をまともに使っている作家は私の知る限りでは非常に少ない。以下、この注は略す。]

 

遠雷にこたへそよげる芭蕉哉

 

[やぶちゃん注: 以上、十二句は八月の発表句。]

杉田久女句集 60 蝉の音(ね) 



蟬時雨日斑(まだら)あびて掃き移る

 

蟬涼しわがよる机大いなる

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 長崎にて

 長崎にて

 

長崎の暗き橋ゆき遠花火

 

港見るうしろに靑き蚊帳吊られ

 

靑き蚊帳熟睡(うまゐ)の吾子とならび寢む

 

靑き蚊帳ひとの家にも吊られゐる

 

[やぶちゃん注:三句目「熟睡(うまゐ)」「熟睡」「味眠」などの字を当てる上代語であるが、歴史的仮名遣は「うまい」が正しい。「うま」(甘)は造語の成分でここでは「快い」の謂いを添える。気持ちよく熟睡すること(なお、「大辞林」によれば古くは「安寝(やすい)」が単に安眠であるのに対して男女が気持ちよく共寝することをいったとある)。これはもう明らかに前年夏の九州行の回想吟である。]

鳩が飛ぶ   八木重吉

 

あき空を はとが とぶ、

それでよい

それで いいのだ

2014/02/18

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 18 日本人考古学倶楽部で講演

 数日前、私は大森の貝塚に就て、日本人が組織している考古学倶楽部(クラブ)で講演する可く招かれた。この倶楽部は、毎月第一日曜日に大学内の一室で会合する。大学副綜理の服部氏が、通訳をすることになっていた。今日、六月二日の朝、私は会場へ行った。会員は各、自分の前に、手をあたため、煙管に火をつける役をする、炭火を灰に埋めた小さな容器を置き、大きな机を取りかこんで坐っていた。私は彼等に紹介され、彼等はすべて丁寧にお辞儀をした。私は隣室に、古代の陶器をいくつかの盆にならべたものを置いて、ここで話をした。私はこの問題の概略、即ち旧石器時代、新石器時代、青銅時代、鉄時代と、ラボックが定限した欧洲の四つの時代に就て語り、次にステーンストラップがバルティック沿岸の貝墟でした仕事を話し、最後に大森の貝塚のことを話した。かかる智力あり、且つ注意深い聴衆を前に話すことは、実に愉快であった。私の黒板画は、彼等をよろこばせたらしい。要するに私は、この時位、講演することを楽しんだ覚えはない。

[やぶちゃん注:これはモースの記す通り、明治一一(一八七八)年六月二日(この日は日曜日である)に東京大学で行われたもので、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には、この会は一種の『考古学愛好家の集会(古物会?)』で、『このとき、のちにモースの陶器の師となる蜷川式胤(にながわのりたね)も出席し』たと式胤の日記にある旨の記載がある。蜷川式胤(天保六(一八三五)年~明治一五(一八八二)年)は考古家で京都東寺の公人子賢の子として生まれ、明治二(一八六九)年に新政府の制度取調御用掛として上京、太政官権少史・同少史・外交大録・文部省博物局御用・内務省博物館掛を歴任した(明治十年に病により辞任)。この間、明治四年に九段坂上で行われた物産会や同五年の湯島聖堂に於ける博覧会の開催に尽力、同年にはまた近畿地方の社寺宝物検査にも従事し、その際に正倉院御物の調査記録を残したことで知られる。また、文化財の調査保存や博物館開設を政府に建議し、日本の古美術を海外に紹介した功も大きい。著書に「観古図説」「徴古図説」「好古図説」など(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「ラボック」はイギリスの銀行家・政治家にして生物学者で考古学者でもあったジョン・ラボック(Sir John Lubbock 一八三四年~一九一三年)。自由党及びそこから分裂した自由統一党員として活躍する一方、銀行家協会(Institute of Bankers)の初代理事長をも務めたが、学者としても一八六五年に“Pre-historic Times, as Illustrated by Ancient Remains, and the Manners and Customs of Modern Savages”(「前史時代:古代遺跡と、現代の未開人のマナーと習慣による描写」)を執筆、これは恐らく十九世紀に於ける最も影響力を持った考古学テキストであるという。また、石器時代を大きく二つに分けて旧石器時代(Palaeolithic)と新石器時代(Neolithic)という用語を提案している。ラボックはいくつかの分野でアマチュアの生物学者でもあり、膜翅目に関する本「アリ、ミツバチとスズメバチ:社会的膜翅目の習性の観察記録」(一八八四)も執筆している。また昆虫の感覚器とその発達や動物の知性、その他、自然史の幾つかの問題についても出版しており、チャールズ・ダーウィンとも幼いころから広く交流した人物であった。ラボックの生家はケント州ダウンにあったが、その広大な敷地の隣人がかのダーウィンであったからである(以上はウィキの「ジョン・ラボック」に拠った)。なお、磯野先生の引用に出る『古物会』というのは江戸時代以降確立していた一種の物産学で、東京大学創立百二十周年記念東京大学展「学問のアルケオロジー」サイトの東京大学総合研究博物館木下直之氏の「大学南校物産会について」の中で、当時の物産会に於ける『「古物之部」には、観音像以外にも「法隆寺古竹帙」「古磁器茶碗」など現代ならば美術に含まれるものがあり、同じく現代ならば石器や勾玉や瓦などの出土品は考古学的遺物と扱われるはずだが、当時は、それらを一括する「古物」というカテゴリーがしっかりと出来上がっていた。そして、古物の展示ならば、物産会でもしばしば行なわれてきたのである』とあり、木下氏の論文の後半を読むと一種の博物学的一ジャンルとしてそうした古物家(そこでは魚歯化石や石器が既に扱われていた)やそのネットワークがすでにその頃出来上がっていたことも分かる。

「ステーンストラップ」既注であるが再掲しておく。デンマークの動物学者ヤペトゥス・ステーンストロップ(Johannes Japetus Smith Steenstrup 一八一三年~一八九七年)。一八四五年からコペンハーゲン大学の動物学の教授を務め、頭足類を含む多くの分野の研究を行い、遺伝学の分野も研究、寄生虫の世代交代の原理を一八四二年に発見、同年にはまた、後氷期の半化石の研究から気候変動や植生の変動を推定出来る可能性があることをも発見している(以上はウィキの「ヤペトゥス・ステーンストロップ」に拠った)。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 17 鬼女調伏の舞い?

M316
図―316
 

 昨日、教育博物館からの帰途、私はお寺の大鼓が鳴っているのを聞き、公園の木立の間を近路して、寺院を取まく亭(ちん)の一つで、奇妙な演技が行われつつある所へ出た。俳優が二人、最もきらびやかな色で刺繡された衣を身につけ、人間の考の及ぶ範囲内で、最も醜悪な仮面をかぶって、舞台に現れた。一人は房々とした白髪に、金色の眉毛と紫色の唇とを持つ緑色の面をかぶり、他の一人は、死そのものの如き、薄気味の悪い白色の仮面に、長く黒い頭髪の、非常な大量を持っていた。彼等は、刀を用いて、白い髪の悪魔が退散する迄、一種の戦いを続けた(図316)。日本人は、私の見た中で、最もぞっとするような仮面をつくり上げる。これ等は木から彫ったもので、劇の一種に於る各種の人物を代表する可くつくられる。

[やぶちゃん注:「寺院を取まく亭の一つ」原文は“one of the pavilions that surround the temple”。寛永寺の子院の一つか。ここで演じられているのは能の一種か? こっちを向いている役者の腹部にある鱗文様は能の鬼女の役のそれに酷似して見えるのだが……。私は能楽に暗い。能を趣味とする教え子に聴いてみよう。暫くお時間を。【2014年2月19日追記】以下、教え子よりの途中報告である。

   《引用開始》

先生、あれこれ考えていますが、能で該当する曲を思いつくことが出来ません。ご承知の通り、能において主役はひとりのシテ。シテを舞台に呼んでくる仲介役、すなわち観る者とシテとの間に立つのがワキです。モース先生の文章からいえば、白髪が退治されたところでこの劇が終わるのですから、能で言えばこれはキリの段における死闘であり、白髪がシテ、必然的に黒髪がワキということになります。最後に一騎打ちになり、かつワキが刀を揮う曲といえば、平維茂の鬼退治を題材とした「紅葉狩」が思い浮かびます。しかし、どうも登場人物の風体が能の「紅葉狩」と異なります。もしかしたら私が思い出せない曲なのかもしれない。いやいや、どうも私の知識不足ではなさそうです。なぜなら黒髪の方は薄気味の悪い白色の仮面をかけていたということですが……、能のワキが面(おもて)をかけることはないのです。では如何なる演劇であったかと問われると、残念ながら答えに窮してしまいます。すみません、取り急ぎ、私の印象です。

   《引用終了》

確かに教え子が言うように鬼女役に対峙する調伏役が「金色の眉毛と紫色の唇とを持つ緑色の面」をつけているというのは能とは思われない。そこで考えてみると、「鬼女」が「鬼」であるとしても、時期的(五月下旬としても同年の旧暦では四月下旬相当)にも演ぜられる内容から考えると寺院で「鬼」が演じるところの追儺の儀式にしてはどうもおかしい。が、しかしこれが所謂、神仏習合時代の残滓である「鬼払いの神楽」の特別な公演であるとすればどうであろうか(それでも時期の問題の奇異性は残るか)?……この「亭」は実は廃仏毀釈後に残った神社の舞殿であり、主催者も神社なのかも知れない……などと口の干ぬ間に前注を修正せねばならぬというこのいい加減さ……向後も教え子とその他識者の御教授を俟つものである。これが地域の祭りや神楽として残っているものであれば幸いなのだが……上野では無理か……

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 矢の根井戸

    ●矢の根井戸

小坪にあり、里諺云、鎭西爲朝遠矢をためさんと、伊豆の大島より射し矢、海上十餘里の遠きを走りて此井に落つ、今に井底に矢の根ありといふ。

[やぶちゃん注:この井戸は鎌倉十井の一つに数えられている「六角井」である。「新編鎌倉志卷之七」の「飯島」の条の文中に、

    *

此村の南に、六角の井と云ふ名水あり。鎌倉十井の一つなり。石にてたゝみたり。里俗の云、昔し鎭西の八郎源の爲朝、伊豆の大島より、我が弓勢昔にかはらずやとて、天照山をさして遠矢を射る。其の矢十八里を越へて此井の中に落たり。里民矢を取り上げれば、鏃(やじり)は井の中に留まる。今も井を掃除すれば、其の鏃見ミゆると云ふ。或る時取り上げて、明神に納めければ、井の水かはけり。又井の中へ入れば、本の如く水涌き出ると也。鏃の長さ四五寸と云ふ。鶴が岡一の鳥居より、此地まで、四十町餘あり。

    *

と記す。以下、私がそこで附した注をそのまま引いておく。

「六角の井」この井戸の形は六角形ではなく八角形であるが、六角が鎌倉持分で二角が小坪分であることから、かく言うと伝えられる。以前は井戸替えの際には為朝所縁の鏃の入った竹筒を使用したが、本文とはやや異なるが、ある時これを怠ったがために悪疫が流行ったことから、それ以来今も鏃は竹筒に封じ込めて井戸の中に奉納してあると現在に伝承されている。その他にもありがちな弘法が掘った井であるとか、井戸側面にある龍頭まで水が減ると必ず雨が降るとか、妙本寺の蛇形の井とは地中で繋がっているとか、伝承の多い十井の一つではある。今は何だかものものしい櫓にお覆われているようだが、私が二十の折りに見た時には、未だ世間の市井の井戸として機能していたのに、ちょっと淋しい。いやいや、それよりなにより、大島から「十八里」(約六八・四キロメートル)とは直線距離を美事に計測していることに「舌を卷く」ぞ。本土に最も近い大島最南端の乳が崎から単純直線距離で測っても五八・三キロメートル、三原山の頂上からだと六五キロメートル、とんでもない正確度である。珍説(「ちんせつ」いやさ「ちんぜい」)どころか真説、「鎭西ちんぜい」為朝も涙流して、アッ! 喜ぶ西(ぜい)!]

北條九代記 株瀨川軍 付 關東勢手賦 承久の乱【十九】――株瀬川の戦い

 

      ○株瀨川軍  關東勢手賦

大豆途渡(まめどのわたり)へは相摸守足利武蔵〔の〕前司向はれたり。足利〔の〕小太郎兵衞、阿曾沼(あそぬまの)小次郎近綱をはじめて川に打入り渡しけるに、京勢は、皆落失せて防ぐ者一人もなし。美濃國莚田(むしろだ)と云ふ所にして、京勢少々出合ひて戰ふといへども、大軍折重(をりかさ)なり、新手入替りける故に、多くは皆討取られ、残るは又散々に落ちて行く。尾張國の住人山田〔の〕次郎重忠此有樣を見て云ふやうは「君の仰を蒙り、京都より討手に向けらる之者共の、尾張川にても恥ある矢の一つをも射ず、跡をも顧ずして落ちて歸道(かへりみち)の程にも甲斐々々しき軍(いくさ)もせで、京までも追立てられ、關東武士に笑はるゝのみにあらず。君御尋あらんには、なにとか答へ奉らん。重忠一軍(ひといくさ)して、此憤(いきどほり)を散ぜんと思ふなり」とて、郎等に水野左近、大金太郎、太田五郎兵衞、藤兵衞、伊豫坊、荒左近(あらさこん)、兵部坊、以下九十餘騎を前後左右に立てて、株瀨川(くひぜがは)の端に控へて敵を相待つ所に、奥州の住人岳島橘(だけしまのきち)左衞門、五十餘騎にて川を渡し、散散に戰ふ、岳島が郎等、加地(かぢの)丹内、佐賀羅(さがらの)三郎矢庭(やには)に射臥(いふ)せられ、其外の者共も、手を負はぬはなかりけり。大將軍、武藏守泰時、川端に打臨み、軍の下知をせらるれば、跡より大軍重りて、ひたひたと川を渡す。山田次郎叶はずして、南を指して落ちて行く。武藏國の住人高枝(たかえの)次郎只一騎、川瀨を渡して細繩手(ほそなはて)にかゝりて追掛けしに、敵七八騎返合(かへしあは)せ、孝枝だをなかに取込めて戰ふに、高枝片足を田の中に蹈(ふみ)入れて、片足は繩手に跪(ひざまづ)き、立寄る敵一人諸膝(もろひざ)薙(なぎ)て切伏せ、立ち上らんとする所に、遂にして切伏せられ、敵一人走り寄りては首を取(とら)んとする所に大軍どつと續きたれば、打捨てて落ちて行く。關東勢近(ちかづ)きて手負(ておひ)を見れば、鎧物具(よろひものゝぐ)朱(あけ)に成りて、誰とも更に見分(みえわ)かず。大將武藏守「あら無慘やな、此者痛手負ひたれども、未だ死なず、片息(かたいき)なるぞ、何者ぞ名乘(なのれ)」とありしに、「武蔵國の住人高枝〔の〕次郎」と云ひければ、能々(よくよく)見せらるゝに、痛手、薄手二十三ヶ所。是にても死(しな)ざるは天命ある者なりとて、人を副(そ)へて鎌倉へぞ下されける。軍兵を憐み給ふ大將の志を感ぜぬはなかりけり。伊具六郎有時が郎從に、伊佐(いさの)三郎行正と名乘りて、山田次郎を追(おひ)つめて引組みて、堀の底に落人たり。敵も味方もこれを知らず、上になり下になり、半時計(ばかり)揉合(もみあう)たり。伊佐〔の〕三郎が雜色一人倶したりけるが、主(しゆ)の軍(いくさ)する加勢にもならず、敵と打合ふ時は、立退きて見物し、戰疲れて休む時は、突(つく)として傍に居たり。組合へども只見物して動くべき色もなし。其間に山田が郎等藤兵衞尉立歸りて、伊佐を押伏(おしふ)せ、山田を馬に搔(かき)乘せて落ちて行く。伊佐もた討れざるを幸にして、味方にぞ馳入りける。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【十九】――株瀬川の戦い〉標題「株瀨川軍 付 關東勢手賦」は「くひぜがはいくさ つけたり くわんとうぜいてくばり」と読む。本章も分離させる。

「株瀨川」杭瀬川。現在の岐阜県揖斐郡池田町・大垣市・養老郡養老町・安八郡輪之内町を流れる木曽川水系の河川で揖斐川支流の牧田川に合流する一級河川。この川は慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いの前哨戦の戦場として知られるが、参照したウィキの「杭瀬川によれば、『かつては揖斐川の本流であり、現在よりも川幅が広い大きな河川であったが、戦国時代の享禄3年(1530年)に発生した大洪水により揖斐川の流れが現在の位置に変化したため、現在の姿となった』とあり、川の流路は現在のそれとは大きく異なることが分かる。

「相摸守」北条時房。

「足利武蔵前司」足利義氏。

「美濃國莚田」席田郡。現在の本巣郡北川町。「席田用水」にその名を留める。

「突と」副詞。「つくねんと」と同じ。何もしようとせず、独りぼんやりしているさま。

 以下、「承久記」(底本の編者番号48から50のパート中ほどまで)の記載。原文の臨場感は何時もながら、素晴らしい。

 大豆渡へハ、相模守・足利武藏前司被ㇾ向タリケルニ、足利小太郎兵衞・阿曾沼小次郎近綱ヲ始トシテ、各河ヲ渡ス。京方、宵ニ皆落タリケレバ、屋形ハ殘テ主モナシ。敵ナクテ軍ヲセヌ事ヲ無念ニ思ヒテ、敵ノカサニ逢ント向フ輩タレタレゾ。伊具六郎有時・善左衞門太郎・奧嶽島橘左衞門・山田五郎兵衞入道・紀伊五郎兵衞入道・阿保刑部丞・由良左近・靑木兵衞・新開兵衞小次郎・目黑太郎・佐賀羅三郎・加地丹内・同中務、是等ヲ始トシテ、敵ノカサニ合ント道ヲバヨケテ進行。美濃筵田ト云所ニテ、京方少々返合セ戰ケリ。坂東ノ兵共、願所ニテハアリ、悦ヲナシテ責戰フ。京方、落足武者ニテハアリ、組落シ組落シ被ㇾ討ニケリ。サレバヨ、獨シテ頸ノ二三取ヌハ無ケリ。

 被討殘テ落行ケル勢ノ中ニ、山田次郎申ケルハ、「サレバトヨ、打手ニ向セラレタル者共ノ尾張川ニテモ有ㇾ恥矢ノ一モ不ㇾ射、道ノ程モ甲斐々々敷軍モセデ、君ノ御尋有ンニハ何トカ答申ベキ。サレバ重忠ハ一軍セント思也」トテ、杭瀨河ノ西ノハタニ九十餘綺ニテ扣タリ。奧嶽島ノ橘左衞門、三十騎餘ノ勢ニテ馳來レバ、御方ヲ待カト覺シタテ、河モ不ㇾ渡、軍モセズ。

 去程ニ御方ノ勢少々馳著タリ。河ノ端ニ打立テ、「向ノ岸ナルハ何者ゾ。敵カ御方カ」。山田次郎、「御方ゾ」。「御方ハタソ」。「誠ニハ敵ゾ」。「カタキハタソ」。「尾張國住人、山田次郎重忠ゾカシ」。「サテハ」トテ矢合スル程コソアレ、打出テ渡シケリ。山田次郎ガ郎等共、水野左近・大金太郎・大田五郎兵衞・藤兵衞・伊豫坊・荒左近・兵部坊、是等ヲ始トシテ九十餘騎、河ノ端ニ打下テ散々ニ戰フ。其中ニ大弓・精兵數多有シカバ、河中ニ射ヒデラレ流ルヽモアリ、痛手負テ引退者モアリ。其中ニ加地丹内ハ渡シケルガ、鞍ノ前輪鎧コメ、尻輪ニ被射付テ、シバシハ保テ見へケルガ、後ニハ眞倒ニ落テゾ流ケル。佐賀羅三郎、眞甲ノ餘ヲ射サセテ引退ク。波多野五郎、尻モナキ矢ニテ、其モ眞甲ノ餘ヲ射サセテ引退ク。大將軍武藏守、河端ニ打立テ軍ノ下知セラレケリ。手負共、各參テ見參ニ入。誠由々敷ゾ見へケル。薄手負タル者共、矢折懸テ臆タル氣色モナク渡シケリ。被ㇾ討ヲモ不ㇾ顧、乘越々々渡ス。東國ノ兵共、如雲霞續キケレバ、暫戰フテゾ、山田次郎颯ト引テゾ落行ケル。

 武藏國住人高枝次郎、河瀨渡シテ只一騎細繩手ニ懸テ、敵ニ向テ追懸テ行。七八騎有ケル勢取テ返シ、高枝ヲ中ニ取籠テ戰フ。高枝ノ次郎、片足ヲ田へ蹈入、片足ヲバ繩手ニ跪テ被切伏ヌ。甲モ被打落テ、痛手負テ横樣ニ臥タブケリ。敵一人寄合テ、取テ押へ首取ントシケル所ニ、東國ノ兵サツト續タリケレバ、首ヲモ不ㇾ取、打捨テ落行ヌ。御方勢近ヅキテ見レバ、鎧・物具・面モアケニ成テ、誰共不ㇾ見。大將軍武藏守、「アラムザンヤナ。此者、痛手負クリ。タレゾ」ト問給へバ、未死ヤラデ片息シタリケルガ、「是ハ武藏國住人、高校次郎ト申者ニテ候」。武藏守、「ムザンノ事ヤ。手ヲ能々見ヨ」。甲被打落テ、頭ノ疵ヨリ物具ノスソマデ、大小ノ疵廿三箇所ゾ負クリケル。「如何ニ、此手ニテハ可ㇾ死カ。「ヨモ此手ニテハ死候ハジ」ト申。「如何ガスベキ。道ニテハ叶マジ」トテ、御文遊シ、御使一人添テ、其ヨリ鎌倉へゾ被ㇾ下ケル。「是ハ武藏國住人、高枝次郎ト申者ニテ候。六月六日、杭瀨河ノ軍ニ手アマタ負テ候。道ニテハ如何ニモ療治難ㇾ叶候間、進ラセ候。隨分忠ヲ致候。相構テ相構テタスカリ候樣ニ、御計ヒ可ㇾ有」由、權大夫殿へゾ被ㇾ申ケル。

 去程ニ京方落行ケルヲ、各追懸々々行程ニ、伊具六郎有時ガ手者、伊佐三郎行正、山田二郎ヲ目ニ懸テ行程ニ、彼方端モ此方ノ岸モ草ハ生ヲホヒ、底モ見へザルニ、馬ノシリ足蹈ハヅシテ倒ニ歸リケレバ、山田次郎、堀ノ底ニテ落立タル。伊佐三郎馳ヨセテ、「如何ナル者ゾ」。「山田次郎重忠ゾカシ。ワ君ハタソ」。「伊佐三郎行政」ト名乘。鐙ヲ越テ落合テ、堀ノ底ニテ引組間、敵・御方是ヲ不ㇾ知。山田次郎、乘替・下人モナシ。伊佐三郎、雜色一人具シタリ。主ガ軍セバ寄テ手傳モセズ、打合時ハ立ノキ見物シ、戰疲レテ休時ハ寄テソバニ居ル。角スル事、三度ニ及べリ。山田ガ郎從藤兵衞尉、落行ケルガ、サテモ我主ハ何ト成給ヒケント思テ、取テ返シ見ケレバ、堀ノ底ニ太刀打ノ音シケリ。打寄テ窺へバワガ主也。是ニ御座ケル物ヲト思テ、馬ヨリ飛ヲリ、主ヲ己レガ馬ニ搔乘テ落ントス。伊佐、山田ガ甲ノ甲ヲツカンデ引タリケレ共、大力ナリケレバ甲ノ緒ヲフツト引切テ、山田ハ延ヌ。伊佐被打取ヌハ遺恨ナレ共、甲・馬・鞍ヲ奪留タレバ、伊佐ガ高名トゾ申ケル。山田次郎落行ケルニ、美濃小關ニテ高キ梢ニ旗ヲ結付テゾ落行ケリ。是ハ、爰ニ敵アリト思ハセン爲ナリト覺へタリ。]

萩原朔太郎 短歌一首 昭和一七(一九四二)年二月二十二日(死の三月前) はかなしや病ひ醫えざる枕べに七日咲きたる白百合の花


はかなしや病ひ醫えざる枕べに七日咲きたる白百合の花

 

[やぶちゃん注:底本筑摩版全集「短歌・俳句・美文」の短歌パートの掉尾にある「『草稿ノート』『書簡』より」より。これは昭和一七(一九四二)年二月二十二日附森房子宛葉書に記された一首。この約三か月後の五月十一日に朔太郎は肺炎のため死去した。享年五十七歳。「醫えざる」はママ(底本全集校訂本文は「癒えざる」と訂する。以下に、書簡全文を示す(「中野區江古田町、四ノ一五九六 森房子樣」宛。ゴム印にて「世田谷區代田一ノ六三五 萩原朔太郎」)

   *

 御見舞重ねてありがたうございます。

 病気もまだ全快に至りませんが、気候あたゝかにもならば温々起床できせうです、いつも御芳情うれしく。

  はかなしや病ひ醫えざる枕べに七日咲きたる白百合の花

  二月二十二日、

   *

森房子とは女流歌人で朔太郎の全集書簡には五通が認められる。]

遺伝子操作夢

昨日見た夢。

僕は僕の書斎でPCに向っている――
僕は国外の遺伝子データベースにアクセスし、そこから「キノボリウオ」と「クリプトコッカス」のデータを引き出し、そのゲノムを操作している――

[やぶちゃん注:「キノボリウオ」スズキ目キノボリウオ亜目キノボリウオ科キノボリウオ(アナバス) Anabas testudineus。中国南部から東南アジアの湖沼・河川にすむ淡水魚。丘先生は、「樹の幹を登ることが出來る」とするが、参照したウィキの「キノボリウオ」によれば、『実際は木に登ることはなく、実際には、雨天時などに地面を這い回る程度である。 このような名が付いたのは、鳥に捕まって木の上まで運ばれ、生きているのを目撃した人が、木に登ったと勘違いしたためである。このように地上に進出できるのは、同じ仲間のベタやグラミーと同様に、エラブタの中に上鰓器官(ラビリンス器官)を持ち、これを利用して空気呼吸ができることと、他の仲間と異なり、這い回りやすい体型のためである』とあり、私も、木に登っているのは図像ばかりで、かなり湿った草地の泥の中を這うようにしているものしか見たことがない。因みに、上鰓器官とはベタなどを含むキノボリウオ亜目の共通の特徴で、鰓蓋の鰓の鰓上皮組織が変形したもの(構造が迷路状になっていることから「ラビリンス器官」とも呼ばれる)で、口を空気中に出して直接空気を吸い込み、ここを通して直接、空気呼吸をする器官。これは水中の溶存酸素が少ない劣悪な状況にも堪えうることを意味している。
「クリプトコッカス」担子菌門異型担子菌綱シロキクラゲ目シロキクラゲ科クリプトコッカス属  Cryptococcusウィキの「クリプトコッカス属」によれば、『酵母状の無性世代(不完全世代=アナモルフ)であり、菌糸を形成する有性世代(完全世代=テレオモルフ)の属名は Filobasidiella という。子実体は形成しない』。『空気中や土壌の至るところに存在するが、余病を併発して免疫が低下していたり、HIV感染者や臓器移植手術後の免疫抑制剤を服用中の場合、ステロイド剤を長期連用している場合等で体の抵抗力が頗る落ちていると、日和見感染症であるクリプトコッカス症の原因となることがある。健常人への感染例の報告もあるが、極めて稀である。代表的な種として Cryptococcus neoformans などがある』とあり、同「クリプトコッカス症」には、『クリプトコッカス属に属する酵母様真菌の感染を原因とする人獣共通感染症。ヒト、イヌ、ネコなどに感染する。主に Cryptococcus neoformans による呼吸器症状が認められる。クリプトコッカス属は空気中や土壌、植物などの環境中に広く分布』しており、『免疫抑制状態、通常であればその免疫力によって増殖が抑えられている病原性の低い常在細菌が増殖し、その結果として病気を引き起こすことがある日和見感染症の一つとして知られている』とある。]

中島敦 南洋日記 十二月三十一日

        十二月三十一日(水)

 夜土方氏方に到り、阿刀田氏高松氏等と飮み喰ひ語る。十一時、外に出で一同マリヤを誘出し、月明に乘じコロール波止場に散歩す、プール際にて少憩。歸途初詣の人に會ふこと多し、疲れて歸る、

[やぶちゃん注:「マリヤ」マリヤン。既注

 なお、底本年譜によれば、この日附で敦は「心臟性喘息ノタメ劇務ニ適セズ」という事由で「總動員業務從事ニ關スル希望」を「内地勤務」と申告している。]]

中島敦 南洋日記 十二月二十七日 《追加リロード版》

        十二月二十七日(土)

 土方氏が軍艦より贈られし和菓子の馳走にありつく。小豆のあんは久しぶりなり。

[やぶちゃん注:太字「あん」は底本では傍点「ヽ」。以下、二十八日(日)・二十九日(月)・三十日(火)の三日間は日記の記載がない。理由不明。ただ気になる書簡一通が残る。かの禁断の恋の相手教え子の小宮山靜への葉書である。これが昭和一六(一九四一)年の書簡の掉尾に当たる。旧全集書簡番号一五四。以下に示す。

   *

〇十二月二十九日(消印サイパン郵便局一六・一二・二九 パラオ南洋庁地方課。東京市王子区豊島町三ノ二一 小宮山靜宛。ヤップ海岸の風光の絵葉書)

 まだ旅をつゞけてゐます、毎日々々椰子と海と珊瑚礁の眺めばかり。身體の調子は割に良いのですが、寂しくつて寂しくつてどうにもなりません、

 内地はもう寒いんだらうな、君は、もう風邪をひいてるんぢやないかな? (サイパン丸の上で)

   *

 これはおよそ教え子の女性に挨拶として送った文面とは私には思われない。]

飯田蛇笏 靈芝 明治四十三年(五句)

   明治四十三年(五句)

 

煮るものに大湖の蝦や夏近し

 

[やぶちゃん注:「大湖」はどこの湖かは不詳乍ら、二句後の山中湖であろうか。]

 

灯をはこぶ湯女と戰ぐ樹夏の雨

 

合歡かげに舟の煙りや山中湖

 

ひぐらしの鳴く音にはづす轡かな

 

松にむれて田の面はとばぬ蜻蛉かな

猫   山之口貘

 

   

 

蹴つ飛ばされて

 

宙に舞ひ上り 

 

人を越え 

 

梢を越え 

 

月をも越えて 

 

神の座にまで屆いても

 

落つこちるといふことのない身輕な獸 

 

高さの限りを根から無視してしまひ 

 

地上に降り立ちこの四つ肢で步くんだ。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月3日全面改稿】初出は昭和一二(一九三七)年六月発行の『むらさき』。この雑誌は発行所(東京市神田区神保町二ノ二)から昭和九(一九三四)年に創刊されて昭和一九(一九四四)年六月に終刊した紫式部学会の学会月刊誌であることが分かる。この雑誌については個人サイト「通信・余話」の「余話 10 忘れられている月刊誌『むらさき』」に詳しく、実は同住所には一時は岩波・有斐閣とともに学術書出版三大書店と言われた巌松堂書店があったとし、『山之口貘の処女詩集『思弁の苑』は四六判函入りのものだが、巌松堂書店の出版書だ。どちらかといえば埋め草的な取り扱いをされていた詩歌にも、『むらさき』は、殆ど毎号、頁を割いていた』とある。リンク先の同誌の編集者や執筆者の記載には、佐藤春夫やバクさんの盟友金子光晴はおろか、主だった近代詩人歌人俳人の名がこれでもかというほどに並んでいる。一時は二万部もの発行部数を誇ったというとんでもない学会誌の体裁をとりながらその実広く読まれた文芸雑誌であったことが分かる。是非、お読みあれ。【二〇二四年十月十五日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。なお、『個人サイト「通信・余話」の「余話 10 忘れられている月刊誌『むらさき』」』は、初回時にリンクをし忘れたのだが、現在は、存在しないようである。悪しからず。

 本詩は標記通り、各行間が優位に広い。なお、原書房刊「定本山之口貘詩集」では、この行間空けはない。]

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年七月



浜木綿に流人の墓の小ささよ

 

南風や海より續く甘蔗畑

 

[やぶちゃん注:「南風」は「なんぷう」、「畑」は「ばた」であろう。]

 

春雨傘さして馬上や琉球女

 

[やぶちゃん注:「春雨傘」は「はるさめがさ」であろう。]

 

しののめの星まだありぬ揚雲雀

 

[やぶちゃん注:前の二句は七月の発表句、後の二句は「俳句手記」よりここに置かれた句。]

杉田久女句集 59 むきかはる通風筒に蚊喰鳥


むきかはる通風筒に蚊喰鳥

 

[やぶちゃん注:「通風筒」これは炭鉱の坑内の換気のためのそれではあるまいか。「蚊喰鳥」蝙蝠の別名。夏の季語。]

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 墓地



 墓地

 

室(むろ)櫻手にせりひとの葬にあふ

 

[やぶちゃん注:「室櫻」御室桜(おむろざくら)であろう。桜の名所仁和寺の桜には特にの名で呼ばれる。]

 

閼伽汲むと春の日中(ひなか)に井を鳴らす

 

墓地をゆき春の落暉に歩み入る

 

春日暮れ掘られし墓地の土をふむ

止まつた ウオツチ   八木重吉


止まつた 懷中時計(ウオツチ)、

ほそい 三つの 針、

白い 夜だのに

丸いかほの おまへの うつろ、

うごけ うごけ

うごかぬ おまへがこわい

 

[やぶちゃん注:「こわい」はママ。]

僕のヌード

フェイスブック経由で父から来た僕のヌード――

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2014/02/17

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年六月

   旅籠住居二句

部屋毎にある蛇皮線や蚊火の宿

 

蛇皮線と籠の枕とあるばかり

 

[やぶちゃん注:「蛇皮線」は「じやびせん(じゃびせん)」で、胴に蛇の皮を張るところから沖繩の三線(さんしん)の本土での俗称である(室町末に本土に伝わって改造されたものが三味線である)。沖繩フリークの私としては「さんしん」と読みたくなるが、であれば鳳作は「さんしん」とルビを振るはずであるから、ここは「じやびせん」である。「蚊火」は「かび」又は「かひ」で蚊やり火のこと。「毎(ごと)」「じやびせん」の濁音を意識するなら「かび」と濁りたい。年譜によれば宮古中学校に赴任した鳳作は暫くの間、張水港(これは平良港のことであろう。平良字西里には琉球の信仰の中で祭祀などを行う大切な聖域である張水御嶽(ぴゃるみずうたき)がある)近くの一心旅館に暫くいて、後に同じ西里の玉家旅館に移って、昭和七(一九三二)年秋頃まではこの旅館に住んだとあるが、孰れの旅館を詠んだものかは特定出来ない。また、孰れの旅館も現存しない模様である。ただ、前田霧人鳳作の季節(沖積舎平成一八(二〇〇六)年刊。リンク先はPDFファイルの全文)にある鳳作の教え子の喜納虹人のお書きになられた「雲彦と宮古島」(『傘火』昭和十二年四月号)の引用の中に、玉家旅館の鳳作の思い出が出、『この宿の主人は琴の師匠で、何曜かに、一回、下の方で謡(うたい)の会が開かれて蛇皮線(じゃびせん)と琴でうたい出す事がよくあった。その時は『やかましくてやりきれん』とぷいと外に出られる時もあった』とある。]

 

炎天や女も驢馬に男騎(の)り

 

うちかけを着たる遊女や螢狩

 

[やぶちゃん注:「螢」は底本の用字。このホタルは甲虫(コウチュウ)目ホタル科マドボタル属Pyrocoeliaの、宮古島で分化したミヤコマドボタル Pyrocoelia miyako Nakane であると思われる。宮古列島(宮古島・下地島・伊良部島・来間島・池間島)にのみ生息する固有種で、成虫のみならず幼虫も発光する。「東京ゲンジボタル研究所」古河義仁氏のブログ「ホタルの独り言」のミヤコマドボタルを参照されたい。]

 

島の春龍舌蘭の花高し

 

[やぶちゃん注:クサスギカズラ目クサスギカズラ科リュウゼツラン亜科リュウゼツラン属 Agave の仲間で百種以上ある。]

 

花椰子に蜑が伏屋の網代垣

 

[やぶちゃん注:「花椰子」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus のワジュロ(和棕櫚)Trachycarpus fortunei かトウジュロ(唐棕櫚)Trachycarpus wagnerianu(ワジュロと同種とする説もあり、その場合はワジュロの学名となる)の花であろう。雌雄異株で稀に雌雄同株も存在する。雌株は五~六月に葉の間から花枝を伸ばし、微細な粒状の黄色い花を密集して咲かせる(果実は十一~十二月頃に黒く熟す。ここまではウィキの「シュロ」に拠る)。「蜑」は「あま」と読んで海人・漁師の意、「伏屋」は「ふせや」で屋根の低い小さなみすぼらしい家の謂い。「網代垣」は「あじろがき」で細い竹や割り竹を網代形に組んで作った垣根のこと。]

 

   旧正月

廻禮も跣足のままや琉球女

 

[やぶちゃん注:「廻禮」は「くわいれい(かいれい)」で新年の挨拶回りのこと。

 ここまでの七句は六月の発表句。]

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 三 卵 (5) 卵の大小多少の利害得失について / 三 卵~了

 なほ卵について考ふべきことは、その大きさと數とである。前にも述べた通り卵に大小の相違のあるのは、全くその含む滋養分の多少に基づくことであるが、滋養分を多く含む大きな卵は、それから子の發育するときに速に大きく強くなり得るといふ利益があるが、その代り卵が數多く出來ぬといふ不便を免れぬ。これに反して小さな卵の方は、無數に生まれ得る便宜がある代りに、その卵より發育する幼兒は滋養分の不足のために極めて小さく弱いときから早くも獨力で冐險的の生活を試みねばならぬ不利益がある。譬へていへば、新領土へ少數の者に富裕な資本を持たせて遣るか、または資本なしの人間を無數に送り込むかといふ如くで、いづれにも一得一失があるから、甲の適する場合もあれば乙の方が據却つて有功な場合もあらう。また胎生する動物では、卵は如何に小さくても絶えず親から滋養分を供給し、長く掛つて少數の子を十分に發育せしめるのであるから、恰も初め手ぶらで出かけた社員に月月多額の創業費を送つて居るやうなもので、結局大きな卵を數少く生むのと同じことに當る。卵生も胎生も、卵の大きいのも小さいのも、皆それぞれの動物の生活狀態に應じたことで、利害損得を差引き勘定して、種族の生存上、少しでも得になる方が實行せられて居るやうである。

[やぶちゃん注:この丘先生の譬え話、なかなか面白い。]

杉田久女句集 58 訪ふを待たでいつ巣立ちけむ燕の子


訪ふを待たでいつ巣立ちけむ燕の子

 

[やぶちゃん注:本句集は明らかに季題ごとに纏めたものであるから、この句が前句と必ずしも繋がるものとは言えないが、もし、前句が私の推測したような意であるとし、本句がその後日の同じ場所での詠とすれば、私は腑に落ちるのである。]

三女アリスは全治致しました

暴漢柴犬に襲われました三女は、お蔭様で先週木曜に三箇所の抜糸をし、女王さまカラーも今日はずすことが出来ました。娘はすこぶる附きで元気です。皆様にご心配をかえた上に多くの方からお見舞いの言葉を戴き、ありがとう御座いました。娘になり代わり、心より御礼申し上げます。心朽窩主人敬白

フランスの古城の執事の私は惟光というナンジャヤラホイ夢

今朝方、見た夢。
私は広大な葡萄園を持ったフランスの古城(文字通りの「シャトー」で本当に古風な城なのである)に勤める執事なのである(但し、年齢は20代の頃の私である)が、私は私の名が何故か「Koremitu」であると強く認識している(「源氏物語」のあの光の側近の「惟光」である!)。
城の主人は若いフランス人で、今日訪ねてこられて主人と城の一画で一緒におられる(時刻はまだ昼過ぎでそらは青く雲一つない上天気である)その恋人の女性も無論、フランス人なのだが(窓から遠くを歩く二人を見ただけだが孰れも私より若そうだ)、何故か私は主人を「Monsieur Hikaru」、恋人を「Mademoiselle Yu-gao」と呼んで、何やらん、やはり若いフランス人男性の召使いとフランス語(!)で喋っているのである。
そのうちに私の顔が青ざめてくる(この時、私は執事を演じている私を映画のように見ていたのである)。そうしてフランス語で召使いに何かを激しく命ずるようだが、召使いは恐れおののいて、ノン! ノン! と手を振って室外へと逃げ去ってしまう……焦った表情の私……
この瞬間――見ている私は執事を演じている私となったのが感じられた――すると私が考えていることが分かったのである――
「……いけない!……今夜、ここでお二人が過ごされれば……夕顔さまは……命を落とされる!……早く……それを分かるようにお伝えしなければならぬ!……しかし果して間に合うだろうか?……」
と……。(ここで覚醒)
 

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 三 卵 (4) ヒトの卵巣

Hujinnnokaibouzu

[婦人腹部の解剖 卵巣を示す

(い)子宮 (ろ)膀胱 (は)卵巣 (に)輸卵管 (ほ)直腸]

 

 婦人の腹を正面から切り開いて腸などを取り去ると、膀胱の後に恰も茄子を倒にした如き形の子宮が見えるが、その左右に一つづつ三糎餘のお多福豆のやうな卵巣がある。鳥類の卵巣または世人がつねに「たひ」の子とか「かれひ」の子とか呼んでいる魚類の卵巣とは違ひ、哺乳類の卵巣は一見して直に卵の塊とは思はぬが、よく調べて見ると、やはり大小不同の卵細胞の集まり成つたもので、その中の成熟したものから順々に離れ出るのである。そして一旦離れ出た後は、或は精蟲と合して子宮内で新たな個體の基となるか、或は精蟲に會わずしてそのまゝ死ぬか、いづれにしても親の身體との組織の連絡は絶えるが、それまでは慥に母親の身體の一部を成して居たものである。

Ransoudannmenn

[卵巣の斷面] 

[やぶちゃん注:「お多福豆」阿多福豆(おたふくまめ)は形がおたふくの面に似ていることからついた大粒の豆をつけるソラマメの一品種名又はその豆を用いて製した甘納豆の菓子名。]

『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 住吉古城蹟 

    ●住吉古城蹟

正覺寺院内、住吉明神の社地是なり、背(うしろ)は山に據り前は海に臨み、要害の山城なり。造築の始詳ならす、永正七年長尾六郞爲景蜂起の時、北條新九郞入道早雲、假りに當所の古城を取立て楯籠(たてこも)る。

[やぶちゃん注:以下二段は底本では全体が一字下げで極度に小さくポイント落ち(則ち、当該本文ポイントでは全体が二字下げの格好になる)。前後を一行空けた。]

 

上杉憲房上乘院に呈する書曰、伊勢新九郞入道宗瑞 長尾六郞と相談、相州へ令出張、高麗寺幷住吉之古要害取立令蜂起候、

小田原記に曰、上杉の家老長尾六郞爲景逆心を起し、永正七年六月顯定を討取申ける小田原の城主伊勢新九郞早雲も、彼六郞と一味して、已に相州住吉の城を取立出張す、去る程に上田藏人入道、武州神奈川に打て出、熊野權現山を城郭に取立、小田原の宗瑞と引合、謀叛の色を立にけり。早雲小田原には子息新九郞をとゝめ、吾身は松田大道寺以下の軍勢を引率し、高麗寺山幷住吉の故城を取立てこもる。 

されと早雲も須臾(しばし)にして當城をすてしかは、後三浦介義同(よしあつ)が抱城となりしにや、同九年には義同岡崎の居城を北條早雲に攻落(せめおと)され、姑(しばら)く當城に遁しか、又此城をも沒落して三浦城に奔し事小田原記に見ゆ、

[やぶちゃん注:以下底本では全体が一字下げで極度に小さくポイント落ち(則ち、当該本文ポイントでは全体が二字下げの格好になる)。前後を一行空けた。] 

 

三浦介義同永正九年八月十三日、小田原早雲に岡崎城を攻落され、搦手より落て同國住吉の城に落行きける其後又住吉をも落されて、三浦の城へ落行、其後廢城となりし年代詳(つまびらか)ならす、

 

[やぶちゃん注:以下底本では全体が一字下げで極度に小さくポイント落ち(則ち、当該本文ポイントでは全体が二字下げの格好になる)。前を一行空けた。] 

 

案するに北條氏當國併呑の後廢却せしにや、小田原分國より以來當城の事諸記録に見ず。

 

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之七」の「正覺寺」の項に附す形で、

   *

三浦の導寸(だうすん)が城跡 寺の西南の山にあり、切拔(きりぬき)の洞(ほら)二十餘間ありて、寺へ拔け通るなり。前に道あり。此を三浦導寸が城の跡と云ふ。【鎌倉九代記】【北條五代記】等に、三浦陸奧守義同(よしあつ)入道導寸永正九年八月に、北條新九郞長氏に、相州住吉の城をも攻め落さるゝとあるは此處なり。里人、光明寺の南方の山を導寸が城跡なりと指し示す。則ち此處へ相ひ續きて同じ所也。俗にくらがりやぐらと云ふ。總じて鎌倉の俚語に、巖窟(いはや)をやぐらと云ふなり。     

   *

とある(ここで以下、「新編鎌倉志卷之七」で私が附した注をそのまま引いておく)。

・「三浦の導寸」三浦義同(よしあつ 宝徳三(一四五一)年?~永正十三年(一五一六)年)は東相模の初期の戦国小大名。「導寸」は道寸とも書き、彼の出家後の法名。通常はこちらで呼ばれることの方が多い。平安から綿々と続いてきた相模三浦氏血脈の最後の当主にして、北条早雲に拮抗する最大勢力であったが、北条に攻められ、三浦の新井城で三年の籠城の末、討死した。

・「北條新九郞長氏」戦国大名の嚆矢たる北條早雲(永享四(一四三二)年又は康正二(一四五六)年~永正十六(一五一九)年)のこと。「長氏」は彼の諱とされ、他の諱に氏茂も伝えられたが、現在は盛時が定説である。早雲というのは早雲庵宗瑞(そうずい)という彼の号に基づく。

・「俗にくらがりやぐらと云ふ。」前に光明寺裏山の記載があるため一読、分かりにくいが、この「くらがりやぐら」とは、この「切拔の洞」=手掘りの隧道を指している(後に示す「鎌倉攬勝考卷之九」所載の「古城址」の「三浦陸奧守義同人道道寸城跡」の冒頭がそれをはっきりと述べている)。この隧道は現在未確認である。ところがこれに関わってこの隧道を探索している方がいる。「山さ行がねが・ヨッキれん」の平沼義之氏で、その「隧道レポート 小坪のゲジ穴」後編にそれはある。私は長くこの「くらがりやぐら」をこの平沼氏踏査の隧道だと固く信じて来た。実は三十数年前に私はこの隧道を通り抜けているのだ(現在はリンク先でご覧の通り、出口が封鎖され通行出来なくなっている)が、その際、リンク先の画像でも分かる通り、隧道自体が上り坂となっている以上に、途中で大きく隧道が左へ湾曲しているため、中は真暗なのである(因みに私は照明器具を持たずに手探りでこの天井にゲジゲジの群生する中を抜けたわけであった)。従って「くらがりやぐら」という呼称が実感として落ちて、そう思い込んでいた訳である。この隧道の海側の口は正に住吉明神のすぐ右手にあって「鎌倉攬勝考」の「住吉の社地より山中を切拔たる洞口」という表現にもぴったり一致する点も手伝った。ところが、平沼氏がこの探査の折りに出逢った六十歳ほどの地元男性の証言では、この隧道は戦後になってから地元の人たちが自宅と農地とを往復するための近道として掘ったものとあり、更にその最後で平沼氏はデジタル地図ソフトの地図を示され、この隧道より有意に南側の位置に、この隧道よりも凡そ倍弱の長さ(百メートル弱か)の隧道が示されているのである。これが幻の「くらがりやぐら」であることは間違いない。ネット上を検索すると「三浦郡神社寺院民家戸数並古城旧跡」という書物に「掘拔の穴 東の方は表門、北の方は裏門、住吉城双方へ掘拔也。裏門を出れば姥ヶ谷小坪の後也。」とあって、前者が幻の「くらがりやぐら」で、後者は現在の住吉隧道のプロトタイプか、消滅した別隧道を言うか。――しかし、今や、「くらがりやぐら」どころか、この無名の「ゲジ穴」さえも消滅させられようとしている。かつて歩いた場所がなくなることを痛烈に意識するということは――それは『私の病い』に基づくものなのだろうか、それともこの『現実世界そのものの病い』の現象なのだろうか――

   *

 また、「鎌倉攬勝考卷之九」の「古城址」の項には特別にこの住吉城跡だけが図入りで載っている。

   *

三浦陸奧守義同人道道寸城跡 小坪正覺寺の東南、住吉の社あるゆへ、住吉の城とも唱へし由。城山は、光明寺の山より地つゞけり。此所を三浦道寸が城跡といふ。住吉の社地より山中を切拔たる洞口を、大手口なりといふ。入口の洞穴を、例の土人が方言に、くらがりやぐらと稱す。平坦の地四ケ所有。亭宅を構へしは、【北條五代記】に、永正六年、上杉治部少輔建芳が被官、上田藏人入道、北條早雲が下知に從ひ、武州神奈川へ出張し、熊野權現山に城を構へ、謀叛の色を立けるゆへ、早雲、小田原に新九郞氏綱を留置て、松田・大道寺以下の軍勢を率ひ、高麗寺山並住吉の城を攻立てるとあるは、此地の事なり。扨早雲は、住吉の城より神奈川へ押寄合戰せし由。其後此所に三浦道寸を置て守らせけるが、是も又敵の色をなしけるゆへ、同十三年七月、早雲が爲に此城攻落され、道寸父子討る。此入道が太刀並系圖文書等、今圓覺寺中壽德菴に藏す。其由來はしれず。

城山の圖爰に出す。扨此地は三浦郡なれども、鎌倉に接附しけるゆへ玆に出せり。

   *

 今回、ネットを調べたところ、さらに武衛氏の「鎌倉遺構探索」の中に住吉城跡~概要編に始まり、ら」に終わる詳細な現地探索記録を発見した。見応えがあり、必見である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 16 高嶺秀夫との欧米人と日本人の愛情表現の違いについての会話

 高嶺氏がちょいちょい家へやって来る。彼はオスゥェゴー師範学校の卒業生で、私とは汽船の中で知合になったが、気持のいい人であり、私のいろいろな質問に対して、腹蔵なく返事をする。彼は私の男の子のことを話し、如何に彼を抱きしめることが好きであるかをいった。そこで私は、愛情をあらわす方法が違っていることをいい出した。高嶺のお母さんは、立派な、聡明そうな婦人で、非常に気持のよい、親切な感じを人に与える。で私は高嶺に、二ケ年半も留守にした後でお母さんに逢った時、君は彼女にとびついて、固く抱擁して接吻しなかったかと聞いた。すると彼は一寸終っていたが、「いいえ、僕にはそんなことは出来ませんでした。そんなことは非常に極りが悪いのです。ですから僕は、母親の左の手をつかんで、握手しました。母は私が握手した勢に吃驚し、私が完全に外国化したと思いました」と答えた。そこで私は彼に向って、日本人が友人や親類、殊に自分の子供に対して持つ愛情は、我々に於ると同様に熱切だと考えるかと、質ねた。彼は素直に、そうは思わぬといい、かつ愛情と愛情的の表現は、養成することが出来ると信じることと、それから米国へ行く前にくらべて、彼は兄弟に対して、よりやさしい感情を持つようになったこととを、つけ加えた。

[やぶちゃん注:「高嶺」本章冒頭の注でも示したが再掲しておく。高嶺秀夫(安政元(一八五四)年~明治四三(一九一〇)年)は教育学者。旧会津藩士。藩学日新館に学んで明治元(一八六八)年四月に藩主松平容保(かたもり)の近習役となったが九月には会津戦役を迎えてしまう。謹慎のために上京後、福地源一郎・沼間守一・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の塾で英学などを学び、同四年七月に慶応義塾に転学して英学を修めた(在学中に既に英学授業を担当している)。八年七月に文部省は師範学科取調のために三名の留学生を米国に派遣留学させることを決定、高嶺と伊沢修二(愛知師範学校長)・神津専三郎(同人社学生)が選ばれた。高嶺は一八七五年九月にニューヨーク州立オスウィーゴ師範学校に入学、一八七七年七月に卒業したが、この間に校長シェルドン・教頭クルージに学んでペスタロッチ主義教授法を修めつつ、ジョホノット(一八二三年~一八八八年:実生活にもとづく科学観に則る教授内容へ自然科学を導入した教育学者。)と交流を深め、コーネル大学のワイルダー教授(モースの師アガシーの弟子でモースの旧友でもあった)に動物学をも学んだ。偶然、このモースの再来日に同船して帰国、東京師範学校(現在の筑波大学)に赴任、その後、精力的に欧米最新の教育理論を本邦に導入して師範教育のモデルを創生した。その後,女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授や校長などを歴任した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。]

飯田蛇笏 靈芝 明治四十二年(五句)

   明治四十二年(五句)

 

月光に燭爽かや灯取蟲

 

牡丹しろし人倫をとく眼はなてば

 

爐ほとりの甕に澄む日や十二月

 

春近し廻國どもが下駄の泥

 

[やぶちゃん注:「廻國」の「廻」の字はママ。]

 

湯屋出づるとき傘のみぞれかな

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「傘」は「からかさ」と読む。]

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年五月

くまもなき望の光の寢釋迦哉

 

くまもなき望の光の寢釋迦かな

 

[やぶちゃん注:前者が『馬酔木』同年五月発表の、後者が『天の川』昭和六(一九三一)年九月発表の句形。先行する寝釈迦句の再吟。]

 

   琉球所見

鶯を檳榔林に聞きにけり

 

鶯を檳榔林に聞かんとは

 

[やぶちゃん注:「檳榔林」は音数律からも「びんらうりん(びんろうりん)」と読んでいよう。「檳榔」は「びんろう」と読むならば単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ Areca catechu に同定される。宮古島にビンロウ Areca catechu が植生することは、例えばこちらの宮古島に住む93(クミ)さんのブログ「宮古島日和ブログ」の「ビンロウ」で明らかではあるからビンロウ Areca catechu ではないとは言えない。但し、「檳榔」は別に「びろう」と読んで、ヤシ科ビロウ Livistona chinensis という全くの別種をも指し、この「林」という表現からは後者のビロウ Livistona chinensis の可能性の方が遙かに高いようにも思われる。但し、実景を実際に見ていない(私は残念なことに宮古島には行ったことがない)のでここでは断定は避ける。なお、沖繩ではこの「ビロウ」を「クバ」と呼び、葉を用いて扇や笠などを作る(リンクはそれぞれのウィキ)。]

 

   首里城

屋根の上にペンペン草やら薊やら

 

  琉球の墓は住まつてゐる家よりも

  數層倍立派であります。「母體より

  出でて母に歸る」と云ふ信仰のも

  とに墓は母體に型どつて出來てゐ

  ます。墓毎に築地構への庭があり

  ます。

 

鷄合せ古墳の庭に始まれり

 

[やぶちゃん注:言わずもがな乍ら、亀甲墓(かーみなくーばか)である。私はこれについては多くを語りたくなるのだが、ここはぐっとこらえてウィキの「亀甲墓をリンクさせるに留める。そうしないといつものように膨大な注になってしまうからである。一言だけ言っておくと、古いタイプのそれは円形をして海波の彼方であるニライカナイにその入り口を向けた子宮のような形をしている。鳳作の前書は要所を押さえた簡便ながらよい解説である。「鷄合せ」沖繩では「闘鶏(たうちーおーらせー)」と言って二羽の雄の鶏を戦わせる娯楽が古来より盛んであった。

 以上、四句は五月の発表句。最後の句は底本では六月の句群最後に配されてあるが、この句、『ホトトギス』では六月の発表だが、『不知火』は五月発行分に掲載されているのでここに配した。編者には相応の意図があって後ろに回しているのであろうが、その意図が不明である以上、書誌データからここに移動させた。]

士族   山之口貘

 

   士 族

 

往つたり來たりが能なのか

往つたばかりの筈なのに

季節顏してやつて來る

 

それが 春や夏らの顏ならまだよいが

四季を三季にしたいくらゐ見るのもいやなその冬が

木の葉を食ひ食ひ こちらを見い見いやつて來る

兩國橋を渡つて來る 

 

來るのもそれはまだよいが

手を振り

睾丸振り

まる裸 

 

裸もまだよい

あの食ひしんぼうが

なにを季節顏して來るのであらうか 

 

第一

ここは兩國ビルの空室である

たまには食つても食ふめしが たまには見ても見る夢が

一から

十まで

借り物ばかり

その他しばらく血の氣を染め忘れた 手首、 足首、 この首など

あるにはあるが僕の物。

[やぶちゃん注:【2014年6月2日:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により注を全面改稿した】初出は昭和一二(一九三七)年七月号『人民文庫』(発行所は東京市神田区淡路町の人民社)。同誌は昭和一一(一九三六)年三月に武田麟太郎らによって創刊されたプロレタリア文学運動系文芸雑誌。当局の発禁措置や圧力により、昭和一三(一九三八)年一月号を以って終刊した(以上はウィキの「人民文庫」に拠った)。【二〇二四年十月十五日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では、七行目が、

 

木の葉を食ひ食ひこちらを見い見いやつて來る 

 

に改稿されており、最終連の後ろから二行目が、 

 

その他しばらく血の氣を染め忘れた 手首 足首 この首など 

 

と読点が除去され、最終行の「あるにはあるが僕の物。」の句点も除かれてある。「木の葉を食ひ食ひ こちらを見い見いやつて來る」の一マス空けのツメはやや読み難くなるものの、音韻上、リズムの連続性からは納得出来る。しかしであれば、対称性の際立つ第四連の「たまには食つても食ふめしが たまには見ても見る夢が」も「たまには食つても食ふめしがたまには見ても見る夢が」とツメるべきであろうと私は思う。

「兩國ビルの空室」はバクさんの随筆にしばしば懐かしい青春の思い出として語られるもので、「両国の思い出の人たち」(昭和三五(一九六〇)年三月十日附『沖繩タイムス』掲載)に、『もう二十年余りも前なのだが』、『両国駅のすぐ際に、両国ビルディングというのがあって、その中に住んでいた。住んでいたとはいっても、そのビルの倉庫とか、空室から安室へと転々としてその日その日を過ごしていたのである』という「兩國ビルの空室」である。この『ビルとの関係は、昭和の四年か五年ごろからのことで、最初は就職のことからそこに住むようになったのであって、両国ビル二階のお灸と鍼の研究所に通信事務員の名目で、住み込みとして働くことになってからである。この研究所は後になってしんきゅうの学校になった』とあるビルである。この辺りの年譜的事実については前の鼻のある結論の私の注も参照されたい。この詩はともかくもバクさんの独身時代最後の詩(の一つ)と思われる詩である。]

萩原朔太郎 短歌一首 綠なす浪の江の島夢にして人と降りし岩屋道かな

綠なす浪の江の島夢にして人と降りし岩屋道かな

この一首についてはこの萩原朔太郎の短歌パートを始める前の、ほぼ一年前の2013年2月19日のブログで詳細注を附しているので、そちらをお読み戴きたい。

なお、底本とした全集の短歌パートもあと一首で終わる。なにか不思議にしみじみしてきた――

萩原朔太郎 短歌一首 うらうらに俥俥とゆきかへる けふしも年の初會はつゑなるらむ 《同首ヴァリアント併記》


うらうらに俥俥とゆきかへる

けふしも年の初會はつゑなるらむ

 

[やぶちゃん注:底本筑摩版全集「短歌・俳句・美文」の短歌パートの掉尾にある「『草稿ノート』『書簡』より」より。これは大正四(一九一五)年一月一日のクレジットを持つ北原白秋宛(宛先「東京市麻布區坂下町十三」)年賀状に書かれた一首。底本全集第十三巻の「書簡」の書簡番号七六であるが、そこでは二行分かち書きではなく、

 新正

 うらうらに俥俥とゆきかへるけふしも年の初會(はつゑ)なるらむ

  大正四年一月一日

                   萩原朔太郎

 

の一行書きであるのは不審。前の一首の改案か。前の注で示した通り、これにはこの一首を含めて都合四つのヴァリアントがある。そのすべてをここで並べてみたい。

 

〇底本全集第二巻「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の「晩秋」と題する十二首連作の第九首目

 

みちもせに俥俥(くるまくるま)と行きかへる

なにしか菊の節會なるらむ

 

〇大正二(一九一三)年十二月一日附『上毛新聞』発表の「古今新調」の中の一首

 

     菊(きく)

みちもせに俥俥(くるまくるま)と行(ゆ)きかへる今日(けふ)しも菊(きく)の節會(せちゑ)なるらむ

 

〇底本筑摩版全集「短歌・俳句・美文」の短歌パートの掉尾にある「『草稿ノート』『書簡』より」の本歌の前の四首の掉尾

 

うらゝかに俥俥と行きかへる

けふしも年の初會(はつゑ)なるらむ、

 

〇本歌「書簡」書簡番号七六(大正四(一九一五)年一月一日)

 

新正

うらうらに俥俥とゆきかへるけふしも年の初會(はつゑ)なるらむ

 

朔太郎、後年の白秋への賀状に添えるほどだから、よほどの自信作であったに違いなく、四つもヴァリアントが残るというのも彼の短歌の中では特異である。但し、私は上手い短歌とはお世辞にも思わない。残念乍ら。]

杉田久女句集 57 燕に機窓明けて縫ひにけり 《解釈に識者の御教授を乞う》



燕に機窓明けて縫ひにけり

 

[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年の作。私が莫迦なのか、本句は解釈に苦しんでいる。「機窓」はどう読んでも「はたまど」という熟語としか思えないのだが、これは、一体、何だ? 機織り機の置いてある別棟の機屋(はたや)の窓か? それとも何か独特の(機織り機に似た)構造の窓のことか?(「日本国語大辞典」にも「機窓」は乗らない。ネットで引っ掛かるのは、これ、飛行「機」の「窓」である。)――その窓を開ける(「明けて」の用字も気になるが暫く「開けて」の意で採る)のは「燕」(「つばくら」と訓じていよう)のため、というのは――例えばその機屋の内に燕が入り込んでいて巣を作っていたから、その巣に親鳥を通わすために機屋の窓を開けた――というシチュエーションが自然に浮かんでそこだけは腑に落ちるのだが、しかし下五でまた躓く。そこで機(はた)を織るのではなく、手で何かを「縫」っているからである。これは何故?……これは貧しい私の知恵では……久女はこの時、機を織ろうと機屋へ入ったのだったが、気がつけばその屋内には燕が巣を作っており、その中には既に沢山の子が生まれていた(だからこそ餌を運ぶ燕を通わせるために「機」屋の「窓」を「明け」(開け)たのである)。だから……その燕の子たちを驚かさぬために久女は大きな音の出る機(はた)を織るのはやめにし、静かに別な手縫い仕事をそこで始めた……という牽強付会の謗りを受けそうな解釈しか出来ない。……私は……もしかすると……とんでもない思い込みと誤読をしているのかも知れない(でなければここまでの不審と解釈への自信のなさは募らぬはずだから)。どうか識者の御教授を乞う。目から鱗の解釈をお願いしたい。]

杉田久女句集 56 こがね蟲葉かげを歩む風雨かな

こがね蟲葉かげを歩む風雨かな

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 小豆島

 小豆島

 

春日沒り鹽田昏るる身のまはり

 

[やぶちゃん注:老婆心乍、「沒り」は「いり」と読む。「鹽田」底本の用字は「塩田」。]

 

魚ひかり春潮比重計浸せり

 

春日昏れ鹽屋の裡(うち)にベルト鳴り

 

[やぶちゃん注:「鹽屋」底本の用字は「塩屋」。このベルトは何だろう? 夜間作業のための自家発電のモーターか? それとも海水を汲み上げるモーターか? 凡そベルト・コンベアを装備した多量生産の塩屋というのもこの時代の小豆島の造塩業では考えにくいように思われる。識者の御教授を乞うものである。年譜上ではこの年の小豆島行は確認出来ない。

「私はいい人なんです」

自ら「私はいい人なんです」といった人で本当に「いい人」だったというのは古今東西一人として僕は聞いたことがないがそういう人が歴史上実在するなら是非教えてもらいたい。――但し、今、どこかでそう言っておるおぞましく不遜極まりない最下劣な人物以外に――でである。――因みに僕は57年の人生の中で「私はいい人なんです」と言ったことはないし今後も言わない――

暗光   八木重吉

 

ちさい 童女が

ぬかるみばたで くびをまわす

灰色の

午后の 暗光

 

[やぶちゃん注:これは極めつけのシュールレアリスム!]

ギルバート諸島

キリバス人全員の移住も=気候変動で国土水没なら-フィジー

 

……22の頃、毎日通っていた食堂の主人は、戦前、船員をしていた。その彼が、

 

「……船乗りの人生の中で一番のパラダイスだと思ったのはギルバート諸島だったね……あそこは美しかった……」

 

と厨房から遙か彼方の南の島を見るように如何にも懐かしそうに幸せな笑みを浮かべてぽつん呟いたのを忘れない……

風呂場より走り出て来し二童子の二つちんぽこ端午の節句  佐佐木幸綱

風呂場より走り出て来し二童子の二つちんぽこ端午の節句  佐佐木幸綱

マイミクの「進撃の半沢直樹」氏より教えられし短歌。頗る附きでいい♡

2014/02/16

私はまた

私はまた新しい夢を――見よう――

人を愛する

愛する人に厭われてまで言葉を発するのは、実は愛こそ故であるにも拘わらず、その人があなたを愛していないというその瞬間の現在的事実が露呈する際には、それがただの猥雑な犯罪者に瞬時に豹変するという事実が生ずるのである。これは頗る面白い現象であると言わねばならぬ。そういう点に於いて人は――「人を愛する」――という行為を――厳に――慎まねばならない――という命題の真であることが証明されるのである。

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 水蛭

水蛭〔音質〕人ノ血ヲ吸フ蟲ナリ小アリ大アリ鹽ヲオソル夏月

澤水ニ多シ妄ニ澤水ヲノムヘカラスアラメヲ煮テ雨水ヲソヽ

ケハ大蛭トナル女ノ髮ヲ水ニ久シクツケヲケハ變シテ赤キ小

蛭トナル黑キモアリ蟹ヲクタキフキノ葉ニツヽミ水ニツケヲケ

ハヤカテ蛭トナル又蛭ノ黑燒雨ニウルホヘハ百千ノ蛭ニ變スト

云〇草蛭ヲ國俗山ヒルト云本草水蛭條下ニアリ深山ニ

アリ山中ヲ行ニ林木ノ枝ヨリ人ニヲチカヽル事アリ故ニ笠ヲ

キテ山行ス又本草辰砂附方水蛭瘡毒ノ事アリ水蛭

古木ノ上ニ生ス人其下ヲ過レハ落テ人ノ體ニツキテ即瘡

トナル久ケレハ遍體朱砂麝香ヲヌレハ癒又本草水蛭ノ

集解ニ續博物志ヲ引テ此事ヲ云ヘリ又曰此即草蛭

〇やぶちゃんの書き下し文

水蛭[やぶちゃん注:「蛭」の右に「ヒツ」、「水蛭」の左に「ヒル」とルビを振る。]〔音、「質」〕。人の血を吸ふ蟲なり。小あり、大あり。鹽をおそる。夏月、澤水に多し。妄りに水をのむべからず。アラメを煮て、雨水をそゝげば、大蛭となる。女の髮を水に久しくつけをけば、變じて赤き小蛭となる。黑きもあり。蟹をくだき、フキの葉につゝみ、水につけをけば、やがて蛭となる。又、蛭の黑燒、雨にうるほへば、百千の蛭に變ずと云ふ。草蛭を國俗、「山ひる」と云ふ。「本草」〔の〕「水蛭」條下にあり、『深山にあり。山中を行くに林木の枝より人にをちかゝる事あり。故に笠をきて山行す。』〔と〕。又、「本草」「辰砂」〔の〕「附方」〔に〕「水蛭瘡毒」の事あり、『水蛭古木の上に生ず。人、其の下を過ぐれば落ちて人の體につきて即ち、瘡となる。久しければ、體に遍(〔あまね〕)し。朱砂・麝香をぬれば癒ゆ。』〔と〕。又、「本草」「水蛭」〔の〕「集解」に「續博物志」を引きて此の事を云へり。又、曰く、『此れ即ち草蛭なり。』〔と。〕

[やぶちゃん注:「水蛭」は環形動物門ヒル綱顎ビル目ヒルド科チスイビル Hirudo nipponia を指すと考えてよいが、本文は明らかにヒル綱 Hirudinea に属するヒル類(特に吸血性ヒル類)全般をごった煮のように記しており、途中にある「木蛭」というのは「草蛭」「山びる」というのは顎ヒル目ヒルド科ヤマビル Haemadipsa zeylanica japonica を指している。しかもその記載は噴飯ものの化生説を多く含み、信頼するに足らない。

『「本草」の「水蛭」條下に……』「本草綱目 蟲之二」「水蛭」の項の「集解」の中に、

其草蛭在深山草上、人行即著脛股、不覺入於肉中、育爲害、山人自有療法。

とある部分の前半を指す。

『「本草」「辰砂」の「附方」に「水蛭瘡毒」の事あり……』「本草綱目 金石之三」の「丹砂」の項の「附方」の最後の方に、

木蛭瘡毒、南方多雨、有物曰木蛭、大類鼻涕、生於枯木之上、聞人氣則閃閃而動。人過其下、墮人體間、即立成瘡、久則遍體。惟以朱砂、麝香塗之、即愈。(張杲「醫説」

とあるのを引いている。

『「本草」「水蛭」の「集解」に「續博物志」を引きて此の事を云へり。又、曰く、『此れ即ち草蛭なり。』と。』「本草綱目 蟲之二」「水蛭」の項の「集解」の最後に、

時珍曰、「李石「續博物志」云、『南方水痴似鼻涕、聞人氣閃閃而動、就人體成瘡、惟以麝香、朱砂塗之即愈。此即草蛭也。』」

とあるのに基づく。「續博物志」は晋の張華の「博物志」に倣って宋代に李石が著わした地誌博物書。

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 三 卵 (4) ヒトの卵子

Hitonorann
[人間の卵]

 以上は卵生する動物の卵の例であるが、卵は必ずしも卵生する動物に限つてあるわけではない。哺乳類の如き胎生する動物でも胎兒の始は必ず一つの卵である。しかし鳥類などの卵とは違ひ頗る小さいから、その發見せられたものも比較的近いことで、昔は誰もこれを知らずに居た。人間の女などは年に十二三囘も卵を産み落としていながら、餘り小さいから當人さへ氣が附かぬ。人間の卵でも犬・猫・馬・牛の卵でも形も大きさも皆ほゞ同樣で、直徑僅に一粍の五分の一にも足らぬ小球であるから、肉眼ではたゞ針の先で突いた孔程により見えず、顯微鏡で覗いて見ても殆ど何の異なる所もない。即ち卵の時代には、人間でも猿でも犬でも猫でも全く同じである。哺乳類の卵の外面には稍々厚い透明な膜があるが、この膜を度外視して内容だけを「うに」や「ひとで」などの微細な卵に比べて見ると、いづれも嚢狀の大きな核と多少の顆粒とを含んだ原形質の塊で、その一個の細胞なることは明に知れる。されば鳥の卵などに比べて違ふ點は、一は滋養分を殆ど含まぬために小さく、他は滋養分を多量に含むために大きく、一は親の體内で發育するために單に膜を以て被はれ、他は親の體外で發育するために更に白身と殼とで包まれて居るといふだけで、いづれも一個の細胞である點に至つては毫も相違はない。

[やぶちゃん注:「その發見せられたものも」はママ。講談社学術文庫版では「せられたのも」とする。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 住吉明神社

    ●住吉明神社

正覺寺の後山(うしろやま)の上に在り、神體は故ありて曩(さき)に鶴岡(つるがをか)の末社に移し當社には今白幣を神體とす小名飯島の鎭守なり、古は郡中の總鎭守なりしと云ふ、此地三浦道寸の城跡なり。

[やぶちゃん注:鎌倉三」の「住吉社」の項には、

住吉社 小坪の正覺寺の後山にあり。正覺寺の山號をも住吉山と號し、むかしは、小坪の内住吉といふ地名に唱へし由、されば古き社ならん。【光明寺開山傳記】に、三浦住吉谷悟眞寺に住して、淨土宗を弘通すとあり。今も小坪邊の生土神に崇むといふ。偖此住吉は、三浦部の地なれども、當郡に接附せし地なるゆへ、因に此編に錄せり。

とある。ここで言う「悟眞寺」というのは光明寺の前身で現在とは別な所にあったとされる寺である。これには疑義があるものの、「正覺寺」の注で示した通り、光明寺開山の良忠を荼毘に付した場所はこの正覚寺のある場所と考えられ、現在の同寺でもその遺跡と伝える。「鎌倉事典」の三浦勝男氏の「正覚寺」の項では、この悟真寺は、『背後に住吉城をひかえていることから、再三の合戦の被害で廃寺となったが、天文十年(一五四一)光明寺十八世快誉上人が正覚寺を起立したと伝える』と記す。「弘通」は「ぐづう(ぐずう)」又は「ぐつう」と読み、仏教が広く世に行われること。また、仏教を普及させることを言う。「生土神」「うぶうながみ」と読む。産土神。その土地の民草を守る土地神のこと。言わずもがなであるが本文で「古は郡中の總鎭守なりしと云ふ」とある「郡」とは三浦郡を指す。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 15 明治十一年の日本製の皮靴は踵に難点あり!

M315
図―315
 

 日本人は我々の服装を使用するのに、帽子はうまい具合にかぶり、また衣服でさえも、彼等特有の理屈にかなった優雅な寛衣と対照すれば、必ず身に合わず、吃驚せざるを得ないような有様ではあるが、それにしても相当に着こなす。然し日本の靴屋さんは、見た所は靴らしく思われる物はつくるが、まだまだ踝(くるぶし)を固くする技術を呑み込んでいない。靴を見ることは稀であるが、見る靴はたいてい踵(かかと)のところが曲っている。図315は今日私がある男のはいていた靴を、正確に写生したものである。

[やぶちゃん注:こんなことを記録していたのはきっとモースだけに違いない。明治十一年の日本製の靴は踵が軟かったのであった。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 14 草刈鎌 / 迷路のような街 / 買った鉢植えの草花

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図―313

 

 

 

 図313は、まっすぐな柄の鎌で草を刈っている男を示す。鎌はすべてこの種類である。

 

M314

 

 


図―314

 

 今日私は、先日菓子をくれたある人を見つけようと努めた。私は、彼の住所を明瞭に書いたものを、持っていたのであるが、而もこの図(図314)は、私が連れて行った日本人が、この場所をさがす為にとった、まがりくねった経路を示している。名前のついている町は僅かで、名前は四角な地域全部につけられ、その地域の中を、また若干の町が通っていることもあるのだということを、私は再び聞いた。それで我々は、目的地を見つける迄に、あっちへ行ったり、こつちへ行ったり、くるくる廻ったりしたのである。

 

[やぶちゃん注:モースはこれと似たようなこと(不満)を「第四章 再び東京へ 9 町の名」でも記している。]

 

 

 

 今日鉢に植えた植物を売る男が前庭へ入って来た。我々は植物を、鉢も何もひっくるめて十四買い、一本について一セントずつ払った。その中の二つは真盛りの奇麗な石竹、二つは馬鞭草(くまつづら)で、その他美しいゼラニウム若干等であった。

 

[やぶちゃん注:「石竹」原文“pinks”。ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis。英語の“pink”はカーネーションなどを含むナデシコ属の総称で、セキチクは普通、英語では“China pink”と呼称する。ウィキの「セキチク」によれば、中国原産であるが日本では平安時代には既に栽培されており、その後、草丈と花の大きさにより区別される三寸石竹、五寸石竹などの品種が育成されてきたとある。ヨーロッパでは一七一六年には栽培されており、一八六〇年代には日本から導入された「常夏(とこなつ)」を中心に品種改良が行なわれ、その後も世界各地で多くの品種が育成され現在ではアメリカナデシコなどとの交配品種が栽培の主体となっているとし、起源が不明ながら日本で育成されたと思われる品種として、

 

トコナツ(常夏)
Dianthus chinensis L. var. semperflorens Makino

 

イセナデシコ
Dianthus × isensis Hirahata et Kitam.

 

の二品種が挙げられてある。

 

「馬鞭草(くまつづら)」原文は“verbenas”。シソ目クマツヅラ科クマツヅラ Verbena officinalis は本州・四国・九州・西南諸島に分布する多年生草本で、高さ30~80センチメートルで路傍・荒地・原野などに生育する。横に走る太い地下茎を持ち、種子以外にこの地下茎を用いても繁殖が可能であるらしい。茎の断面は四角形で上部で枝を分け、羽状に三~五裂する葉を対生する。花期は六~九月で茎の上部に穂状花序を出し、淡紅紫色の花を多数咲かせる。漢名である「馬鞭草」(ばべんそう:属名“Verbena”(バーベナ)はそれに由来するか)は長く伸びた花穂を鞭に見たてことに由来する。古くは、腫れ物などの薬に用いられた(以上は岡山理科大学生物地球学部生物地球学科植物生態研究室(波田研)サイト内の「植物雑学辞典」のクマツヅラの森定伸氏の解説に拠った)。ただ、個人サイト「野の花散歩」の「クマツヅラ」によれば、『クマツヅラの名は900年代に書かれた「和名抄」に登場』するものの、その和名の由来は良く分かっていないとあり、『一説には花の後、米粒状の実が穂状に付くので「米ツヅラ」がなまってクマツヅラになったとされる』とあった。]

中島敦 南洋日記 十二月二十六日

        十二月二十六日(金) 晴、

 午前灸。香港昨日陷る、午後を物産陳列館に過す。

[やぶちゃん注:「香港昨日陷る」一九四一(昭和十六)年十二月八日から十二月二十五日にかけて行われた太平洋戦争緒戦の日本軍によるイギリス植民地であった香港の攻略戦で「香港の戦い」と呼ばれる。日本側の作戦名は「C作戦」。参照したウィキの「香港の戦い」によれば、『日本軍では九龍半島の攻略に数週間を見込んでいたが、準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され九龍半島から撤退した。香港島への上陸作戦は』十八日夜から十九日未明にかけて行われ、『島内では激戦となったが、イギリス軍は給水を断たれ』て二十五日に降伏、日本軍はわずか十八日間で香港攻略を完了した、とある。]

飯田蛇笏 靈芝 明治四十一年(五句)

   明治四十一年(五句)

 

とりいでてもろき錦や月の秋

 

はつ嵐眞帆の茜に凪ぎにけり

 

炊ぎつゝながむる山や露の音

 

江の宿や蘇鐡の窻の葉月汐

[やぶちゃん注:「葉月汐」は旧暦八月十五日の大潮のこと。秋の大潮は夜間に最も高くなって中秋の夜の名月の頃に満潮を迎える(春の大潮は昼が高い)。]

爐邊よりこたふる妻や秋の幮

[やぶちゃん注:「幮」は「かや」と読む。]

萩原朔太郎 短歌一首 うらゝかに俥俥と行きかへる けふしも年の初會なるらむ、

うらゝかに俥俥と行きかへる

けふしも年の初會(はつゑ)なるらむ、

 

[やぶちゃん注:底本筑摩版全集「短歌・俳句・美文」の短歌パートの掉尾にある「『草稿ノート』『書簡』より」より。これは先行する大正二(一九一三)年十二月一日附『上毛新聞』に発表した「古今新調」の中の一首、

 

     菊

みちもせに俥俥と行きかへる今日しも菊の節會なるらむ

 

(ルビは排除した)の初案かとも思われる。

 なお、前の「いといふの」「あかねさす」「かゞやける」とこの四首は底本では同じ時期に纏めて創られたもののように見えるように配されてある。]

鼻のある結論  山之口貘

 

   鼻のある結論

 

ある日

悶々としてゐる鼻の姿を見た

鼻はその兩翼をおしひろげてはおしたゝんだりして 往復してゐる呼吸を苦しんでゐた

呼吸は熱をおび

はなかべを傷めて往復した

鼻はつひにいきり立ち

身振り口振りもはげしくなつて くんくんと風邪を打ち鳴らした

僕は詩を休み

なんどもなんども洟をかみ

鼻の樣子をうかゞひ暮らしてゐるうちに 夜が明けた

あゝ

呼吸するための鼻であるとは言へ

風邪ひくたんびにぐるりの文明を搔き亂し

そこに神の氣配を蹴立てゝ

鼻は血みどろに

顏のまんなかにがんばつてゐた 

 

またある日

僕は文明をかなしんだ

詩人がどんなに詩人でも 未だに食はねば生きられないほどの

それは非文化的な文明だつた

だから僕なんかでも 詩人であるばかりではなくて汲取屋をも兼ねてゐた

僕は來る日も糞を浴び

去(ゆ)く日も糞を浴びてゐた

詩は糞の日々をながめ 立ちのぼる陽炎のやうに汗ばんだ

あゝ

かゝる不潔な生活にも 僕と稱する人間がばたついて生きてゐるやうに

ソヴィエット・ロシヤにも

ナチス・ドイツにも

また戰車や神風號やアンドレ・ジイドに至るまで

文明のどこにも人間はばたついてゐて

くさいと言ふには既に遲かつた 

 

鼻はもつともらしい物腰をして

生理の傳統をかむり

再び顏のまんなかに立ち上つてゐた。

 

[やぶちゃん注:【2014年6月1日:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により注を全面改稿した】初出は昭和一二(一九三七)年九月特大号『改造』。後に萩原朔太郎編「昭和詩鈔」に詩集刊行後は昭和一五(一九四〇)年三月十八日刊の萩原朔太郎編「昭和詩鈔」(冨山房)に同じく本詩集の「襤褸は寢てゐる」「來意」と合わせて三篇が収録されている(他にも再録があるが略す。これは再録データは少なくとも私の電子テクストにはあまり必要を感じないことと、データ参照をしている思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題を担当されている松下博文氏の編集権を侵害しないためである。再録の詳細データを知りたい場合は同書を購入されたい。以降は私が必要と思った再録(例えば戦前戦中の詩の戦後の再録ややや特殊と思われるタイプの再録、それからバクさんの故郷、沖繩関連の雑誌・新聞のそれ)についてのみ記すこととする。向後はこの注を略す)。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では三行目が、

 

鼻はその兩翼をおしひろげてはおしたゝんだりして 往復してゐる呼吸(いき)を苦しんでゐた

 

に、五行目が、 

 

はなかべを痛めて往復した 

 

に改稿されていると旧全集校異にある。

 ところが、その「定本 山之口貘詩集」を底本とする「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」を見ると、この五行目は、「思辨の苑」と同じく、 

 

はなかべを傷めて往復した 

 

で「傷」となっているのは不審である。旧全集か新全集か孰れかが誤認しているものと思われる。わざわざ校異で記した旧全集の誤認というのは考え難いのだが、原本を所持しないため、暫くかく注しておく。

 また、「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」では、 

 

風邪ひくたんびにぐるりの文明を搔き乱し 

 

と「掻き」ではなく「搔き」となっている(同じく新字採用の旧全集もこれと同じ)。実は現在、普通に使用されているところの「掻」は、画数が二画も異なるが、これは新字体ではなく、簡易慣用字体(国語審議会が「字体選択のよりどころ」として一定の方針を示した「表外漢字字体表」(二〇〇〇年十二月最終答申)が挙げる表外漢字の代表的な一〇二二字について概ね所謂、康熙字典体に準じた「印刷標準字体」の内、特に二十二字について俗字体・略字体等を許容字体と認めたもの)の一つであるから、新全集が採用方針としている正規の新字体には含まれないので問題ない

 さらにまた、「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」では、 

 

ソヴィエツト・ロシヤにも 

 

と「ソヴィエット」の「ッ」という拗音表記が「ソヴィエツト」となっている。これもやや不審で、前の「ィ」を拗音表記しながら、後を「ツ」と拗音化しないというのは解せない気がするのである。これも原本を持たないので確認出来ないが、私はこれが「定本 山之口貘詩集」のママであるのなら(とすると、私は、寧ろ、当該詩集自体の単なる植字ミスさえ疑われるのであるが)、解題で、ママ注記をするか、若しくは新字体採用という「英断」(この括弧は無論、皮肉である)をしたのなら、自然な「ソヴィエット」にして、補正注を解題に附すのがよりよいと思うのであるが、如何であろうか?【二〇二四年十月十四日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。その結果、初版では、ちゃんと、「ソヴィエット」となっていたので(ここ)、「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の校正ミスであることが判明した。

「はなかべ」「鼻壁」と言ったら、一般的には、というか、耳鼻咽喉科では、鼻の内部で、上下に支えている薄い骨と間にある軟骨から出来ている鼻の左右を分けている「鼻中隔」を指すが、ここは鼻孔内部の広義の内壁の皮膚全体を指していると思われる臭気と排泄物の細菌に日常的に襲われて、鼻がムズムズするのを、鼻を下を擦ったり、鼻を指で揉んだりすることで、そこが、炎症を起こして、状態が悪くなることを指していよう。

「詩人であるばかりではなくて汲取屋をも兼ねてゐた」バクさんのこの詩は、後の奥方になる静江さんとお見合いをする前月の発行である(お見合いは十月で事実婚は十二月。但し、婚姻届は二年後の昭和一四(一九三九)年十月)。旧全集年譜の同年の条には、『貘は東京鍼灸医学研究所退職後』(昭和四(一九二九)年八月に同研究所通信事務員として就職するとともに昭和六年には同医学校に入学、昭和十年に卒業、翌十一年二月に退職、その後は半年ほど鉄屑を運ぶ隅田川のダルマ船の仕事に従事した)、『水洗便所のマンホールのそうじ人夫、東京材木日日新聞などを経て、温灸器販売、ニキビ、ソバカスの薬の通信販売の仕事に従事していたが』、まさに、この結婚した昭和十二年十二月にその通販業者が『倒産し失業する』とある。バクさんには、その汲取業に従事していた体験をもとにした手書きの「淨化槽斷面圖」の附された小説「詩人便所を洗ふ」(「洗う」は推定。昭和一三(一九三八)年『中央公論』。これは、いつか個人的に電子化したいと考えている)、また戦後になっても小説「汲取屋になった詩人」(昭和三三(一九五八)年六月号『サンデー毎日』。但し、こちらには汲取業のことは最後にちょっとしか出ないので期待してはいけない)を書いているから、バクさんにとっては非常に懐かしい、文字通り、記憶に強烈に染み込んだものであったことが窺われる。因みに私は、この二篇を「小説」と分類した旧全集の編集方針に、私は、ある種の違和感を持っている。生来の詩人であるバクさんの書くものは総て「詩」「散文詩」であり、旧全集のような「小説」(第二巻)、「随筆」(第三巻)というような線引きは到底出来ないと思われるからである(さても、新全集は後続巻では正しく「散文」とするらしい。快哉!)。――いや――それにしても――世界中の詩人の中で、全集に、手書きの便所の断面図が載るという詩人は――恐らくバクさんだけだろうなあ!――【二〇二四年十月十四日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年四月

大兵におはしますなる寢釋迦哉

 

大兵におはし給ふなる寢釋迦かな

 

[やぶちゃん注:前者が『不知火』昭和六(一九三一)年四月発表の、後者が『天の川』同年九月発表の句形。一読、語としての自然さからみれば前者でよいと思うのであるが、敢えて特異な語でしかも字余りを狙った鳳作には相応の確信犯である。確かに前者は寝釈迦の「大兵」肥満の像が如何にもスマートに小さくなってしまい、後者ではその諧謔性と同時にその肥満ぶりが画面をはみ出る。]

 

豐かなる乳見え給ふ寢釋迦哉

 

ゆたかなる乳見え給ふ寢釋迦かな

 

[やぶちゃん注:前者が『不知火』昭和六(一九三一)年四月発表の、後者が『天の川』同年九月発表の句形。]

 

麗はしの朱ヶのしとねの寢釋迦哉

 

涅槃像双樹の花のこぼれたれ

 

[やぶちゃん注:ここに底本では次の五月のパートに後掲する「くまもなき望の光の寢釋迦哉」という同じ嘱目吟が入る。]

 

探梅行裏御門より許さるる

 

正月も常のはだしや琉球女

 

春泥やうちかけ着たる琉球女

 

[やぶちゃん注:前者は四月発行の『泉』、後者は同じく四月の『京鹿子』の発表句である。この二句、顕在的な琉球での最初の嘱目吟として記念すべきもので、わざと「正月」と「はだし」、「春泥」と「うちかけ」を衝突させ(後者は語彙としては必ずしも対極にないが、この打掛けはどう考えても薄い(本土なら夏用の)ものである)、そこに「琉球女」という強烈な南洋イメージを配する辺り、まさに私には鳳作の高らかな無季俳句の宣言句のように思われてならない。]

 

蝌蚪一つ影先立てて泳ぎくる

 

春潮や生簀曳きゆくポツポ船


[やぶちゃん注:前田霧人鳳作の季節(沖積舎平成一八(二〇〇六)年刊。リンク先はPDFファイルの全文)によれば、この句は『昭和六年四月に大阪毎日、東京日日両新聞社主催の虚子選「日本新名勝俳句」募集、海岸の部「錦江湾」で銀牌賞に入選したものである。この催しは、杉田久女が「谺して山ほととぎすほしいまま」の句で帝国風景院賞を受賞したことでも有名な俳句の一大イベントである。彼は余程嬉しかったのか、鹿児島から肌身離さず持って来た「俳句手記」の中表紙にその新聞記事切り抜きを貼り付け、自分の句に赤枠を付けている』とある。この前田氏の評論は鳳作の事蹟を極めて実証的に検証されており、優れた評論である。是非、御一読あれ。]



風鈴や灯りそめたる櫻島

 

熔岩の空を流るる蜻蛉かな

 

秋晴の熔岩(ラバ)につきたる渡舟かな

 

[やぶちゃん注:「溶岩(ラバ)」の「ラバ」は日本語ではない。火山国イタリアの「流れ」という意味のイタリア語“lava”に基づき、溶岩流及び流出後に固まった溶岩などを指す語である。「渡舟」は「としふ(としゅう)」と読んでいるとしか思われない。]

 

名月や海に横たふ熔岩(ラバ)の島

 

小春日や雲の影這ふ櫻島

 

熔岩に立ちたる虹の靑さかな

 

[やぶちゃん注:「春潮や」からここまでの七句は四月刊の『日本新名所俳句』の掲載句。

 ここまで、改稿の二句を除き、同年四月発表の句。]

杉田久女句集 55 螢籠廣葉の風に明滅す

螢籠廣葉の風に明滅す

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 万燈

 万燈

 

   春日神社

 

万燈(まんとう)のしづかなひとのながれにゐる

 

万燈の裸火ひとつまたたける

 

油火の火立(ほだち)しづかに霜が降る

 

[やぶちゃん注:現在の奈良の春日大社(春日神社は昭二一(一九四六)年に春日大社と改称している)の二月の節分の日(二月四日頃)に行われる節分万燈籠であろう(夕刻六時頃に全灯)。公式サイト節分万燈籠解説よれば、同神社の燈籠は石燈籠約二千基、釣燈籠約千基の合計約三千基あり、中でも全国で二番目に古い石灯籠とされる伝関白藤原忠通保延二(一一三六)年奉納とする「柚木燈籠」や伝藤原頼通長暦二(一〇三八)年寄進とする「瑠璃燈籠」を始めとして平安末期より今日に至るまでその大半は春日の神を崇敬する人々から家内安全・商売繁盛・武運長久・先祖の冥福向上等の願いをこめて寄進されたもので、特に室町末期から江戸時代にかけては一般庶民や春日講中からのものが多いとあり、『昔は燈籠奉納時、油料も納められ、その油の続くかぎり毎夜灯がともされていましたが、明治時代に入り神仏分離や神社制度の変革で、一旦中断したものの、節分の夜は同21年、中元の夜(8月15日)は昭和4年に再興され、現在の万燈籠の形となりました。しかし、もっと古く室町時代や江戸時代に、奈良町の住人が春日参道で、雨乞い祈祷として万燈籠を行っていました。記録には、興福寺大乗院の尋尊僧正の日記で、今から500年余り前の文明7年7月28日、「祈雨のため、南都の郷民、春日社頭から興福寺南円堂まで、燈籠を懸く」とあり、当時は木の柱に横木をつけ、それに行燈か提灯の様な手作りの仮設の燈籠を懸け行っていたと考えられます。故に浄火を献じて神様に様々な祈願をすることが万燈籠です』とある。]

草の 實   八木重吉

實(み)!

ひとつぶの あさがほの 實

さぶしいだらうな、實よ

 

あ おまへは わたしぢやなかつたのかえ

誕生日――その終わりに

老年に入つた人生に於て最も警戒しなくてはならぬのは、自分の誕生日を架空の限定されたおぞましき人生の節目に擬へ、たゞでさへ愚劣で救ひ難き現世に、而も下らぬ存在でしかない自身といふ存在の絶望を、遂に抱ひてしまふといふ誤謬に陥り易いといふ、誠に莫迦々々しい事實のみに對してである。

(「贋作 侏儒の言葉」より)

「贋作 侏儒の言葉」――誰の作だって?――俺だよ、俺!

飯田蛇笏 靈芝 明治四十年(十句)  

 

   明治四十年(十句) 

 

花の風山蜂たかくわたるかな

 

晴嵐に松鳴る中のさくらかな

 

松伐りし山のひろさや躑躅咲く

 

草庵の壁に利鎌や秋隣

 

泉石を外づれる瀧や靑嵐

 

かりそめに燈籠おくや草の中 

 

無花果の門の格子や水を打つ 

 

此宿や飛瀑にうたす鮓の石 

 

月の窻にものゝ葉裏のほたるかな

 

雷やみし合歡の日南の旅人かな 

 

[やぶちゃん注:最後の句の「日南」は「ひなみ」か「ひなた」か。国語教師の「めたさん」の『「無理題」に遊ぶ』に『「日南」は「ひなみ」か「ひなた」か―飯田蛇笏の句より』に、この句のこれを「ひなた」と読む根拠が示されてあるが、そこで「めたさん」が根拠となさっておられる「増補決定版 現代日本文學全集」は昭和四八(一九七三)年刊行のもので、編者によるルビ附けでないという確証はないとも私は思うのである。但し、小学館の「日本国語大辞典」の「ひなた」(見出し漢字表記は「日向」)を見ると、例文として尾崎紅葉の「多情多恨」が引用されており、そこには『お種と保との不断着が魚を開いたやうに日南(ヒナタ)に並べて干してある』とあり、私は蛇笏がルビを振らなかったのはやはり普通の読者なら暫く考えた後にやっぱりそう読むであろうところの「ひなた」と読んでいる、と私も考えるものではある。なお、「旅人」は「りよじん(りょじん)」であろう。「雷」(らい)によく呼応する。以上の勝手な解釈には何時でも御批判を俟つ覚悟はある。]

2014/02/15

教え子が誕生日にくれたウィフレード・ラムの絵の写真

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教え子が誕生日にくれた僕の大好きなウィフレード・ラムの絵の写真!
ウィフレード・ラム Wifredo Lam 1902–1982
ブルトンは「ラム、蔓植物の星を額(ひたい)につけ、彼のふれるすべてのものが螢の火に燃えて」と表現した(ブログ「日本アートNipponArtのブログ」より引用)

中島敦 南洋日記 十二月二十五日

        十二月二十五日(木) 雨

 朝來涼し。昨夜の高松氏との約束にては今朝七時前に西班牙教會に同行する筈なりしも、目覺めしは七時半。慌てて朝食をすませ、教會に行く。高松氏在らず。着飾れる島民等多く集まり、己に彌撒の最中なり。赤きチヤンチヤンコを着たる老僧、六木の大蠟燭をつけし聖像の前に脆く。童子二人その後に從ふ。合唱。九時前式終る。後に聞けば、高松氏も寐坊せしなりと。夜、

[やぶちゃん注:「朝來」老婆心乍ら「ちょうらい」で朝からずっと、「西班牙」老婆心乍ら「ポルトガル」、老婆心乍らクリスマスのミサの光景である。]

加藤淸正   山之口貘

 

   加 藤 淸 正

 

血沫をあげ

あはたゞしくも虎年が來た

 

虎だ と云へば

上野の動物園や虎の皮や 虎そのものを思ひ出すといふことよりも

思ひ出すのは加藤淸正まづその人なのである

かれはそのむかし

虎狩ですつかりをとこをあげ

以來

歷史の一隅を借り受けて

そこにおのれの名をかゝげ

虎のゐるところどこにでも出掛けては 史上の生活を營むでゐた

かれはまるで動物園の虎の係りであるかのやうに

いつも人待ち顏で檻の傍らに立ち

虎に生彩を投げあたへたりして 少年達に愛されてゐた 

 

ところでこれは今年のことである。

その日 動物園には僕もゐた

僕は少年達の頭の間から そこいらにごろごろ轉つてゐる肉體の文明に見とれてゐた

やがて少年達がそこをひきあげると

例の加藤淸正彼がである

かれは僕の肩をたゝき その掌をおのれの腦天に置き おもむろに唇をうごかした

弱つた。 とかれが言つた

ことしは虎で困つたことになつた。と言つた

これは意外にも かれのマンネリズムから飛び出してゐるほどの 更に一段と歷史的にほひの高い言葉であつた

それにしても

だがそれにしても僕はおもふ

史上の彼方からはるばると おのれを慕ひ虎を慕ひ 動物園にまでやつてくるこの古ぼけた人物の上にすら つひに時勢の姿は反映するものか

虎に出て來られて

加藤淸正が困つては

それは虎狩りの少年達が困まる。 と僕は言つた するとかれはあたりを見𢌞はして

かなしげな聲を立て

むかしを呼ぶやうに かれは見知らぬ虎どもの名を呼んだ

すたありん

むつそりいに

ひつとらあ 

 

そのとき

檻のなかでは

めをほそめ耳の穴だけ開けてゐた。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一三(一九三八)年一月号『むらさき』(発行所は東京市神田区神保町「むらさき出版部」)。後の昭和一六(一九四一)年二月山雅房発行の『歴程詩集 紀元二千六百年版』にも、他に「友引の日」「彈痕」「日曜日」「思辨」の四篇とともに再録されている(「友引の日」「彈痕」の二篇は「定本 山之口貘詩集」所収で、他は「思辨の苑」所収の詩篇)。

 ここで断っておくと、バクさんの詩では詩の一行が長くなって二行目に亙る場合は二行目以降が一字下げ表示となるが、ブログではそれは、特異な表示法を持っている詩篇を除いて再現していない(この注記は以降では省略する)

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」を底本とする思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証すると、使用されている句点がすべて抹消されて、「弱つた とかれが言つた」「ことしは虎で困つたことになつた と言つた」「それは虎狩りの少年達が困まる と僕は言つた するとかれはあたりを見廻して」となり、掉尾は「めをほそめ耳の穴だけ開けてゐた」で終わっている。

 十二行目は、

 

虎のゐるところどこにでも出掛けては 史上の生活を營んでゐた

 

に、三十一行目が、

 

それは虎狩りの少年達が困まる と僕は言つた するとかれはあたりを見廻して

 

と送り仮名が改められている。

 除去されてしまった句点については、個人的には詩中の三箇所に限って、私は、あった方が、直接話法の雰囲気をよく伝えるよりよい手法であると感じていることを付記しておく。私は、このとぼけた感じの、しかし強烈にアイロニカルでブラッキーでスパイシーな一篇が、殊の外、好きである。【2014年5月31日:本文のミス・タイプを訂正、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により注を全面改稿した】【二〇二四年十月十四日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

萩原朔太郎 短歌一首 かゞやける靑空の上をものいはぬ ぎやまん屋敷まんとるの異人

   阿蘭國アムステルダムノ景

かゞやける靑空の上をものいはぬ

ぎやまん屋敷まんとるの異人

 

[やぶちゃん注:底本筑摩版全集「短歌・俳句・美文」の短歌パートの掉尾にある「『草稿ノート』『書簡』より」より。前の「亞米利加國ナイヤガラ瀑布ノ景」という前書の一首とともに新聞かグラフ誌の写真か活動写真のニュース映像などに基づく想像吟である。「まんとる」は“mantle”。マント。外套。]

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年三月

時雨るると椎の葉越しに仰ぎけり

 

燕や朱ケの樓門くだつまま

 

[やぶちゃん注:「くだつ」は「降(くだ)つ」で本来は「くたつ」という清音の上代語。傾く・衰える・盛りを過ぎるの意の他、夜がふけるの意も持つ。ここは荒廃した楼門の謂いであろう。]

 

夕刊を賣る童とありぬ慈善鍋

 

藁塚にあづけ煙草や畑打

 

万葉の薩摩の瀨戸や鮑採り

 

[やぶちゃん注:「万葉」は底本の標字を用いた。「万葉集」には同歌集の南限の地として「隼人(はやひと)の薩摩(さつま)の迫門(せと)」が詠まれている。巻第三の長田王(をさだのおほきみ(おさだのおおきみ ?~天平六(七三七)年:奈良時代の侍従。伊勢斎宮勤務から近江守・衛門督・摂津大夫を歴任した。「万葉集」には伊勢と筑紫などの羈旅六首が、「歌経標式」にも一首が載る。九州派遣は一説に慶雲二(七〇五)年頃とされる。)の二四八番歌で、

    また、長田王の作れる歌一首

 隼人の薩摩の迫門を雲居なす遠くも我は今日見つるかも

「隼人の薩摩の迫門」は現在の黒の瀬戸と呼ばれている海峡で天草諸島長島と九州本島鹿児島県阿久根市黒之浜の間にあって全長は約三キロメートルに及び、潮流の激しさから当時は船旅の難所であった。個人サイト「tokkoの部屋~旅日記」の「黒之瀬戸 万葉集の南限の地を訪ねて」で和歌と当地の画像が見られる。「雲居なす」は雲のかかっている遙か彼方と紛うばかりの場所として、の意。なお今一首、巻第六の大伴旅人の第九六〇番歌、

    帥大伴卿(そちおほとものもへつきみ)、吉野の離宮(とつみや)を思(しの)ひて作れる歌一首

   隼人の湍門(せと)の磐(いはほ)も年魚走(あゆばし)る吉野の滝(たぎ)になほ及(し)かずけり

にも同名のものが出るが(リンク先にも示されてあり、歌碑も建つ)、この「隼人の湍門」については講談社文庫版「万葉集」の注で中西進氏は『早鞆の瀬戸。豊前の国。今の福岡県北九州市』と同定されておられる。]

 

落葉掃く音たえければ暮れにけり

 

[やぶちゃん注:以上、六句は三月の発表句。この月、鳳作は遙か宮古島の拠点港である平良(ひらら)港に沖繩県立宮古中学校(現在の県立宮古高等学校)へ公民・英語科担当として赴任している。]

杉田久女句集 54 草に落ちし螢に伏せし面輪かな

草に落ちし螢に伏せし面輪かな

 

[やぶちゃん注:個人的すこぶる好きな句である。]

杉田久女句集 53 玉蟲や瑠璃翅亂れて疊とぶ

玉蟲や瑠璃翅亂れて疊とぶ

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 赤倉觀光ホテル

   赤倉觀光ホテル

 

ホテルあり鐡階を雪の地に降ろし

 

ラヂエター鳴りて樹氷の野が曉くる

 

樹氷林ホテルのけぶり纏(ま)きて澄む

 

熱湯の栓あけ部屋に雪ごもる

 

雪原のしづけさ部屋の窓ひらき

 

スキー靴ぬがずにおそき晝餐をとる

 

雪深くして厨房の音こもる

 

月が照り雪原遠き驛ともる

 

月が照り雪原の面昏しと思ふ

 

雪眼鏡雪原に日も手も碧き

 

[やぶちゃん注:「赤倉觀光ホテル」は創業が昭和一二(一九三七)年であるから、当時は開業後二年目。帝国ホテルを創業した大倉財閥が上高地帝国・川奈に次いで建てた高原リゾート・ホテルの草分け的存在。公式サイトはこちら。]

追憶   八木重吉 / 僕の57の誕生日に

山のうへには

はたけが あつたつけ

 

はたけのすみに うづくまつてみた

あの 空の 近かつたこと

おそろしかつたこと

2014/02/14

僕は

多分……だぁれも知らないところで……僕は独りで感動しちゃってる……それで……いいや……ともかくも凄い人にネットで出逢ったんだ……!

悼む

悼む――我が腕よ――

ブログ・カテゴリ 飯田蛇笏 創始 / 飯田蛇笏 靈芝 明治三十九年以前(五句)

ブログ・カテゴリ「飯田蛇笏」を創始する――

 

僕の愛する芥川龍之介が彼を愛し、また彼が芥川龍之介を愛したから――

 

それ以外に言うべき必要はあるまい――

 

まずは禁欲的な――と僕だけが感じたか――飯田蛇笏自選句集「靈芝」(昭和一二(一九三七)年改造社刊)の電子化からスタートする。底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの画像を視認してタイプする――

 

飯田蛇笏(いいだだこつ 明治一八(一八八五)年~昭和三七(一九六二)年)は本名を飯田武治(たけはる)という――

……早大在学中に『早稲田吟社』の句会で活躍、同じ下宿の若山牧水らとも親交を深めて句作や詩作を重ね、小説も手がけた。虚子に師事するも、明治四二(一九〇九)年に家庭事情から早大を中退、二十四歳で郷里山梨県境川村に隠棲した。大正二(一九一三)年に小説家を見限った虚子の俳壇復帰とともに句作を再開、『ホトトギス』の中心作家となった。俳誌「雲母」を主宰、故郷境川村にあって格調の高い作風を展開した……と講談社「日本人名大辞典」やウィキ飯田蛇笏などには記す――

 

私はただただ芥川が愛した男であり(しかし芥川龍之介には生前遂に蛇笏と直接に対面する機会は訪れなかった)――その句が純粋に好きだから――だから――これを始める――

気紛れに注を附す――

では――

 

 

 飯田蛇笏著

 

自選

    靈   芝

句集

 

        改造社

 

[やぶちゃん注:ここの目次が入るが、ブログ版では省略する。]

 

   靈   芝

 

   明治三十九年以前(五句)

 

春淺き草喰む馬の轡かな

 

草籠の蔭に雉子や春の山

 

芥火に沈丁焦げぬ暮の春

 

[やぶちゃん注:「芥火」「あくたび」とは海人(あま)が藻屑を燃やす火をいう。]

 

あら浪に千鳥たかしや帆綱卷く

 

鈴の音のかすかにひゞく日傘かな

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 13 芝離宮

 昨日大学の綜理が、文部省に関係ある内外人の教授達を、正餐に招いた。婦人連は招待されなかったが、我々は午後彼等を呼びよせることを許された。招待会の行われた庭園は、数百年前、紀州の大名によって造園され、今や政府はそれを、外賓をもてなす目的で、大切に保存しつつある。この、庭は八百フィート四方位であろうが、東京にある大きな庭園のある物に比べては、小さいとされている。日本の造園師がつくり出す景観は、実に著しく人の目を欺くので、この庭の大さを判断することは不可能であった。荒々しい岩石の辺にかこまれ、所々に小さな歩橋のかかった不規則形な池や、頂上まで段々がついている高さ二十フィート乃至三十フィートの小丘や、最も並外れな形に仕立てられた矮生樹や、かためられて丸い塊に刈り込まれた樹々や、礫や平な石の小径や、奇妙な曲り角や、あらゆる地点から新しい景色が見えることやで、この庭は実際のものの十倍も広く見えた。私はある地点から、急いで写生したが、それはこの庭の性質を極めて朧気に示すに止ったから、ここには出さない。この場所の驚く可き真価を示し得るものは、よい写真だけである。 

* 橋のあるものは『日本の家庭』に絵になって出ている。 

[やぶちゃん注:この招待された場所は現在の東京都立旧芝離宮恩賜庭園である。ウィキの「東京都立旧芝離宮恩賜庭園」によれば、当地の沿革は少々複雑で当初は延宝六(一六七八)年に老中大久保忠朝(ただとも)が第四代将軍徳川家綱からこの芝金杉の地を拝領して屋敷を構え、貞享三(一六八六)年に同屋敷内庭園楽寿園として作庭された(本文には「数百年前、紀州の大名によって造園され」とあるのはモースの誤認である)。後の文政元(一八一八)年に小田原藩第七代藩主大久保家八代当主大久保忠真が邸地を返上後も変転のあった後(この部分のウィキの記載には既に死亡している人物が拝領するという不審があるので省略する)、弘化三(一八四六)年には紀州徳川家が拝領して同家の別邸となり、芝御屋敷と称された。維新後、明治四(一八七一)年に有栖川宮熾仁親王邸、同八年に英照皇太后(孝明天皇女御にして明治天皇の嫡母(実母ではない))の非常御立退所として皇室が買い上げ、明治九年に芝離宮となっていた。後の明治二四(一八九一)年にはモースが「今や政府はそれを、外賓をもてなす目的で、大切に保存しつつある」と述べたように迎賓館として洋館が新築されている(その後は関東大震災で洋館は焼失、大正一三(一九二四)年の昭和天皇御成婚の記念として東京市(現在の東京都)に下賜されて園地の復旧と整備を施した後、四月に旧芝離宮恩賜庭園として開園したものである)。

「八百フィート」二四三・八メートル。

「二十フィート乃至三十フィート」六~九メートル。

「橋のあるものは『日本の家庭』に絵になって出ている」以下、“Japanese homes and their surroundings”(1885)の斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)の「第六章 庭園」から当該図と思われる「石橋」というキャプションの268図及び269図の二枚の図と解説の訳の一部(最後の部分を省略した)を引用しておく。

   *

Sumai268

図268 石橋

Sumai269

図269 石橋

 石造りや木造りの小橋は素朴な造作の代表例といえるもので、アメリカの庭園に取り入れても効果的であると思われる。二枚の板石の位置をずらし、側面の一部を合わせて置き並べたり(二六八図)、あるいはいくつかの橋に見られるように、飛石によって継ぎ渡したりする仕方は、工夫に富んでいて、まさにユニークである。

 図二六九は、東京のさる大庭園で見た石橋の一例である。この橋の径間(スパン)は一〇ないし一二フィートあるが、橋自体は一枚の板石である。

   *

「一〇ないし一二フィート」は三~三・六六メートル。]

M309

図―309

M310_311_312

図―310[やぶちゃん注:ワンセットで取り込んだものの一番上の平たい橋の図。]

図―311[やぶちゃん注:ワンセットで取り込んだものの中央の少し反った橋の図。]

図―312[やぶちゃん注:ワンセットで取り込んだものの一番下の門の足の残骸の図。] 

 歩橋の、この上もなく変った意匠は、図309で示してある。小径がこのように中断してあるのだから、闇夜にここを歩く人は、確実に水の中へ落ちるであろう。図310は長さ十フィート幅四フィートの一枚石でつくった歩橋である。図311は興味の深い歩橋で、彎曲した桁が一つの迫(せり)台から他の迫台へかかり、その上には直径三インチの丸い棒を横にならべ、それを床として、上には土がのせてある。両端は草で辺どり、中央部は二フィートの幅に、どこかの海岸から持って来た、最も清潔な平な礫が敷きつめてある。この庭園全体は、泥土の平地を埋立てたので、丘は積み上げ、石は橋の或るものをつくる為に、何マイルも運搬された。丘の一つの上には、一本石が四本立っていた(図312)。これ等は高さ五、六フィートの四角い柱で、二百五十年に近い昔、六十マイル離れた富士から持って来られ、古い宮殿の門を構成していた。この庭園はシバ・リキューと呼ばれる。リキューは「外部の宮殿」を意味し、シバはこの庭のある区域である。これは私が日本で今迄に見た中で最も意外な点の多い、そして結構な場所である。構内の建物は日本の家屋の多くが、皇帝の宮殿から、最も簡単な茅屋にいたる迄、みな一階建であるが如く、一階建であった。

[やぶちゃん注:「長さ十フィート幅四フィート」長さ約三メートル、幅一・二メートル。

「三インチ」約七・六センチメートル。

「二フィート」約六一センチメートル。

「何マイル」一マイルは約一・六一キロメートル。凡そ一〇キロ以上。

「五、六フィート」一・五~一・八メートル。

「二百五十年に近い昔」この数値だと一六二八年となり、先に示した貞享三(一六八六)年の作庭より今度はひどく遡ってしまうが、寧ろこれは江戸城の寛永期天下普請の最初である寛永五(一六二八)年から翌年にかけて本丸・西丸工事と西ノ丸下・外濠・旧平河の石垣工事、また各所の城門工事が行われたことと一致しているので強ちおかしくはない。

「六十マイル」九六・五六キロメートル。富士山(山頂)から東京までの直線距離は九五キロはあるので正確。]

 

 晩方の饗応は、十四皿の華美な正餐に、多くの種類の葡萄酒が付属したものであった。賓客七十名で、その中には文部卿に任命されたばかりの西郷将軍もいた。私は彼を聡明な、魅力に富んだ人で、頭のさきから足の裏まで武人であると思った。美しく且つ高貴な花が食卓を飾り、殊にその両端と中央とには、高さ三フィートの薔薇のピラミッドがあった。また大広間は何かの香料で、うっすらと香いつけられていた。私はこの晩ほど、色々な言葉が喋舌られるのを、聞いたことがない。外国語学校の先生達である仏、独、支那の各国人、医学校の教授職を独占しているドイツ人、帝国大学の英、米、日の教授達といった次第である。誇張するのではないが、食卓たるや、私が米国で見た物のいずれに比べても劣らぬ位美事であり、また料理法はこの上なしであった。料理人は全部日本人であるが、最上級のフランス料理人から教えをうけた。私は非常に沢山の仕事を控えていた為に、九時半には退出しなければならなかったが、正餐は深夜に及んでようやく終った。

[やぶちゃん注:「三フィート」約九二センチメートル。]

新編鎌倉志卷之二 江亭記注 追記改訂

過日、「日暮里富士見坂を守る会」の池本達雄氏より「新編鎌倉志卷之二」の「江亭記」の語注二箇所に附き御指摘と資料を頂戴したものを以って追記・改訂した。池本氏に心より感謝申し上げるものである。

耳嚢 巻之八 今古人心懸隔の事

 今古人心懸隔の事

 

 近きころ御役家に勤(つとめし)し者、古へ福島家に仕へし者の子孫にも有(あり)しや、立花家にて福島正則の金子借請(かりうけ)候證文所持せしが、立花家へ差出し謝禮申請(まうしうけ)て右家へ證文は返しぬる由。右證文をまのあたり見たりしといふ者の語りけるが、無據(よんどころなき)儀にて金子借用いたし候、いつの頃には、急度(きつと)返濟可致(いたすべく)候、若(もし)違約いたし返濟不致(いたさず)候はゞ御笑ひ可被成(なさるべく)候との文言なり。古への武家は義氣も強く、笑われ候は何(な)にも不替(かへざる)恥と思(おもひ)けるにや。右證文所持せし者、名前も聞(きき)しが忘れたり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:武家の変わり種の奇談で連関。

・「御役家」代官を勤めた武家。

・「福島正則」(永禄四(一五六一)年~寛永元(一六二四)年)は尾張の武将。母は豊臣秀吉の伯母木下氏。勇猛果敢にして天正六(一五七八)年以来豊臣秀吉に従って各地に歴戦し、賤ケ岳の戦では「賤ヶ岳の七本槍」の第一の勇名を馳せた。同十三年に伊予今治十万石に封ぜられて島津征伐・小田原の役・朝鮮出兵などに従い、文禄四(一五九五)年には尾張清洲城に移って二十四万石を領した。慶長五(一六〇〇)年の会津征討では徳川家康の指揮下に豊臣武将たちとともに従軍していたものの石田三成挙兵の報を受けて開かれた小山の評定では率先して発言、豊臣武将を纏めて家康の味方につけた。関ヶ原の戦いでは先鋒第一番手として西軍主力の宇喜多秀家隊と交戦するなどして東軍勝利に大きな貢献を齎した。戦後は旧毛利氏の広島城を賜わり、安芸・備後二ヶ国四十九万八千石を与えられている。大坂城の豊臣秀頼に対してはなお忠誠を尽くしたものの、加藤清正・浅野幸長らの僚友が物故する中で力を失い、大坂の陣に際しては家康から江戸屋敷に留めおかれた。元和三(一六一七)年、従四位下参議に叙任したが、同五年の広島城で行った無断修築の件を武家諸法度違反として幕府より咎められ、福島側の対応の不備から将軍徳川秀忠の厳命で正則は改易された。出家して高斎と号し、信州川中島四万五千石に移封され高井野村に蟄居のまま病没、しかも幕府検使堀田正利の到着以前に遺骸が火葬に付されたことを咎められて封は没収されている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「立花家」筑後柳川南北朝時代に大友貞宗の子大友貞載が筑前国糟屋郡立花城に拠り立花を称したことより始まり、以来、大友氏重臣として重きをなしたが、立花鑑載(あきとし)の時に大友宗麟に背いたために同じく大友氏支流の戸次鑑連(べっきあきつら)により攻め滅ぼされて鑑載の子立花親善(ちかよし)の代で断絶したが、宗麟はそこで同族であった戸次鑑連を立花城に入れて立花氏の名跡を継がせた(鑑連は後に入道して道雪と号した)。鑑連自身は主家である大友家から立花姓の使用を禁じられたために立花姓を名乗っていないが、立花道雪の名で知られている。道雪には男子がなかったため初め娘の誾千代(ぎんちよ)に立花城を譲った後、晩年に道雪と同じ大友氏庶流の高橋紹運(じょううん)の息子統虎(むねとら)を誾千代の婿に迎えて養子とし、統虎改め立花宗茂は斜陽の大友氏を支えて島津氏との戦いに活躍、豊臣秀吉の九州征伐の後に筑後国柳川に十三万二千石を与えられた。この宗茂は関ヶ原の戦いに於いて西軍に参加したため、所領を没収されて流浪したが、四年後の慶長九(一六〇四)年には徳川氏により取り立てられて同十一年に陸奥国棚倉で一万石を与えられて大名に返り咲いた。その後、大坂の役でも戦功を挙げて元和六(一六二〇)年に関ヶ原の戦い以降筑後柳川三十二万石を支配していた田中氏が絶家したのを契機に柳川藩十万九千石を与えられて旧領柳川に帰還した。関ヶ原で改易された武将が再び大名として復活出来た例は少なく、その中でも旧領に戻ることが出来たのは立花宗茂唯一人であった(以上はウィキ立花氏」に拠る)。この話柄の立花氏当主もこの立花宗茂(永禄一〇(一五六七)年~寛永一九(一六四三)年)ということになり、ビッグな二人の借金話という点では面白い。無論、こうした話柄は今の眉唾物の都市伝説の類いと同様に頻繁に語られたものらしいことは、底本の鈴木氏注に引く三村翁の注からも知れる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 今古(きんこ)の人心にはこれ懸隔のある事

 

 近き頃のことで御座る。

 御代官の御屋敷に勤めて御座った者、これ先祖は、かの猛将福島正則殿が家に仕えて御座った者の子孫ででもあったものか――今の大名家たる、かの柳川藩主立花家にて、福島正則殿より金子を借り請けて御座ったことを証明する證文を――これ、所持致いて御座ったと申す。

 さればこの御仁、かの立花家へと参ってこの証文を差し出だいたところ、その筆跡や花押、これ、立花宗茂公の真筆に間違いなしとなったによって、立花家より相応の謝礼を申し請けた上、右立花家へその證文は返して御座ったとのこと。

 以上はこの證文を目の当たりに見たと申す者の語って御座ったものであるが、そこには、

――據無(よんどころな)き儀にて金子借用致し候

――何時々々の頃迄には急度(きっと)返済致すべく候

――若し違約致し返済致さず候はば御笑いなさるべく候

という文言のあったと申す。

 古えの武家は義気(ぎき)も強く、笑われんとするは何にも替え難き恥辱と思うたもので御座ろうのぅ。

 右證文を所持致いて御座った者の名前も聞いたものの、失念致いて御座る。悪しからず。

中島敦 南洋日記 十二月二十四日

        十二月二十四日(水)

 今日も灸。夜、高松氏と、文化協會の映畫。月漸く明るし。

[やぶちゃん注:「文化協會」実はこの前日である昭和一六(一九四一)年十二月二十三日の天皇誕生日に社団法人「日本少國民文化協會」なるものが本土で統合組織されている。櫻本富雄氏の「空席通信」の歌と戦争 21によれば、これは情報局主導による戦時下の児童文化を支配した『戦時下の児童文化人を総動員した御用団体で』、『小野俊一理事長の下に舞踊、遊具、紙芝居、童話、演劇、音楽、文学、絵画、映画、ラジオ、出版の11部会があった』とある。日記の記載からは本映画作品が児童向けであった可能性は低いし(但し、高松なる人物が敦と同業の関係者であれば可能性はゼロではない)、日付けからして同「日本少國民文化協會」の映画とは思われないものの(ただのニュース映像かも知れず、所謂、つまらぬ国策戦意高揚映画であったのかも知れない。そもそも敦は何の感想も書いていないとこからはその類いのものであった可能性が大であろう)、情報としては掲げておきたい。【二〇一四年二月二十日追記】グーグル・ブックスで管見出来た岡谷公二氏の「南海漂蕩 ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦」(冨山房インターナショナル二〇〇七年刊)に、土方が初めて敦に逢った際の日記が引かれており、その解説で岡谷氏が「南洋協会」の正式名称は「南洋群島文化協会」で、『南洋庁長官を会長とし、月刊誌『南洋群島』を発行、南洋群島関係の書籍の出版、展覧会や講演会の開催など、文化活動をする南洋庁の外郭団体であった』とある。ここには映画活動は示されていないが、恐らくこれであろう。]

ブログ・カテゴリ「山之口貘」創始 / 「思辨の苑」 襤褸は寢てゐる

 ブログ・カテゴリ「山之口貘」を創始する。

 山之口貘(やまのくちばく 明治三六(一九〇三)年~昭和三八(一九六三)年)は沖繩県那覇区(現在の那覇市)東町大門前出身の詩人。

 私は十八の時に彼の詩に巡り合って以来、高校国語教師時代も一貫して、「鮪に鰯」の原水爆のアイロニィや「弾を浴びた島」で彼が痛感した沖繩への思いを詩を通して紹介朗読してきた。

 まずは全詩集の電子化を目指す。底本は一九七五年思潮社版「山之口貘全集 第一巻 全詩集」を用いるが、私のポリシーに則り、戦前の二詩集「思辨の苑」及び「山之口貘詩集」については恣意的に正字化して示す(底本は新字化した旨の注記がある。私は両詩集の原本は所持しないので「恣意的に」と述べた。私の特に俳句に於ける正字化の私の確信犯的ポリシーについては私の「やぶちゃん版鈴木しづ子句集」の冒頭注に私の拘りの考え方を示してある。疑義のある方は必ずお読み頂きたい)。私の中にあるバクさんへの思いからタイピングで電子化する。誤植と思われるものがあった場合は、御指摘下さると幸いである。一部に私の注を附す。なお、私は「縄」という新字体が生理的に嫌いなので私自身の叙述では一貫して「繩」を用いるのでご注意あれ。また、私は沖繩方言に限らず、方言を外来語のようにカタカナ書きするのを生理的に激しく嫌悪する人間である。従って私の記述では概ね平仮名書きとなっていることも最初に申し上げておく。藪野直史【2014年2月14日 我が57歳の誕生日の前日に】

【2014年5月30日追記新たに思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」との対比検証を開始した。但し、当該新全集第一巻は詩集「思辨の苑」については初版を底本とせず、著者が決定稿と見做していた「定本 山之口貘詩集」を底本としていることから、本文校訂の校合対象とはせずに注記に留めてある。その異同の内、繰り返し記号「ゝ」「ゞ」の正字化が「定本 山之口貘詩集」では多くなされているが、これは詩内容の改稿とは私は考えないので、その異同注記については総て省略している。なお、注で「思辨の苑」「山之口貘詩集」所収の詩で「定本 山之口貘詩集」で有意な改変がある場合は全詩を再掲するが、そこでもやはり恣意的に正字化しているので注意されたい。この対比検証は随時、行ってゆく。既に旧全集第一巻所収の詩は総てこのブログの「山之口貘」でその電子化を終っているが、注がなかったり、対比検証による追加を示した注追記がないものはこの新たに開始した対比検証が終わっていないことを意味するので、注意されたい。

【二〇二四年十月十四日追記・改稿】佐藤春夫の著作権は既に現在は満了しているので、本日、ブログに国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここ)、ここに電子化した。これを皮切りとして、以下の旧電子化を、先に記した初版本で、正規表現に正す作業を開始することとする。注も再考証し、手を加えるが、その修正の断りは五月蠅いだけなので、改稿した場合でも、追記注はしない。以下は扉の標題部で、ここ。なお、原本では標題が太字のように見えるが、これは活字が大きいために、黒インクがくっきりと印字されているに過ぎないので、太字にはしていない。一方、句読点の後が、明らかに、一字分弱空きがある。半角で入れても、私のブログでは空隙としては見えないため、全角で挿入した。この注意書きは、毎回、それがあるところに出すのは面倒なので、ここだけにする。悪しからず。

 

  山之口   貘

   詩集 思 辨 の 苑

 

[やぶちゃん注:山之口貘の処女詩集である「思辨の苑」初版本は昭和一三(一九三八)年八月一日巌松堂「むらさき」出版部から出版された。表紙はここ。暗い赤。上方に右から左に、「思辨の苑」と詩集名を記す。その下中央に、沖縄のシーサーが、黒で描かれてある(裏表紙は特に記名・マーク等はない)。詩集冒頭には「序文」という総標題のもとに連続した佐藤春夫(クレジットは一九三三年十二月二十八日夜)と金子光晴(クレジットは一九三五年七月)の序文があるが、孰れも金子の「日本のほんとうの詩は」(序文標題はここで改行してある。ここ)では著作権が存続しているため、省略する。以下の詩篇は新底本のここ

 

 

   襤褸は寢てゐる

 

野良犬・野良猫・古下駄どもの

入れかはり立ちかはる

夜の底

まひるの空から舞ひ降りて

襤褸は寢てゐる

夜の底

見れば見るほどひろがるやう ひらたくなつて地球を抱いてゐる

襤褸は寢てゐる

鼾が光る

うるさい光

眩しい鼾

やがてそこいらぢゆうに眼がひらく

小石・紙屑・吸殼たち・神や佛の紳士も起きあがる

襤褸は寢てゐる夜の底

空にはいつぱい浮世の花

大きな米粒ばかりの白い花。 

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一五(一九四〇)年八月の『蝋人形』第十一巻第六号(但し、松下博文氏の「稿本・山之口貘書誌(詩/短歌)」(PDFファイル)によると、この雑誌の発行は七月一日とある(以下、注に示した初出データはこれに拠った。以降はこの注を略す)。七月一日発行とある。発行所は東京市淀橋区柏木の「蝋人形社」)で、戦後、昭和三二(一九五七)年九月十五日附『琉球新報』にも再掲されている。

 底本の「詩集校異」冒頭には、昭和三三(一九五八)年七月原書房刊の「定本山之口貘詩集」は十二篇の新作に本詩集「思弁の苑」を再録した昭和一四(一九四〇)年刊「山之口貘詩集」の再版であるが、著者自身によって誤字誤植の訂正、句読点と繰り返し符号の除去及び若干の行替えと表記の訂正が施されているとあり、その主なものが校異リストとして示されてある(それらは新字体を採用しているものと思われるが、ここでは敢えて正字化して示した。以後は単に校異のみ示し、以上の詳細解説は略す)この詩の場合、七行目が、

見れば見るほどひろがるやう ひらたくなつて 地球を抱いてゐる

と改稿されている。]

【2014年5月30日注全面改稿】

[やぶちゃん注:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題によると(以下、注に示した初出データはこれに拠った。以降はこれを略す)、初出誌はない模様である。詩集刊行後は昭和一五(一九四〇)年三月十八日刊の萩原朔太郎編「昭和詩鈔」(冨山房)に同じく本詩集の「鼻のある結論」「來意」と合わせて三篇が収録され、その後の昭和一五(一九四〇)年七月一日発行の『蝋人形』第十一巻第六号(同雑誌の発行所は東京市淀橋区柏木の「蠟人形社」)に『思辨の苑より』として採録、戦後の昭和三二(一九五七)年九月十五日附『琉球新報』にも再掲されている。「昭和詩鈔」は萩原朔太郎が編集した唯一のアンソロジーで、筑摩書房版萩原朔太郎全集(昭和五四(一九七九)年刊)の年譜によれば、前年の昭和一四(一九三九)年『九月ころから編集に着手、四十七詩人の作品一八〇篇を收錄。編集に際して、朔太郎は收錄詩人あてに自筆書簡を出して作品を集め、卷首の「序言」および卷末の評論に少なからぬ努力をした』とある。

 一九七五年思潮社版「山之口貘全集 第一巻 全詩集」の「詩集校異」冒頭には、昭和三三(一九五八)年七月原書房刊の「定本山之口貘詩集」は十二篇の新作に本詩集「思辨の苑」を再録した昭和一四(一九四〇)年刊「山之口貘詩集」の再版であるが、著者自身によって誤字誤植の訂正、句読点と繰り返し符号の除去及び若干の行替えと表記の訂正が施されているとあり、その主なものが校異リストとして示されてある(それらは新字体を採用しているものと思われるが、ここでは敢えて正字化して示した。以後は単に校異のみ示し、以上の詳細解説は略す)この詩の場合、七行目が、

 

見れば見るほどひろがるやう ひらたくなつて 地球を抱いてゐる

 

と改稿されている(字空きは表記通り、半角)。

 但し、新全集(後の「定本 山之口貘詩集」を底本としている)では、この部分が、

 

見れば見るほどひろがるやうひらたくなつて地球を抱いてゐる

 

となっており、また最終行は、

 

大きな米粒ばかりの白い花

 

で、句点が除去されている。気になるのは、この新全集の七行目が、寧ろ、非常に読み難くなっていると言える点である。]

萩原朔太郎 短歌一首 亞米利加國ナイヤガラ瀑布ノ景 

   亞米利加國ナイヤガラ瀑布ノ景

あかねさす山のあなたにぼうぼうと

おほいなる瀧のおつるなりけり

 

[やぶちゃん注:底本筑摩版全集「短歌・俳句・美文」の短歌パートの掉尾にある「『草稿ノート』『書簡』より」より。次の「阿蘭國アムステルダムノ景」という前書の一首とともに新聞かグラフ誌の写真か活動写真のニュース映像などに基づく想像吟である。「ぼうぼう」はママ。川水の激しく滾り落ちる謂いの「茫々」であるから「ばうばう」が正しいが、何故か完膚なきまでに厳しく訂するはずの筑摩版全集本文は誤字と指示しながらも改訂本文でも「ぼうぼう」のママとしていて、不審である。]

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年二月

稻刈に花火とんとんあがりけり

 

[やぶちゃん注:昭和六年二月発行の『泉』及び『京鹿子』発表句。先に示したように何故か、一月の「地下室は踊の場(には)や犬橇(のそ)の宿」(一月『泉』)と「一時雨一時雨虹はなやかに」(一月『泉』)の句の間に掲げられてある。「稻刈」という前年(以前)の秋の景ではあるが、掲載位置の不審自体はそれでは解けない。]

 

しぐるるや畝傍は虹をかかげつつ

 

[やぶちゃん注:「畝傍」は畝傍山であろう。奈良盆地南部奈良県橿原市にある標高一九九メートルの山で耳成山(みみなしやま)と天香具山(あまのかぐやま)とともに大和三山の一つ。但し、この月以前の年譜的事実からは奈良行を確認出来ず、何時の嘱目かは不明。]

 

寒肥やひぐまの如き大男

 

[やぶちゃん注:「寒肥」は「かんごえ」で寒中に農作物や庭木に施す肥料。かんごやし。季語としては冬である。人肥の桶をぶら下げた逞しい農夫が盛んにそれを撒いているさまであろう。まさに臭ってくる生き生きとした諧謔味もある句である。]

 

[やぶちゃん注:以上、三句は二月の発表句。]

杉田久女句集 52 ゐもり釣る童の群にわれもゐて

ゐもり釣る童の群にわれもゐて

 

[やぶちゃん注:この子どもたちのイモリを釣っている方法について、如何にも相応しい一つの釣り方の可能性が三重県在住のムー氏のブログ「野人エッセイす」のイグサでイモリを釣る方法に示されてある。イグサの端で輪を作った簡便なものである。この輪の部分をイモリやカエルの顔の前に置いて待ち伏せするのだそうである。彼らが輪に入った瞬間に『勢いよく引っ張れば簡単に輪が締まるようになってい』る。イモリでもカエルでも『後ずさりをしないから飛び込んでくる。イモリが動かない場合は草で尾を突けば嫌々ながら輪に入ってくる。カエルは跳ぶときに両足がやや開く。つまり、輪を飛びぬけ抜けそうに見えて足元が引っ掛かって自分から締まってしまう。「キュ~!」と両手両足おっぴろげた格好で釣られて来るが特に害はない。イグサの輪は簡単に緩んですぐに息を吹き返す。やり始めると面白いように釣れるからやめられない。やって見せたのはヤマハ音楽教室の子供達数十人だった』とある。まことにこれで私は本句の情景を心に確かに描けたのである。]

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 橇行

  橇行

 

雪原をゆくとまくろき幌の橇

 

橇驅けり雪原にくろき點となる

 

雪原の昏るるに燈(ひ)なき橇にゐる

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。]

 

雪原に橇驅り吾子と昏れてゐる

 

雪原の極星高く橇ゆけり

 

橇の馭者昴(スバル)を帽にかがやかす

 

橇がゆき滿天の星を幌にする

 

ひくき星橇ゆく方の燈と見ゆる

 

[やぶちゃん注:「燈」は次句もともに底本の用字。]

 

雪原に遭ひたるひとを燈に照らす

 

[やぶちゃん注:「橇行」は音ならば「けうかう(きょうこう)」である。橇(そり)で行くこと。]





雪の舞う今日に相応しい――

あめの 日   八木重吉

しろい きのこ

きいろい きのこ

 

あめの日

しづかな日

ゆきしづり

「雪垂り」 ゆきしづり(ゆきしずり)

積もった雪が木の枝などから辷り落ちること。また、その雪。ゆきしずれ。「しづる」自体が同義を持つ自動詞で古語である。とても味わいのある響きだ。
龍之介のそれは人が落すのだからシチュエーションは異なるが、不図、龍之介が雪を「しづらす」のを僕は今朝、幻視したのであった。……
       越 し 人
 彼は彼と才力(さいりよく)の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人(びと)」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。
   風に舞ひたるすげ笠(がさ)の
   何かは道に落ちざらん
   わが名はいかで惜しむべき
   惜しむは君が名のみとよ。
(芥川龍之介「或阿呆の一生」「三十七」)

2014/02/13

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 12 東京大学理学部星学科観象台起工とヨイトマケの唄、日本人の非音楽性について

 私の家の後に、天文観測所が建てられつつある。その基礎のセメントをたたき込むのに、八人か十人の男が足場に立ち、各々重い錘に結びついた繩を、一本ずつ手に持っている。彼等はこれを引張り上げ、それからドサンと落すのだが、それをやる途中、恐しく気味の悪い一種の歌を歌う為に、手を休める。私は去年日光で、同じものを聞いた。これはチャンときまった歌であるに違いないが、如何に鋭い耳でも、二つの連続した音調を覚え込むことは出来ない。つまり、彼等の音楽には、我々の音楽に於るような「呑込みのゆく」骨法が更に無いという意味なのである。彼等の音楽は、唱応的の和音を弾じないし、人は音楽的の分節というものを、只の一つも思い出すことがなく、家庭で、或は家族がそろって歌うということも聞かず、学校の合唱団もなければ、男子の群が歌ったり、往来で小夜曲(セレナード)を奏じたりすることもない。これは彼等の芸術、彼等の態度、彼等が花を愛する心、更に彼等の子供の遊び迄が、我々の心に触れる所がかくも多いだけに、一層特異なものに思われる。彼等の唱歌は、初めて聞くと実に莫迦げている。

[やぶちゃん注:またしてもヨイトマケの唄である。奇体で奇怪な歌としつつも、どうやらそこにこそモース先生は妙に惹かれていると言わざるを得ない。但し、日本人贔屓のモース先生にして日本人の近代的音楽性についてはどうも評価が悪いのは気にかかる。

「天文観測所」先に注したが、現在の国立天文台の前身である東京大学理学部星学科観象台はこの明治一一(一八七八)年に現在の東京都文京区本郷の現東京大学構内に「発足」していた。明治一六(一八八三)年の参謀本部地図を見ると、まさにモースの官舎真裏(北)直近に「觀象臺」を見出せるが、その起工直後の基礎固めの描写である。

「セメント」日本最初の国産セメント製造の成功は深川セメント製造所に於いてで明治八(一八七五)年五月十九日のことであった(この日が現在、「セメントの日」となっている。なお当時のセメントは樽詰めであった)。この直近では明治十一年の上野博物館着工があり、後の皇居造営計画などによって需要は急速に伸びていた。]

明恵上人夢記 35

35

 此の間に隨分に祈請興隆之事。

一、同十日の夜、夢に、法性寺(ほふしやうじ)の御子かと思ふ人より、御手づから舍利十六粒を賜はると云々。

[やぶちゃん注:「此の間」前に注したように第「33」夢から「34」夢の三つの夢は建永元(一二〇六)年六月八日深夜から九日未明にかけて見た夢と推定されるから、これは六月九日から十日の就寝時までを指すものと思われる。

「同十日」建永元(一二〇六)年六月十日。

「法性寺の御子」底本注では藤原良経かとする。藤原良経は公卿で名歌人としても知られた九条良経(嘉応元(一一六九)年~元久三(一二〇六)年)のこと。従一位・摂政・太政大臣。後京極殿と号した摂政関白九条兼実次男(兼実は後法性寺殿とも呼ばれ、承元元(一二〇七)年五月逝去後には京の法性寺に葬られている。法性寺は元は法相宗で後に天台宗となった藤原忠平以来の藤原摂関家菩提寺であったが後の良経の長男九条道家の代に境内に臨済宗の東福寺が建立され衰微し、現在は浄土宗である)。治承三(一一七九)年元服、従五位上に叙せられ、元暦二(一一八五)年従三位、文治四(一一八八)年には同母兄九条良通が早世したために兼実嫡男となった。その後も権中納言・正二位・権大納言と昇進、建久六(一一九五)年に内大臣となったが、翌年十一月の建久七年の政変で反兼実派の丹後局と源通親らの反撃を受けて父とともに朝廷から追放されて蟄居、三年後の正治元(一一九九)年に左大臣として復帰、その後に内覧となった。建仁二(一二〇三)年には土御門天皇の摂政となり、建仁四(一二〇四)年には従一位太政大臣に登っていた。しかし実はこの夢の三ヶ月前の元久三(一二〇六)年三月七日深夜に享年三十八歳で頓死している(以上はウィキ九条良経に拠る)。この夢はまさにその直近の最高権力者であった死者らしき人物(「かと思ふ」という恐れ多いことに起因すると思われる留保が大事である)からの「舎利十六粒」もの恩賜であることに私は大きな意味があるものと思う。なお、河合隼雄氏は「明惠 夢に生きる」で、これら第「33」「34」「35」夢が孰れも『明恵が何かを他人から得る夢というモチーフをもって』おり、明恵は先の「31」の死にかけた鰐の夢や「32」の何らかの任務の代理者となる夢によって自身が『何らかの転換期にあることを予感した後に、何か貴重なものを得る、という点について想いをめぐらせたのではなかろうか』と述べておられ、非常に首肯出来る解釈(というか明恵の本夢覚醒後の心性の推察)であると思う。このことはまた後に述べる。

 

■やぶちゃん現代語訳

35

 この間に随分心を込めて祈請興隆の修法に精進したことは書き留めておきたい。

一、同十日の夜に見た夢。

「三月前に逝去された法性寺(ほっしょうじ)の御子かと思われる高貴なる御方より、御手ずから、なんと有り難くも舎利十六粒をも賜わる。……」

といった何とも神妙なるゆゆしき夢であった。

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 三 卵 (3) 鮫の掛け守とうみほおずき 又は ……あなたは「うみほおずき」を鳴らしたことがありますか……僕には……あります……

Samenotamago
[「さめ」の卵]

Umihouzuki
[「うみほほづき」]

 卵には鳥の卵のやうに大きなものから、顯微鏡的の極めて小さなものまでさまざまある。

蛇・龜・「とかげ」・「わに」などの卵は形も大きく内部も頗る鳥の卵に似て、たゞ殼が脆くないだけである。海岸地方では海龜の卵を幾らも食用として賣りに歩いて居るが、大蛇や「わに」の卵もオムレツなどに造れば甘く食へる。魚類の卵は通常粒が小さいが「さめ」類のは頗る大きく、革の如き丈夫な長方形の嚢に包まれ、その四隅から出た細長い紐は海草の根などに卷き著けられてある。俗に「さめ」の「掛け守り」と名づけて、江ノ島邊で土産に賣つて居るのはこれである。また海産の「にし」の類は小さな卵を幾つづつか卵嚢に包んで數多く産み附けるが、その卵嚢が即ち女の子が玩具にする「ほほづき」である。平たい「うみほほづき」、細長い「なぎなたほほづき」、滑稽な「ひよつとこほほずき」などさまざまの種類があるが、仕事しながら絶えず喋べるのを防ぐ方便として、製絲や機織女工の口に入れさせるために、今ではわざわざ海中に「にし」の類を飼育し、餌を與へて盛に「ほほづき」を産ませ、千葉縣だけでも年々數萬圓の産額を得るに至つた。その他、數種、數の子などは、最も人に知られた卵であるが、「うに」や「ひとで」などの卵になると、頗る小さくて殆ど肉眼では見えず、恰も雞の卵巣内に於ける出來始めの卵細胞と同じく、單に球形をした裸の細胞に過ぎぬ。

[やぶちゃん注:私は本段の『仕事しながら絶えず喋べるのを防ぐ方便として、製絲や機織女工の口に入れさせるために、今ではわざわざ海中に「にし」の類を飼育し、餌を與へて盛に「ほほづき」を産ませ、千葉縣だけでも年々數萬圓の産額を得るに至つた』という一文を二十四の時に読んだ際の驚愕を今電子化しながら、三十三年ぶりに鮮やかに思い出していた。これは実は荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」の「海産巻貝」の「うみほおずき(海酸漿・竜葵)」の項にも、『大正時代、製糸工場や紡績工場の経営者たちは、争うようにウミホオズキを買いいれた』。『これを女工の口に含ませておけば、むだなおしゃべりをせずに作業がよくはかどるというのだ(川崎勉《動物101話》)』(引用に際し、コンマ・ピリオドを句読点に変えさせて戴いた)とはっきりと記されてある呆れんばかりの守銭奴らの事実、笑えぬ女工哀史なのである。

『「さめ」類のは頗る大きく、革の如き丈夫な長方形の嚢に包まれ、その四隅から出た細長い紐は海草の根などに卷き著けられてある』軟骨魚綱板鰓亜綱のサメ・エイ類の中でも卵生のメジロザメ目トラザメ科トラザメ Scyliorhinus torazame やトラザメ科ナヌカザメ Cephaloscyllium umbratile などは“mermaid's purse”(人魚の財布)と呼ばれる特徴的な卵を産む(私は『「さめ」の「掛け守り」』の方がずっと風流だと思う)。トラザメのそれは大きさが五センチメートルほどで半透明な竪琴状の硬いプラスチックのような感触の卵殻の中に胎仔が入っている。外側の袋の端には蔓状の構造物があってこれを海藻などに絡みつけて卵を固定する。胎仔は卵黄の栄養分を費やしながら、卵の中で約一年かけて成長、五~一〇センチメートルの大きさになって孵化する(ここは主にウィキの「トラザメ」に拠る)。ナヌカザメの場合は大きさが一〇センチメートル程でトラザメのそれよりも一回り大きく、卵は刺胞動物門花虫綱八放サンゴ亜綱海楊(ヤギ)目全軸亜目ムチヤギ Ellisella rubra などに絡ませられるてある。孵化は同じく一年である(ここは主にウィキの「ナヌカザメ」に拠るが、水族館サイトでもとくにムチヤギに特異的に卵嚢を付着させるとは書かれていないので「など」と入れた)。静止画・動画を含め、私の御用達の「カラパイア」の『「人魚の財布」と呼ばれる巾着のようなサメの卵』を見るに若くはない。図のそれはトラザメ Scyliorhinus torazame の卵嚢のように見受けられる。

『海産の「にし」の類は小さな卵を幾つづつか卵嚢に包んで數多く産み附けるが、その卵嚢が即ち女の子が玩具にする「ほほづき」である』これらを懐かしいものとして想起出来るのは恐らく私の世代がぎりぎりかも知れない。「海鬼灯(うみほおずき)」は広く海産の軟体動物門腹足綱前鰓亜綱中腹足(新腹足)目の巻貝類の卵嚢を指す。平凡社の「世界大百科事典」の記載を参考にしながら示すと、半透明な革質で卵はこの中で孵化して貝類のライフ・サイクルのステージであるベリジャー幼生に成長し離脱する。種によってこの卵嚢の形や大きさは異なり、

フジツガイ科ボウシュウボラ Charonia sauliae の卵嚢は「トックリホオズキ」(卵嚢の図はポルトガル語のこちらのページの図が「徳利」の形状をよく描いて分かり易い)

イトマキボラ科Fusinus属ナガニシ Fusinus perplexus のそれは「サカサホオズキ」(米司隆氏の「ナガニシ(ヨナキ)種苗生産の手引き」(PDF版)の冒頭に出る産卵写真と末尾の「ナガニシの生活史」の図を参照)

テングニシ科テングニシ Hemifusus tuba のそれは「ウミホオズキ」又は「グンバイホオズキ」(「下関海洋科学アカデミー 海響館」の「ウミホウズキ(テングニシの卵嚢)」taibeach 氏のブログ「今日も渚で日が暮れて」の「海酸漿」を参照)

アッキガイ科アカニシ Rapana venosa のそれは「ナギナタホオズキ」(私と同じ鎌倉在住の方のブログ「打ち上げ採取日記・ブログ版」にある材木座海岸でのビーチ・コーミングのこの写真はなかなか立派で色もよい)

などと呼称される。図のそれはテングニシ Hemifusus tuba のそれであろう。

……一九七六年の七月……江の島の陸側の鼻の射的場(今もこれはある)の前の土産物屋の前……陽光の降り注ぐ店先に並んでいたのは海酸漿と薙刀酸漿だった……店の女の人が薙刀の方を指さして「これはちょっと鳴らすのが難しいんですけど、こっちはね」と言い、海酸漿の方を取って口に含んで――キュキュ――と鳴らして呉れた……海酸漿を二つ買って僕たちは海辺を歩いたのだった……僕は上手く鳴らせたけれど……彼女はなかなか鳴らなかった……すると「癪だわ」と言って彼女は僕を見て微笑んだのだった……あの海酸漿……僕は何処へやってしまったんだろう……遠い……遠い日の……思い出である…………]

鬼城句集 冬之部 葱 / 「鬼城句集」終

葱     石の上に洗うて白き根深かな

これを以って本ブログに於ける大正六(一九一七)年四月中央出版協会発行の「鬼城句集」の全注釈を終えた。高濱虛子及び大須賀乙字の「序」、鬼城の「例言」を除く俳句本文を終わる。近日、それらを附したサイト版の構築を開始する予定である。

モースの逢った「ショーリン」に藤井松林説が本日只今浮上!

ついさっき、マイミクの手織りをなさっておられる方から、この間、『日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 14 「ショーリン」という絵師のこと』に追記した「ショーリン」なる人物は福山藩士で御用画家であった藤井松林という絵師ではないかというご指摘を頂戴した。

早速に調べてみたところが、その一致度に正直、仰天している(特に明治10年(1877年)54歳で上京、第1回内国勧業博覧会に「花鳥図」を出品という箇所である。下記のリンク先を参照されたい)。

正直言うと、教え子が候補として挙げてくれた僕の好きな光線画の、あの小林清親だったら素敵だなぁ、などと勝手に思ってい込んでいたのだが……これはどうも「福山誠之館同窓会」の「藤井松林」の事蹟などを読めば読むほど、
彼こそ「ショーリン」だ!……

という確信が強くなりつつある。取り敢えずはお知らせまで。

今少し検討を加えて再追記をしたいと考えている。

萩原朔太郎 短歌一首 いといふのかげともほしやひとのとふ みづきはばかりうすあかりして

いといふのかげともほしやひとのとふ

みづきはばかりうすあかりして

 

[やぶちゃん注:底本筑摩版全集「短歌・俳句・美文」の短歌パートの掉尾にある「『草稿ノート』『書簡』より」より。校訂本文では「いといふ」を「いとゆふ」に訂する。「いとゆふ(いとゆう)」は「糸遊」で、陽炎のこと。「大辞泉」を参考に記すと語源未詳で歴史的仮名遣を「いとゆふ」とするのは平安時代以来の慣用であり、「糸遊」という漢字表記は和語「いとゆふ」が「陽炎」の意の漢語である「遊糸(ゆうし)」の影響を受けて出来た表記である。またこれは晩秋の晴天の日に成熟した小蜘蛛が糸を吐きながら空中を飛び、その糸が光に屈折してゆらゆらと光って見える現象を原義とし、漢詩にいう「遊糸」もそれであるとある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 11 新聞売り

M308
図―308
 

 図308は、ニューズボーイというよりも、ニュースマンを示している。子供は新聞を配達させられるだけの信用を受けていない。彼は一本の棒の末端にぶら下げた常に新聞を入れ、棒の他端にある鈴を間断なくチリチリ鳴らす。廻る所を廻って了うと、鈴を取りのぞく。

[やぶちゃん注:底本では「ニューズボーイ」の直下には『〔新聞配達の男の子〕』、「ニュースマン」の直下には『〔同上の成人〕』という石川氏の割注が入る。「横浜開港資料館」公式サイトの「開港のひろば」のバックナンバーの新聞販売店と新聞小政で、明治一四(一八八一)年頃には横浜の弁天通り四丁目で新聞取次業を営んで、襟に諸新聞小政と染め抜いた印半纏に紺の股引・腹掛姿で、黒塗りの挟み箱を担いでは鈴を鳴らして市中で新聞を売り歩いていた安藤小政という兄いの鯔背な姿が彩色写真で見られる。モースももしかすると彼に逢っていたかも! ホンマ! 格好エエで!]

中島敦 南洋日記 十二月二十三日

        十二月二十三日(火)

 思ひ切つて今日より灸を始む。熱し。隨分野蠻なるものなり。

[やぶちゃん注:無論、喘息のための灸治療であろう。例えばがツボが分かり易い。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 正覚寺

    ●正覺寺

小坪アヤウヅ切通しの邊(ほと)りにある、住吉山悟眞院と號す、淨土宗鎌倉光明寺末、記主禪師駐錫の舊跡ありて、其頃は悟眞寺と云へり。今(いま)師を以て開山とし、其肖像を客殿に置く、一旦戰爭に逢て廢寺となり、後天文十年、光明寺十八世眞蓮社快譽上人再興す本尊阿彌陀は尾張宗春卿の側室民部女の念持佛にて。享保中寄納あり、又尾州家の三位牌を置かる。

[やぶちゃん注:以下の二項は底本では全体が一字下げポイント落ち。]

    ●珠數掛松

相傳へて記珠禪師〔或は賴朝とも云〕數珠(づじゆ)を掛し故なりと云ふ、今も里民住吉社に參詣する者、此松に數珠を掛く。

    ●然阿洞

廣方二間許、寺傳に記主禪師洞中に籠居し、傳通記を書寫せしと云ふ、然阿は師の字(じ)なり。

[やぶちゃん注:「アヤウヅ切通し」不詳。現在の正覚寺の位置から考えると、材木座海岸東端の和歌江の島(北條泰時造立になる日本最古の築港跡)のある岩礁部から、正覚寺のある海食崖の内側に人工的に掘られた小道を指しているようには思われるが、このような呼称は現在に伝わっていないものと思われる(少なくとも私は聴いたことがない)。

「記主禪師」浄土宗三祖良忠(正治元(一一九九)年~弘安一〇(一二八七)年)。正覚寺公式サイトの「正覚寺のあゆみとこれからによれば、『「新編相模風土記」には、「記主禅師駐鍚の旧跡なり、師の閑居せし岩窮今に境内にあり、其頃は悟真寺と云へり」と書かれて』あり、『寺伝によれば、良忠上人が仁治元(1240)年に念仏布教のため鎌倉に入り、執権北条経時の帰依を受け住吉谷(現在の正覚寺所在地)を拠点に念仏信仰を広め』たとあり、後、『執権経時は良忠上人のために佐助谷に蓮華寺を建立し、のちに材木座に移し、光明寺と改称したと伝え』、『「光明寺開山御伝」には「葬送住吉瓶子山麓茶毘所」とあり、この地は良忠上人を茶毘に付した所ともいわれてい』るとある。『また浄土宗十夜始祖であり、大本山光明寺第九祖である観誉祐崇上人の五百年遠忌記念で光明寺から発行された『観誉祐崇上人について』では、祐崇上人は神奈川県鎌倉井之島(正覚寺のある地名である飯島)住吉谷に入り、岩窟に移住して、念仏を業としたとある。これから推測すると、正覚寺の前身である悟真寺に良忠上人がまず居住し、その後、祐崇上人も住んでいた事になる』と推測されてある。同リンク先で「其肖像を客殿に置く」とある良忠像を見ることが出来る。

「一旦戰爭に逢て廢寺となり、後天文十年、光明寺十八世眞蓮社快譽上人再興す」やはり「正覚寺のあゆみとこれからに、『寺の背後の丘陵一帯は、三浦道寸(義同)の支城の住吉城であり、永正9(1512)年に北条早雲に攻められて落城し、寺も兵火で焼失』したが『その後、光明寺十八世眞蓮社快譽上人がこの地は「是れ三祖上人の遺跡也」と述べ、天文10(1541)年3年に悟真寺を再建し、開山を良忠上人として、寺号を正覚寺と改め』たとある。

「本尊阿彌陀は尾張宗春卿の側室民部女の念持佛にて。享保中寄納あり」これもやはり「正覚寺のあゆみとこれからに、『本尊阿弥陀如来は十世報譽上人が尾張中納言宗春の側室民部女の病気平癒の祈願を行い、そのお礼として民部女が自らの稔持仏を寄進されたもので』、『享保20(1735)年に入仏供養を勤修し』たとあり、尊像画像も拝める。

「珠數掛松」標題の「珠數」はママ。この松は現存しない。文中の「住吉社」は次項参照。

「然阿洞」「正覚寺のあゆみとこれからによれば、『本堂裏には、良忠上人が籠居し、「伝通記」を書したといわれる洞窟(矢倉)「然阿洞」があり、「伝通記」巻三に「悟真寺」の名が見え』るとあって現存する。

「二間許」長さならば三メートル六四センチメートルに当たるが、これは広さを指しているから、江戸間で換算するなら三メートル五二×一メートル七六センチメートル程になるか。ネット上の複数画像から推測すると(私は二十代の頃に訪れたきりで記憶がない)入口が前者の幅で奥行が後者かと思われる。

「然阿」は「ねんな」と読み、良忠の諱(本文の「字」はその謂い)。]

耳嚢 巻之八 墓手桶の歌贈答の事

 墓手桶の歌贈答の事

 

 鈴木高朗翁が菩提所は端芝(はしば)安昌寺禪林にて、或時佛詣なしけるが、墓手桶はいづれより納め候ともなく寺より拵へ候ともしれず、きれいにもあらざる桶を井の元に並べありしを、高朗いさぎよきを好(このむ)の癖あれば、あたら敷(しく)別に手桶を結(ゆは)せ我名を書付預置(かきつけあづけおき)けるに、彼(かの)寺の旦那に吉原町の遊女多くありしが、いづれの遊女屋にや、新敷(あたらしき)手桶三つこしらへ彼井戸の元へ並べ置しが、新吉原町と認(したため)、其脇に歌書付ぬ。

  法の水同じ流を汲からに我と人との隔あらじな

 かく書しを高朗見て、我は人につかわせじと預けおきしを恥(はぢ)て、かの手桶にまた一首書付ぬ。

  隔なく同じ流れをくまましの心ぞ深き水莖のあと

かくよみて置しと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:鐘銘から墓手桶の仏事譚で連関。しみじみとしたいい話ではないか。

・「鈴木高朗」不詳。「たかあきら」と読むか。

・「端芝安昌寺」「耳嚢 巻之二 人の心取にて其行衞も押はからるゝ事」に既出。台東区今戸に現存。元、曹洞宗総泉寺末寺。亀雲山と号す。起立不詳。底本の鈴木氏注で三村翁の注を引用された中に、『本著者根岸肥前守生家安生氏亦安昌寺の旦家なり』という興味深い一条があり(現代語訳に挿入した)、また、『「端芝」は橋場の当字』ともある。直近に隅田川の古い渡しである橋場(はしば)の渡しがあった。

・「法の水同じ流を汲からに我と人との隔あらじな」は「のりのみづおなじながれをくむからにわれとひととのへだてあらじな」と読む。「法の水」とは仏の教えが衆生の煩悩を洗い清めることを、水に喩えていう語で、等しきその井戸の水で等しき衆生の死者の菩提を弔う、則ち、等しき仏法のもとにあればこそ貴賤の隔てなきを詠じたものである。「流れ」と「汲む」が「水」の縁語となっている。

・「隔なく同じ流れをくまましの心ぞ深き水莖のあと」「くままし」の「まし」は推量の助動詞で特に現実にない事態を想像して仮にそのような事態が実現すればよいとあつらえ望む意を表す。「出来れば~するとよい」「出来るなら~であってほしい」の謂いで「出来ることなら汲みたい」。「水莖」は「みづくき(みずくき)」で筆。「流れ」「汲む」「深き」は最後の「水」の縁語であるから、前の一首の「法の水」及びその縁語をも一首全体に美しく響かせてある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 墓手桶(はかておけ)の歌贈答の事

 

 鈴木高朗(たかあきら)翁の菩提所は橋場(はしば)の禅林安昌寺にて、ここはまた、私の生家安生(あんじょう)家の菩提寺でも御座る。

 ある時、高朗翁、墓参りなさられたところが、同寺墓所の墓参りの手桶は、これ、孰れからの寄進奉納致いたものと申すようなものにても御座なく、また、寺方の方で拵えたるものとも思われぬ、正直申さば綺麗なるものにてもあらざる桶にて御座った。これら小汚なき桶を井の元に無造作に並べてあったれば、高朗翁、ことに清潔を好まるる潔癖の性(しょう)なればこそ、その日の内に新しく別に手桶を結わせて、御自身の姓名を書き付けたるものを寺に預け置き、井戸近くに別にさし置かれて御座ったと申す。

 さて、かの寺の檀家方には吉原町の遊女屋が多く御座ったが、孰れの遊女屋の主人にて御座った者か、高朗翁がまたの墓参りの折りに見てみれば、新しき手桶を三つ拵え、かの井戸端へ並べ置いて御座ったが、それらの桶には「新吉原町」と認(したた)めた上、その脇に以下の歌が書き付けて御座ったと申す。

 

  法の水同じ流を汲からに我と人との隔あらじな

 

 かく書き記ししを高朗翁見て、御自身は自前の桶を造っては他の者には使わすまいと別に預けおかれたを恥じられ、かの新造の御自身の手桶を出ださせた上、また一首をその桶に書き付けられて曰く、

 

  隔なく同じ流れをくまましの心ぞ深き水茎のあと

 

かくお詠みになられた上、それらの手桶と一所にさし置くことと致いたと、お語りになられて御座った。

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年一月

昭和六(一九三一)年

 

探梅の馬車ゆるることゆるること


[やぶちゃん注:本句は同年一月の『天の川』支社句稿とある。この月に鳳作は鹿児島市に『天の川』支部を創設している。]

 

地下室は踊の場(には)や犬橇(のそ)の宿

 

[やぶちゃん注:「犬橇(のそ)」樺太で犬橇のことを「のそ」と呼ぶ。日露戦争後に南樺太が日本領となった後は北海道や東北にも広まったらしく(ここまで紅殻氏の「帝國ノ犬達」の樺太の犬橇(ノソ)に拠った。リンク先では当時の実際の「のそ」の写真も見られる)、これを樺太での嘱目(鳳作が樺太に旅したという事実は見いだせない)とすることは出来ない。但し、「地下室」という特殊な設定からは厳冬期に東北以北での景としか考えにくい。]

 

一時雨一時雨虹はなやかに

 

   稻荷社

夕山や木の根岩根の願狐

 

[やぶちゃん注:前年十一月発表の句、

 花葛や巖に置かれし願狐

と同じ景のように私には思われる。とすれば「岩根」という語彙からもやはり桜島での嘱目吟とも考え得る。]

 

かかへゆく凧にこたへて櫻島颪

 

かかへゆく凧にこたへて櫻島(シマ)颪

 

[やぶちゃん注:本句は初詠が同年一月に行われた木曜句会(前田霧人氏の「鳳作の季節」(沖積舎平成一八(二〇〇六)年刊。リンク先はPDFファイルの全文)の年譜によれば、これは橋口白汀指導による句作会で鳳作は昭和四(一九二九)年十月入会している)で、後に三月発行の『泉』と『不知火』に掲載されてあるなお、後者のルビを持つ句形は『泉』の掲載句である。なお、この前田氏の評論は鳳作の事蹟を極めて実証的に検証されており、優れた評論である。是非、御一読あれ。

 

水仙やみたらしの水流れくる

 

[やぶちゃん注:「みたらし」御手洗。神仏を拝む前に参拝者が手や口を洗い清める水やその禊の場。

 以上ここまで、昭和六年一月の創作及び発表句。底本では次で示す二月の一句が何故か途中に挟まっているが移動させた。]

杉田久女句集 51 雌を追うて草に腹返す蠑螈の緋



雌を追うて草に腹返す蠑螈の緋

 

[やぶちゃん注:久女ならでは詠めぬ(少なくとも女流俳人にしてこの生臭くどぎつくしかも慄っとするエロティシズムを湛えた誘惑的シチュエーションを詠もうとしたのは彼女を嚆矢とすると私は信じて疑わない)句である。老婆心乍ら「蠑螈」は「いもり」と読む(音は「エイゲン」で漢語)。両生綱有尾目イモリ上科イモリ科Salamandridaeのイモリ類の総称であるが、本邦では「イモリ」と言えばトウヨウイモリ属アカハライモリ Cynops pyrrhogaster を指すことが多い。「蠑螈」は「蜥蜴」(トカゲ)の意にも用いられるが、ここは後の「緋」という描写及び「雌を追うて草に腹返す」という特異な行動からもアカハライモリの特長的な成体個体と繁殖行動を描いていてすこぶる附きで正確なのである(私は高校時代に理科部でアカハライモリを用いた四肢の切断再生実験に関わった。従って通常人よりも遙かに彼らには親しいのである)。以下、ウィキの「アカハライモリ」の「生態」の項にも、『春になり気温が上昇し始めると、成体が水中に姿を現す。オスがメスの行く先にまわりこみ、紫色の婚姻色を呈した尾を身体の横まで曲げて小刻みにふるわせるなど複雑な求愛行動を行う。このときにオスが分泌するフェロモンであるソデフリン(sodefrin、額田王の短歌にちなむ)が、脊椎動物初のペプチドフェロモンとして報告されている。メスが受け入れる態勢になると、メスはオスの後ろについて歩き、オスの尾に触れる合図を送ると、オスが精子嚢を落としメスが総排出腔から取り込む。その際にオスの求愛行動に地域差があり、地域が異なる個体間では交配が成立しにくいといわれる』とある。なお、彼らは両生類であるから湿った草地にも登ってくるので「追うて草に」も何ら問題ない。……因みに――ソデフリン――というこのケッタイな、万葉好きの科学者がつけたであろうペプチド・フェロモンの響きが、私はどうも今一つ好きになれないでいることを告白しておく。それはまさにこの性フェロモンが額田女王のそれの如く「フリン」という発音から寧ろ「不倫」という不道徳のイメージを惹起させてしまうからに他ならない。……しかしその程度の名で驚いていてはおられない。今やナマコの性フェロモンに「クビフリン」、シリケンイモリ Cynops ensicauda が尻尾を振って求愛している際に出しているフェロモンは「シリフリン」なのだ(但し、これは逆に如何にも残念なことに「尻振(りん)」が元義ではなく、最初のアミノ酸が“SIL”で始まるという極めて厳粛なるところの学術的命名なのである)。興味のある方は私がかつて書いたブログクビフリン・ソデフリン・シリフリンをお読みあれかし。なおこうした科学的事実はイモリが遙かな古代より媚薬や不倫(姦淫)の探知薬として知られていた旧来の本草学的博物学的知見と明らかに繋がっていると私は考えている。その辺りに関心のある向きは、是非、私の電子テクスト島良安 和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類の「ゐもり 蠑螈」の項をお読み戴ければ幸いである。]

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 妙高高原 鐡路

 妙高高原

 

  鐡路

 

夜の鐡路乘りかへてより雪深き

 

臺車眞夜雪ふかき驛を見たり

 

寢臺車手洗場(トワレ)に雪原曉けてゐる


[やぶちゃん注:「トワレ」はフランス語「toilette」。]

 

雪原を焚きけぶらして鐡路守る

 

月ひかり雪原曉くる驛に降(お)る

 

子が遊び雪原の雪驛にも敷く

 

除雪車のプロペラ雪を嚙みてやすむ

 

信号手靑旗に除雪車をゆかす

 

日輪に除雪車雪をあげてすすむ

 

[やぶちゃん注:以下の「橇行」及び「赤倉觀光ホテル」句群とともに、昭和一四(一九三九)年一月七日からの長女淳子と四女美代子を連れての妙高高原赤倉観光ホテルでの嘱目吟。年譜によればホテルまでは雪上車に乗車したとあり、橇やスキーを楽しんでいる。]

朝の あやうさ   八木重吉

すずめが とぶ

いちぢるしい あやうさ

 

はれわたりたる

この あさの あやうさ

鬼城句集 冬之部 大根

大根    大根に蓑着せて寐ぬ霜夜かな

[やぶちゃん注:「着せて」の擬人法が諧謔として利いており、大根の比喩的属性も相俟って巧まずして面白い句ともなっている。例えば次の句の景との与える印象の莫大な差と比較してみるとよい。]

      大根を隣りの壁にかけにけり

2014/02/12

古今新調 小引幷に十首 大正二(一九一三)年十二月

   古今新調(こきんしんてう)
 
          夢みるひと
 
     小引(せういん)
 
古歌(こか)のこゝろのなつかしさよ、わけて新古今詠嘆(しんこきんえいたん)の調(しらべ)、匂高(にほひたか)きは夕闇(ゆうやみ)の園(その)に咲(さ)くアラセイトオのたぐひなるべし。官能(くわんのう)の疲(つか)れを苦蓬酒(アブサン)の盃(さかづき)に啜(すゝ)り象徴(せうてう)のあやかしを珈琲(カフイ)の煙(けむり)に夢(ゆめ)みる近代(きんだい)の騷客(さうかく)、ともすれば純情(じゆんぜう)の心雅(こゝろみや)びかなる古巣(ふるす)にのがれての古(ふる)き歌集(かしう)の手觸(てざは)りに廢唐(はいたう)のやるせなき風流(ふうりう)を學(まな)ばんとす。げにや新人(しんじん)のモツトオに觸(ふ)れデカダン樂派(がくは)の新星(しんせい)グリークがピアノの律(りつ)に啜泣(すゝりな)く定家卿選歌(ていかけうせんか)の心(こゝろ)ばかり世(よ)にあはれ深(ふか)きはあらぢかし。
 
[やぶちゃん注:この「小引」以下の十首連作は、大正二(一九一三)年十二月一日附『上毛新聞』に標記通り、「夢みるひと」名義で掲載された。朔太郎満二十七歳。
 「小引」短い序文。小序。
 ルビ「ゆうやみ」「せうてう」「じゆんぜう」「かしう」「ていかけう」はママ。
 最初の一文の「アラセイトオのたぐひなるべし。」最後の句点は初出にはないが、脱字と断じて底本全集校訂本文と同じく句点を配した。
 「アラセイトオ」はママ(校訂本文もママ)。アブラナ目アブラナ科アラセイトウ(マッテオラ)属 Matthiola の花。まるらめ氏の「日だまり仔猫-園芸専科-」の「ストック」(アラセイトウの英名:stock)に語源説が載る。ウィキの「アラセイトウ属」によれば、『南ヨーロッパ原産で原産地では多年草であるが、日本では秋蒔き一年草として扱う。開花期は早春~春。花壇に植える他、切り花にされることが多』く、『よい香りを持っている』。『日本では主に切花として栽培されているものと花壇に植えるものとに分かれている。切花の場合は、八重咲きの花が好まれる傾向にある。しかし、ガーデンスストックの八重花は雄ずいも雌ずいも花弁となってしまっているために生殖能力が無い。そのため、八重と一重の遺伝子を両方持つ株から採種し、選抜しなければならないので、幼苗時に鑑別を行う必要がある』とある。香りは無理だが、グーグル画像検索「Matthiolaでその華麗な多くの品種を鑑賞出来る。
 末尾「あらぢかし」はママ。]
 
        ×
 
     淡雪(あはゆき)
 
うら侘(わ)びてはこべを摘(つ)むも淡雪(あはゆき)の消(け)なまく人(ひと)を思(おも)ふものゆへ
 
[やぶちゃん注:先に示した『朱欒』第三巻第四号(大正二(一九一三)年四月発行)に発表された、
うちわびてはこべを摘むも淡雪の消なまく人を思ふものゆゑ
の改作。]
 
    アカシヤ
 
なにごとも花(はな)あかしやの木影(こかげ)にてきみ待(ま)つ春(はる)の夜(よ)にしくはなし
 
[やぶちゃん注:前首と同じく『朱欒』第三巻第四号(大正二(一九一三)年四月発行)に発表された、
なにごとも花あかしやの木影にて君まつ春の夜にしくはなし
の標記違いの同一首。]
 
   水(みづ)のほとりのあづまや
   悲(かな)しき別(わか)れの日(ひ)に
 
けふすぎて水際(みぎは)に咲(さ)けるべこにや(ヽヽヽヽ)もいかでか風(かぜ)にそよぎ泣(な)くらむ
 
[やぶちゃん注:底本全集校訂本文では「いかでや」を「いかでか」と補正する。採らない。底本全集第二巻の「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の「晩秋」と題する十二首連作の第三首目に、
      水のほとりのあづまや
      悲しき別れの日に
けふすぎて水際みぎはに咲けるべこにやも
いかでか風にそがひ泣くらむ
という習作が残る。]
 
     くれがた
 
あづさ弓(ゆみ)かへらぬひとの戀(こひ)しさに暮(く)れそめて降(ふ)る雪(ゆき)のはかなさ
 
[やぶちゃん注:底本全集第二巻の「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の「歌」と題する七首連作の巻頭に、
あづさ弓かへらぬひとの戀ひしさに
くれ初めてふる雪のはかなさ
というほぼ同形の習作が残る。]
 
    うすらひ
 
めづらしき薄氷(うすらひ)を見(み)て裝(さう)ぞける宮城野部屋(みやぎのべや)のけさのきぬぎぬ
 
[やぶちゃん注:二首前と同じく底本全集第二巻の「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の「晩秋」と題する十二首連作の第十首目に、
めづらしき薄氷(うすらひ)をみて裝(そう)ぞける
宮城野部屋のけさのきぬぎぬ
というほぼ同形(ルビ「そう」はママ)の習作が残る。]
 
     ベコニヤ
 
うぐゐすの池端(ちへん)に鳴(な)けば夜(よ)をこめて枕邊(まくらべ)に散(ち)る白(しろ)きべこにや
 
[やぶちゃん注:「うぐゐす」「池端」はママ。全集校訂本文は「池端」を「池邊」と訂する。採らない。前に同じく底本全集第二巻の「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の「晩秋」と題する十二首連作の第十一首目に、
 うぐゐすの池端(ちへん)に鳴けば夜をこめて
まくらべに散るべこにやの花白きべこにや
というほぼ同形に直した推敲案が残る(取り消し線は抹消を示す)。]
 
     菊(きく)
 
みちもせに俥俥(くるまくるま)と行(ゆ)きかへる今日(けふ)しも菊(きく)の節會(せちゑ)なるらむ
 
[やぶちゃん注:前に同じく底本全集第二巻の「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の「晩秋」と題する十二首連作の第九首目に、
 みちもせに俥俥(くるまくるま)と行きかへる
なにしか菊の節會なるらむ
という習作が残る。]
 
    橋(はし)の上(うへ)にも柳(やなぎ)ちりかふ
 
ゑねちやのごんどら(ヽヽヽヽ)びともしづ心(こゝろ)なくてや柳散(やなぎちり)りすぎにけり
 
[やぶちゃん注:前に同じく底本全集第二巻の「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の「晩秋」と題する十二首連作の第八首目に、
        橋の上にも柳ちりかふ
ゑねちや(ヽヽヽヽ)のごんどらびともしづこゝろ
なくてややなぎ散りすぎにけり
という習作が残る。]
 
      題(だい)しらず
 
こゝろばへやさしき人(ひと)とくれがたの水(みづ)のほとりを歩むなりけり
 
[やぶちゃん注:前に同じく底本全集第二巻の「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の「晩秋」と題する十二首連作の第四首目に、
こゝろばへやさしきひとゝくれ方の
水のほとりをあゆむなりけり
という標記違いの同一首が残る。]
 
     バルコンの隅(すみ)
 
人(ひと)はいざ知(し)るや知(し)らめや短(みぢ)か夜(よ)の月(つき)の出窓(でまど)にくちづけしこと
 
[やぶちゃん注:「いざ」は底本校訂本文は「いさ」と『補正』する。従わない。「みぢかよ」はママ。底本全集第二巻の「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の「羽蟲の羽」と題する三十三首連作の第十首目に、
人はいさ知るや知らめやみぢか夜の
月の出窓にくちづけしこと
というほぼ同一の習作が残る。「みぢか夜」はママ。]

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 三 卵 (2)卵が生まれるということ

 かくの如く、雞の卵の中でも白身や殼は、卵が産み出される途中に外から附け加はつたもので、後に雞となるのはたゞ黄身だけであるから、眞の卵といふのはどうしても黄身ばかりと見做さねばならぬ。しからば黄身とは何かといふに、卵巣を調べて見ると、黄身が大きくなる順序が明にわかるが、その始は小さな球形の普通の細胞で、成熟するに隨ひ段々脂肪その他の滋養分を細胞體の内に溜め込み、終に他の細胞では到底見られぬ程の大きさに達するのである。されば卵の黄身なるものもやはり一個の細胞で、たゞ滋養分を多量に含むために特に大きくなつたものといふに過ぎぬ。そして卵巣から離れて輸卵管に入つた以上は、親と卵との組織の連絡は絶えるが、まだ卵巣内にあつて卵巣の一部を形造つて居る間は、卵細胞も慥にその部分の組織に屬し、隨つて親の身體を成す幾千億かの細胞の仲間に加はつて居る。即ち卵が生まれるとは、親の身體の一細胞が親から離れて獨立することである。

栂尾明恵上人伝記 72

 日來(ひごろ)は坐禪の時、是程近くては見奉らず。此の病中に看病の次に近づきて見奉るに、禪定に入り給ふ時は、數尅出入の息絶え給ひて、身體聊かも轉動することなし。はや入滅し給ふかと肝つぶして手を口に當て見奉るに息氣なし。驚き存すと云へども兼ての約束に我が息絶えて入滅したりと見るとも、身の冷えはてざらんに我に手ばし懸くなと仰せ置かれしかばと思ひて、待ち居たる程に、數尅の後、少しづゝ動き給ひて、自ら臥し給ふ時もあり。かゝる事毎日毎夜の事なれば、後々には例の事と知りて驚かず。或る時又例の如く定に入り給へり。傍にて見奉れば、彌勒の大座の左の角の寶珠の上より香煙忽に立ち昇る。漸く帳(とばり)の内に滿ちて終に御座の間に靉(たな)びき雲の如くして空に涌(わ)き上る。其の時に當つて上人の御口の中より白光出でゝ彌勒の寶前を照らし給ふ。山中に獨りのみ坐し給ひし日來の體もかくこそありつらめと、今こそ思ひ知られけれ。或る時は諸衆を集めて、不斷に文殊の五字の眞言を誦せしめて、其れを聞きながら、我は定に入り給ひけり。又或る時は初夜の坐禪の中に忽に眼を開きて告げて云はく、只今左の脇に不動尊現じ給へり、慈救(じく)の咒(しゆ)を誦せよとて、諸衆に誦せさせらるゝ時もあり。又彌勒の寶號を唱へさせらるゝ時もあり。衆僧普く座に望む、其の時に、上人遺誡(ゆゐかい)を垂れて云はく、我れ年來諸佛菩薩に加被(かび)を乞ひて、聖教において如來の本意を得んことを求む。宿善實に憑(たの)みあり。既に是を得たり。他事なく勤め修行せん事を思ふと雖も、思ふ程こそ其の本意を益せざれども、如來の本意、解脱の入門是れを開けり。諸衆各又此の志を全くして堅く如來の禁戒を持ちて、精進して勤行すべし。末代には眞正の知識もなし。若し自宗おいて明らめ難き理あらば、禪宗において正してんと、聞き得ん禪僧に相談せば益あるべし。或は法により、或は人に依りて、偏執我慢あるべからず。今は必ず諸佛の御前にして見參を遂ぐべきなり。顯性房(けんしやうばう)志深く山中に行ひ勤めてさて御座し候へば、隨喜し參らせ候なり。我が申す所の法示し給ふべしと云々。我は釋尊入滅の儀に任せて、右脇臥(うけふぐわ)の儀にて臨終すべしとて、右脇臥にて御坐す。其の時此の程向ひ居給ひつる彌勒の像をば學文所(がくもんじよ)へ入れ奉りて其(そこ)に安置し奉る。

[やぶちゃん注:「手ばし懸くな」「ばし」は副助詞(取り立ての係助詞「は」に強意の副助詞「し」の付いた「はし」が濁音化して一語になったもの)で、上の事柄を取り立てて強調する意を表す。軽々に亡くなったなどと断じて手出しなんぞしてはならない。

「文殊の五字の眞言」平泉洸全訳注「明惠上人伝記」には『阿羅跛捨那(アラバシヤナ)』と割注する。アラハシャノウ。

「慈救の咒」慈救呪。不動明王の呪文の一つで、唱えると災厄から免れ、願い事が叶うという。慈救の偈。

「加被」御加護。

「自宗」ここは明恵一門のそれであるから華厳宗。

「顯性房」一言芳談 五十九に出る「松蔭の顯性房」か(リンク先は私の注釈テクスト)。]

明恵上人夢記 34

34

一、又、上人の御房、奇異なる靈藥を以て成辨に與へて曰はく、「此(これ)を態(わざ)と御房に進(まゐら)せむとて、他人の乞へども與へずして置ける也。」即ち之を給ふ。仙藥等の類かと覺ゆ。即ち之を食ふ。心に思はく、長壽等之藥かと。かむかむ覺め了んぬ。

[やぶちゃん注:「33」で注したように、「32」「33」「34」の三つの夢は建永元(一二〇六)年六月八日深夜から九日未明にかけて見た夢と採る。「34」は「33」の後、九日早暁に見た夢と考える。

「上人之御房」一応、文覚ととっておくが訳では出さない。その意図は「2」の私の「上人」の注を参照のこと。

「かむかむ」ここは一応、副詞「かんかん」で、心が晴れ晴れとするさまの謂いでとりたい。小学館「日本国語大辞典」に載る。この部分、覚醒時の心的印象明確に記している点で明恵の夢記述の中では極めて特異である。]

 

■やぶちゃん現代語訳

34

一、また、その後に同じ夜、続けて見た三つ目の夢。

「上人の御房が、奇異妙々たる霊薬を以って私にお与えになられ仰せられたことには、

「これをわざわざと御房に進ぜようと思うて、他の者が如何に乞えども一切授けることなく、かくも大切に残しおいたものなのであるぞ。」

とて、これを下された。推察するに仙薬等(とう)の類いかと思われた。

 即座にこれを食した。

 心に思うたことには、

『これは……長寿の薬ではあるまいか?……』

と。……」

 まことに心の晴れ晴れとしたままにその夢から目覚めたのが印象的であった。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 10 大工職人たち

M307
図―307

 

 私は目下、貝殻や化石の蒐集のための、箱を製造することを指図している。先日私は殆ど完成した箱を検査する可く、指物師のところへ行った。職工の殆ど全部が、老人も誰も、裸でいるのは変な光景だった。板に鉋をかけるのに、彼等はそれを垂直の棒につける(図307)。大工用の腰掛とか、机とかいうものは、更に見当らぬ。彼等の鉋、大錐、手斧、鑿等の、それと知られる程度に我々のに近いのが、どっちかといえば粗末らしく見え、それが弱々しい小さな箱に入っているのを見、更に驚く可き接手(つぎて)や、鳩尾柄(ありほぞ)や、彼等のこの上もない仕事を見ることは、誠に驚嘆すべきである。我国の大工の、真鍮張りの道具箱に、磨き上げた道具が入っているのや、その他を思い浮べる人は、仕事をするのが鉄砲ではなく、鉄砲の後にいる人間だということを理解する。

[やぶちゃん注:「鳩尾柄(ありほぞ)」原文“dovetails”。木工用語で蟻枘(ありほぞ)のこと。先がハトの尾の形に広がった枘で、これで以って他の木材に抜けぬように嵌め継ぐもの。]

中島敦 南洋日記 十二月二十二日

        十二月二十二日(月)

 昨夜も喘息、今日は出勤して見る。夜、又士方氏宅。阿刀田氏、高松氏、マルキョク・ガラルド邊のボラ捕りの話頗る面白し。數多のカヌーを連ね、リーフの程良き所に數十人下り立ちて圓陣を作りボラの群を追ひつめる。各人手に鳥を捕ふるが如き網を持ち、(水中を掬ふにあらで)空中にかざして待構ふ。數人、圓陣内に入り銛を手にボラを追ひまくる。ボラは逃れんとして、水上より二米餘も高く跳躍す。そのボラを各、網をもつて空中に捕ふるなり。竿につけし網を以てもなほ捕へ得ずして、頭上を越さるゝことあり。かくして、二尺に餘る大ボラ數百尾を忽ちに捕獲す。漁終れば、各、舟に歸り、直ちに齒もて大ボラを嚙み裂き、海水にて一寸洗ひてはムシヤムシヤと食するなり。

 

 又、リーフの緣邊にて、大シヤコ貝(アキム)の盥程のものを捕るも愉快なりと。リーフの緣あたりには大シヤコ貝いづれも口をあけて待居るが、その口の中に、丸太をつゝこめば、直ちに貝殼を閉ぢて棒を挾む。その隙間より、用意せる大竹ベラにて、を差入れて、貝柱を切斷すれば、瞬間、巨大なる貝殼が忽ち力を失うて、ガタリと離るゝ由。かくして、見る間に、舟も沈むばかりにアキムを積込むなり。

 土方氏によれば、天下の珍味は、海龜の脂に極まる由。パンの實をむしり、之にこの脂をつけて食すれば、飽くるを知らずと。マングローブ貝も味よし。龜の卵はいくら熱すると白味固まらず。卵は一ケ所に二三百箇あり。土民、棒を以て泥地をつきさし、その尖端に黄味のつくを見て其處を掘り卵を取るといふ。島民の雞のしめ方の亂暴なる話。先づ生きながら毛をむしりつくせば、歩くにもヒョロヒョロして歩けぬと。

[やぶちゃん注:「マルキョク・ガラルド」孰れも現在のパラオ共和国の州名となっている地方名。マルキョク州(Melekeok)は首都マルキョクを含み、パラオ最大の島バベルダオブ島東海岸に位置する(メレケオク州とも読む)。ガラルド州(Ngaraard)は同じくバベルダオブ島北側に位置し、西海岸部分はマングローブ林で覆われている(以上はそれぞれウィキのマルキョク州ガラルド州の記載に拠った)。

「二尺」約六十センチメートル。

「しやこ」二枚貝綱異歯亜綱ザルガイ上科ザルガイ科シャコガイ亜科Tridacninae のシャゴウガイ属 Hippopus 及びシャコガイ属 Tridacna に属する二枚貝類の総称。シャゴウガイ属 Hippopus の「ヒッポプス」とはギリシア語で「馬」を意味する“ippos”と「足」の意の“poys”の合成で、貝の形状を馬の足のヒズメに見立てたものであろう。またシャコガイ属Tridacna の方はギリシア語の「3」を意味する“tria”と「嚙む」の意の“dakyō”で、殻の波状形状と辺縁部の嚙み合わせ部分に着目した命名と思われる(以上の学名由来は荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水棲無脊椎動物」の「シャコガイ」の項を参考にした)。以下、ウィキの「シャコガイ」から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『熱帯~亜熱帯海域の珊瑚礁の浅海に生息し、二枚貝の中で最も大型となる種であるオオジャコガイを含む。外套膜の組織に渦鞭毛藻類の褐虫藻が共生し、生活に必要な栄養素の多くを褐虫藻の光合成に依存している』(熱帯や亜熱帯のクラゲ・イソギンチャク・造礁サンゴ類等の海産無脊椎動物と細胞内共生する褐虫藻“zooxanthella”(ゾーザンテラ)としては、Symbiodinium spp.Amphidinium spp. 及び Gymnodinium spp. などが知られる)。『貝殻は扇形で、太い五本の放射肋が波状に湾曲し、光沢のある純白色で厚い。最も大型のオオシャコガイ(英語版)は、殻長二メートル近く、重量二〇〇キログラムを超えることがある』。『サンゴ礁の海域に生息し、生時には海底で上を向いて殻を半ば開き、その間にふくらんだ外套膜を見せている。この部分に褐虫藻を持ち、光合成を行わせている。移動することはなく、海底にごろりと転がっているか、サンゴの隙間に入りこんでいる』。肉は食用となり、特に沖縄地方では刺身にして普通に食用とし(私は好物である)、古くから殻は置物や水盤などに用いられた(私の小学校の庭ではこれを池にして金魚が飼われていた)。分布は『太平洋の中西部とインド洋の珊瑚礁。オオシャコガイはその分布地の北の限界が日本であり、八重島諸島で小柄な個体が僅かながら生息している。しかしながら海水温が高かった約七〇〇〇~四三〇〇年前までは沖縄各地に分布し、現在でも当時の貝殻が沢山発見されている。その中にはギネス級の貝殻も見つかっている』。私たちが幼少の頃の学習漫画にはしばしば、海中のシャコガイに足を挟まれて溺れて死ぬというおどろおどろしい図柄が載っていたものだったが、これは誤伝であって有り得ない話である(今でも私の世代の中にはこれがトラウマになっていて恐怖のシャコガイが頭から離れない者が必ずいるはずである)。ウィキではそこも忘れずに『「人食い貝」の俗説』の項を設けて以下のように記載しているのが嬉しい。『シャコガイに関する知識や情報が乏しかった頃、例えば一九六〇年代頃まで、特にオオシャコガイについては、海中にもぐった人間が開いた貝殻の間に手足を入れると、急に殻を閉じて水面に上がれなくして殺してしまうとか、殺した人間を食べてしまう「人食い貝」であると言われていた。しかし実際には閉じないか、閉じ方が緩慢で、そのようなことはない』のだ。安心されよ。

「マングローブ貝」巨大なシジミとして沖縄でも知られる二枚貝綱異歯亜綱マルスダレガイ目シジミ超科シジミ科シレナシジミ(マングローブシジミ・ヒルギシジミ)Geloina coaxans かその仲間と当初思ったのだが、ネットで調べてゆくうちに suyap 氏のブログ「ミクロネシアの小さな島・ヤップより」にマングローブシジミ(じゃなくてカブラツキガイでした!)が戻ってきた!という記事を発見、そこに出るマルスダレガイ目ツキガイ超科ツキガイ科カブラツキガイAnodontia edentula、ヤップ語で「ユングウォル」という美味しい貝もこの「マングローブ貝」の一つの可能性が出て来たので併記しておく。特に前者は水っぽくて必ずしも「味よし」とはいかないとも仄聞しているからでもある。グーグル画像検索のGeloina coaxansAnodontia edentulaも示しておく。後者も前者の巨大個体ほどではないが相応に大きいことが分かる。

 同日附のたか宛葉書が残る。以下に示す。

   *

〇十二月二十二日附(旧全集「書簡Ⅰ」の書簡番号一五三。消印パラオ郵便局一六・一二・

二二 世田谷一七・一・二四 南洋パラオ南洋庁地方課。東京市世田谷区世田谷一ノー二四 中島たか宛。葉書。航空便)

 一昨日の手紙に、「飛行便の小包で送つてくれ」と書いたが、今は、飛行便は小包を扱(あつか)はないさうだから、仕方がない 普通の船便で送つて貰ひ度い。

 今日から役所に出てる。安心せよ、

   *

日記には「昨夜も喘息、今日は出勤して見る」とあるから、必ずしも喘息の様態は実はよくない様子が窺われる。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 御繩川

    ●御繩川

久野谷の谷間より御繩崎を流れ逗子小坪の界に至りて御繩川の名を得〔或は御菜川とも云ふ〕直(たゞち)に田越川(たごしがは)に合す川幅五間

[やぶちゃん注:グーグル・マップのたもしま氏の記載で現存推定水路(総延長約四〇〇メートル)が示されてある(これだと下流は久木川となって田越川と合流している)。またこの「御繩」という地名は文禄三(一五九四)年の検地帳「相州三浦郡小坪郷御繩打水帳」にも見出すことが出来る(山野光正氏のブログの『鎌倉・逗子の境界にある死の聖域「まんだら堂やぐら群」と名越切通、猿畠の大切岸。』の記載中にあり)。また「逗子市地域防災計画 施要領計画編(平成二十四年度改訂)」のリスト中に久木二丁目二番付近にある「御縄橋」が、新宿三丁目一〇番付近にある「御縄川橋」の名をそれぞれ見出せる。

「久野谷」現在の久木地区の旧称。

「御繩崎」不詳。地形的(水源と推定流路位置)に見ると、現在の岩殿寺のある峰の西南に下る尾根を指すか。

「五間」約九・一メートル。]

耳囊 卷之八 押上妙見鐘銘奇談の事

 

 押上妙見鐘銘奇談の事

 

 三枝帶刀(さいぐさたてわき)とて御目付を勤(つとめ)し人有(あり)しが、其以前妙見の鐘建立の節、寄進ものなしたりしに、鐘の銘に施主の名前夥敷切付(おびただしくきりつけ)、三枝帶刀名前もほり付(つけ)しに、其一列へ、寺の事なれば何の頓着もなく、市川團十郞其外役者共の名前抔も同じ樣に彫付(ゑりつけ)しを、如何(いかが)とは思ひぬれど夫(それ)なりに打過(うちすぎ)ぬ。然るに帶刀御目付被仰付(おほせつけられ)、勤柄(つとめがら)かゝる事ありては不濟(すまず)迚、寺へも斷(ことわり)いろいろ評論の上、さる心得ある者なりけん、三枝の三の字の中へ豎(たて)に棒を引(ひき)點(てん)を加へぬる故、玉といふ文字になり、帶刀の刀字の脇へ目の字を加へ助と申(まうす)字に直し彫(ゑり)けるゆゑ、玉枝帶助となりし由。今に其通りにて有(あり)しが、助の字は目のへん傍(かたはら)へ寄りてある由、橫田袋翁まのあたり見しと語りぬ。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。変型武辺(?)譚。

・「押上妙見」柳島妙見堂。現在の東京スカイツリーの近く、東京都墨田区業平にある日蓮宗の寺院柳嶋妙見山法性寺(やなぎしまみょうけんさんほっしょうじ)境内にある。「法性寺」公式サイトの「妙見堂」には、『季節や時代にかかわらず、常に北方に位置して輝き続け、人々を導き続ける北極星。その北極星を具像化したお姿、「開運北辰妙見大菩薩」をお祀りしている妙見堂は、吉運を招くお堂で』あるとある。底本の鈴木氏注には、後の幕末明治期の名優三代目中村仲蔵が厚く信仰したエピソードが記されてあり、役者連贔屓の誓願所であったことが偲ばれる。

・「三枝帶刀」鈴木氏の注によれば三枝守明(さいぐさもりあき 享保十(一七二五)年~宝暦一三(一七六三)年)。宝暦六年御書院番より御徒頭に転じて布衣を許され、同八年に御目付となったが、享年三十九で没している。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、没後四十五年近く経っての記事である。岩波版長谷川氏のルビは「さえぐさ」であるが、諸データから「さいぐさ」と読んでおいた。

・「市川團十郞」岩波版長谷川氏注によれば、『三枝の経歴に合せると四代目』とある。三代目市川團十郎(享保六(一七二一)年~寛保二(一七四二)年)は享保二〇(一七三五)年に二代目の養父の隠居に伴って襲名。将来を嘱望されていたが、寛保元(一七四一)年、旅先の大坂で発病し、翌年初に二十二の若さで病死している。

・「玉枝帶助」役者染みた名前である。私は「たまえだおびすけ」と読みたくなる。

・「助の字は目のへん傍へ寄りてある」「刀」を大きく彫ってあるから左方に如何にもせせこましく不自然に附いていて、見るからに後から改鑿したことが明らかであることをいうのであろう。

・「橫田袋翁」頻出の根岸昵懇の情報屋。再注すると、「耳嚢 巻之七 養生戒歌の事」に「横田泰翁」の名で初出する。底本の同話の鈴木氏注に、『袋翁が正しいらしく、『甲子夜話』『一語一言』ともに袋翁と書いている。甲子夜話によれば、袋翁は萩原宗固に学び、塙保己一と同門であった。宗固は袋翁には和学に進むよう、保己一には和歌の勉強をすすめたのであったが、結果は逆になったという。袋翁は横田氏、孫兵衛といったことは両書ともに共通する。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 押上妙見鐘銘(しょうめい)奇談の事 

 

 三枝帯刀(さいぐさたてわき)と申され、御目付を勤めたる御仁のあられたが、御目付にとなられるずっと以前、法性寺妙見の鐘の建立の折り、三枝殿も寄進物などなされたところ、寺方にては鐘の銘に施主の名を夥しく彫りつけ、三枝殿の名も「三枝帶刀」と姓名ともに彫り付けられて御座った。

 ところがその彫られた一列へは、これ、寺方の役僧がろくに考えも致さず命じたことなれば、身分その他を考慮することものぅ、「市川團十郎」その外、多くの妙見堂贔屓の役者どもの名前なんどが前後左右に彫り付けられて御座ったを、建立のその日、三枝殿見出し、

『……こ、これは如何(いかが)なものか……』

とは思うたれど、まあ、致し方あるまい、とそのままにうち過ぎて御座られたと聞く。

 然るにその後、宝暦八年、帯刀殿、御目付を仰せつけられたによって、俄然、

「……お役目柄、このようなものが残っておっては、これ、お上から受けた職に対し、相い済まぬことじゃ。――」

と、寺方とも鐘の記銘を削り取ることなど、いろいろとやり取り致いたものの、なかなかに寺方も肯んぜなんだと申す。

 されば、三枝殿――そうした彫金の心得なんどが御座った御仁ででもあったものらしく――遂に手ずから、

――「三枝」の「三」の字の中へ縦に棒を引きて

――「王」となし

――さらに「王」の右下に点を彫り加え

――「三」の字――これ「玉」という文字となされ

いや、それだけでは気が済まざるものででもあったものか、さらに

――「帶刀」の「刀」の字の脇へ「目」の字を加え

――「助」と申す字として

自ずから彫り込まれたによって、

――「三枝帶刀」

――「玉枝帶助」

という芸人めいた別人の名に変じた由。

「……今もその通りにて御座っての……「助」の字は無理矢理、彫りつけたによって、「目」のへんが、大きなる「刀」の字(じい)の左の方に、ずぅっと寄って御座るよ……」

とは、例の横田袋翁殿、まのあたり見た、と語って御座った話。

 

篠原鳳作句集 昭和五(一九三〇)年十二月

   畫家探元の墓に參る

道をしへ塚の上より翔ちにけり

 

[やぶちゃん注:「畫家探元」とは江戸中期の画家木村探元(きむらたんげん 延宝七(一六七九)年~明和四(一七六七)年)のこと。名は時員(ときかず)、通称は村右衛門、別号に大弐(だいに)・三暁庵。薩摩出身で江戸にて狩野探信(守政)に師事、雪舟にも傾倒して室町風の水墨画を得意とし、鹿児島藩御用絵師を勤めた。享保一九(一七三四)年には法橋(ほっきょう)となっている。作品に「富士山図」、著作に「三暁庵談話」がある(ここまでは講談社「日本人名大辞典」に拠る)。墓は鹿児島市小野町の幸加木(こうかき)神社境内にある。クマタツ1847氏の「わたしのブログ」の小野町歴史散歩(その二)木村探元の墓 (4)で、詳しい位置と一風変わった彼の墓石を見られる。]

 

滝川を渉りて灯す祠哉

 

[やぶちゃん注:確定ではないが、前の木村探元の墓所の直近(幸加木神社境内)には滝と祠があることが個人サイト「滝巡りのページ」の幸加木神社の滝(鹿児島県鹿児島市)の写真によって分かる。ここでの詠か。]

 

いろいろの案山子の道のたのしさよ

 

   下宿生活

合住みの友をたよりや風邪籠り

 

[やぶちゃん注:以上四句は昭和五(一九三〇)年十二月の発表句。]

杉田久女句集 50 登り來ては杭をとび散る羽蟻かな

登り來ては杭をとび散る羽蟻かな

 

[やぶちゃん注:「羽蟻」はアリ・シロアリ類で初夏から盛夏にかけての交尾期に羽化して巣から飛び立った女王アリと雄アリ群を指す。この久女の描写からそれが孰れの羽蟻(はあり)であるかは判然としないが、杭とあるから屋外の景ではある。因みに両者の区別は「関東白蟻防除株式会社」公式サイト内にシロアリとアリの羽アリを見分けるには?に詳しく、そこには家の外で見かけただけであれば特に問題はなく、シロアリはどこにでもいる昆虫であるとある。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十四年 貯炭場 

 貯炭場

 

トロツコを子が驅り北風(きた)の中を來る

 

子の凧があがり索道よりひくかり

 

塊炭を投げあひ凧をもたざりき

 

霧さむく火を焚く船へ子はかへる

 

[やぶちゃん注:「貯炭場」は一般には炭鉱の出荷まで貯めておく石炭置場や、火力発電所が燃料としての石炭を備蓄する場所をいう。推測に過ぎないが、福岡県大牟田市及び三池郡高田町(現在のみやま市)と熊本県荒尾市に広大な坑口を持っていた三井三池炭鉱のそれか。]

こころの 船出   八木重吉

しづか しづか 眞珠の空

ああ ましろき こころのたび

うなそこをひとりゆけば

こころのいろは かぎりなく

ただ こころのいろにながれたり

ああしろく ただしろく

はてしなく ふなでをする

わが身を おほふ 眞珠の そら

鬼城句集 冬之部 冬の蘭 水晶宮裏師走の蘭咲けり

冬の蘭   水晶宮裏師走の蘭咲けり

[やぶちゃん注:「水晶宮」水晶宮(The Crystal Palace)は一八五一年(嘉永四年相当)にロンドンのハイドパークで開かれた第一回万国博覧会の会場として建てられた建造物のことを指していよう。ジョセフ・パクストン(Johseph Paxton 一八〇三年~一八六五年)の設計になる鉄骨とガラスで作られた巨大な建物で、プレハブ建築物の先駆ともいわれる。パクストンの設計によれば長さ約五六三メートル、幅約一二四メートルの大きさであった(「水晶宮」という名はイギリスの雑誌『パンチ』のダグラス・ジェロルドによって名づけられたもの)。万博終了後は一度解体されたものの、一八五四年(嘉永七年相当)にはロンドン南郊シドナムにより大きなスケールで再建され、ウィンター・ガーデンやコンサート・ホール、植物園・博物館・美術館・催事場などが入居した複合施設として多くの来客を集めた。一八七〇年代(明治三年から明治十二年相当)代頃から人気に陰りが見え始め、一九〇九年(明治四十二年相当)に破産した。その後は政府に買い取られて第一次世界大戦中に軍隊の施設として利用された後、戦後に一般公開が再開されたが、一九三六(昭和十一年相当)年十一月三十日に火事で全焼、再建されなかった。現在ではロンドン南郊の地名、水晶宮がかつて存在した地にある公園とスポーツセンターにその名が残る(以上はウィキ水晶宮」に拠った)。鬼城が俳句を始めたのは代書人となった三十歳の頃で、これは明治二八(一八九五)年頃に当たるから、鬼城が本句を詠んだのは既に水晶宮は左前になりかけてから破産するまで、若しくは軍施設から再度一般公開されてからのこととなるが、それでも同パビリオン内の温室の植物園で美しい冬の蘭を咲かせている写真記事が新聞かグラフ誌に載っていたのを見た印象句であろう。「鬼城句集」の刊行は大正六(一九一七)年で水晶宮はその八年前に破産しているから水晶宮の閉鎖記事を鬼城が読んでいてかつて詠んだ本句を追想として自撰したものとも考えられようか。鬼城の句の中では非常に変わった句であることは間違いない。]

2014/02/11

むなしさの 空   八木重吉

むなしさの ふかいそらへ

ほがらかにうまれ 湧く 詩(ポヱジイ)のこころ

旋律は 水のように ながれ

あらゆるものがそこにをわる ああ しづけさ

鬼城句集 冬之部 山茶花

山茶花   山茶花や二枚ひろげて芋莚

[やぶちゃん注:山茶花の咲く日向に掘り出した芋を莚の上で乾かしている景。芋類は水分の含有量が多いとすぐに腐るので通常、一週間ほど乾燥させる。]

2014/02/10

「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 52 モース、一時帰国の途へ 第十章~了」の謎の「中国語版ピース・ポリッジ・ホット」を教え子が解明した!

「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 52 モース、一時帰国の途へ 第十章~了」の謎の「中国語版ピース・ポリッジ・ホット」を教え子が解明した! 同注の追記を是非お読みになられたい。目から鱗、ならぬ、鍋から豆!

「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 14 「ショーリン」という絵師のこと」に追記 「ショーリン」とは小林清親か?

「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 14 「ショーリン」という絵師のこと」に追記を施した。

何と……もしかするとこのモースが親しく出逢った「ショーリン」とは……かの最後の浮世絵師で光線画で知られる小林清親(こばやしきよちか)かも知れないのである……。

萩原朔太郎 酒場の窓 短歌十首 大正二(一九一三)年十月

   酒塲(さけば)の窓(まど)
 
        夢みるひと
 
つばくらめ酒塲(さけば)の軒(のき)をちらちらくゞれる時(とき)に我(われ)も入(い)り來(く)る
 
塲末(ばすへ)なる酒場(さけば)の窓(まど)に身(み)をよせて悲(かな)しき秋(あき)の夕雲(ゆうぐも)を見(み)る
 
薄給(はつきふ)の車掌(しやせう)も我(われ)と盃(さかづき)をさして語(かた)れば悲(かな)しまれけり
 
放埒(はうらつ)の惡所通(あくしよがよ)ひを悲(かな)しめどわが寂(さび)しみは行(ゆ)くところなし
 
COGNAC(コニヤク)の醉(ゑひ)にあらねど故郷(ふるさと)の酒塲(さけば)の月(つき)も忘(わす)れがたかり
 
あせし志村(しむら)一座(ざ)の幟(のぼり)などはためく頃(ころ)を酒店(さかみせ)に入(い)る
 
かくばかり我(わ)が放埒(ほうらつ)のやるせなき心(こゝろ)きかんと言(い)ふは誰(た)が子(こ)ぞ
 
    (以下公園にて)
 
晩秋(おそあき)の我(わ)が故郷(ふるさと)の公園(こうゑん)を悲(かな)しく今日(けふ)も歩(あゆ)むなりけり
 
グラウンドの芝生(しばふ)の上(うへ)に乘(の)り捨(す)てし自轉車(じてんしや)の柄(え)の光(ひか)る夕(ゆう)ぐれ
 
公園(こうゑん)の碑石(いし)に手(て)を觸(ふ)れ哀(かな)しめる心(こゝろ)つめたく泣(な)き出(いだ)したり
 
        (故郷前橋にて) 
 
[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年十月二十八日附『上毛新聞』に標記通り、「夢みるひと」名義で掲載された八首連作。朔太郎満二十六歳。
 「酒場」「酒塲」の標記違い及び「さけば」の読みはママ。
 二首目のルビ「ばすへ」及び「ゆうぐも」はママ(正しくは「ばすゑ」「ゆふぐも」)。
 三首目のルビ「しやせう」はママ(正しくは「しやしやう」)。
 六首目の「志村一座」は旅回りの芝居一座と思われるが不詳。
 七首目のルビ「はうらつ」は底本では「ほうらつ」であるが先行首に正しいルビがあるので誤植と断じて訂した。
 八首目以降三首の「公園」とは朔太郎の愛した「郷土望景詩」に出る前橋公園、現在の群馬県前橋市大手町にある遊園地前橋市中央児童遊園(愛称は「前橋るなぱあく」)であろう。
 九首目の「夕(ゆう)ぐれ」のルビはママ。]

篠原鳳作句集 昭和五(一九三〇)年十一月

花葛や巖に置かれし願狐

 

[やぶちゃん注:「願狐」稲荷でよく見かける眷属像であるところの狐の置物のこと。四句後の句柄からは桜島での嘱目吟か。]

 

颱風や坊主となりし靑芭蕉

 

蟻の列御輿もありて續きけり

 

薩摩路や茶店といはず懸煙草

 

[やぶちゃん注:「懸煙草」採取したタバコの葉を縄に挟んで屋内や軒先に吊るし、乾燥させること。また、その葉をいう。有季俳句では秋の季語とする。]

 

熔岩を傳ふ筧や葛の花

 

[やぶちゃん注:以上五句は十一月の発表句。]

杉田久女句集 49 鮎四句

生き鮎の鰭(ひれ)をこがせし強火かな

 

笹づとをとくや生き鮎ま一文字

 

獺(うそ)にもとられず小鮎釣り來し夫をかし

 

鮎やけば猫梁を下りて來し

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十四年 九州への旅

 九州への旅

 

  鴨綠丸

 

海雀を北風(きた)に群れしめ解纜す

 

[やぶちゃん注:「鴨綠丸」「おうりょくまる」と読む。ウィキの「鴨緑丸」によれば、大阪商船が所有し運航していた貨客船。大阪商船の大阪大連線(大連航路)用として建造され、実際に航路に就航した船としては最後の船であった。太平洋戦争中は船舶運営会管理下で貨客船としてのほか、陸軍及び海軍の配当船としても行動した。連合国側からは、いわゆる「ヘルシップ(地獄船:連合国の捕虜をフィリピンやシンガポールから輸送するために使用した船の連合軍側の呼称。)」の一隻として認知されている。大連航路の最新鋭船として内装も華麗を極め、秋草模様のエッチングガラスなどで装飾されていた。竣工(昭和一二(一九三七)年九月三十日)後の十月二十日に処女航海のため神戸港を出港、以降十二日間隔で就航した。昭和一九(一九四四)年十二月、フィリピンからの最後の引揚げ徴用船としてルソン島にいた日本人・遭難船員及び約一六〇〇名の捕虜合わせておよそ三五〇〇名を乗せ、駆逐艦「桃」と駆潜艇に護衛されてマニラを出港するも艦載機からの銃爆撃を繰り返し受けて応戦したが(当時の「鴨緑丸」は砲三門と機銃十二基を装備していた)、遂に被弾し火災が発生、スービック湾内オロンガポに退避して捕虜や便乗者などを上陸させた後、火に包まれた末に横転、沈没した。

「海雀」チドリ目ウミスズメ科ウミスズメ亜科 Alcinae の一種と思われる。多くが北方種で、特に和名のウミスズメ Synthliboramphus antiquus は冬鳥としてならば九州での観察はある(以上はウィキウミスズメ科」及びウミスズメ」を参照した)。先の注で示したようにこれらは以下の句(四句目及び五句目、さらに後の「炉」や「凩」)からも十二月末の景としか読めず(だからこそ全句の通奏低音としての「北風」の切れるような痛さが生きる)、それならば真正のウミスズメ Synthliboramphus antiquus と採ってよい。

「解纜」は「かいらん」と読み、「纜(ともづな)を解く意で、船が航海に出ること。船出。出帆。]

 

港遠く海雀北風になほとべり

 

北風を航き陸(くが)の探照燈に射られ

 

[やぶちゃん注:「探照燈」の「燈」は底本の用字。]

 

七面鳥皿に灯ともり聖夜航く

 

[やぶちゃん注:二句後に「冬雲」ともあり、前に複数回注したようにこれらの句群は前年の八月の九州への船旅ではない。「昭和十四年」の頭に入れているところを見ると、前年の十二月下旬に船で九州に向い、船中でクリスマスを祝い、櫓山荘で年越しをしたように読める。]

 

北風の中水夫(かこ)綱を降り驅けて去る

 

冬雲に甲板(デツキ)短艇(ボート)を支へ航く

 

北風の浪汽艇にうつる腕をとられ

 

[やぶちゃん注:「汽艇」は所謂、ポンポン蒸気の艀(はしけ)のことである。]

 

  石垣原

 

枯るる野に温泉(ゆ)突きの車輪まはるまはる

 

[やぶちゃん注:「石垣原」は「いしがきばる」と読む。大分県別府市の中央部鶴見岳東麓に広がる扇状地で扇端部は直接に別府湾に接している。「鶴見原」ともいう。この春木川・境川・朝見川の形成する扇状地及びその周辺には別府八湯があり、日本最大の温泉地帯を成している。ここは慶長五(一六〇〇)年に大友義統(よしむね)が黒田孝高に敗北して大友氏が滅亡することとなった古戦場としても有名(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「温泉突き」湯突き。バーチャル博物館である「別府温泉地球博物館」公式サイト内の別府温泉事典にある由佐悠紀氏の「湯突き」の記載を引用させて戴く。

   《引用開始》

 人力と孟宗竹の弾力を動力源にして、先端に鉄製のノミを付けた竹ヒゴで地層を突き崩しながら掘り進む、小口径の井戸掘り技術「上総掘り」で温泉井を掘ることを、別府では湯突きと言いました。出来上がった井戸は「穿湯」とも言いましたが、「突湯」というのが一般的だったようです。この湯突きは、明治・大正・昭和と長く受け継がれ、別府の温泉開発を支えました。湯突きによる井戸数は2000以上、最も深いのは360mもあったそうです。

 しかし、太平洋戦争後、機械力による近代的な井戸掘削技術が導入されると、またたく間に取って代わられ、昭和28年頃を最後として、湯突きは姿を消してしまいました。

 しかし、幸なことに、実物の4分の1の湯突き櫓の模型が別府市美術館に展示されています。美術館の隣には、人気の高い「別府海浜砂湯」があります。

   《引用終了》]

 

  櫓山莊にて

 

炉によみて夫(つま)の古椅子ゆるる椅子

 

ひとりの夜よみて壁炉(へきろ)の椅子熱す

 

凩の天ダイナモも鳴りとよむ

 

[やぶちゃん注:次の句からはこの「ダイナモ」(発電機)は鉄道の電気機関車のそれかと思われる。]

 

北風(きた)昏れて熔炉の炎(も)ゆる驛を發つ

 

  由布高原

 

風車(ウインドミル)寒き落暉を翼にせり

 

風車由布の雪雲野に降りる

 

[やぶちゃん注:大分県由布市湯布院町川北湯布高原は別荘地として知られる。「風車」“windmill”のある(あった)光景については同地の郷土史にお詳しい方のご教授を乞いたい。]

しのだけ   八木重吉

この しのだけ

ほそく のびた

 

なぜ ほそい

ほそいから わたしのむねが 痛い

鬼城句集 冬之部 歸花

歸花    藁積んで門の廣さや歸花

      歸花咲いて虫飛ぶ靜かな

[やぶちゃん注:「歸花」初冬の小春日和の頃、草木が時節外れに花を咲かせること。「帰咲き」「返咲き」「返花」に同じい。]

2014/02/09

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 小坪 又は 「あなたは白旗山合戦の直後に起こった鎌倉由比ヶ浜での戦さをご存知か? 『源平盛衰記』の小坪合戦の部を注にて一気掲載!」

    ●小坪

いにしへ葉山郷(はやまのさと)、いま田越村に屬す、源平盛衰記(げんへいせいすいき)、治承四年八月、和田義盛の黨と、畠山重忠合戰の條に、小坪坂小坪峠の名あり。

[やぶちゃん注:以下は、底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。]

源平盛衰記曰、治承四年八月、和田小太郎義盛由井の濱を過、小坪坂を上らんとしける時、畠山は本田半澤に云けるは、三浦の輩にさせる意趣なし、去共矢一つ射すは平家の聞へも恐あり。打立者共と知し、五百餘騎小坪の坂口にて追付たり、三浦百三十餘騎畠山に懸られて、小坪の峠に打上り、轡を並てひかいたり、畠山次郎は由井濱、稻瀨河の津に陣を取て赤旗天に輝げり、和田小太郎は白旗さゝいて、百餘騎、小坪の峠より打下り渚へ向て歩せ出す、爰に畠山横山黨に彌太郎と云者を使にて、和田小太郎許へ云けるは、日比三浦の人々に意趣なき上は、是まで馳來べきにあらず、私軍其詮なし、兩軍引退かせ給はゞ、公平たるべきかと、人ノ穩便を存ぜんに、勝に乘に及ばずとて、和田小太郎ハ小坪の峠に引返す云々、かくて和田は三浦へ歸りければ畠山は武藏へ返りけり。

建久四年七月、賴朝此地に遊宴あり。

[やぶちゃん注:以下は、底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。]

東鑑曰、建久四年七月十日屬海濱凉風將軍家出小坪邊給長江大多和輩搆假屋於潟奉入獻盃酒垸飯又漁人垂釣壯士射的毎事前感乘興愚狀白娯遊及黄昏還御。

延元二年九月南北朝爭亂の時、北畠顯家鎌倉に攻(せめ)入り、此地にて挑戰あり。

[やぶちゃん注:以下は、底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。]

元弘日記裏書曰延元二年九月義良親王幷顯家有西征之義於上州利根河武州薊山鎌倉小壺杉本前濵腰越有合戰官軍皆有利

小田原北條氏割據の頃は石上稱二郎領す、德川氏入國の後は、御料所にて、天明六年久世隱岐守廣譽に賜ひ、同八年御料所に復し、文化八年松平肥後守容衆に替賜ひ、文政四年松平大和守矩典に賜ふといふ村南海岸巖(がんふく)壁立(へきりつ)して高四五丈、上に小徑通す鎌倉道なり、此所より眺望すれば、東方近く杜戸の濱あり、西方鎌倉靈山(れいざん)が崎突出し、中央に江島浮ひ出で、又大磯小磯の海濱を望み、遠くは富峰(ふほう)雲際(うんさい)に秀(ひい)て、其美景を稱すべし。

[やぶちゃん注:「治承四年八月」西暦一一八〇年。ここは「源平盛衰記」をかなり端折っている。時に和平同議が成功したかのように見えた直後に誤認から起こった小坪合戦こそが眼目なのに(いや、正直に面白いと告白しよう)、恰も戦闘もなく両軍退いたようになっているのは困るので(この由比ヶ浜・小坪合戦自体を知らない方が実は多い)、非常に長くなるが、私の好きなシーンクエンスでもあるからして同「小坪合戦」の部分を総て示す。底本は美濃部重克・松尾蘆江校注「源平盛衰記(四)」(平成六(一九九四)年三弥井書店刊)を用いたが、恣意的に正字化し、片仮名も平仮名に改めた。全文が一気に一続きになっているが、語注を途中に入れた関係上、切った(注では一部、底本の注を参考にした)。この臨場感はまず、原文のみの通読で味わって戴きたいと思う。

   *

 「抑(そもそも)畠山五百餘騎にて金江川に陣を取て待(まつ)と聞(きく)、いかゞ有べき」と云ければ、和田小太郎は、「佐殿の左右をきかん程は命を全して君の御大事に叶ふべし。去(され)ば小磯が原を過て波打際を忍とをらん」と云けるを、佐原十郎は、「何條さる事か有べき。畠山は若武者也、而(しか)も五百餘騎、思へば安平也。我等が三百餘騎にて蒐散(かけちらし)て馬共とりて乘てゆかん」と云けるを、三浦別當は、「詮なき殿原のはかり樣(やう)。畠山は今日一日馬飼(かひ)、足休めて身をしたゝめたり。我等は此兩三日あなたこなた馳つる程に、馬もよはり主も疲たり。人の強馬(つよむま)とらんとて我弱馬(わがよはむま)とられて其(その)詮なし。馬の足音は波に紛れてよも聞えじ。轡鳴すな」とて、みづゝき結(ゆひ)、鎧腹卷の草摺卷上(まきあげ)なんどして打けるに、和田小太郎は本(もと)よりつよき魂の男にて、「いつの習(ならひ)の閑道ぞ。畠山は平家の方人也、我等は源氏の方人なり。源氏勝給はゞ畠山旗を上(あげ)て參べし。平家勝給はゞ三浦旗を上て參べし。爰を問はずは後に被ㇾ笑事疑なし。人は浪打際をも打給へ、義盛は名乘て通らん。同心し給へ、佐原殿」とて、鎧の表帶(うはおび)しづしづと結(ゆひ)かため、甲の緒をしめ、弓取直て鐙(あぶみ)に幕盡けさせて、大音あげて、「是は畠山の前陣歟。角云(かくいふ)は三浦黨に和田小太郎義盛と云者也。石橋の軍(いくさ)に佐殿の御方へ參つるが、軍既に散じぬと聞けば酒勾宿より歸(かへる)也。平家の方人して留(とどめ)んと思はゞ留よ」と高く呼(よばはつ)てぞ打過る。

[■やぶちゃん注

・「金江川」「かなえがは」を訓ずる。現在の金目川。現在の平塚市唐ヶ原(とうがはら)(「新編相模國風土記」には「もろこしがはら」とある)で相模湾に注ぐ。

・「和田小太郎」和田義盛。当時三十三歳。彼は三浦義明長男杉本義宗(すぎもとよしむね)の子。

・「佐原十郎」佐原義連。三浦義明末子。

・「畠山は若武者也」畠山重忠は当時は未だ満十六歳であった。

・「安平」難しくないこと。わけないこと。容易。

・「三浦別當」三浦義澄。三浦義明次男で彼が三浦本家を継いだ。当時五十三歳。

・「みづゝき」水付・七寸・承鞚などと書く。轡の部分名で手綱の両端を結びつけるための轡の引き手金具。みずき。そこから手綱の両端をもいう。馬が暴れて音を立てないよう鎮めるためであろう。

・「いつの習の閑道ぞ。……」以下の義盛の言上げはなかなか格好いい。訳してみたい。

「……一体、いつから俺たちは間抜け面して間道をおどおど抜けてゆく如き臆病者になり下がったのじゃ?!

――畠山は平家の方人(かたうど)じゃ、我らは源氏の方人じゃ。

――もし源氏が最後に勝つとするならば、どんな状況下にあろうとも、畠山はここで我らに負け、そうして降伏の旗を掲げて膝下に参ずるであろう!

――もしやはり平家が勝つとするならば、如何に我ら奮戦致そうとも、三浦一党悉く敗れ、遂には投降の旗を掲げて若造の下へと参ずるほかはなかろう!

――そのくらいの気持ち

――そうさ!

――謂わば、遂に切って落とされた源平の合戦の勝敗の行方……

――これを只今、我ら源家を戴く三浦と、かの平氏に使われたる畠山との、この戦さにて問わんとする意気を奮わなんだとすれば……

――これは後々までも笑いものになること、これ、疑いない!

――臆病者は波うち際をこそ、こそこそとうち行くがよい!

――義盛は正々堂々、名乗りを挙げて通らんと存ずる! 同心めされい、佐原殿!」

・「鐙に幕盡け」「幕附け」で鐙に幌のような覆いをつけ、という意か。詳述しないが底本の補注には鐙に装着して、手ではなく、鐙に載せた足で以って馬を御す秘術があり、ここでもそうした仕掛けを鐙(若しくはその周辺)に施したのではないかと推理されている。

・「表帶」鎧・腹巻き・胴丸の類いの胴先に附けてフィットさせるための帯。紐や布帯を用いる。なお、平胡簶(ひらやなぐい)や箙を固定するのに用いる紐のこともかくいう。私には両用の効果を期待出来るように思われる。]

 

「敵追來らば返合(かへしあはせ)て戰はん、さらずは三浦へ通らん」とて馬を早めて行程に、八松が原・稻村崎・腰越が浦・由井の濱をも打過て、小坪坂を上らんとしける時に、畠山は本田・半澤に云けるは、「三浦の輩(ともがら)にさせる意趣なし、去共加樣(されどもかやう)に詞(ことば)を懸らるゝ上に、父の庄司、伯父の別當、平家に奉公して在京なり、矢一(ひとつ)射ずは平家の聞えも恐(おそれ)あり。和田が詞(ことば)も咎めたし、打立(うつたて)者共」と知下しければ、成淸は、「仰旨透間(おほせのむねすきま)なし、急げ殿原」とて、五百餘騎物の具かため馬にのり、「打(うて)や早め」とて追ければ、同(おなじく)小坪の坂口にて追付たり。畠山進出て、「重忠爰に馳來れり。いかに三浦の殿原は、口には似ず敵に後をばみせ給ぞ、返合(かへしあは)せよ」と訇(ののし)り懸て歩せ出づ。三浦三百餘騎、畠山に懸られて、小坪の峠に打上り、轡並て引(ひか)へたり。小太郎伯父の別當に云けるは、「其には東地に懸りて、あぶずりに垣楯(かいだて)かきて待給へ。かしこは究竟の小城なり、敵左右なく寄(よせ)がたし。義盛は平(ひら)に下て戰はんに、敵よはらば兩方より差はさみ、中に取寵て畠山をうたんにいと安し。若(もし)又御方弱らば義盛もあぶずりに引寵て、一所にて軍(いくさ)せん」と云(いふ)。別當、「然べき」とて、百騎を引分て後(うしろ)のあぶずりに陣を取て、左右をみる。畠山次郎は五百餘騎にて由井濱、稻瀨河の耳(はた)に陣を取て、赤旗天に輝けり。和田小太郎は白旗さゝせて二百餘騎、小坪の峠より打下り、「進め者共」とて渚へ向て歩せ出す。

[■やぶちゃん注:

・「本田」本田次郎近常(?~元久二(一二〇五)年)。畠山重忠の重臣。後、北條時政の謀略であった畠山重忠の乱の際、重忠とともに二俣川で討死にした。

・「半澤」重忠の郎党で武蔵七党の一つである丹党(秩父から飯能に一帯を活動拠点とした。平安時代に関東に下った丹治氏の子孫と称する)の榛澤成清(?~元久二(一二〇五)年)。

・「父の庄司」畠山重能(しげよし 生没年未詳)。桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族にして畠山氏始祖。当時は番役として京都にあった。鎌倉幕府成立後は表舞台から姿を消すものの存命であった。

・「伯父の別當」小山田有重。重能の弟で当時は兄とともに同じく大番役として在京していた。幕府成立後は頼朝に帰属し、元暦元(一一八四年)年六月に起こった頼朝による甲斐源氏武田信義嫡男一条忠頼の謀殺事件の共犯者の一人でもある。

・「透間なし」異論を挿む余地が全くない。

・「平」海浜の平地。]

 

爰に畠山、横山黨に彌太郎と云(いふ)者を使にて和田小太郎が許へ云けるは、「日比(ひごろ)三浦の人々に意趣なき上は是まで馳來(はせきたる)べきにあらず。但(ただし)父の庄司、伯父の別當、平家に當參して六波羅に伺候(しこうす)。而(しかる)を各(おのおの)源氏の謀叛に與して軍(いくさ)を興し、陣に音信(おとづれ)て通(とほり)給ふ。重忠無音ならば後勘其恐(そのおそれ)あり。又伯父・親が返りきかんも憚あれば、馳向ひ奉るばかり也。御渡(わたり)を可ㇾ奉ㇾ俟歟(まちたてまつるべきか)、又可參中か」と、牒の使を立(たて)たりけり。和田小太郎は、藤平實國を使に副(そへ)て返事しけるは、「御使の申狀委(くはし)く承りぬ。畠山殿は三浦大介には正(まさし)き婿、和田殿は大介には孫に御座(おはす)。但不ㇾ成(なさぬ)中と申さんからに、母方の祖父に向て弓引給はん事、いかゞ侍るべき。又謀叛人に與する由(よしの)事、いまだ存知給はずや、平家の一門を追討して天下の亂逆を鎭(しづむ)べき由、院宣を兵衞佐殿に下さるゝ間、三浦の一門勅定の趣と云ひ主君の催(もよほし)と云ひ、命に隨(したがふ)處なり。若(もし)敵對し給はゞ後悔いかゞ有べき。能々(よくよく)思慮を廻さるべきをや」と云たりければ、畠山が乳母子に半澤六郎成淸、和田小太郎が前に下塞(おりふさがり)て云けるは、「三浦と父秩(ちちぶ)と申せば一體の事也。兩方源平の奉公は、世に隨ふ一旦の法也。佐殿いまだ討れ給はずと承る。世に立給はゞ、畠山殿も本田・半澤召具して定て源氏へ被ㇾ參べき。平氏世に立給はゞ、三浦殿も必御參あるべし。是非の落居を知ずして私軍(わたくしいくさ)其(その)詮なし。兩陣引退かせ給はゞ、公平たるべき歟」と云ければ、「半澤が角云(かくいふ)は畠山が云にこそ、人の穩便を存ぜんに勝に乘(のる)に及ばず」とて、和田小太郎は小坪の峠に引返す。

[■やぶちゃん注:

・「横山黨に彌太郎」「横山黨」は武蔵七党の一つで、多摩郡横山庄(現在の東京都八王子市付近)を拠点として大里郡(現在の埼玉県北部の熊谷市・深谷市とその周辺地域)及び比企郡から橘樹(たちばな)郡(現在の神奈川県川崎市市域相当)にかけての武蔵国さらには相模国高座郡(神奈川県の相模川左岸一帯)にまで勢力を持った武士団で武蔵七党中筆頭とされる。「彌太郎」は不詳。

・「無音」通行する際に、堂々と名乗りを挙げて挑発行為を行った和田義盛ら一行に対し、それに武士として相応の応じ方(攻撃)を行わないこと。

・「牒」は「てふ(ちょう)」で、通告文書のこと。

・「藤平實國」後文では「實光」とも出るが不詳。孰れの名も「吾妻鏡」には同定出来そうな人物は見当たらない。

・「畠山殿は三浦大介には正き婿」「三浦大介」当代三浦家当主三浦義明。この後、ここに出る畠山重忠率いる平家方軍勢と衣笠城で合戦となり、一族を安房に逃した後、独り城を守って戦死した。享年八十九歳であった。畠山重忠の母は義明の娘で、義明からは重忠は外孫に当たる。

・「三浦と父秩と申せば一體の事」。三浦氏は鎮守府将軍で桓武平氏の平良文を祖とし、支流畠山氏の元である秩父氏は武蔵国秩父郡を発祥とする武家で本姓平氏で、やはり平良文の孫平将恒を祖とする秩父平氏の宗家であった。

・「是非の落居を知ずして」今、向後、源平の孰れに与(くみ)することが結果としては良いか悪いかという判断がつかないという状況下に於いて。

・「人の穩便を存ぜんに勝に乘に及ばず」対する相手が合戦を望まず、穏便にことを済ませようとしているのに、殊更に血気に早やって戦いに及ぶまでのことはない。――ここで一見、戦闘は回避されたかのように見え、「風俗画報」は尺が長くなるのを嫌ってか、後の「小坪合戦」の事実を全くカットしてしてしまったのである。]

 

軍(いくさ)既に和平して各(おのおの)歸らんとする處に、和田小次郎義茂が許へ、兄の小大郎(こたろう)人を馳て、「小坪に軍(いくさ)始れり、急ぎ馳(はせ)よ」と和平以前に云遣(いひやり)たりければ、小次郎はいさゝか小用ありて鎌倉に立寄たりけるが、是を聞、驚さわぎて馬に打乘り、犬懸坂を馳越て名越にて浦を見れば、四五百騎ガ程打圍て見えけり。小次郎片手矢はげて鞭をうつ。小大郎は小坪坂の上にて、「軍(いくさ)和平したれば畠山に不ㇾ可ㇾ向」ト云(いふ)心にて、手々に招けれ共、角(かく)とは爭(いかで)か知べきなれば、「急(いそげ)と云ぞ」と心得て、をめきてかく。畠山は、「軍(いくさ)和平しぬる上は」とて馬より下、稻瀬川に馬の足冷して休み居たりけるに、小次郎が馳(はする)を見て、「和平は搦手の廻るを待ケけるを。知ずしてはかられにけり。安からず」とて馬に打乘、小次郎に向テ散々に蒐(かく)。小次郎は主從八騎ニにて寄(よせ)つ返(かへし)つ寄つ返つ火出る程こそ戰けれ。敵六騎切落し、五騎に手負せて暫(しばらく)休けるを、小大郎は、「小次郎うたすな。始に手をひらきて招けば知ざるにこそ。大なる物にて招(まねけ)」とて、四五十人手々に唐笠にて招けるを、彌深入して戰へと云(いふ)にこそと心得て、暫(しばらく)氣をやすめ、又馳入でぞ戰ける。

[■やぶちゃん注:この誤認がせずとも済んだはずの小坪合戦が勃発してしまう契機のシークエンスである。

・「和田小次郎義茂」義盛の弟であるが生没年未詳。底本の頭注には、『吾妻鏡によると弓術の達者で、頼朝の側近として活躍する』とあり、調べてみると開幕後の寿永元(一一八二)年十二月七日の深夜の頼朝鶴岡参拝(偶然ながらここは、頼朝が小坪に密かに囲っていた亀の前の幕府某重大事件のただ中のことであるから、如何にも深夜の参詣は怪しい)に従っているのが最後で、後は和田合戦の条に彼の息子長茂の名が出るのみである。

・「犬懸坂」犬懸ヶ谷(いぬかけがやつ:現在の鎌倉市浄明寺)の南直近の釈迦堂ヶ谷の尾根を越えて名越切通へと通じていた古道(現在は寸断されて廃道)であろう。]

 

「今は叶はじ、小次郎うたすな、つゞけ者共」とて、和田小大郎二百餘騎にて小坪坂を打下り、河を隔て引へたり。小大郎、藤平に間けるは、「義盛は楯突(たてつき)の軍(いくさ)には度々あひたれ共馬の上は未ㇾ知、いかゞ有べき」といへば、「實光今年五十八、軍(いくさ)にあふ事十九度也。軍は尤(もつとも)故實に依べし。馬も人も弓手に合(あふ)事なり。打とけ弓を不ㇾ可ㇾ引、開聞を守てためらふべし。我内甲をば惜(をしむ)べし。矢をはげたり共あだやを射じと資べし。敵一の矢を放てひきあはせ二の矢いんとて打上たらんまつかふ内甲・頸のまはり・鎧の引合(ひきあはせ)、すきまを守て射給べし。矢一放ては急ぎ二の矢を番(つがひ)て人のあきまを守給へ。敵も角(かく)こそ思ふらめなれば、透間(すきま)を資て常に冑突(よろひづき)し給ふべし。昔は馬を射(いる)事候はず、近年は敵の透間なければまづ馬の太腹を射て、主を駻(はね)落して立あがらんとする處を御物射にもする侯。敵一人をあまたして射事有べからず、箭だうなに相引(あひびき)して誤(あやまち)すな。敵手繁くよするならば樣あるまじ、押並て組て落(おち)、腰刀にて勝負をし給へ」とぞ教たる。去(さり)ければ、敵は引詰引詰散々に射けれ共、或は上り或は下る。自(おのづから)あたる矢も透間(すきま)をいねば大事なし。三浦は實光が云(いふ)に任て、敵の二の箭いんとて打上るすきまを守て、差つめ差つめ射ければ、あだや一も無りけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」は「小坪」とせず、「由井浦」としており(後掲)、由比ヶ浜合戦の方が相応しいと私は思っている(実際にそうも呼称する)。

・「河を隔て引へたり」この河は滑川と稲瀬川であろう。前後に川を配しては不利だからである。畠山方が稲瀬川河口から現在の坂ノ下海岸へに、義盛は戻って滑川河口の逗子寄りの材木座海岸に布陣したものと考えられる。

・「打とけ」気を許し、油断をする。ここは容易に軽々しくの謂い。

・「開間」鎧兜の接合部や可動部などの僅かな未防備の透間。

・「ためらふべし」これは実際にうろつく、彷徨うの意と採る。後にも出るが、すぐ前にある、武具の開間を狙われないように守るためには、常に体を動かして矢の狙いを定め難くすることが大事だからである。

・「内甲」視野を確保するためには防備し難い急所である甲の真甲の上辺の直下、額及び眉間の部分。

・「はげたり」「はげ」は「矧(は)ぐ」で弓に矢をつがえることをいう。

・「資べし」「たすくべし」「たのむべし」と読むか。前者なら射損ずるまいと心に念じて矢を確実にターゲットに導くように常に心懸けるようになされよ、後者なら無駄な矢を決して射るまいということだけを頼みとするに徹底なされよ、の謂いとなる。

・「敵一の矢を放てひきあはせ二の矢いんとて打上たらんまつかふ内甲・頸のまはり・鎧の引合(ひきあはせ)、すきまを守て射給べし」なかなか面白い極意である。

――敵が一の矢を放った瞬間からそれが標的に当たったかどうかを確かめ、次の二の矢を射るためにこちらを索敵してつがえるまでの僅かな時間、つい、己が放った矢の行方を見届けんがために気を許し、さらに次はどれを狙ってやろうかと品定めをする、その上向きになった防備の油断を見切って、内兜の真甲の空隙の額部分・鎧胴と兜の錣(しころ)の頸の可動部分の遮蔽されていない僅かな素膚・鎧胴を前後で引き合わせた脇の隙間なんどを、すかさず狙って射遊ばされるがよい。――

・「冑突」鎧付き・鎧築きなどとも書く。矢の立つ透間を相手からなるべく見え難くするために、鎧をを搖すり上げること。

・「御物射」「おものい」「おんものい」と読み、「追物射」(おふものい)が転化した語。「追物射」は元来は競射の一種で円い馬場に犬や小牛などを放して騎馬で射る遊び。ここでは馬上から徒歩の敵を追い詰めて射殺すこと。

・「箭だうな」「箭」(音セン)は矢の意(狭義には矢の幹・矢柄若しくはその素材たる矢竹・篠竹)で、ここは実際「や」と私は読みたい。「だうな」は小学館の「日本国語大辞典」でやっと見つけた。これ自体は語素で接尾語的に他の語(一般的には物品である名詞であろう)に附けて用い、その対象物を無益に浪費することや総てそれらが無駄になることの意である。従ってここは矢をむやみやたらに無駄に使ってしまうことを指す。

・「引詰引詰」差し詰め引き詰め。多くの矢を次から次へと手早く弦につがえるさま、次々にそれらを射るさま。

・「あだや」徒矢。標的を射損なった矢。無駄な矢。]

 

去(さる)程にあぶずりの城固(かため)たる三浦別當義澄、「爰にて待(まつ)も心苦し。小坪の戰きびしげなり。つゞけ者共」とて、道は狹し、二騎三騎づゝ打下けるが遙に續て見えければ、畠山是を見て、「三浦の勢計(ばかり)にはなかりけり、一定安房・上總・下總の勢が一に成(なる)と覺たり。大勢に被取籠なばゆゝしき大事、いざや落なん」とて、五騎十騎引つれ落行けり。三浦勝に乘て散々に是を射(いる)。爰に武藏國住人綴黨の大將に、太郎・五郎とて兄弟二人あり。共に大力也けるが、太郎は八十人が力あり。東國無雙の相撲の上手、四十八の取手に暗からずと聞ゆ。大將軍畠山に向て云けるは、「和田に蒐(かけ)られて御方負色に見ゆ。思切(おもひきる)郎等のなければこそ、軍(いきさ)は緩(ゆる)なれ。和田小次郎討捕て見參にいれん」と云捨て、肌には白帷(かたびら)に脇搔(かき)、白き合(あはせ)の小袖一重(かさね)、木蘭地の直垂に赤皮威鎧に白星の甲を著、廿四差たる黑づ羽(は)の箙、四尺六寸の太刀に熊の皮の尻ざや入てぞ帶(はき)たりける。滋藤の弓の眞申とり、烏黑なる大馬に金覆輪の鞍にぞ乘たりける。和田小次郎は陣に打勝て、弓枝つき波打際に引へたり。綴太郎近(ちかく)歩せよす。小次郎是を見て、「和君は誰そ」と問(とふ)。「武藏國住人錣太郎と云(いふ)老也。畠山殿の一の郎等」と名乘(なのる)。小次郎は、「和君が主人畠山とこそくまんずれ、思(おもひ)もよらず。義茂にはあはぬ敵ぞ、引退(ひきしりぞけ)」と云へば、綴云けるは、「まさなき殿の詞かな。源平世にはじまりて公私に付て勢を合(あは)する時、郎等大將に組(くむ)事なくは、何事にか軍あるあるべき。さらば受て見給へ」とて、大の中差取て番(つが)ひ、近づき寄ければ、射られぬべく覺て、綴をたばかりて云樣、「詞(ことば)の程こそ尋常なれ、恥ある敵を遠矢に射(いる)事なし。寄て組(くめ)、腰の刀ニにて勝負せよ」とぞ云ける。綴、「然べき」とて、弓箭をば抛棄て歩せよせ、推並て引組で、馬より下へどうど落(おつ)。綴は大力なれば落たれ共(ども)ゆらり立(たつ)。小次郎も藤のまとへるが如(ごとく)より付(つき)てこそ立直れ。綴大郎(たらう)は大力なる上に太く高き男にて、和田小次郎が勢の小(ちひさ)きかさに係りて、押付てうたんとしけり。和田は細く早かりければ、下をくゞりて綴を打倒して討んと思へり。勢の大小は有けれ共、力はいぞれも劣らず、相撲は共に上手也。綴は和田が冑(よろひ)の表帶(うはおび)引寄て内搦(うちがらみ)に懸つめて、甲のしころを傾て十四五、廿ぞはねたりける。和田、綴に骨をおらせて其後勝負と思ければ、勝に付てぞ廻ける。綴内搦(うちがらみ)をさしはづし、大渡に渡して駻(はね)けれ共、小次郎はたらかず。大渡を曳直(ひきなほし)、外搦ニ懸(かけ)、渚にむけて十四五度曳(えい)々と推(おせ)ども雄どもまろばざりけり。今は敵骨は折ぬらんと思ければ、和田は綴は表帶(うはおび)取て引よせ、内搦にかけ詰て、甲のしころを地に付て渚へむけて曳音(えいごゑ)出してはねたりけり。綴、骨は折ぬ、強はかけてはねたれば、岩の高(たかき)にはね懸られてがはと倒る。はねかへさんはねかへさんとしけれ共、弓手のかいなを踏付て、甲のてへんに手を入、亂髮を引仰(ひきあふのけ)て頸を掻落す。首をば岩上(いはのうへ)に置、綴が身に尻打懸て、沖より寄來る浪に足をひやし息を休めて居たりけるが、敵定て落逢んずらんと思ければ、綴が首をしをでの板にゆい付て、馬に打乘弓枝つき、「敵落合」とぞ呼ける。

[■やぶちゃん注:和田義茂と錣太郎の死闘。

・「三浦の勢計にはなかりけり、一定安房・上總・下總の勢が一に成(なる)と覺たり。大勢に被二取籠一なばゆゝしき大事、いざや落なん」ここは今度は逆に畠山氏側の戦時下の混乱状況下における過剰反応による事実誤認である。但し、後掲する「吾妻鏡」に見るようにこの前後に実質上の上総の総支配者であった上総介広常の弟で上総国長柄郡金田郷(現在の木更津市金田)在の小大夫(こだゆう)頼次が義澄の軍に参戦している。

・「綴黨」都筑党(つづきとう)に同じい。武蔵国都筑郡を本拠地とし、数え方によっては武蔵七党の内に数える同族武士集団。利仁流藤原姓で齋藤氏の同族。由比ヶ浜合戦では以下に見るようにこの錣党から多くの犠牲者を出した。

・「白帷に脇搔」底本注に、『左右の脇を縫わずにあけてある生絹ないし麻製のひとえの下着。戦場の武者の装いの描写を下着から始めるのは尋常ではない。「思い切る郎等」に相応しい最後の装束という意識によるものか』と述べておられ、注の視点が頗る鋭い。

・「木蘭地」「もくらんぢ(もくらんじ)」と読み、衣類の生地の地色。梅谷渋(うめやしぶ)に明礬を混ぜて染めた狩衣・直垂などの地。赤みのある黄色を帯びた茶。「もくれんじ」「むくらんじ」などとも読む。

・「白星」兜の鋲(「星」と呼ぶ)に銀を被せたもの。

・「黑づ羽の箙」不詳。「の箙」とある以上、これは箙に差した矢羽の色ではなく、箙自体の装飾であろう。

・「四尺六寸」約一メートル三十九センチ。

・「恥あり」名誉や面目を重んじる。

・「藤のまとへるが如より付て」後述されるように義茂は錣太郎に比して遙かに細身(背も有意に低い)であったために、彼と組んづ解れつといった体(てい)にあっては、錣の身体に纏わりついた藤の蔓のような感じで、自然体勢を立て直したという謂いであろうか。

・「内搦」不詳。底本注には『相撲の手のひとつ。繋技のひとつうちつなぎか』とあるが、内掛けのような技か。以下、それを錣は義茂に二十回もかけて(というか、その状態のままで)倒そうとしたが、まさに藤蔓のように錣腰に取り付いた義茂はいっかな倒されなかったということらしい。菅江真澄の「ふでのまにまに」には「繋捕十二手あり」の筆頭に「内繋」とある。

・「大渡」底本注には『相撲の手のひとつ。繋技のひとつ渡繋にあたるか。古今相撲大全に「のこらぬ手」とある』とする。菅江真澄の「ふでのまにまに」には「繋捕十二手あり」の中に「渡繋」とある。

・「はたらかず」動かない。

・「外搦」底本注には『相撲の手のひとつ。繋技のひとつ外繋か。』とする。菅江真澄の「ふでのまにまに」には「繋捕十二手あり」の「内繫」の次に「外繋」とある。外掛けのような技か。

・「はかけてはねたれば」底本注には『繋技のひとつ拮繋(はねかけ)を打ったか。』とあるが、どのような技か不明。ともかくもその技をしかけたのは義茂の方である。

・「岩」渚の岩礁である。

・「甲のてへん」「てへん」は「てっぺん」の語源である「天辺」「頂辺」。兜の鉢の頂上の所を指し、本邦の兜の場合はこの部分に丸い穴が開いており、頂辺の座または八幡座という金物で飾ってあった。

・「落逢んずらん」(錣太郎の首をとった上は報復のために敵が)来合わすに違いない。

・「しをで」「四緒手」「四方手」「鞖」。馬具の名称で、鞍の前輪(まえわ)と後輪(しずわ)の左右の四か所に附けた金物の輪を入れた羂(わな)。胸繋(鞅:むながい。鞍橋(くらぼね)を固定するために馬の胸から鞍橋の前輪の四緒手にかけて取り回す緒。胸懸け。)・尻繋(鞦:しりがい。同じく鞍を固定するために馬の尾の下から後輪の四緒手に繋げる緒。)を留めるためのもの。

 

綴五郎兄を討してをめきて蒐(かく)。小次郎は、「和君は綴が弟の五郎にや、兄が敵とて義茂にくまんと思て懸るか。汝が兄の太郎は東國第一の力(ちから)人、それに組て被取損(とりそんぜられ)たれば今は力なし。とくとく寄て義茂が頸とれ」とぞ云ける。五郎まのあたり見つることなれば實(まこと)と思(おもひ)、押並てひたと組(くみ)、馬より下へ落(おつ)。いかがはしたりけん、五郎下になり、是も頸をぞ捕られにける。角(かく)て岩に尻懸(かけ)、浪に足うたせて休處に、綴小太郎、父と伯父を被ㇾ討て、三段計(ばかり)に歩せ寄(よせ)、大の中差取て番(つがひ)、差當(さしあて)、兵(ひやう)と射(いる)。冑(よろひ)の胸板に中(あたり)て躍り返る。小次郎は射向の袖を振合(ふりあはせ)、しころを傾(かたぶけ)、苦しげなる音(こゑ)して云けるは、「やゝ綴小太郎よ、親の敵をば手取(てどり)にこそすれ。而(しかる)に親の敵也、人手にかくな。落合(おちあへ)かし、近くよらぬは恐しきか。和君が弓勢として而(しか)も遠矢にては、義茂が冑ばよもとをさじ物を。但義茂は昨日一昨日より際(ひま)なく馳(はせ)あるき兵糧もつかはず、大事の敵にはあまた合ぬ、既に疲(つかれ)に臨で覺れば力なし。父が敵なればさこそ汝も思らめ、人にとられんよりは寄て首を切(きれ)、延(のべ)て斬せん」と云ければ、小太郎まこと㒵(がほ)に悦つ、馬より飛下、太刀を拔て走懸り、小次郎が甲の鉢を丁と打(うつ)。一打うたせてつと立あがり、取て引よせ懷(いだき)ふせ、てへんに手を入て頸を切る。三の首を二をば取付につけ、一を太刀のさきに貫て、馬に乘(のり)、指擧(さしあげ)つ、名乘けるは、「只今畠山が陣の前んて敵三騎討捕て歸る剛(かうの)者をば誰とか思ふ。音にも聞(きく)らん、目にも見よ。桓武天皇の苗裔高望王より十一代、王氏を出て遠からず、三浦大介義明が孫和田小次郎義茂、生年十七歳。我と思はん者は大將も郎等も寄て組(くめ)」とぞ呼ける。畠山は小坪の軍に綴太郎・五郎・同小大郎(こたろう)・河口次郎大夫・秋岡四郎等を始として三十餘人討れぬ。手負は五十餘人也。三浦には多々良大郎(たろう)、同次郎、々等二人、纔に四人ぞ討れける。

[■やぶちゃん注:和田義茂と錣太郎の弟五郎及び太郎の子小太郎の死闘。

・「被取損たれば」底本注に『痛めつけられたので。』とある。

・「三段」「段」は「反」と同じで、「きだ」「きた」とも読む。布などの長さを計る単位で一段(きだ)は一丈三尺(約三メートル九十四センチ)であるから、十二メートル弱か。

・「中差」当時、箙に矢を盛る際には上差しの矢といって征矢とは異なる鏑矢などの様式の違う特別な矢を添えるのを礼儀とした。ここは単に実戦用の征矢のことを指している。

・「射向の袖」「いむけのそで」と読む。鎧の胴の左右に垂下して肩から上腕部を防御する楯状の部品である大袖(おおそで)の左腕のそれを指す。胴と同様に小札(こざね)で作られ、通常六段の小札を使用するが、鎌倉時代には七段となった。飛来する矢を防ぐため、後世の袖に比べ大きい。右の袖は馬手(めて)の袖と呼び、弓を射る際に敵対する左の袖の方をより堅牢に作ってある(ウィキの「大鎧」に拠った)。

・「てへんに手を入て頸を切る」底本注に、錣小太郎の兜の鉢の頂辺(てへん)の穴に手をかけて、顔を仰向けにさせて頸部を切ったのであるとある。

・「取付」先に出たが、この名称によって二つの首を下げたのは鞍の後輪(しずわ)につけた鞖(しおで)であることが分かる。

・「桓武天皇の苗裔高望王より十一代」底本注には、『三浦系図に異同があり、確かめがたい』とある。

・「三十餘人討れぬ」「吾妻鏡」の治承四(一一八〇)年八月二十四日の条の末には、

〇原文

三浦輩出城來于丸子河邊。自去夜相待曉天。欲參向之處。合戰已敗北之間。慮外馳歸。於其路次由井浦。与畠山次郎重忠。數尅挑戰。多々良三郎重春幷郎從石井五郎等殞命。又重忠郎從五十餘輩梟首之間。重忠退去。義澄以下又歸三浦。此間。上總權介廣常弟金田小大夫賴次率七十餘騎加義澄云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

三浦の輩、城を出で、丸子(まりこ)河邊に來り、去ぬる夜より曉天を相ひ待ち、參向せんと欲するの處、合戰已に敗北するの間、慮外に馳せ歸る。其の路次(ろし)に由井(ゆゐ)の浦に於いて、畠山次郎重忠と數尅(すこく)、挑(いど)み戰ひ、多々良三郎重春幷びに郎從石井五郎等、命を殞(おと)す。又、重忠の郎從五十餘輩、梟首(けうしゆ)せらるるの間、重忠、退去す。義澄以下、又、三浦へ歸る。此の間、上総權介廣常弟金田小大夫賴次、七十餘騎を率いて義澄に加はると云々。

とあって戦死者の数が多く、記載された人名にも齟齬がある。「丸子河」は現在の神奈川県小田原市の東を流れる酒匂川の古称。]

 

畠山は郎等多く討れて、敵にくまんと招れて安からず思ければ、畠山は、「重忠くまん」とて打出けり。紺地の錦の直垂に火威の冑に蝶のすそ金物をぞ打たりける。白星の甲に廿四差たる※羽のやなぐひ筈上に取てつけ、紅のほろ懸(かけ)、薄綠と云(いふ)大刀の三尺五寸なるに虎皮の尻鞠入てぞ帶たりける[やぶちゃん字注:「※」=「吉」(へん)+「鳥」(つくり)。]。泥葦毛の馬に、中は金覆輪耳(はた)は白覆輪の鞍を置(おき)、燃立(たつ)ばかりの厚總(あつぶさ)の鞦かけ、武藏鎧に重藤の眞中取て歩せ出づ。本田・半澤左右にすゝむ。名乘けるは、「同流の高望王の後胤秩父十郎重弘が三代の孫畠山庄司次郎重忠、童名氏王、同年十七歳、軍(いくさ)は今日ぞ始(はじめ)。高名したりと訇(ののし)る和田小次郎に見參せん」とて進出(すすみいづ)。本田次郎、中に隔りてくつばみ押へ云けるは、「命を捨るも由による。宿世親子の敵に非ず、只平家に聞えん計(ばかり)、一問にこそ侍れ。就ㇾ中三浦は上下皆一門也。秀(ひいづる)を大將とし、成ㇾ後(しりへなる)を郎等・乘替に仕ふ。されば一人當千の兵にて、親死(しに)子死(しぬれ)ども是を顧ず、乘越乘越面を振ず、後を見せじと名を惜む。御方の勢と申は黨の驅武者、一人死すれば、其親しき者共よきに付(つけ)とて引つれ引つれ落れば、如何なる大事あり共君の御命に替る者候はじ。成淸・近恆ぞ矢さきにも塞るべけれ共、是は公軍(おほやけいくさ)なり。只引返し給へ」と云けれ共、小次郎に組んで死なんとて打寄ければ、和田は度々の軍に身をためしたる武者にて、畠山矢ごろにならば唯一矢にと志(こころざし)、中差取て番(つがひ)、相待(あひまつ)。ほど近くなりければ能引(よつぴき)て放つ。畠山が乘たる馬の當胸盡(むながひづくし)より鞦の組違へ、矢さき白く射出す。馬は屛風をかへすが如(ごとく)臥ければ、主は則(すなはち)下立(おりたち)けり。成淸馬より飛下て主を懷(いだ)き上て我馬に乘す。弓取はよき郎等を持(もつ)べかりけり。半澤なかりせばあぶなかりける畠山なり。成淸歩(かち)武者に成て間にへだゝる。小次郎は太刀を額にあて、進寄(すすみよる)。畠山同太刀を額にあてゝ、小次郎を待(まつ)處。三浦介の手より、「小次郎は骨を折ぬと覺ゆ、討すな者共」とて、兄の小太郎義盛・佐原十郎義連・大黨三郎・舞岡兵衞を始として十三騎、太刀をぬき打て向ひければ、畠山も討るべかりけるを、本田・半澤中に阻(へだた)り、「以前に如ㇾ申大形(おほかた)も御一門、近(ちかく)は三浦大介殿は祖父、畠山殿は孫に御座(おは)す、離れぬ御中なり。指たる意趣なし、我執なし。私の合戰共詮なく覺ゆ。本田・半澤に芳心ありて御馬を返し給へ」と云ければ、和田是を聞(きき)、「郎等の降を乞は主人の云にこそ、今は引け」とて、和田は三浦へ歸ければ、畠山は武藏へ返りけり。さてこそ右大將家の侍に座を定られけるには、左座の一﨟は畠山、右座の一﨟は三浦、中座の一﨟は梶原と定りける時は、「畠山は三浦の和田に向て降乞(こひ)たりし者なり。左座無ㇾ謂(いはれなし)」と云けるを、「重忠全く不存知。弓矢とる身の命を惜み敵に降乞(こふ)事や有べき、若(もし)郎等共が中に云事の有けるか。返々(かへすがへす)奇怪也」とぞ陳じける。

[■やぶちゃん注:由比の浦合戦のエンディングと後日譚。ここで「源平盛衰記」の第二十一巻は終わっている。

・「※羽のやなぐひ筈上に取てつけ」底本注には、「※」は『鵠(くくい)の誤りかとし、白鳥又は鸛(こうのとり)の羽根を矢羽に附けた矢が高く抜きん出て見えるように矢を盛った箙を腰に附けて、という意味であると記す。筈上は「はづだか(はずだか)」と読み、本来は「筈」は矢の端の弓の弦に番える切り込みのある部分である矢筈(やはず)を指す(弓の両端・弓弭(ゆはず)の呼称でもある)が、「筈高」で箙に入れて背負った矢の矢筈が高く現れて見えること。また、そのように背負うさまを指す語である。

・「薄綠」底本注に『「平治物語」巻上「源氏勢汰への事」では義朝の次男朝長の帯びていた太刀の名も薄緑。剣巻では源氏重代の剣で所持者を強運に導く霊力をもつものとして薄緑の伝来と命名の由来について記す。武家名目抄巻七参照。』とある。しかし、何故それが畠山家に伝わっているのかまでは記さない。

・「泥葦毛」葦毛(栗毛・青毛・鹿毛(かげ)の毛色に加齢によって白い毛が交ったもの)の馬の腹や足の部分に黒のサシ毛のある毛色のこと。

・「中は金覆輪耳は白覆輪の鞍」底本注に、鞍の前輪と後輪(しずわ)の山型の部分に金の覆輪をし、末端の詰めの部分に銀の覆輪をしたものか、と記す。

・「燃立ばかりの厚總の鞦」底本注に、『真紅の厚編みのふさをつけたしりがい』とある。

・「武藏鐙」武蔵国豊島郡で製された鐙。鋂(くさり:兵具鎖。長円形の鐶(かん)を交互に通して折り返して繋いだ鎖。多くは太刀の帯取りに用いた。俗に兵庫鎖(ひょうごぐさり)ともいった。)を用いずに透かしを入れた鉄板にして先端に刺鉄(さすが)をつけ、直接に鉸具(かこ:鐙の頭部にある革緒を通す刺鉄を受け留める鉄輪。蛸頭(たこがしら)。)としたもの(なお、鐙の端に刺鉄を作りつけにするところから、和歌では「さすが」に、また、鐙は踏むところから「踏む」「文(ふみ)」に掛けて用いられる)。

・「三浦は上下皆一門也」三浦に属する者どもは地位の高いものから下々の者まで皆悉く、血縁関係にある。

・「成後(しりへなる)」力量や知力の劣る者。

・「乘替」戦場等に於いて乗換用の馬を預かる侍。

・「黨の驅武者」畠山の軍勢は錣や横山・丹といった武蔵七党などの他の武士集団を駆り集めたに過ぎないことを指す。

・「其親しき者共よきに付とて引つれ引つれ落れば」参加していた同族の者どもは、それ(仲間の死)をこれ幸いと、正当な口実にして次々と戦線を離脱してしまうので。

・「公軍(おほやけいくさ)」勅状(実質上は平家)で命ぜられた義務上の戦闘行為。

・「當胸盡(むながひづくし)」鞍橋(くらぼね)を固定するために馬の胸に回してある鞅(胸繁:むながい)の緒の胸の正面に当たる部分。

・「鞦の組違へ」の「組違へ」は「くみちがひへ」と読んでいよう。鞦(しりがい)の馬の尾にかけて交差して結ばれた箇所。

・「矢さき白く射出す」底本注に『矢さきが突きぬけて脂が付着しているのである』とある。まさに人間でいえば首の正面根本から背部に向けて斜め後方に矢が貫き、尾骶骨の少し手前へ鏃が突き出ている恐るべき格好になる。

・「芳心」他人(ここは無論、和田義盛)を敬ってその親切な心をいう語。御芳志。御芳情。

・「降」負けて従うこと。降伏。由比の浦(小坪)合戦は既にして畠山の敗北と認(したた)められてある。

・「右大將家の侍に座を定られけるに」大倉幕府にあって頼朝が簾中に伺候する御家人の侍の座順を定めた際に。

・「畠山重忠と和田義盛が常に席次筆頭に並んで対等に位置したことを、義盛に降伏した畠山ふぜいが対等にしかも左に座すと申すは合点がゆかぬ、と揶揄したというのだが、実際の直前の場面があって、その事実(家来が敗北を認め主人の命乞いをしたこと)を知っているのは和田義盛であろうが、どうも義盛の台詞とすると義盛の人柄が如何にも厭らしくさもしい印象を与えてしまう。ここは私はあの奸臣で中の座にあった梶原景時が厭味たらしく重忠に投げ掛けた皮肉ととりたい。]

 

 以上で「源平盛衰記」の引用を終了する。

 

 次の「吾妻鏡」の建久四(一一九三)年七月十日の条の引用であるが、後半部に誤植が多く認められる(ママとした)。以下に原文と書き下し文を示す。

〇原文

十日甲戌。属海濱凉風。將軍家出小坪邊給。長江大多和輩搆假屋於潟奉入。献盃酒垸飯。又漁人垂釣。壯士射的。毎事荷感。乘興盡秋日娯遊。及黄昏還御云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十日甲戌。海濱、凉風に属しす。將軍家、小坪の邊に出で給ふ。長江・大多和の輩、假屋を潟(ひかた)に搆へて入れ奉り、盃酒・垸飯(わうばん)を献ず。又、漁人は釣を垂れ、壯士、的を射る。毎事(ことごと)に荷感(かかん)、興に乘りて秋日娯遊を盡す。黄昏に及び還御すと云々。

「垸飯」は饗応の膳。「荷感」は感興を添えるという謂いであろう。

 

「元弘日記」三重県伊勢市にある臨済宗東福寺派光明寺に残る鎌倉末期の四篇からなる古文書。「軍中日記」とも呼び、これ自体は元弘(一三三一)年八~十月に結城宗広が記したとされる日記で水戸藩が編纂した「大日本史」に引用された(以上はウィキの「光明寺 (伊勢市)」に拠る)。その裏書にそれ以降の記録が追加して残されているものらしい。一応、掲げられた部分を自在勝手に書き下しておく。

 

「元弘日記」裏書に曰く、「延元二年九月、義良親王幷びに顯家、西征の義有りて、上州利根河・武州薊山・鎌倉小壺・杉本・前濵・腰越、合戰有り。官軍、皆、有利。」と。

 

「義良親王」は後醍醐天皇第七皇子で後の後村上天皇の初期の諱で義良(のりよし/のりなが)。後に憲良に改めた。ウィキの「畠山顕家」によれば、建武三(一三三六)年三月に顕家は権中納言に任官、蜂起した足利方を掃討するために再び奥州へ戻った。四月に相模で足利方の斯波家長の妨害を受けるがこれを破り、この延元二・建武四(一三三七年)には足利方に多賀城を攻略されるが、この時は顕家は国府を霊山(福島県相馬市および伊達市)に移していたため難を逃れる。同年九月、武蔵国児玉郡浅見山(別名・大久保山)周辺域(現埼玉県本庄市から児玉町一帯)で、薊山合戦を起こしている(『元弘日記』によればこの戦は官軍が皆有利とある)。この後に「鎌倉小壺・杉本・前濵・腰越」各所での小戦闘が展開したものらしい(「前濵」は鶴岡八幡宮の前の浜で由比ヶ浜のこと)。

 

「石上稱二郎」不詳。

「天明六年」西暦一七八六年。

「久世隱岐守廣譽」「ひろやす」と読む。下総関宿藩第五代藩主。

「文化八年」西暦一八八一年。

「松平肥後守容衆」「かたひろ」と読む。陸奥会津藩第七代藩主。

「文政四年」西暦一八二一年。

「松平大和守矩典」「とものり」と読むが、当代将軍徳川家斉から偏諱を受けて斉典(なりつね)と改名している。武蔵国川越藩第四代藩主。

「四五丈」約十二~十五メートル。

「靈山が崎」霊仙ヶ崎。]

杉田久女句集 48

夕闇の中に蟇這ふけはひかな

 

つれづれのわれに蟇這ふ小庭かな

 

晝灯すみ山燈籠やひきがへる

 

[やぶちゃん注:「山燈籠」とは「化け燈籠」ともいい、自然石を集めて石灯籠の形にしたもので鹿児島の庭園でよく見かけると「ことぶき造園設計」(鹿児島市吉野町)の公式サイトの解説ページにある。そこにある写真を見ると如何にも蟇蛙を配すに相応しいものであることが分かる。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十四年 風邪に臥す遠き機銃音とぎれ

 風邪

 

風邪に臥す遠き機銃音とぎれ

 

[やぶちゃん注:この一首、異様。この機銃音は実際の外界の音ではなく、多佳子が熱に魘されて見た夢の中の機銃音と詠むと私は腑に落ちるのである。もしかすると、四年前に上海・杭州を夫豊次郎と旅した際(前述したように抗日運動が盛んで身の危険を感ずるようなことがあった)の何かの記憶が夢の素材としてあったか? この句、西東三鬼の知られた「水枕ガバリと寒い海がある」(昭和十一(一九三六)年作)をインスパイアしたもののように私には詠める。]

稻妻   八木重吉

くらい よる、

ひとりで 稻妻をみた

そして いそいで ペンをとつた

わたしのうちにも

いなづまに似た ひらめきがあるとおもつたので、

しかし だめでした

わたしは たまらなく

齒をくひしばつて つつぷしてしまつた

鬼城句集 冬之部 枯藻

枯藻    水底に沈で枯るゝあさゝかな

[やぶちゃん注:「あさゝ」双子葉植物綱ナス目ミツガシワ科アサザ Nymphoides peltata。浮葉性植物で地下茎を延ばして生長する。スイレンに似た切れ込みのある浮葉をつける。夏から秋にかけて黄色の花を咲かせ、五枚ある花弁の周辺には細かい裂け目を多数有する。水路や小河川・池に生育し、浮葉植物であることから波浪が高い湖沼には通常は生息しない。池や水路の護岸工事や暗渠化・水質汚濁などによって各地で個体群が消滅・縮小している。「浅沙」「阿佐佐」などと漢字表記するから清音でもおかしくない(以上は主にウィキの「アサザ」に拠る)。因みに学名の属名“Nymphoides”(ニンフォイデス)は、ラテン語の「少女」「ニンフ(妖精)」の由来ではなく、ギリシャ語の“Nymphaea”(双子葉植物綱スイレン目スイレン科スイレン属Nymphaeaのヒツジグサ Nymphaea tetragona)+“eidos”(外観)の合成語が語源で本種がスイレン属のヒツジグサ(「ヒツジグサ」の由来は未の刻(午後二時)頃に花を咲かせることからとされるものの実際は朝から夕方まで花を咲かせている)に似ていることに因んだもので、種名の“peltata”は「楯状の」を意味している。別名、花蓴菜(はなじゅんさい)ともいう(この部分は個人ブログ「花々のよもやま話」のアサザ)」及びウィキの「ヒツジグサ」に拠った)。]

      長々と根を引き這うて枯藻かな

2014/02/08

本日終日臨時休業

本日は雪見酒――友人を招いての的矢の牡蠣三昧なれば一切の無礼講――心朽窩も終日臨時休業なればこそ悪しからず―― 心朽窩主人敬白

2014/02/07

篠原鳳作句集 昭和五(一九三〇)年十月

誘蛾灯門内深く灯りけり

 

[やぶちゃん注:前の「玉里邸」と前書する「誘蛾灯築地のすそに灯りたる」と同じ時と場所での嘱目吟であろう。]

 

葭の柄のうすうす靑き團扇かな

 

萍のほどなく泛子をとざしけり

 

[やぶちゃん注:「萍」は、狭義には単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科ウキクサ亜科ウキクサ Spirodela polyrhiza 若しくは別属のアオウキクサ属アオウキクサ Lemna aoukikusa ・アオウキクサ属コウキクサ Lemna minorアオウキクサ属イボウキクサ Lemna gibba などを一般に総称する。こうしたウキクサ類で浮遊しているのは葉と茎が融合した葉状体と呼ばれる部分で概ねどの種でも楕円形で、浮遊するために葉状体の内部にある気室と呼ばれる部分に空気を含んでいる。但し、ここでは水面に浮かぶ水草という意味の広義な一般名詞であろう(次注の最後を参照)。

 

「泛子」は「うき」(浮子)と読む。当初、これを「萍」を狭義のウキクサ類と思い込んで、『私は親しくウキクサ類を観察したことがないので、ウキクサが周日(?)現象を起こすものかどうかは知らない。但し、気孔を通じて気室から空気を出し入れするのであろうから、水面に吸着して(事実、ウキクサの裏面は吸着しやすい構造になっている)浮いた感じで盛り上がって見えたウキクサが、呼吸か光合成か若しくはもっと別な器質的な何らかの理由によって気孔から空気を押し出して(水中に垂れ下がった根には根帽(こんぼう)という少し膨らんだ錘もついている)少し、水面と平行にぺったり張り付いた感じになることはあるのであろう。そうした景を観察したのがこの句ではあるまいか?』なんどというトンデモ博物学をやらかしてしまったが、何のことはない、これは本物の釣の浮子である。浮子を隠してしまうほどの大きさであるのだから、この「萍」はやはりウキクサの類ではなく、もっと大型の例えば、双子葉植物綱フトモモ目ヒシ科ヒシ Trapa japonica であるとか(私は鹿児島の大隅半島の山の中の池で繁茂したヒシを幼少の時に見た)、単子葉植物綱ユリ目ミズアオイ科ホテイアオイ Eichhornia crassipes などの類であろう。]

 

傘燒に篠の雨とはなりにけり

 

[やぶちゃん注:十月発行『天の川』掲載句。前注した「曽我どんの傘焼き」の嘱目吟である。祭りが六月二十四日だったとすれば、四ヶ月も前の嘱目で通常の伝統俳句誌ならば、季違いで、違和感があろう。鳳作は前に掲げた傘焼きの句を同『天の川』の句会で詠んだり、同八月号にも投句しており、鳳作は余程この祭りが好きだったものらしい。同時に後に本格的な無季俳句に傾斜する彼はこうしたあえて初夏の景を秋に持ち出すという詠みっぷりの中にも既に示されているというべきであろう。]

 

濱木綿に籐椅子出してありにけり

 

うつしみの裸に焚ける門火かな

 

わらんべの裸にかかむ門火かな

 

[やぶちゃん注:「門火」は「かどび」で、盂蘭盆の死者の魂迎えと魂送りするために門前で焚く迎え火と送り火をいう。]

 

   水郷川内

芦の間に門火焚く屋のありにけり

 

[やぶちゃん注:「川内」「せんだい」と読む。現在の薩摩川内市。鹿児島県北西に位置する県内最大面積を持つ北薩地区の中心都市である。東は鹿児島県のやや北西部、鹿児島市の北西約四〇キロメートルに広がる川内平野のほぼ全域を市域とし、西は東シナ海に面している。本市の中心市街地は本土側市域の西部にあるが、海沿いではなく、海岸から一〇キロメートルほど内陸に入った場所にある。東市域を東西に流れる川内川は九州で筑後川に次いで二番目の流域面積を持つ一級河川であり、市域東部には二〇〇五年にラムサール条約指定湿地に登録された藺牟田池(いむたいけ:薩摩川内市祁答院町藺牟田にある直径約一キロメートルの火山湖で「藺牟田池の泥炭形成植物群落」として国指定史跡名勝天然記念物でもある。)がある(以上は主にウィキの「薩摩川内市に拠った)。]

 

新涼や再び靑き七變化

 

[やぶちゃん注:「新涼」は初秋の涼しさを指すから、「七變化」とは秋に向う山野の色の気配が瞬く間に複雑微妙に日々変化してゆくのを詠んだものであろうか。]

 

組みかけし稻架の蔭なる晝げ哉

 

一鉢の懸崖菊に風がこひ

 

[やぶちゃん注:「懸崖菊」は「けんがいぎく」で、菊を盆栽仕立てにして幹や茎が根よりも低く崖のように大きく長く垂れ下がらせて作ったものをいう。「こひ」は無論、「戀(恋)ひ」である。

 ここまでは十月の創作及び発表句。]

著者の孤獨  萩原朔太郎

       著者の孤獨

 

 著者は永久に孤獨である。なぜならば文學では、自分の眞に表現しようと思ふことが、いつも言葉の背後に取り殘され、永遠の負債として、無盡數に過剰するからである。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月創元社刊のアフォリズム集「港にて」の巻頭「詩と文學」の二番目に配されてある。初出誌は確認されていない。]

萩原朔太郎 弁慶 短歌八首 大正二(一九一三)年十月

   辨慶
                夢みるひと
 
        我(わが)がなつかしき
        魚屋(さかなや)のベンケイに
 
橋側(はしそば)の安酒場(やすさけば)こそまたなけれべんけい(ヽヽヽヽ)も來(き)て醉(ゑ)ひて唄(うた)へる
 
醉(ゑ)ひどれのかの辨慶(べんけい)も秋(あき)くれば路傍(ろばう)に立(た)ちて物(もの)を思(おも)へり
 
あはれなる色氣狂(いろきちがひ)の魚屋(さかなや)が我(われ)に教(おし)へしさのさ節(ぶし)かな
 
魚屋(さかなや)の赤(あか)き小鼻(こばな)を晩秋(おそあき)の酒場(さけば)の軒(のき)に見(み)るが哀(かな)しさ
 
居酒屋(ゐざかや)の暗(くら)き床(ゆか)をばみつめつゝ何思(なにおも)ふらむかゝる男(をとこ)は
 
ほの暗(くら)き床(ゆか)にこぼれし酒(さけ)を見てふとべんけいが叫(さけ)び出(いだ)せり
 
淫(みだ)らなるかの辨慶(べんけい)の諧謔(かいぎやく)も秋(あき)の酒場(さけば)にきけば悲(かな)しも
 
いかばかり悲(かな)しく彼(かれ)が眺(なが)むらむ酒場(さけば)の窓(まど)の赤(あか)き落日(らくじつ)
        (一九一三、一〇、酒場にて) 
[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年十月二十六日附『上毛新聞』に標記通り、「夢みるひと」名義で掲載された八首連作。朔太郎満二十六歳。「辨慶」は前橋(?)の商店街の魚屋の屋号かその主人の綽名と思われるが、詳細は不詳。一首目などは明らかに名にし負はばの弁慶に、謡曲「安宅」や歌舞伎「勧進帳」の後半部を重ねた確信犯である。
 「酒場」のルビ「さけば」は全首に一貫した表現なので改めなかった(底本校訂本文では総て「さかば」と『訂』されてある)。
 三首目「教へし」のルビ「おし」はママ。
 六首目下句の頭「ふとべんけいが」は初出は「ふとべんけがい」。誤植として訂した。]

杉田久女句集 47 羅を裁つや亂るゝ窓の黍

 

羅を裁つや亂るゝ窓の黍

 

[やぶちゃん注:「羅」は「うすもの」と訓じている(底本索引から)。「黍」は単子葉植物綱イネ目イネ科キビ Panicum miliaceum か、イネ科トウモロコシ Zea mays の孰れであろうか?  単漢字「黍」からは前者(トウモロコシならば「玉蜀黍」と書いて「きび」と振るか)なのであるが、どうしても私はこれはトウモロコシのように思われてならないのである。

 薄絹の透明感――裁ち鋏のハレーション――ザワザワと乱れる窓外のトウモロコシ――乱れる悶々と鬱屈した久女の心――「羅」「裁つ」(切れ字)「亂る」という語彙の選びといい、ゴッホ張りの窓枠が額縁と化した向こうの玉蜀黍畑の動景といい、写生でありながら、その実、カメラは反転して――触れなばシャッ!――と――斬れんばかりの――窓の中(うち)に愁いに沈む女の心象を風景として描き出して余りある。――と感じるからである。大方の御批判を俟つものである。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十四年 雲仙

 雲仙

 

野馬(やば)しづか吹き來る霧に尾を飜し

 

霧がゆき群れゐる野馬を野にのこす

大木(たいぼく) を たたく   八木重吉

ふがいなさに ふがいなさに

大木をたたくのだ、

なんにも わかりやしない ああ

このわたしの いやに安物のぎやまんみたいな

『眞理よ 出てこいよ

出てきてくれよ』

わたしは 木を たたくのだ

わたしは さびしいなあ

鬼城句集 冬之部 冬木立

冬木立   赤城山に眞向の門枯木かな

      小鳥ゐて朝日たのしむ冬木かな

      茶博士の冬木の時を好みけり

      道端に根を張出して冬木かな

2014/02/06

忘るまじ――井上英作氏諌死の日――

2006年2月6日の僕のブログ――



2006年2月の僕の悼亡の句――

   井上英作に――靜岡空港建設反對を訴へ

   二月六日未明靜岡縣廰前に燒身自決せる

   畏兄の葬儀の日金時山山巓にて(三句)

 

                       藪 野  唯 至  

捨身(しゃしん)して濁世を怒る業火かな

火我捨身(ひがしゃしん)靜岡空港(エア・ターミナル)呪詛永し

春の山君を二度燒く火を送る

明恵上人夢記 33

33

一、又、眞惠僧都(しんゑそうづ)之許に到る。饗膳を設けて、成辨幷に義林房(ぎりんばう)を饗應せらると云々。

[やぶちゃん注:「一」という項を設けておいて「又」と記すのはここが初めてで(以下、しばしば見られる)、これは同日中に複数の夢(若しくは連続していたものの明恵自身がその連続性を思い出せなかったのかも知れないが、敢えて明恵が項を起こすというのは別な夢であると考えた方がよい)を見たことを意味すると考えてよい(二つ後の「35」夢は「同十日」とあり、この前の「33」夢は「同月八日」であるから、「九日」としないのは「32」夢に続いて、建永元(一二〇六)年六月八日深夜から九日未明にかけて見た夢ということになる(次の「34」夢も同じでこの「33」の後に九日早暁に見た夢と考えてよいであろう)。

・「眞惠僧都」「33」夢注に示した通り、底本には『長良流の従五位下藤原宗隆男で東寺一長者となった大僧正法務真恵か』とある(但し、彼が東寺長者に補任されたのは明恵の没六年後の嘉禎四・暦仁元(一二三八)年九月である)。

・「義林房」既注。明恵の高弟喜海。]

 

■やぶちゃん現代語訳

33

一、また、その後に同じ夜、続けて見た別の夢。

「私は真恵僧都(しんえそうず)の元を訪ねている。見ると僧都は既に豪華な饗膳の座を設けておられ、私並びに義林房二人を如何にも懇ろに饗応なされるのであった。……」

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 三 卵 (1)鶏卵

     三 卵

Keiranndanmen

[雞卵の斷面]

 動物の卵の中で最もよく人の知つて居るのはいふまでもなく雞の卵である。それ故卵のことを述べるには、まづ雞の卵を手本として他のものをこれに比べるのが便利であらう。雞の卵は外面を石灰質の殼を被つて居るが、茹で卵の殼を剝いて見るとその下にはなほ二枚の極めて薄い膜があり、産まれて稍々時を經た卵であると、この二枚の薄い膜は卵の鈍端のところで少しく離れてその間に空氣を含んで居る。剝いた茹で卵の一方が凹んで居るのはそのためである。以上だけの皮に包まれた卵の内容は誰も知る通り白身と黄身

とであるが、黄身の表面にはまた一枚の透明な薄い膜がある。生の卵の黄身を箸で挾むと形の崩れるのはこの膜を破るによる。かく雞の卵にはさまざまの部分があるが、その中には是非なくてならぬ主要部と、たゞこれを包み保護するための附屬部との區別がある。

まづ卵は如何にして生ずるかを見るに、牝雞の腹を切り開いて腸などを取り去ると、正面の背骨の側に粒の揃はぬ小球が多數多集まつた恰も葡萄の房の如き器官があるが、これが卵巣であつて、ここではたゞ卵の黄身だけが出來る。葡萄の粒の如くに見えるものは後に一つづつ卵の黄身となるものである。また卵巣の傍から始まつて、肛門の内側まで達する婉曲した太い管は輸卵管であって、卵巣を離れた黄身はこの管を通過する間に、その壁から分泌した白身によつて包まれる。かくして白身と黄身との揃つた卵は輸卵管の出口に近い太いところまで來て暫く留まるが、その間に石灰質の殼が附け加へられ、初めて完全な卵となつて産み出されるのである。

耳嚢 巻之八 黄昏少將の事

 黄昏少將の事

 

 松平越中守定信は多才の人にて、官は少將なりき。文化の四つのとし、夕顏といふ題にて詠じ給ふ和歌、

  心あてに見し夕顏の花ちりて尋まどへる黄昏の宿

 冷泉家へ送られしに、ことに稱美ありて、花洛(くわらく)にて其(その)定信侯をたそがれの少將と唱へ稱する由、人のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:武士の和歌技芸譚で直連関。

・「官は少將なりき」松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政一二(一八二九)年)は「卷之八」の執筆推定下限がこの記載の翌年の文化五(一八〇八)年夏であるから未だ存命(本文の文化四年当時は満四十八歳)である。但し、主に尊号一件によって寛政五(一七九三)年七月に将軍輔佐及び老中等御役御免となって失脚(この時に左近衛権少将に転任、越中守如元で溜間詰となった)、文化九(一八一二)年には隠居した。

・「心あてに見し夕顏の花ちりて尋まどへる黄昏の宿」は「源氏物語」の「夕顔」の帖の冒頭、光が夕顔に出逢うシークエンスに出る和歌、

  心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顏の花

をインスパイアした和歌。私の偏愛するところなれば、やや長くなるが同場面を原文(一部省略)で示す(渋谷栄一校訂大島本当該部分を恣意的に正字化した)。

   *

 六條わたりの御忍び歩きのころ、内裏よりまかでたまふ中宿に、大貳の乳母のいたくわづらひて尼になりにける、とぶらはむとて、五條なる家尋ねておはしたり。

 御車入るべき門は鎖したりければ、人して惟光召させて、待たせたまひけるほど、むつかしげなる大路のさまを見わたしたまへるに、この家のかたはらに、檜垣といふもの新しうして、上は半蔀四五間ばかり上げわたして、簾などもいと白う涼しげなるに、をかしき額つきの透影、あまた見えて覗く。立ちさまよふらむ下つ方思ひやるに、あながちに丈高き心地ぞする。いかなる者の集へるならむと、やうかはりて思さる。

 御車もいたくやつしたまへり、前驅も追はせたまはず、誰れとか知らむとうちとけたまひて、すこしさし覗きたまへれば、門は蔀のやうなる、押し上げたる、見入れのほどなく、ものはかなき住まひを、あはれに、「何處かさして」と思ほしなせば、玉の臺も同じことなり。

 切懸だつ物に、いと靑やかなる葛の心地よげに這ひかかれるに、白き花ぞ、おのれひとり笑みの眉開けたる。

 「遠方人にもの申す」

 と獨りごちたまふを、御隋身ついゐて、

 「かの白く咲けるをなむ、夕顏と申しはべる。花の名は人めきて、かうあやしき垣根になむ咲きはべりける」

 と申す。げにいと小家がちに、むつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくうちよろぼひて、むねむねしからぬ軒のつまなどに這ひまつはれたるを、

 「口惜しの花の契りや。一房折りて參れ」

 とのたまへば、この押し上げたる門に入りて折る。

 さすがに、されたる遣戸口に、黄なる生絹の單袴、長く着なしたる童の、をかしげなる出で來て、うち招く。白き扇のいたうこがしたるを、

 「これに置きて參らせよ。枝も情けなげなめる花を」

 とて取らせたれば、門開けて惟光朝臣出で來たるして、奉らす。

[やぶちゃん注:中略。ここには尼君の見舞いのシーンがある。]

 修法など、またまた始むべきことなど掟てのたまはせて、出でたまふとて、惟光に紙燭召して、ありつる扇御覽ずれば、もて馴らしたる移り香、いと染み深うなつかしくて、をかしうすさみ書きたり。

 「心あてにそれかとぞ見る白露の

  光そへたる夕顏の花」

 そこはかとなく書き紛らはしたるも、あてはかにゆゑづきたれば、いと思ひのほかに、をかしうおぼえたまふ。惟光に、

 「この西なる家は何人の住むぞ。問ひ聞きたりや」

 とのたまへば、例のうるさき御心とは思へども、えさは申さで、

 「この五、六日ここにはべれど、病者のことを思うたまへ扱ひはべるほどに、鄰のことはえ聞きはべらず」

 など、はしたなやかに聞こゆれば、

 「憎しとこそ思ひたれな。されど、この扇の、尋ぬべきゆゑありて見ゆるを。なほ、このわたりの心知れらむ者を召して問へ」

 とのたまへば、入りて、この宿守なる男を呼びて問ひ聞く。

 「揚名介なる人の家になむはべりける。男は田舍にまかりて、妻なむ若く事好みて、はらからなど宮仕人にて來通ふ、と申す。詳しきことは、下人のえ知りはべらぬにやあらむ」と聞こゆ。

 「さらば、その宮仕人ななり。したり顏にもの馴れて言へるかな」と、「めざましかるべき際にやあらむ」と思せど、さして聞こえかかれる心の、憎からず過ぐしがたきぞ、例の、この方には重からぬ御心なめるかし。御疊紙にいたうあらぬさまに書き變へたまひて、

 「寄りてこそそれかとも見めたそかれに

  ほのぼの見つる花の夕顏」

 ありつる御隨身して遣はす。

 まだ見ぬ御さまなりけれど、いとしるく思ひあてられたまへる御側目を見過ぐさで、さしおどろかしけるを、答へたまはでほど經ければ、なまはしたなきに、かくわざとめかしければ、あまえて、「いかに聞こえむ」など言ひしろふべかめれど、めざましと思ひて、隨身は參りぬ。

 御前驅の松明ほのかにて、いと忍びて出でたまふ。半蔀は下ろしてけり。隙々より見ゆる燈の光、螢よりけにほのかにあはれなり。

 御心ざしの所には、木立前栽など、なべての所に似ず、いとのどかに心にくく住みなしたまへり。うちとけぬ御ありさまなどの、氣色ことなるに、ありつる垣根思ほし出でらるべくもあらずかし。

 翌朝、すこし寢過ぐしたまひて、日さし出づるほどに出でたまふ。朝明の姿は、げに人のめできこえむも、ことわりなる御さまなりけり。

 今日もこの蔀の前渡りしたまふ。來し方も過ぎたまひけむわたりなれど、ただはかなき一ふしに御心とまりて、「いかなる人の住み處ならむ」とは、往き來に御目とまりたまひけり。

   *

 因みにこの時、光は中将であった。

 底本の鈴木氏注には三村翁の注が引かれ、『こしらへものゝ歌、予には名家とは不被存、友人に伊勢松阪長谷川可同氏あり、江戸伝馬町に木綿店をもてり、京の千切屋へ離れ座敷を造り置き、汽車を買切り、給仕は一切我家の婢にさせて京に逗留す、自曰く、わしは奢は大嫌ひ故、自分の家に居ると同様にしてゐるのやと、御大名様の御倹約もこれと同様かと拝し奉るふしあり』という、ちょっとびっくりのトンデモ興醒め注が附されてある。岩波版長谷川氏は流石にこの注は無視され、「耳嚢」より少し後の松浦静山「甲子夜話」には、

  心あてに見し夕顏の花ちりてたづねぞまよふ黄昏の宿

とあって、定信は『黄昏の侍従』と呼ばれたという記載及び含弘堂偶斎の随筆「百草露」には、

  心あてに見し夕顏の花ちりて尋ねぞわぶる黄昏の宿

とあって、『夕顔の少将』と呼ばれたと専ら書誌学的な穏当な注をなさっておられる。読者としては(というより夕顔命の私個人としては)長谷川氏の注の方がほっとするね。

 時に、長谷川強氏注の孫引きでここを済ましてしまっては、「耳嚢」全巻オリジナル全訳注標榜している私の名が廃るというもの。「甲子夜話」は幸い所持している(というより、私は密かに「耳嚢」全訳注終了後のターゲットとして「甲子夜話」を狙っているのであるが)ので、以下に示す(底本は中村幸彦・中野三敏校訂平凡社東洋文庫版第一巻(一九七七年刊)を用いたが、私のポリシーから恣意的に正字化した。冒頭の〔 〕で示された数字は編者による通し番号であるが、検索の便を考え残した。〔 〕は割注(原本は二行組、底本はポイント落ち)片仮名は原本の読み、平仮名は編者の施したもの)。

   *

〔十六〕 白川少將〔越中守定信〕は、文武兼濟の資なり。又敷嶋の道にも達せしこと、人の知ところなり。若きときの歌に、

 心あてに見し夕顏の花ちりて

      たづねぞまよふたそがれのやど

時に以て秀逸とす。後、定信老職となり、事に因て京師に抵(いた)る。月卿雲客指さして、黄昏(タソガレ)の侍從來りしと云ひしとぞ〔定信、時に四位の侍從なり〕。高家の横瀨駿河守〔貞臣〕、冷泉家の門人にて、是も頗る名高き歌仙なり。ある時五月雨(さみだれ)の詠、

 やまの端は重る雲に明かねて

      夏の夜長き五月雨の頃

とありしを、師家にても殊に感ありしとなり。其後京兆(みやこ)にて五月雨の侍從と呼しとぞ。

   *

ここに並び出る横瀬貞臣(よこせさだおみ 享保十八(一七三三)年~寛政一二(一八〇〇)年)は高家旗本(幕府に於ける儀式典礼を司る役職及びこの職に就くことの出来る家格の旗本)。近世武家三歌人の筆頭とされる人物。通称は貞次郎・兵庫・式部。実兄横瀬貞隆の末期養子となり、宝暦一三(一七五三)年に将軍徳川家治に御目見え、明和二(一七六五)年に家督を相続、安永二(一七七三)年に高家職に就き、従五位下侍従・駿河守に叙任された(後に従四位下まで昇進)。寛政六(一七九四)年には将軍徳川家斉の仰せに従って鉢に植えた梅を題にした和歌を数首詠み献じるなど寛政期武家歌人として知られる。歌道に精通していたことが高家として朝廷と交渉する立場上、非常に有利に働いたとされる(以上はウィキの「横瀬貞臣に拠った)。

・「花洛」京師(けいし)。花の京の都。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 黄昏の少将の事

 

 松平越中守定信殿は多才の人にて、官は少将で御座る。

 文化の四年の年に「夕顔」という題にて越中守殿のお詠みになられた和歌に、

 

  心あてに見し夕顏の花ちりて尋まどへる黄昏の宿

とある。

 この和歌、かの歌道宗家たる冷泉家へと贈られたところ、宗家にては殊の外、御賞賛これあり、花洛にては、これ、定信侯がことを、「たそがれの少将」と唱え称されて御座る由、人の語って御座ったよ。

旅行 萩原朔太郎

       ●旅行

 

 旅行の實の楽しさは、旅の中にもなく後にもない。ただ旅に出ようと思つた時の、海風のやうに吹いてくる氣持ちにある。

 旅行は一の熱情である。戀や結婚と同じやうに、出發の前に荷造りされてる、人生の妄想に充ちた鞄である。

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の「孤独と社交」より。朔太郎らしい感懐である。そしてそれは私の愛してやまない三木旅についての旅に人生を見る「旅」の思索の核心を確かにつらまえてる。]

萩原朔太郎 古き日の秋 短歌五首

   古き日の秋

     (昔うたへる歌)

 

                夢みるひと

 

裏街(うらまち)の床屋(とこや)が角(かど)に張(は)られたる芝居(しばゐ)のびらに吹(ふ)く秋(あき)の風(かぜ)

 

吉原(よしはら)のおはぐろ溝(どぶ)のほの暗(くら)き中(なか)に光(ひか)れる櫛(くし)の片割(かたわれ)

 

ほのかにも瓦斯(がす)のにほひのただよへる勸工塲(くわんこうぜう)の暗(くら)き鋪石(しきいし)

 

さくさくと靴音(くつおと)させて中隊(ちゆうたい)のすぎたるあとに吹(ふ)く秋(あき)の風(かぜ)

 

歌舞伎座(かぶきざ)のかへりに我(われ)をつつみたる床(ゆか)しきマント忘(わす)られぬひと

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年十月十一日附『上毛新聞』に標記通り、「夢みるひと」名義で掲載された五首連作。朔太郎満二十六歳。一首目の太字「びら」は底本では傍点「ヽ」。

 三首目「くわんこうぜう」はママ。底本全集校訂本文では「くわんこうば」と訂するが従わない。誤りとしても朔太郎が音韻上、これで詠んだ可能性を排除出来ないからである。無論、「勸工塲」は正しくは「くわんこうば」が正しい読みではある。老婆心ながら附しておくと、勧工場(かんこうば)とは明治・大正期に一つの建物の中に多くの店が入って種々の商品を陳列・即売した一種のマーケットのことで、明治一一(一八七八)年一月に政府の殖産興業政策の方針に沿って東京府が麴町辰の口(現在の千代田区内)に常設商品陳列場としての「東京府勧工場」を開設したことに始まる(ここには前年に東京上野公園で開催された第一回内国勧業博覧会に展示された出品物も移されて陳列された。当時の出品点数は合計三十五万点、入場者合計五千二百人に及んだとされる)。後には本格的なデパートの進出により衰退した。勧商場。]

篠原鳳作句集 昭和五(一九三〇)年九月

鬼灯を鳴らしつつ墨すりにけり

 

はしたなき晝寢の樣をみられけり

 

大いなる誘蛾灯あり試驗場

 

端居して闇に向へる一人かな

 

   玉里邸

誘蛾灯築地のすそに灯りたる

 

[やぶちゃん注:「玉里邸」は旧島津氏玉里(たまざと)邸(現在は鹿児島市管轄の庭園)。鹿児島市の北部丘陵愛宕山の西麓に位置する。島津家第二十七代当主島津斉興(なりおき 寛政三(一七九一)年~安政六(一八五九)年)によって天保六(一八三五)年に造営されたと伝わり、敷地東半部にはかつて主屋建築群が建っていた平坦地があり、「上御庭」と呼ばれる池庭が造られた。一方の西半部は一段低くなっており、「下御庭」と呼ばれる庭園と茶室が造られた。玉里邸の諸建築は明治一〇(一八七七)年の西南戦争で焼失したが、斉興の五男島津久光(文化一四(一八一七)年~明治二〇(一八八七)年)が再築し、明治一二(一八七九)年に棟上した。後の昭和二〇(一九四五)年に太平洋戦争によって茶室・長屋門・黒門を残して建造物は焼失、庭園は灯籠などが破損、昭和二六(一九五一)年に鹿児島市が同邸跡地を買収、昭和三四(一九五九)年に鹿児島市立鹿児島女子高等学校が移転したが、この際、「上御庭」と呼ばれた庭園部は一部を残して校舎及び運動場に改修されたものの、「下御庭」と呼ばれた部分は大きな改変を受けていなかったことから昭和四九(一九七四)年に「玉里邸茶室付庭園」として鹿児島市記念物(名勝)に指定された(以上は「文化遺産オンライン」の旧島津氏玉里邸庭園の解説に拠った)。]

 

枇杷賣の櫻島(シマ)の乙女の跣足かな

 

烏瓜藪穗おどりて引かれけり

 

鰯雲月の面てにかかりそむ

 

かなかなの遠く鳴き居る月夜哉

 

かなかなの遠く鳴きゐる良夜哉

 

[やぶちゃん注:前者は底本では『「句会句稿」昭和5・9』の句形とあり、後者は昭和五(一九三〇)年十一月発行の『泉』への投句稿とする。]

 

十字架もぬぎて行水つかひけり

 

[やぶちゃん注:本句は「俳句手記」に所収とのみある。本句(次が十月の投句稿であるから九月作とは断定出来ない)と前の「かなかなの遠く鳴きゐる良夜哉」を除き、九月の創作及び発表句。]

杉田久女句集 46 湖を泳ぎ上りし木蔭かな

湖を泳ぎ上りし木蔭かな

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十四年 大浦天主堂

 昭和十四年

 

 

 大浦天主堂

 

雷をきき聖なる燭のもとにわれ

 

雷雨去り聖歌しづかなりつづく

 

虹ひくく天主の階を降(お)りんとする

 

[やぶちゃん注:年譜上ではこの年に九州地方への旅は認められない。一見、前年八月の三女啓子と四女美代子を連れての阿蘇・雲仙・長崎に旅行した際の嘱目吟の再考句か追想吟とも思われるのだが、後に出る「九州への旅」を読むとクリスマスを詠んだ句が見いだされ、多佳子は前年かこの年の末にも九州へ再び船旅をしたものか? しかしまた、ここは「雷雨」で十二月の景とも思われぬ。識者のご教授を乞うものである。]

石塊(いしくれ)と 語る   八木重吉

石くれと かたる

わがこころ

かなしむべかり

 

むなしきと かたる、

かくて 厭くなき

わが こころ

しづかに いかる

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「厭くなき」は「あくなき」で「飽くなき」と同義。]

鬼城句集 冬之部 枇杷の花

枇杷の花  枇杷咲いてこそりともせぬ一日かな

[やぶちゃん注:グーグル画像検索「ビワ。]

2014/02/05

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海燕

海燕 本草原始ニノセタリ圖アリ本草綱目ニモノセタリ

圖ナシ海虫ナリ磯石ノ處ニ生ス其形狀異物ナリ五

角アリテ徑二寸五分許猶大ナルアリ色藍ノコトク

靑キアリ黄褐色ナルアリ表ニ丹色ノ彩點多シ形狀モ

彩色モ人工ノ作爲セルカ如シウラハ丹色五角ノスチニ

渠アリ其正中ニ口アリ小足アリ海ニアル時微ク蠕動

ス内ニ小膓アリ陸ニアリテハ動カス其形狀如此

死シテ皮肉去リ周ノ

五角ヲツ五角ハ肉ナ

レハ死シテ後ハ自クサリ[やぶちゃん注:この三行の上部に以下の挿絵がある。]

テ脱ス其形圓ニナリテ角ナシ色淡白ナリウラヲモテ同

色ナリ死シテ後面ニ五葉櫻ノ花ノ如シ恰人巧ニテ畫キ彫

刻スルカ如シ奇物ナリウラノ穴ハ口ナリ餌ヲハムワキニ小穴

一アリ尻ナリ生ナルト死シタルハ別物ノ如シ

〇やぶちゃんの書き下し文

海燕 「本草原始」にのせたり。圖あり。「本草綱目」にものせたり。圖なし。海虫なり。磯石の處に生ず。其の形狀、異物なり。五角ありて徑二寸五分許り、猶ほ大なるあり。色、藍のごとく靑きあり、黄褐色なるあり。表に丹色の彩點多し。形狀も彩色も人工の作爲せるがごとし。うらは丹色。五角のすぢに渠〔みぞ〕あり。其の正中に口あり。小足あり。海にある時、微〔すこ〕しく蠕動す。内に小膓あり。陸にありては動かず。其の形狀、此くのごとし。死して皮肉去り周(めぐり)の五角をつ。五角は肉ナなれば死して後は自〔おのづ〕からくさりて脱す。其の形、圓になりて角なし。色、淡白なり。うら・をもて同色なり。死して後、面に五葉櫻の花のごとし。恰も人巧〔じんこう〕にて畫き彫刻するがごとし。奇物なり。うらの穴は口なり。餌をはむ。わきに小穴一あり、尻なり。生なると死したるは別物のごとし。

[やぶちゃん注:これは細かな叙述から棘皮動物門ヒトデ綱アカヒトデ目イトマキヒトデ科イトマキヒトデ Patiria pectinifera に同定出来る。原本には図がある。底本サイトには画像の使用許可条件が示されていないので、国立国会図書館蔵の同板行版の画像を示す。これは国立国会図書館の正式な使用許諾を受けているものである(許諾書番号は国図電1401064-1-594号)。因みに、ヒトデという和名は私にはセンスのない和名としか思えない。形状連想に基づく「海燕」(カイエン)の方が遙かによいと感じる(グーグル画像検索「イトマキヒトデ」)

Yamatohitode

「本草原始」十二巻。明末の医家李中立が一六一二年に撰した「本草綱目」の要点を整理した本草書。生薬の図にオリジナリティがあるという。

「わきに小穴一あり、尻なり」この観察は不審で誤りである。イトマキヒトデの肛門は背側中央部にある小孔で非常に小さく、虫眼鏡を使用しないと判別出来ない程度に小さい。同じ直近には給水機構の一部である穿孔板があり、これは肉眼でも視認出来るものの、肛門でもなければ口吻部の側にあるものでもない。益軒は何を見誤ったか。もしかすると、捕食時に胃を露出させるのを排泄物と誤認した可能性があるかとも思われる。]

篠原鳳作句集 昭和五(一九三〇)年八月

 傘燒

 

破れ傘さし開きてはくべにけり

 

[やぶちゃん注:八月発行『天の川』掲載句。前注した「曽我どんの傘焼き」の嘱目吟である。ここまで投句を引っ張れるとなれば、やはり昭和五年六月二十四日、旧暦五月二十八日に同祭りは行われたものではあるまいか?]

 

霰すと父に障子をあけ申す

 

[やぶちゃん注:本句は鳳作の俳句手記にあるもので、伝統俳句ならば「霰」は晩冬の季語であるから当季(この句は八月の句群の中に配されてある)ではなく、回想吟に仕分けられてしまうところだが、これぞ歳時記の非科学性(というより私は歳時記の似非博物学的性格から非博物学性と言いたい)で、気象観測では直径が五ミリメートル以上のものが「雹」、五ミリメートル未満のものを「あられ」と言う。気象学では霰は「氷霰」と「雪霰」に区別され、「氷霰」は一般には透明で気温が0℃以上の初冬に降るが、夏でも降るときがある。また、「雪霰」は一般には白色で気温が0℃以下の時に雪と一緒に降ることが多い(「氷霰」に比べると粒は脆くて地面に落下すると跳ね返って割れることもある。ここまでは「NHK放送文化研究所の「放送現場の疑問・視聴者の疑問」にある「ひょう」と「あられ」の違いは?を参考にした)。則ち、実際には「霰」は冬にも降るものの、春から秋かけて特に夏の終わりにも降るのである。事実、大きな「雹」を歳時記は夏にしている。ならば、直径五ミリ以下のものがパラパラと夏に降っても伝統俳句は非科学的に「雹」とせよ「夏霰」とせよ言うのであろうか? 私は本句はまさに昭和五年の夏の終わり、積乱雲から降ってきた「霰」を詠んだものと思う。底本編者も無論、手記の位置とそうした確信犯から堂々とここに本句を挟んでいるものと考える。無季俳句へ向かいつつあったに違いない鳳作のまさに確信犯的句であると私は思うのである(私は元来、自由律俳句から入った人間で季語に対する強い不信感を持っていることをここに表明しておく)。]

 

燕の巣覗きて菖蒲ふきにけり

 

ほほづきの靑き提灯たれにけり

 

蝶々の眩しき花にとまりけり

 

子蟷螂しきりと斧をなめにけり

 

鮎の宿氷の旗をかかげたる

 

田草取日除の笹を背負ひをり

 

滝の道しだいにほそし道をしへ

 

[やぶちゃん注:「道をしへ」鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目オサムシ上科ハンミョウ科 Cicindelidae に属する昆虫或いはその中の一種で日本最大種(体長約二〇ミリメートル)のハンミョウ(ナミハンミョウ) Cicindela japonica の異名である。参照したウィキの「ハンミョウ科」によれば、『成虫は春から秋まで見られ、日当たりがよくて地面が湿っている林道や川原などによく生息するが、公園など都市部でも見られる。人が近づくと飛んで逃げるが、1、2メートル程度飛んですぐに着地し、度々後ろを振り返る。往々にしてこれが繰り返されるためその様を道案内にたとえ「ミチシルベ」「ミチオシエ」という別名がある』とある。]

 

砂つぶて飛ばしそめけり蟻地獄

 

大いなる柱のもとの蟻地獄

 

[やぶちゃん注:以上は八月の創作及び発表句。但し、最後の四句は「俳句手記」とのみあり、八月の句やありやなしやは判然としない。

杉田久女句集 45 櫓山荘一句 水汲女に門坂急な避暑館

  櫓山山莊一句

 

水汲女に門坂急な避暑館

 

[やぶちゃん注:私は本句には顕在的な弟子橋本多佳子の優雅な生活への明確な羨望と密やかな妬心が窺えるように思われる。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十三年 峽港

 峽港

 

[やぶちゃん注:この標題は地形的に見て長崎港を指しているように私には思われる。]

 

海燕歩廊に靑き海曉けたり

 

連絡船峽の靑嶺が灼け迫る

 

靑林檎嚙みつつひとは海に向へり

 

夏潮に航送の貨車車輪あらは

 

貨物船油流しつつ朝燒くる

 

船繫り夏潮段(きだ)をなして落つ

靜かな 焰   八木重吉

各(ひと)つの 木に

各(ひと)つの 影


木 は

しづかな ほのほ

鬼城句集 冬之部 枯草

枯草    枯草にふるひ落しぬ網の魚

      枯草にてらつく石の二つ見ゆ

      ほうほうと枯れてぬくしや茅の花

[やぶちゃん注:「ほうほう」の後半は底本では踊り字「〱」。]

      枯草にしみ入つて消ゆ白糸の瀧

[やぶちゃん注:「しみ入つて」の「し」は底本では「志」を崩した草書体表記。]

      うら門に蔓草枯れてかゝりけり

2014/02/04

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 石蠶

石蠶 此虫山中ノ石河ノ瀨ニアリ口中ヨリカイコノ絲ノ

如ナルイトヲ吐出シ河ノ小石ヲ絲ヲ以テツヽリ合セ其中ニ

スム蟲ナリ其形ハ蠶ノコトクニシテ堅ク色靑黑色山中ノ

人ノ魚ヲツルニコレヲ取テ餌トス本草卵生蟲類ニノセタリ

正誤ノ韓保昇之説良

〇やぶちゃんの書き下し文

石蠶(せむし) 此の虫、山中の石河の瀨にあり。口中よりかいこの絲のごとくなるいとを吐き出だし、河の小石を絲を以つてつゞり合はせ其の中にすむ蟲なり。其の形は蠶〔かいこ〕のごとくにして堅く、色、靑黑色。山中の人の魚をつるに、これを取りて餌とす。「本草」は卵生蟲類にのせたり。正誤の韓保昇(かんほしやう)が之の説、良し。

[やぶちゃん注:「石蠶」昆虫綱毛翅上目トビケラ目 Trichoptera に属する昆虫類の幼虫。「せむし」とは「瀬虫」の謂いであろう。以下、ウィキの「トビケラ」によれば、トビケラ目は毛翅目ともいい、ほとんどの種で翅が刺毛に覆われている。全世界で四十六科一万二千種以上が確認されており、日本ではそのうちの二十九科四百種以上の生息が認められている。成虫の体は管状で長い糸状の触角を持ち、羽根を背中に伏せるようにして止まる姿は一部の蛾の類に似る。完全変態をし、幼虫は殆どの種が水生で、細長いイモムシ状だが胸部の歩脚はよく発達する。頭胸部はやや硬いが、腹部は膨らんでいて柔らかい。また、腹部に気管鰓を持つものも多い。砂や植物片を自ら出す絹糸に絡めて円筒形その他の巣を作る種が多い。その巣の中で蛹化し、羽化の際には蛹自らが巣を切り開いて水面まで泳ぎ上がり、水面や水面上に突きだした石の上などで成虫となる(一部の種では水中羽化も報告されている)。『水生昆虫としては流水性のそれとして』カワゲラ(カワゲラ目 Plecoptera)やカゲロウ(有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera)『と肩を並べる。幼虫の生活する水域は種によって異なる。渓流やきれいな川に多いが、湖沼や池などの止水にも生息する。そのほか小さな湧水や岩盤を滴る流れにも生息する種がある。海産や陸生種もわずかだが知られる。ただし最近のスカンジナビアやカナダにおける研究では,汽水域には予想以上に多くの種が生息すると報告されている。日本の汽水域における研究は皆無である』。本項に出る『トビケラ類の幼虫はいさご虫(沙虫)と呼ばれ、水中生活で、多くが巣を作る事で有名である。巣は水中の小石や枯れ葉などを、幼虫の出す糸でかがって作られる。巣の型には大きく携帯型(移動できる)のものと固定型の2つがある』。『もっとも一般的なのは、落葉や砂粒・礫などを綴り合わせて作られる鞘状や筒状の巣で、携帯巣(けいたいそう)、筒巣(とうそう)あるいはケーシング(casing)と呼ばれる。体がぴったり入る大きさで、前方から頭胸部を出して移動したり採餌したりするもので、言わば水中のミノムシ状態である。水中の植物質を餌とするものが多く、礫で巣を造るニンギョウトビケラ』(人形飛螻蛄 Goera japonica)などが知られる。『これに対して、シマトビケラやヒゲナガカワトビケラなど「造網性」と呼ばれる種類の作る巣は、渓流などの石に固定されており、その一部に糸による網が作られ、ここにひっかかった流下微粒子を食べる』(巣を形成しない例外種もある)。以下はその営巣のパターン。

・シマトビケラ科Hydropsychidae やヒゲナガカワトビケラ科 Stenopsychidae など――乱雑な巣を植物片や小礫で形成

・ヒゲナガトビケラ科 Leptoceridae ――砂粒や植物片など様々な素材を用いた筒型の巣を形成

・トビケラ科 Phryganeidae ――植物片を螺旋状などに編んで巣を形成

・キタガミトビケラ科 Limnocentropodidae ――円錐形の巣を形成して末端を石などに固定

『多くは渓流の水生昆虫か、明かりに飛んで来る小さな虫であって、直接の利害はない。ただし、長野県では渓流の水生昆虫をザザムシと呼んで食用にする。その中心はヒゲナガカワトビケラ』類で、『その他の利用としては、渓流釣りに於ける餌として使われ』る。『特殊な利用例として、山口県岩国市の錦帯橋付近で』かなり古くから『ニンギョウトビケラの巣を土産物として販売している。この種は筒巣の両側にやや大きめの砂粒を付け、蛹化する際には前後端に砂粒をつけて蓋をする。この後端の石を頭に見立て七福神や大名行列を作る』。トビケラは『河川では数の多い昆虫であり、多くの種があることから、カワゲラやカゲロウと並んで河川の水質調査の際の指標生物とされる。特に、シマトビケラやヒゲナガカワトビケラなどの造網性の種は、水中の小石が増水等で移動するような場所では安定して生活できないと考えられる。そこで水生昆虫の中にこの類の占める割合を造網係数と呼び、河川の安定を示す指標と考えている』とある。

 次に以下に本記載で問題となっている「本草綱目」の原文を総て示す(中文繁体字版の「維基文庫」の「本草綱目 蟲之一」を参考にしたが、私は総てを読解出来ているわけではないので変更・追加した記号等の位置には誤りがあるかも知れない。必ず原文を当たられたい。さればこそ特に語注も附さない)。

   *

石蠶(「本經」下品)

【校正】

並人有名未用石蠹蟲。

【釋名】

沙虱(「本經」)、石蠹蟲(「別錄」)。

弘景曰、「沙虱乃東間水中細蟲。人入水浴、著身略不可見、痛如針刺、挑亦得之。今此或名同而物異耳。」。

時珍曰、「按「普本草」沙虱作沙蚌。」。

【集解】

別錄曰、「石蠶生江漢池澤。」。

宗奭曰、「石蠶在處山河中多有之。附生水中石上、作絲繭如釵股、長寸許、以蔽其身。其色如泥、蠶在其中、故謂之石蠶、亦水中蟲耳。方家用者稀。」。

「別錄」曰、「石蠹蟲生石中。」。

藏器曰、「石蠹蟲一名石下新婦、今伊芳洛間水底石下有之。狀如蠶、解放絲連綴小石如繭。春夏羽化作小蛾、水上飛。」。

時珍曰、「本經」石蠶、「別錄」石蠹、今觀陳、寇二及主治功用、蓋是一物無疑矣。又石類亦有石蠶、與此不同。

【正誤】

弘景曰、李當之云、『石蠶江左不識、謂爲草根。其實類蟲、形如老蠶、生附石上。傖人得而食之、味鹹微辛。所言有理、但江漢非傖地。大都是生氣物、如海中蛤、蠣輩、附石生不動、皆活物也。今俗用草根、黑色、多角節、亦似蠶。恐未是實、方家不用。

恭曰、「石蠶形似蠶、細小有角節、靑黑色、生江漢側石穴中。岐、隴間亦有、北人多不用、采者遂耳。」。

韓保升曰、「李謂是草根、陶謂是生氣物。蘇恭之、半似草、半似蟲、皆妄矣。此蟲所在水石間有之、取爲鉤餌。馬湖石間最多、彼人啖之、云、鹹、微辛。」。

頌曰、「石蠶。陶、蘇都無定論、「蜀本」之説爲是。今川、廣中多有之。其草根之似蠶者、亦名石蠶、出福州。今信州山石上、四時常有之、亦采入藥。詳見菜部草石蠶下。」。

【氣味】

鹹、寒、有毒。

保升曰、「鹹、微辛。」。

普曰、「雷公、『鹹、無毒。』。」。

【主治】

五癃、破石淋墮胎。其肉解結氣、利水道、除熱(「本石蠹蟲」)、主石癃、小便不利(「別錄」)。

【發明】

宗奭曰、『石蠶謂之草者、謬也。「經」言肉解結氣、注中更。』。

時珍曰石蠶連皮殼用也、肉則去皮殼也。

【附錄】

雲師、雨虎

時珍曰按「遁甲開山圖」云、「霍山有雲師、雨虎。」。「榮氏注」云、「雲師如蠶、長六寸、有毛似兔。雨虎如蠶、長七、八寸、似蛭。雲雨則出在石上。肉甘、可炙食之。此亦石蠶之類也。」。

   *

「正誤」前掲「本草綱目」の「正誤」の巻の記載。

「韓保昇」五代後蜀の本草学者。「重廣英公本草」(通称「蜀本草」)二十巻など。当該項を勝手自在に訓読して訳してみると、

〇やぶちゃんの書き下し文

韓保升曰く、「李の謂ひは、是れ草根なり、陶の謂ひは、是れ生氣の物なりと。蘇恭の説は、半ばは草に似て、半ばは蟲に似るとせるも、皆、妄たり。此の蟲の所在は水石の間に之れ有り、取りて鉤餌と爲す。馬湖の石間に最も多く、彼の人は之れを啖(くら)ふに、云はく、『鹹(かん)にして、微辛なり。』と。」。

〇やぶちゃん現代語訳

韓保升の説に、「李氏の解説はこれを草の根、植物とし、陶氏の解説は、これを生気の凝り固まった物質であるとする。蘇恭の説では、半ばは草に似ており、半ばは虫に似ているとするが、これら三説は皆、これ、妄説である。これは虫であり、その棲息する場所は水底の石の間であって、採ってこれを釣り餌とする。馬湖の川床の石の間に最も多く見られ、かの地の土民はこれを採って食べるが、その味は『塩辛く、微かに辛みを帯びる。』とのことである。」と。]

北條九代記 大炊渡軍 付 御所燒の太刀 承久の乱【十八】――大炊渡しの戦いⅡ 官軍、敗走す

既に破れて、引色になりけるを、鵜沼渡に向へられたる美濃の目代帶刀左衞門尉五十騎計(ばかり)にて馳來るといへども、終に打ち立てられて、引き退(しりぞ)く。同國の住人蜂屋冠者(はちやのくわんじや)は、信濃國の住人伊豆次郎に組まれて討れたり。筑後〔の〕六郎左衞門尉は、洗革(あらひがは)の鎧に、母衣(ほろ)掛けて、白月毛(しろつきげ)の馬に乗りて落行きけるを、武田七「穢し。餘(あま)すまじきぞ」とて追掛けたり。六郎左衞門「返すに難き事か」御所燒(ごしよやき)と云ふ太刀を拔きて引返し、撃つて掛る、抑(そもそも)この太刀は備前國の住人藤原三郎家次と云ふ鍛冶を、一院に召し上(のぼ)せて、君御手づから煆(きた)はせられて、打立てられし太刀にてあり。御所燒と名を付けられ、公卿、殿上人、北面、西面の輩(ともがら)、御氣色(おんきしよく)善き程の者は皆賜りて帶(たい)しけり、名詮自性(みやうせんじしやう)の道理ならば、この太刀の名こそ忌々(いまいま)しけれ筑後〔の〕六郎左衞門今度大炊渡に、向へられて、都を出ける時、一院より賜りて、この度帶して下りしが、武田七郎掛寄せて押(おし)竝ぶを、馬の平首(ひらくび)手綱を副へて切つて落し、その間に筑後左衞門落延びたり、武田は下(おり)立ちて、離れ馬に乘替へて、「あはれ敵を逃しけり」と齒嚙(はがみ)をしてぞ控へたる。大竹小太郎も落ちける所に、信濃國の住人岩手三郎父子追掛けて「如何に大竹殿と見るは僻目(ひがめ)か。和殿は武蔵の住人にて、關東の御恩深く仰せに依て都へは上られたり。惡(あし)くも計ひて京方にはなり給ひけり。降參し給へ、如何にも申さん」と云ひければ、大竹馬を引返し、思案する所を、岩手父子押竝(おしなら)べて組(くみ)落し、指(さし)殺して首を取る。この大竹は相撲(すまふ)を好みて、力も強く心も剛(がう)なり。先年一院より、關東へ仰せられ、「力強く、健(したゝか)ならん相撲の達者を參らせよ」とありしかば、選出(えらびいだ)して上せられ、元は家光(いへみつ)と名のりけるを、西面に召れて家任(いへたふ)と云ふ名をば院よりぞ付け給ひける。岩手程の男には、中々討たるまじき者なりしが、運の盡きぬる故にや、暗々(やみやみ)と討たれしは、二心(ふたごゝろ)の起りて欺罔(たばから)れける所なり。大炊渡破れて、東山道の大軍打入ると見えければ、平九郎判官胤義「口惜きことかな。胤義罷向(まかりむか)うて一軍(ひといくさ)せん」とて、五百餘騎にて馳來る。能登守秀康申しけるは、「この大軍に前後を包まれなば、雄々しき大事なり、尾張河破れなば、引退(ひきしりぞ)きて、宇治勢多を防げとこそ院には仰せ下されし。秀康は引上りて宇治にて防ぎ候はん」とて、落ち行きければ、平九郎判官も力及ばす、打連れてこそ落ち上りけれ。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【十八】――大炊渡しの戦いⅡ 官軍、敗走す〉

「洗革」薄紅色に染めた鹿のなめし革。揉んで柔らかくした白いなめし革ともいう。

「母衣」鎧の背につけて流れ矢を防ぎ、また存在を示すための標識にした幅の広い布。平安末期には装飾化して大型となり、後の室町期以後は中に竹籠を入れて袋状にするのが例となった。

「白月毛」「しらつきげ」とも読む。白地の毛に黒や濃褐色のサシの入った、赤みの強い(これが月毛の由来)毛色。

「備前國」現在の岡山県南東部に当たる。古くは吉備国の一部。

「御所燒」ウィキの「後鳥羽天皇」に、『刀を打つことを好み、刀工の鍛冶に好みの兵庫鎖拵えを打たせた。また自らも刃紋を入れそれに十六弁の菊紋を入れた(菊一文字)。「御所焼」「菊御作」と呼ばれる。天皇家の菊紋のはじまりである』とある。「兵庫鎖拵え」とは、サイト「中世歩兵研究所」の「太刀の拵の種類と履歴」によれば、「兵庫」は兵庫とは無縁らしく、『本来「兵具」であったが、後世訛って「兵庫」と変化してしまった様である』とされ、『兵庫鎖の太刀とは足緒が七ツ金ではなく、鎖を編んだベルト状の足緒で出来ている拵を言』い、「厳物造(いかものづくり)の太刀」『の一つとされるが、拵というよりも部品の形式名に近いといえる』。『遺品が総じて「長覆輪の太刀」である事から、「兵庫鎖の太刀」=「長覆輪の太刀」と捉えられがちであるが、そうではない拵も有ったのではないかとの説もある』(「長覆輪の太刀」とは『鞘全体を板金で包み、長い覆輪で鞘の上下を挟んで固定し』たものと同ページにある)『兵庫鎖は始め、足金具に三~四筋ばかりの鎖の紐が付いているような遊動制のある物であったが、後に太鼓革に通じる金具を用いて中央部分で鎖の筋を連結してまとめる様になる』。『兵庫鎖の太刀が兵仗の太刀で無くなっていくと共に、兵庫鎖も形骸化し、南北朝・室町時代には実用とはほど遠い形状へと変化していってしまう』とある。にしても確かに「御所焼き」とは莫迦でも分かる「名詮自性の道理」の不吉な名で後鳥羽という呪われた男が結界中に呼び込んでしまったモンストロムであったとしか言いようがない。

「御氣色善き程の者」後鳥羽の側近や近侍する者で覚え目出度いの者。

「名詮自性」仏教語で古代インドの僧世親の著した「唯識二十論」に出る語で、「詮」は「解き明かす」の意、「自性」はその物の性質・本性で、「物の名はその物自体の本性を表す」「名がそれ自らの性質を備えている」という義である。略して「名詮」とも言い、「性」は「称」とも書く。

「馬の平首」馬の首の鬣左右の平らな部位。

「暗々」副詞で、何も出来ないさま、みすみす・むざむざ。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号43(冒頭を前注とダブらせた)から47のパートまで)の記載。各段の後に語注を附した。

 

 京方、各河端ニ歩向テ散々ニ戰ケレ共、東山道ノ大勢如雲霞打人々々渡シケレバ、力不ㇾ及引退テ、上ノ段へ打上ル。下サマノ手ニ向タル者共、手負馬共、射捨タル矢、西ノ岸ニ臨添フテ流ケレバ、御方ノ軍能ナク破レニケレバ、東〔ノ〕大勢西ノ岸ニ著テケリ、サレバコソ手負西ノ岸ニ臨添テ流ルラント思所ニ、「大炊ノ渡ノ京方破レ、大勢己ニ打入」ト申ケレバ、鵜沼ノ渡ニ向タリケル美濃ノ目代帶刀左衞門尉、口惜事ト思テ、五十餘計ニテ馳來ル。中ニ隔タリ、七八度ガ〔程〕取テ返返戰ケレ共、其モ終ニハ可ㇾ叶モ無レバ引退。美濃國ノ住人蜂屋ノ冠者モ引退ケルガ、信濃國住人伊豆次郎ニ被組落テ被ㇾ討ケリ。

[やぶちゃん注:「能なく」いっかな守備の効果を示すことも出来ず。]

 筑後六郎左衞門尉、黑皮威ノ鎧ニ、蒜ノ母衣懸テ、白月毛ナル馬ニ乘テ落行ケルヲ、武田七郎、「キタナシ、餘スマジキゾ」トテ追懸タリ。六郎左衞門〔尉〕、取テ返ス。御所燒卜云フ聞ユル太刀ヲ帶タリケリ。御所燒トハ次家正ニ作ラセテ、君御手ヅカラ燒セ給ケリ。公卿・殿上人、北面・西面ノ輩、御氣色好程ノ者ハ皆給テ帶ケリ。筑後六郎左衞門尉、都ヲ出ケル時、「今度ハケ」トテ給ケリ。只今其太刀ヲゾ帶タリケル。武田七郎押雙タル所ヲ、拔打ニ馬ノ首、手綱添テフツト切テゾ落シタル。武田、鐙ヲ越テヒラト下タツ。此間ニ筑後六郎左衞門延ニケリ。武田七郎、馬ハ被ㇾ切ヌ、乘替ハナシ、四方見マハシケレバ、敵・御方ハ不ㇾ知、馬共イクラモ放レテ走散ケル中ニ、白蘆毛ナル馬ノ轡モナキガ出來タリケルヲ、雜色・下人寄合テ、是ヲ取テゾノセタリケル。

[やぶちゃん注:「蒜ノ母衣」「ひるのほろ」で、単子葉植物綱クサスギカズラ目ヒガンバナ科ネギ亜科ネギ属ノビルAllium macrostemon をデザイン(紋)とした母衣であろうか。

「次家」「北條九代記」では「家次」である。孰れも当代の刀鍛冶としては不詳。

「白蘆毛」「蘆毛」(葦毛)は一般には灰色の馬を指す。肌は黒っぽくて生えている毛が白いことが多い。当時や現在でも本邦ではより白い白毛(しろげ)の馬は稀であったため、通常は「白馬」と言えば白くなった蘆毛のことを指した。蘆の白い穂に由来するか。]

 又、京方ヨリ「大竹小太郎家任」トテ喚テ出來タリ。信濃國住人岩手三郎親子、向樣ニ歩マセケルガ、「如何ニ大竹殿カ。哀レ、モノヲバアシク計ヒ給フモノカナ。ワ殿ハ元ハ武藏國ノ住人ゾカシ。今コソ京方へモ參給タレ。其モ關東ヨリコソ進ラセタリ。侍ハワタリ者、草ノ靡ニコソヨレ。今日アル間モナキ物ヲ、能計ヒ給ハデ」トイヘバ、眞ニモトヤ思ケン、扣テ案ズル所ヲ、岩手父子押雙ベテ、觀取テ引ハリ、太トハ云へ共、指殺シテ首ヲ取。此大竹小太郎ト申ハ、關東へ、「侍ノ相撲取テシタヽカナラン者ヲ進ラセヨ」ト院ヨリ被ㇾ召シカバ、嶽部右馬允五郎ト此大竹トヲ竝べテ、「何レ共有ナン、サレ共、カハ猶大竹ニテコソアラメ」トテ、進ラセラレタリ。元ハ家光ト名乘ケルヲ、西面ニ被ㇾ召テ、院ノ家任トハ付サセ給タリケリ。

[やぶちゃん注:「進ラセ」「まゐらせ」と読む。「参らす」。

「侍ハワタリ者、草ノ靡ニコソヨレ。今日アル間モナキ物ヲ、能計ヒ給ハデ」ちょっと分かり難い。――侍というものは元来、渡り者(状況に応じて主人を替えて奉公をする者)なれば、草が風に従って靡くが如く臨機応変に勝ち目のある者に就くが得策じゃ。今日只今、その命、瞬く間に亡きものともなろうほどに。少しも上手く立ち廻ることもなされずにのう――といった意味か。「北條九代記」の方では庶民には打って響く分かり易い台詞に書き換えられてある。

「扣テ」は「ひかへて」(控へて)と読む。

「太」は「ふとし」と訓じているか。肥えている・太っているの意。力士なれば腑に落ちる。]

 京方、大妻太郎・中三郎・小島四郎、三騎連テ落行ケルガ、大妻太郎ガ申ケルハ、「我ハ痛手負タリ。敵ニ姿ヲ見へジト思程ニ、山へ入テ自害ヲセンズルナリ。ワ殿原ハ手モ負不ㇾ給。大豆渡ニ行向テ、軍ノ樣ヲモ披露シ給へ。君、軍ニ勝セ給バ、京ニ二ツニナル男子ヲ持タリ、是ニ勳功申アテ給へ」トテ山ノ方へ馳ケルガ、死モヤシケン、後ニハ行末モ不ㇾ知。中三郎・小島四郎大豆渡ニ行向テ此由申ケレバ、人々アザミアヒ色ヲ失フ。

 平九郎判官、「已ニ大炊渡破ル、事コソ安カラネ。胤義、罷向テ一軍セン」トテ、下總前司・安藝宗内左衞門尉・伊藤左衞門尉ヲ始トシテ五百餘騎、大炊渡へトテ打向。能登守被ㇾ申ケルハ、「已ニ大炊渡破レテ、東山道ノ大勢打入タリ。後ロヲ被推隔中ニ被取籠勇々敷大事也。平九郎判官殿宣フハ、事可ㇾ然共不ㇾ覺。君モ『尾張河破レバ、引退テ宇治・勢多ヲ防ゲ』トコソ被仰下候シカ。秀康ニ於テハ罷上ルナリ」トテ引退ク。平九郎判官、口惜ハ思へ共、宗徒ノ者共角イフ間、力不ㇾ及引レテ落行ケリ。

[やぶちゃん注:「宗徒」ここは「むねと」と読み、宗(むね。主となること。中心の意)となる者の意。ある集団の中に於いて主だった者、中心となる者の意。ここでは藤原。能登守秀康に代表されるその場にいた官軍武将らを指す。この退去の正当化は如何にも口実めいた謂いで、胤義も内心、既にして当方の敗北を予兆ことは難くない。]

大妻太郎の部分は「北條九代記」では省略しているが、私なら是非使いたい戦場秘話のシークエンスである。]

篠原鳳作句集 昭和五(一九三〇)年七月

城山や篠踏み分けて苺採り

 

[やぶちゃん注:「城山」言わずもがなながら、鹿児島市中央部に位置する山(標高一〇八メートル)。西南戦争最後の激戦地として知られる。クスノキ・シダ・サンゴジュなど分かっているだけで六百種以上の亜熱帯植物が自生する。「苺」これはバラ目バラ科 バラ亜科キイチゴ属 Rubus のそれであろう。]

 

神の川流れ來りし捨蠶かな

 

[やぶちゃん注:鹿児島県鹿児島市・日置市を流れる本流の二級河川。「捨蠶」すてご。養蚕に於いては病気又は発育不良の蚕は野原や川に捨てられる。それを言う。季語としては春であるが、本句は七月の発表句で鳳作は明らかにそれ(季語)を意識していないと私は思う。私は本句一読、「古事記」の哀れなる蛭子をイメージした。]

 

たまたまの晝寢も襷かけしまま

 

たまたまの晝寢も襷かけながら

 

[やぶちゃん注:前者は『七高俳句会』(昭和五年七月発行)の句形、後者は『阿蘇』(昭和五年十月発行)所収の同改稿。]

 

日を並(ナ)めて傘やく臺場築きけり

 

傘燒や音頭取の赤ふどし

 

傘火消ゆ闇にもどりし櫻島

 

[やぶちゃん注:この三句は、鹿児島の三大行事の一つとされる曽我兄弟の仇討に由来するとされる伝統行事「曽我どんの傘焼き」の情景かと思われる。私はこの祭りを全く知らないので、「鹿児島三大行事保存会」公式サイトの「傘焼き」から引用しておく(一部の改行を省略させて戴いた)。『その昔、薩摩では「郷中教育」という独特の教育制度があ』り、『そこでは、子供達を「稚児(チゴ)」「二才(ニセ)」「兄(アニョ)」と分け、年下の者は年上の者に従い、年上の者は年下の者に教育をし、武士としての教養、人徳、武芸などを学び人間性を磨いた。そこで主に、教えたものは、

1.「主君に対する忠」

2.「親に対する孝」

3.尚武(武術・武事により徳を尊ぶ)

で、あった。

子供達は「郷」ごとに集まり、身体を鍛え勉学に励んだ。その教育の一環として「曽我兄弟の話」が用いられた。「曽我兄弟の話」とは、敵討ちの話である。二人が幼い頃、父河津三郎は工藤祐経に討たれた。やがて彼らが成人し、父の仇討ちを成し遂げ時はすでに17年の歳月が流れていた。建久5年5月28日のことだった。その長きにわたり、親の事を忘れずついに仇を討ったことが、親への孝を教える教材として用いられたのである。兄弟は源頼朝に随行して富士の裾野で巻き狩りを行った工藤祐経を討ち取り永年の大願を成就した。その時、雨の降る中、傘を松明かわりにして陣屋を進んだという。この故事にならい、「傘焼き」を行い、曽我兄弟の孝心を偲び青少年教育に資質にしようとしたのが「曽我どんの傘焼き」である。薩摩では、旧暦の5月28日が近づくと、子供達が家々をまわり、古くなった唐傘を集めて、甲突川や磯の浜に持ち寄り、うずたかく積み上げ、辺りが宵の闇に包まれる頃火を放ったそうだ。唐傘は防水のために油が塗ってあったためその炎は高く燃え上がり夜空を焦がした。戦後、和傘が不足し開催を危ぶまれた時期もあったが、現在、鹿児島三大行事「曽我どんの傘焼き」保存会が中心となり、毎年7月に開催されている』とある。こちらの「鹿児島市医報」に載る俳句記事の記載によると「傘焼」で「かさやっ」と読み、現在では『傘を集めにくいこともあり、昔のように、どこの町村でもやっているわけでは』ないとあり、往時に盛んに行われていた頃には、『褌に白鉢巻の裸ん坊たちは、燃え上がる傘火を回りながら、曽我兄弟の歌を大声で歌い、血をおどらせたもので』あったと記されておられる。

 因みに、昭和五年の旧暦五月二十八日は六月二十四日である。もし、実際に旧暦で行われていたとすれば、これらの句群はその日に行われた祭りの嘱目吟と考えられるが、当時、旧暦で行っていたかどうかは確認出来ていない。ただ、新暦五月二十八日の景となると、七月の俳誌に投稿するものとしては少し時期外れではあり、現在の保存会の七月のそれではタイム・ラグがあってあり得ない。

 なお、ここまで「たまたまの」の別稿を除き、以上は七月の創作及び発表句。]

杉田久女句集 44 久女のダルな夏――

さうめんや孫にあたりて舅不興

 

新茶汲むや終りの雫汲みわけて

 

枕つかみて起上りたる晝寢かな

 

夏瘦のおとがひうすく洗ひ髮

 

夏瘦や頰も色どらず束ね髮

 

ホ句のわれ慈母たるわれや夏瘦ぬ

 

子らたのし夏瘦もせず海に山に

 

歸省子に糸瓜大きく垂れにけり

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十三年 旅雜草

 旅雜草

 

  神戸港

 

新樹荒れタクシー水漬(みづ)きつつ驅くる

 

新樹荒れ埠頭の鐡路浪驅けり

 

  蓬萊丸

 

夏潮の靑さ絨毯をふみて船室

 

銀河濃し無電の部屋へ階をのぼる

 

船檣に夏夜の星座ゆるる愉しさ

 

夏曉(あけ)のオリオンを地に船着けり

 

[やぶちゃん注:「蓬萊丸」は台湾航路で使用された大阪商船所属の大型客船蓬莱丸(九二〇五トン)のことであろう。]

 

  雲仙

 

夜の輕羅硬きナプキンを手にひらく

 

[やぶちゃん注:「輕羅」は「けいら」と読み、紗・絽などの薄い絹織物。また、それで作った単(ひとえ)。薄物のこと。無論、多佳子の装束である。]

 

  長崎

 

遠花火夜の髮梳きて長崎に

哀しみの 秋   八木重吉

わが 哀しみの 秋に似たるは

みにくき まなこ病む 四十女の

べつとりと いやにながい あご

 

昨夜みた夢、このじぶんに

『腹切れ』と

刀つきつけし 西郷隆盛の顏

 

猫の奴めが よるのまに

わが 庭すみに へどしてゆきし

白魚(しらうを)の なまぬるき 銀のひかり

 

[やぶちゃん注:三連は各自が自律し乍ら、同時にそれらが不思議な鎖となる。――悲愁の秋のダルな景から――おぞましき夢見を経――薄ら寒くしかも饐えた臭いの早朝の庭隅の猫の白魚の混じった反吐へとクロース・アップする――恐るべき哀傷と幻想とリアリズムの三篇からなる一つの有機的化合物である。「秋の瞳」中、特異点の詩の一つである。]

鬼城句集 冬之部 枯蓮

枯蓮    蓮の葉の完きも枯れてしまひけり

[やぶちゃん注:「しまひけり」の「し」は「志」を崩した草書体表記。「完きも」は「またきも」と訓じているものと思われる。「またし」は今の形容詞「完(まった)し」で、完全だの意、「も」は係助詞で詠嘆であろう。]

2014/02/03

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 ホヤ

【和品】

ホヤ 海參ニ似テ色赤黑形圓シ冬アリ夏稀ナリ堅硬ノ物ナリ非佳味

〇やぶちゃんの書き下し文

【和品】

ホヤ 海參〔なまこ〕に似て、色、赤黑、形、圓〔まろ〕し。冬あり、夏、稀なり。堅硬〔けんかう〕の物なり。佳味に非ず。

[やぶちゃん注:私の最も偏愛する海棲生物の一つである脊索動物門尾索動物亜門海鞘(ホヤ)綱壁性(側性ホヤ)目褶鰓亜目ピウラ(マボヤ)科のマボヤ Halocynthia roretzi 若しくはアカボヤ Halocynthia aurantium。ホヤに関しては多くの記載を私はものしている。最近のものではブログの海産生物古記録シリーズで『「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載』『後藤梨春「随観写真」に表われたるボウズボヤ及びホヤ類の記載』『広瀬旭荘「九桂草堂随筆」に表われたるホヤの記載』の三つがあり、相応にマニアックなオリジナル注満載で、これらはまた、本記載との江戸期の博物学記載の対照資料としても是非、お読み戴きたい。古くは寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「老海鼠 ほや」の項もどうぞ。

「冬あり、夏、稀なり」不審。ホヤは晩秋十一月頃から翌年の春にかけてが産卵期でその時期には商業的な本格的漁獲も避けられている。漁期としては四月から八月で、通念上は五月から八月までの夏場を旬とする。これはホヤが豊富に持つグリコーゲンの含有量がこの時期には冬に比して何倍にもなって甘みと旨味も増すからである。ホヤは現在でも北海道と東北地方太平洋側の青森県・岩手県・宮城県が主な養殖及び採取地で、益軒は筑前国(現在の福岡県)福岡藩士であったから馴染みがなかったものか、「佳味に非ず」と断じて記載もそっけないところをみると、磯臭く上に多量に含まれるバナジウムによるやや金属的な味のホヤは苦手だったものらしい。私は、そもそも外皮の「堅硬」を言ったきりで内部の筋体部の解説がないところは実際にはちょっと食ってみて「こりゃ、だめだ」っていうのが本当のところだったんじゃあないかと密かに疑っている。……ちょっと残念だなぁ……]

    以上蟲類之可食者也

〇やぶちゃんの書き下し文

    以上、蟲類の食ふべき者なり。



今日はこれを作製した後に起こった夕刻の娘の暴漢致傷騒ぎで少々消沈したによってこれにて仕舞いと致す。
悪しからず。

三女アリス暴漢に襲はれ重傷を負ひたり

ビーグル犬娘三女アリス、我と夕刻の散歩中にすれ違ひし若き柴犬が暴漢に右耳をしたたかに嚙みつかれ、耳たぶの中央部動脈と耳端の一部を無惨にも噛みちぎられて出血夥しければ、動物病院に連れ行くに三箇所を縫ふ大怪我たり。傷口をプロテクトせんがためのプラスチックの首周りのマスクを装着させられければ、恰も宇宙人の如くなれり。マスクの邪魔なれば家に通ぜる階段さへ登れず、肥満したる娘の体を抱えて家に帰れば、やはりマスクがために犬小屋に入ることも容易ならざれば、今宵は隣家の父の家に寝かせたり。食欲旺盛にして尻尾も元気に振りたればこそ先づは安心致せしが、我らは少々疲労困憊致せり。されど十日の間もかのマスクをせずんばならざる我が娘がことを思へばこれまた深き慚愧の念に堪へず――

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 9 職人たちの仕草 / 薔薇 / キセルガイ / ビワ / 労賃の格安さ / 大久保事件後高官には護衛兵が同行

M306
図―306

 

 五月のなかば――あたたかくて、じめじめし、植物はすべて思う存分生長している。我々の庭の薔薇(ばら)は実に見事である。最も濃い、そして鮮かな紅色をしている花は大きく、花弁は一つ残らず完全で、その香といったら、たとえるものも無い。町を歩きながら、私は塀や垣根から、蝸牛(かたつむり)の若干の「種」を採集する。この前の日曜日に、私は学生の一人と植物園へ行って、キセルガイをいくつか集めた。これは欧洲によくある、細長い、塔状渦巻のある只の「属」で、いくつかの「種」がある。ビワと称する果実が、今や市場に現れて来つつある。その形は幾分林檎に似ているが、味は甘く、西洋李みたいで、林檎らしいところは少しも無い。種子が三個、果実全部を充す位大きい(図306)。

[やぶちゃん注:「キセルガイ」原文“Clausilia”。腹足綱有肺目キセルガイ科 Clausliidae の陸棲貝類の総称。私の家の周囲にも幾らもいるが、現在でもこの手の陸棲貝類の研究は海棲貝類に比べると人気の裾野も広くなく、あまり進んでいるとは言えないように思われる。なお、ウィキの「キセルガイ」の「人とのかかわり」の項には、これらの仲間が肝臓の民間薬として使用されていること、『乾燥や飢餓に比較的強く、殻内に入ったまま長期間(数ヶ月以上)生存するため、旅や出征に赴く際に神社の樹から採ってお守りとして持ち歩き、無事帰還したときに再び神社の木に戻す』といった古くからの信仰対象でもあったことなどが記されてあり、興味深い。

「ビワ」バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科ビワ Eriobotrya japonica。リンゴ(セイヨウリンゴ Malus pumila)は同じナシ亜科に属する。

「西洋李みたいで」原文“plummy”。バラ科サクラ属スモモ亜属セイヨウスモモ Prunus domestica。今ならプラムとそのまま訳に使うところ。]

 

 いろいろな仕事の労銀が、実に安い。懐中時計修繕人が、私のためにある仕事をしてくれた。彼が五十セントを請求したとしても、私は何等抗議することなく払ったであろうが、而も彼は只の六セントを要求した丈であった。また私の顕微鏡用切断器の捻子(ねじ)が一つ曲ったのを、真直にするのには、二セントかかった丈である。

[やぶちゃん注:「顕微鏡用切断器」原文“section cutter”。所謂、今のミクロトームのことであろう。私は高校時代、生物部でミクロトームの切片作製担当であった。今でも忘れられないのはカエルの脳下垂体のプレパラート化のために頭頂から頸部までをテッテ的に切片化した経験か。こんな猟奇的な体験のある方は、まあ、そう多くはないであろう。]

 

 大久保伯が暗殺されてから、政府の高官達は護衛兵をつれて道を行くようになった。より改進的な日本人達は、この悲劇によって、まったく落胆(がっかり)して了った。何故かといえば、このような椿事が起るのを常とした、封建時代に帰ったように思われるからである。

[やぶちゃん注:大久保利通暗殺事件の前注を参照されたい。]

或る野戰病院における美談 萩原朔太郎

       ●或る野戰病院における美談

 

 戰場に於ける「名譽の犧牲者」等は、彼の瀕死の寢臺を取りかこむ、あの充電した特殊の氣分――戰友や、上官や、軍醫やによつて、過度に誇張された名譽の頌讚。一種の芝居がかりの緊張した空氣。――によつて、すつかり醉はされてしまふ。彼の魂は高翔し、あだかも舞臺に於ける英雄の如く、悲壯劇の高調に於て絶叫する。「最後に言ふ。皇帝陛下萬歳!」と。けれども或る勇敢の犧牲者等は、同じ野戰病院の一室で、しばしば次のやうに叫んだらう。「人を戰場の勇士に驅り立てるべく、かくも深く企まれた國家的奸計と、臨終にまで強ひられる酒に對して、自分は決して醉はないだらう。最後に言ふ。自分は常に素面(しらふ)であつた。」と。

 しかしながらこの美談は、後世に傳はらなかつたのである。

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の「社会と文明」より。太字「美談」は底本では傍点「●」。]

萩原朔太郎 あひゞき 短歌五首 大正二(一九一三)年十月

   あひゞき

                   夢みるひと

あいりすのにほひぶくろの身(み)にしみて忘(わす)れかねたる夜(よる)のあひゞき

しなだれてはにかみぐさも物(もの)は言(い)へこのもかのものあひゞきのそら

夏(なつ)くれば君(きみ)が矢車(やぐるま)みづいろの浴衣(ゆかた)の肩(かた)ににほふ新月(にひづき)

なにを蒔(ま)く姬(ひめ)ひぐるまの種(たね)を蒔(ま)く君(きみ)を思(おも)へと淚(なみだ)してまく

いかばかり芥子(けし)の花(はな)びら指(ゆび)さきに泌(し)みて光(ひか)るがさびしかるらむ

          (一九一三、四)

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年十月二日附『上毛新聞』に標記通り、「夢みるひと」名義で掲載された五首連作。朔太郎満二十六歳。太字「あいりす」は底本では傍点「ヽ」。

 「あいりす」は単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属 Iris の総称。ハナショウブが根や茎に香りを持つのに対し、アヤメは花から清潔感のある香りを放つ。特にイタリア産アイリスの花はその非常に良い香り立ちから香料として人気が高い(香料通販会社の記載を参考にした)。

 第四首目は同年四月の『朱欒』投稿の、

なにを蒔くひめひぐるまの種を蒔く君を思へと淚してまく

の標記違いの同一首。]

篠原鳳作句集 昭和五(一九三〇)年六月

蕗の葉を傾けてゐる蜥蜴哉

 

麥の穗を插しある銀の花瓶かな

 

花棕梠や園丁につと夏帽子

 

[やぶちゃん注:「花棕梠」棕櫚の花で一応、単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属ワジュロTrachycarpus fortune の花に同定しておくが、実際にはシュロと言っても多様なシュロ属を指しているケースが多い。雌雄異株であるが稀に雌雄同株も存在する。雌株は五~六月に葉の間から花枝を伸ばして微細な粒状の黄色い花を密集して咲かせる(果実は十一~十二月頃に黒く熟す。ここまではウィキの「シュロ」に拠った)。「につと」が如何にも諧謔味に富み、しかも巧まずしてリアリズムであると同時に奇妙な南洋幻想をも孕んだ佳品であると思う。]

 

蜘蛛の陣露をくさりて大たるみ

 

溶岩(イワ)山に梟鳴ける良夜哉

 

傘燒く火岸の人垣照しけり

 

[やぶちゃん注:以上、六句は六月の創作及び発表句。]

杉田久女句集 43 蟲干やつなぎ合はせし紐の數

蟲干やつなぎ合はせし紐の數

 

[やぶちゃん注:「蟲」は底本では「虫」である。容易に想像がお出来になると思うが、「蟲」の字を生理的に嫌悪する作家は芥川龍之介を始めとして殊の外多い(書くのが面倒臭いという意味もあるかも知れない)。ただ私の筑摩書房一九六七年刊「現代日本文学全集 巻九十一 現代俳句集」に所収する「杉田久女集」を底本とした「杉田久女集」を見て戴けば分かる通り、そこでは当該字を含む三句ある総てが「蟲」と表記されている(但し、これは久女没後の選集であり、編者による編集方針で正字化された可能性も頗る高いから確実な証左とはならない)ことに鑑み、「蟲」とした。以下、同様の仕儀を行うが、この注は略す。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十三年 靑き阿蘇

 靑き阿蘇

靑草の草千里濱天さびし

[やぶちゃん注:「草千里濱」熊本県阿蘇市永草草千里ヶ浜のこと。鳥帽子岳中腹に広がる草原で阿蘇の代表的な景観。ここ草千里ヶ浜には二つの池があり、渇水期には水がないが、梅雨時や雨が降った後などには暫らく水が溜まり池となり、その折りの景を浜と擬えたものであろう。]

驅くる野馬(やば)夏野の靑にかくれなし

[やぶちゃん注:草千里ヶ浜では馬の放牧が知られ、現在も引き馬に乗っての乗馬が楽しめる。]

靑牧に中岳(なかだけ)霧を降ろし來る

[やぶちゃん注:「中岳」阿蘇山を構成する山の一つで標高一五〇六メートル(高岳の一五九二メートルに次ぐ阿蘇二番目の高峰)で阿蘇山のメインである第一及火口及び第二火口の他、第七火口まで大きな火口(跡)が砂千里浜のある南東方向に分布している。]

日輪に靑野の霧が粗(あら)く降る

霧ゆきて炎(も)ゆる日輪をかくさざる

夏雲に胸たくましき野馬驅くる

夏雲に昂る野馬が野を驅くる

  第一火口

溶岩(らば)を攀ぢ夏草山を四方に見ず

[やぶちゃん注:「溶岩(らば)」の「らば」は日本語ではない。火山国イタリアの「流れ」という意味のイタリア語“lava”に基づき、溶岩流及び流出後に固まった溶岩などを指す語である。]

霧卷くに炎(も)ゆる日輪懸りたる

岩燕泥濘たぎち火口なり

[やぶちゃん注:「岩燕」スズメ目スズメ亜目ツバメ科ツバメ亜科 Delichon 属 Delichon urbica。アフリカ大陸・ユーラシア大陸・インドネシア・日本・フィリピンに分布し、夏季にアフリカ大陸北部やユーラシア大陸で繁殖、冬季になるとアフリカ大陸やインド北部・東南アジアへ南下して越冬する(中華人民共和国南部などでは周年生息する)。日本には亜種イワツバメ Delichon urbica dasypus(これをを独立種とする説もあり、その場合には標準種である Delichon urbica の和名はニシイワツバメとなる)が繁殖のために夏鳥として九州以北に飛来するが、西日本では渡来地は局地的。温暖な地域では越冬することもある。全長一三~一五センチメートルで尾羽はアルファベットのV字状を呈し、嘴は黒い。趾は白い羽毛で覆われている。Delichon urbica dasypus は全長一三センチメートル、体形は細く、尾羽の切り込みは浅い。上面は光沢のある黒褐色で下面が汚白色の羽毛で覆われ、腰は白い羽毛で覆われている。平地から山地にかけて生息し、食性は動物食で、群れで飛行しながら口を大きく開けて獲物である昆虫を摂餌する。卵生で海岸や山地の岩場に泥と枯れ草を使って上部に穴の空いた球状の巣を作り、日本では四~八月に一回に三~四個の卵を産む。岩場に集団で営巣することが和名の由来である(以上はウィキの「イワツバメ」に拠った)。]

火口壁灼くるに人を見し驚き

[やぶちゃん注:阿蘇山の火口は新旧大小取り混ぜて数多く存在するが二〇一四年現在では活発に活動を続けているのは中岳のこの第一火口だけである。火口の直径は約六百メートル、深さ約百三十メートルで、吹き上がる溶岩の温度は一〇〇〇度~一二〇〇度に達する。静穏時には雨水が溜まって五〇~八〇℃の湯となっている。火口の池は周囲の岩石から溶かし出された鉄(緑)と銅(青)の色によって青緑色を呈する(観光情報サイト「阿蘇阿蘇! ドットコム」の阿蘇観光一番の人気スポットは大噴火口、地獄の釜を覗いてみませんかの記載に拠った)。]

第二火口

火噴くとき夏日を天に失へり

噴煙は灼くる天搏ち卷き降(くだ)る

神の火に對ひ炎日を忘れたり

噴煙の熱風に身を纏かれたり

[やぶちゃん注:「第二火口」第一火口の南東直近にある。昭和初期までは盛んに活動していたとあるので、まだ多佳子が訪れた頃にはこうした光景が見えたものらしい。……最後の句など、多佳子をそこに配しただけで、一転、妖艶な句となる。まさに多佳子マジックである……]

蝕む 祈り   八木重吉

うちけぶる

おもひでの 瓔珞

悔ゐか なげきか うれひか

おお、きららしい

かなしみの すだま

 

ぴらる ぴらる

ゆうらめく むねの 妖玉

さなり さなり

死も なぐさまぬ

うんらんと むしばむ いのり

 

[やぶちゃん注:「悔ゐか」はママ。最終行冒頭の「らんらんと」は底本では「うんらんと」であるが、意味が通じず、諸本は総て「らんらんと」とするので、ここも誤植と断じて訂した。]

鬼城句集 冬之部 落葉

落葉    落葉して心元なき接木かな

      二三疋落葉に遊ぶ雀かな

2014/02/02

本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 8 明治11(1878)年5月14日に東京は red slope bite different で起きた great long keep Interior business minister 殿の暗殺事件の顛末と処断についてのモースの見解

 五月十五日。昨日胆をつぶすような事件が起った。政府の参議の一人なる大久保伯爵が暗殺されたのである。彼はベットー二人をつれて、馬車で宮城から帰りつつあった。ベットーは馬の先に立って走っていたが、突然八人の男が馬車へとびかかり、先ず馬の脚をたたき切って走れぬようにし、次に御者と二人のベットーを殺し、最後に伯爵を殺した。暗殺者はそれから宮城へ行って、反政府の控訴状を差出し、彼等の罪を白状した。即刻巡査が召集され、暗殺者は牢獄へ連れて行かれたが、途中大声で自分達の罪を揚言した。このような悲劇的な事件は、ここ数年間日本で起らなかったので、この事は市中で深刻な感情を煽り起した。大久保伯爵は政府の最高官の一人で、偉大な知能と実行力とを持っていた。然し、政府の浪費が激しいというので、大いに苦情があったらしい。暗殺した人々は、加賀の国から来た。この事変は、大学から半マイルも離れていない所で行われた。大久保伯の令息の一人は、私の学級にいる。

[やぶちゃん注:明治一一(一八七八)年五月十四日に内務卿大久保利通が東京府麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町)で不平士族六名によって斬殺された大久保利通暗殺事件である。紀尾井坂(きおいざか)の変・紀尾井坂事件とも。以下、近代史には疎いのでウィキの「紀尾井坂の変」から引用すると、『実行犯は石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名から成る(脇田は暗殺にあたり罪が家に及ぶのを恐れて士族を辞めて平民になった)。その中でも特に中心的存在であるのが島田一郎である。島田は加賀藩の足軽として第一次長州征伐、戊辰戦争に参加しており、明治維新後も軍人としての経歴を歩んでいたが、征韓論に共鳴しており、明治六年政変で西郷隆盛が下野したことに憤激して以後、国事に奔走』、『杉村寛正(杉村文一の兄)らも征韓論にあたり従軍願いを出している。さらに台湾出兵にあたっては杉村・長らは再び従軍願いを出しており、台湾出兵中止の噂に対する反対の建白書や佐賀の乱の処理を批判する建白書には杉村(寛)・島田・後に斬奸状を起草する陸義猶(陸九皐)が名を連ねている。しかし、これらの建白書は期待した効果を生まず、島田らは実力行使路線を採ることになる。1874年(明治7年)に島田と長は東京で会い、意気投合』、『長は1874年(明治7年)6月に、台湾出兵について西郷、桐野利秋の見解を聞きに杉村(寛)、陸と鹿児島入りしている。長は半年ほど鹿児島に滞在し私学校に留学している。長は1876年(明治9年)にも鹿児島入りして桐野らと旧交を温めている』。『長が帰県した10月には神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族反乱が相次ぎ、島田も金沢で挙兵計画に奔走するが失敗。さらに翌1877年(明治10年)の西南戦争では、島田と長が協力して挙兵計画に奔走したが、周囲の説得に苦慮している間に、4月に政府軍が熊本城に入城したとの情報を得て、勝敗は決したと計画を中止した』。『この後、島田らは高官暗殺に方針を変更する。杉本・脇田・杉村らもこの時期に島田の計画に加わっている。脇田は10月、長は11月、杉村は12月、島田、杉本は翌年4月に上京』、『唯一の島根県人である浅井は西南戦争当時警視庁の巡査であり警視隊に属して従軍し、1877年(明治10年)8月に東京に凱旋していたが、禁令を犯して1878年(明治11年)2月に免職となり、3月に島田らの暗殺計画を知って計画に加わった』。『彼らの暗殺計画は複数のルートを経て、当時の警察のトップである大警視川路利良の耳にも入っていたが川路は「石川県人に何ができるか」と相手にしなかった』という。当日の『5月14日早朝、大久保は福島県令山吉盛典の帰県の挨拶を受けている。話は2時間近くに及び、山吉が辞去しようとしたときに大久保は三十年計画について述べている。これは明治元年から30年までを10年毎に3期に分け、最初の10年を創業の時期として戊辰戦争や士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期として、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べるものであった』。『午前8時ごろ、大久保は麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発。明治天皇に謁見するため、二頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かう。午前8時30分頃、紀尾井町清水谷(紀尾井坂付近。現在の参議院清水谷議員宿舎前)において、暗殺犯6名が大久保の乗る馬車を襲撃。日本刀で馬の足を切った後、御者の中村太郎を刺殺。次いで乗車していた大久保を馬車から引きずり降ろした。大久保は島田らに「無礼者」と一喝したが、斬殺された(享年49〈数え年〉、満47歳没)。介錯として首に突き刺された刀は地面にまで突き刺さっていた。『贈右大臣正二位大久保利通葬送略記・乾』によると大久保は全身に16箇所の傷を受けていた。そのうちの半数は頭部に集中していた。事件直後に駆けつけて遺体を見た前島密は、「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と表現している』。『島田らは刀を捨てて、同日、大久保の罪五事と、他の政府高官(木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良)の罪を挙げた斬奸状を手に自首した』。『島田らが大久保暗殺時に持参していた斬奸状は4月下旬に島田から依頼されて陸が起草したものである。有司専制の罪として以下の5罪を挙げている。

国会も憲法も開設せず民権を抑圧している。

法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。

不要な土木事業・建築により国費を無駄使いしている。

国を思う志士を排斥して内乱を引き起こした。

外国との条約改正を遂行せず国威を貶めている。』

翌日『大久保および御者の中村の慰霊式が行われ、17日に両者の葬儀が行われた。大久保の葬儀は大久保邸に会する者1,200名近く、費用は4,500円余りという近代日本史上最初の国葬級葬儀となった』。『警察の捜査は厳重を極め、斬奸状を起草した陸や、島田に頼まれ斬奸状を各新聞社に投稿した者(しかし各紙に黙殺されて掲載されなかった。「朝野新聞」は要旨を短く紹介したが即日発行停止を命じられた)、事件を聞いて快哉を叫んだ手紙を国許に送っただけの石川県人など30名が逮捕された』。『政府は暗殺犯を刑法上規定がない「国事犯」として処理し、大審院に「臨時裁判所」を開設して裁判を行った。臨時裁判所は形式上は大審院の中に存在するが、実際は、太政官の決裁により開設し、太政官から司法省に委任された権限に基づいて判決を下す事実上の行政裁判所であった。司法卿によって任命された玉乃世履判事らは同年7月5日に判決案を作成し司法省に伺いを立て、司法省では、これを受けて7月17日に太政官に伺書を提出した。太政官は7月25日に決裁し、7月27日に6名は判決を言い渡され、即日、斬罪となった。斬奸状を起草した陸は終身禁錮刑に処せられたが、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法発布により特赦を受けて釈放された』。『この事件を機に、政府高官の移動の際は、数人の近衛兵らによる護衛が付くようになった』とある。逸話の項によれば、『斬奸状には大久保が公金を私財の肥やしにしたと指摘があったが、実際は金銭に対しては潔白な政治家で、必要な公共事業を私財で行うなどしていたため、死後は8,000円もの借金が残ったという』。『しかし、このまま維新の三傑である大久保の遺族が路頭に迷うのは忍びないという配慮から、政府は協議の上、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めて、この1万6,000円で遺族を養うことにした』とあり、また『斬奸状に記された「国を思う志士」とは恐らく西郷隆盛・前原一誠・江藤新平らの事だと思われる。大久保が彼らを排斥したという指摘から、大久保は現在でも保守層に嫌われていると思われがちだが、実際は立憲制や国会開設に積極的だった事で、右派でも左派でもない、ほぼ中庸をいく政治家だったという』。さらにこの襲撃時の馬車であるが『後に供養のため遺族が岡山県倉敷市の五流尊瀧院に奉納し現存している』とあり、さらに興味深い予知夢として、『前島密は事件の数日前に、大久保から「西郷と口論して、私は西郷に追われて高い崖から落ちた。自分の脳が砕けてピクピク動いているのがアリアリと見えた」という悪夢を聞いている。このことが事件直後の』前島の証言の『印象につながっている』とある。これは私には夢自体が実に興味深い。なお、ウィキの「大久保利通」によれば、『大久保はプロイセン(ドイツ)を目標とした国家を目指していたといわれ』、『明治6年(1873年)以降の大久保存命中の政権は、一般に「大久保政権」と呼ばれる。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構(霞ヶ関官界)の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている』。『明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。また自ら総裁となり、上野公園で8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催している。その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた』(下線やぶちゃん)とあって、この内国勧業博覧会に好意的だったモースは、大久保にも好感を持っていた可能性が高いと思われる。

「ベットー」原文“bettos”。別当は院の厩司(うまやのつかさ)の別当から転じた職名で馬丁のこと。ここでこの二人の馬丁もモースは殺されたと記すが、ある情報では馬丁は一人で逃げて助かったとある。識者のご教授を乞うものである。

「大学から半マイルも離れていない所」「半マイル」約800メートル。この数数値は不審。事件現場と神田一ツ橋の東京大学とは直線でも皇居を隔てて2・6キロメートルもある。私はこれはモースが「ここからどれくらい離れているのか?」と誰かに訊ねた際、相手が起点地を天皇の在地(この時は現在の赤坂御用地にあった赤坂仮御所、現在の東宮御所付近)と事件現場の距離を聴かれたものと勘違いして、かく答えたものではないかと疑っている。現在の東宮御所で直線距離約900メートル、現在の迎賓館正門位置までならば同660メートルもないからである。大方のご批判を俟つ。

「大久保伯の令息の一人は、私の学級にいる」年齢と経歴から察すると大久保の次男である牧野伸顕(文久元(一八六一)年~昭和二四(一九四九)年)か。生後間もなく利通の義理の従兄弟に当たる牧野吉之丞の養子となったものの、すぐに吉之丞が亡くなったために名字を牧野のままに大久保家で育った。明治四(一八七一)年に十一歳で父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米、フィラデルフィアの中学校を経て、明治七(一八七四)年に帰国して開成学校(後の東京大学)に入学、明治一三(一八八〇)年に東京大学を中退して外務省入省してロンドン大使館に赴任、憲法調査のため渡欧していた伊藤博文と知りあっている。その後、福井県知事・茨城県知事・外務大臣・農商務大臣・文部大臣・内大臣・宮内大臣・枢密顧問官を歴任、二・二六事件では親英米派として命を狙われた。第二次世界大戦下にあっても昭和天皇の信頼は衰えず、戦後もオールド・リベラリストの一人として評価は高かった(以上はウィキの「牧野伸顕」に拠った)。]

M305

図―305

 

 朝刊新聞の一つが昨夕、ここに出した付録(図細305)を発行し、購読者全部に配布した。高嶺氏が私に彼の分をくれた。それはこの悲惨な出来ごとを簡単に述べたもので、私は高嶺氏に、これ等の文字を順序に従って、直解的に訳してくれぬかと依頼した。右手の行のてっぺんから読み始めて、それは以下の如くである――“New morning great long keep Interior business minister grammatical character red slope bite different in traitor of action by cut killed has been of grammatical character terrible yet detailed fact grammatical characterlight day. 5 month, 10-4 day, special distribution reach.”――新聞の名前は左の下部に出ている。これによっても人は、これから何等かの意味をつかみ出す為に、どれ程細かに調べねばならぬかということと、漢字を読むことは、よしんばそれを全部知っていても、如何に困難であるかが判るであろう。以下のものから、一つの成句を構成することは、困難と思われる ――“Red slope bite different in traitor of action by cut killed has been.”“Red slope”は暗殺が行われた場所の名前であり、“bite different”は道路が交叉する場所を示す語である。この成句を逆に読むことが、我々の成句の構成法になるらしい。日本語には冠詞は無いが、それをつけ加えて、我々は、“Has been cut and killed by the action of traitors in different bite of Red Slope.”と読む可きである。“yet detailed fact light day,”なる表現は、明朝もっと詳しいことを知らせるの意味である。本文中のある語は、発音字で綴ってあり、他の字は高嶺氏に説明の出来ぬ、文法的の表現を代表している。

[やぶちゃん注:図305を電子化しておく。

 

今朝大久保内務卿ハ赤坂喰違ひにてて賊の爲に切害され

ましたのハ恐れ入ッた次第猶委しいことハ明日

  五月十四日別配達         日 就 社

 

なお、この「日就社」とは、この四年前の明治七(一八七四)年の十一月二日に写真合名会社「日就社」が創刊した『讀賣新聞』の出版元で無論、現在の「読売新聞」の前身である。初代社長は子安峻。部数は約二百部の隔日刊で題号は「読みながら売る」瓦版に由来する(「読売新聞社」公式サイト内の「読売新聞小史」に拠る)。

「高嶺氏」既に注の中で示したが、再掲すると高嶺秀夫(安政元(一八五四)年~明治四三(一九一〇)年)は教育学者。旧会津藩士。藩学日新館に学んで明治元(一八六八)年四月に藩主松平容保(かたもり)の近習役となったが九月には会津戦役を迎えてしまう。謹慎のために上京後、福地源一郎・沼間守一・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の塾で英学などを学び、同四年七月に慶応義塾に転学して英学を修めた(在学中に既に英学授業を担当している)。八年七月に文部省は師範学科取調のために三名の留学生を米国に派遣留学させることを決定、高嶺と伊沢修二(愛知師範学校長)・神津専三郎(同人社学生)が選ばれた。高嶺は一八七五年九月にニューヨーク州立オスウィーゴ師範学校に入学、一八七七年七月に卒業したが、この間に校長シェルドン・教頭クルージに学んでペスタロッチ主義教授法を修めつつ、ジョホノット(一八二三年~一八八八年:実生活にもとづく科学観に則る教授内容へ自然科学を導入した教育学者。)と交流を深め、コーネル大学のワイルダー教授(モースの師アガシーの弟子でモースの旧友でもあった)に動物学をも学んだ。偶然、モースの再来日に同船して帰国、東京師範学校(現在の筑波大学)に赴任、その後、精力的に欧米最新の教育理論を本邦に導入して師範教育のモデルを創生した。その後,女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授や校長などを歴任した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

great long keep」が「大久保」という固有名詞の単漢字「直解」英語である。

「〔grammatical character〕」この最初の箇所は日本語特有の文法的文字ということで、取り立ての係助詞「は」を指している。なお、原文では「〔 〕」ではなく、半角の“[ ]”で括られている。石川氏は自分の割注を〔 〕で挿入しておられるので、ここはそのままの方が訳としてはよかったはずだか、恐らくはまだまだ半角の[ ]を見慣れない読者が、それを英文脈で見たときに、“l”などの文字と誤認することを配慮されたものと思われる。

traitor」反逆者・裏切り者・売国奴。

「〔grammatical character〕」この二箇所目のそれは「されましたのは」の、受身の助動詞「され」連用形+謙譲の助動詞「ます」連用形+過去助動詞「た」終止形+準体助詞「の」(活用語に付いてその語を名詞と同じ格にすることを表す)+取り立ての係助詞の、「ます」と「「は」の二字相当ということになろうか。

「〔grammatical character〕」この三箇所目は最初と同じく係助詞「は」を指す。

「発音字」底本では直下に石川氏による『〔仮名〕』という割注が入っている。先の係助詞が「ハ」と表記されていることを指している。この段、惨たらしく殺された大久保利通には、これ、悪いが――面白い!]

 

 翌朝の新聞は、更に詳細を報道した。まだ若い犯人達は、ある秘密結社の会員であったが、手に負えなくなったので、追い出されたらしい。そこで彼等は東京へ出て来た。警察は彼等が何か悪事を企らんでいるという警告は受けたが、どこで何をやるかは判らなかった。事変後彼等は大人しく捕えられ、即刻裁決されて、手取早く死刑になった。感情的精神錯乱の歎願も、最初の告訴を誤ったので下手人が別の人で逃げて了ったということも、間違った法廷で審判することも、より上の裁判所へ上告することも、陪審員の意見が一致しない結果、犯人が最後に自由になるということも、一切無いのは興味が深い。すべて、それ等の結果は、世界長高の謀殺率を持つ、我がめぐまれたる米国で、事を行うのとは、非常に違う。

[やぶちゃん注:先の事件の引用注を見て貰えば分かる通り、当時としてはここに示されたモースの情報はかなりディグされたものである。またモースはこの重大事件の裁判と刑の執行が二ヶ月余りで処理されたこと、特にいち早く暫罪の決着をつけたことを積極的に評価してもいる(それは大久保を近代化の旗手として高く評価していたからでもあろう)。それどころか寧ろ、当時のアメリカの陪審制度に対する批判的な視点すら見受けられる。私は当時の本件の裁判判決のスピード、今の陪審員制度を導入した日本の裁判員制度の可否、モースのこれらの感想については今は綜合的に自身の見解を述べ得るだけの整理はついていない。ただ、感じることは、調べれば調べるほど、大久保利通暗殺の犯人たちは今で言うところのテロリストではないと私は思うと述べておこう。現代のテロリストの首謀者は結局、十中八九、自らの命を惜しんでいるからである。彼らはヒットマン・アサッシンをまことしやかな論理や怪しげな教義や薬物によって教唆し、実行行為をそうした他者に為さしめては自らはネット上の動画の中でニヒルな笑いのまま安穏としている。無論、そうした組織の背後にあって、一見合法的な面をしているフィクサーがそうしたテロリストを神にでもなったつもりで操っている張本であるケースもあろうから、そういう実行犯は実はいいようにやはり使われている犬死だとも確かに言えるのであるが、それにしてもこの場合のように自律的な判断の究極に於いて(それが幾分、前時代的であり、近視眼的であるという誹りは免れないとしても)死を賭してターゲットを「天誅」し、自ら投降自首してきた死を覚悟した連中を「テロリスト」と呼ぶには躊躇せざるを得ないのである。無論、私はそれによって彼らの行為を正当化しようという気持ちはさらさらない。如何なる犯罪も結局は実行者の性的エクスシーと直結していると考える私は、どんな高邁な思想を以って論理武装しようと、本質的には皆一律に猥雑な変態性欲の代償行為なのだとどこかで思っているからである。但し――自分も含めてという条件で――ね――]

耳嚢 巻之八 其職其器量ある事

 其職其器量ある事

 

 尾州家に物頭(ものがしら)勤ける津金文左衞門は、和漢の學才ありて、親の代より冷泉家の門弟にて爲村卿に隨身(ずいじん)しけるが、和歌の大事祕決等に至り不心得(こころえざる)事ありとて、古歌を引(ひき)、其不審を認(したため)、爲安の卿へ捧げけるを、爲安一覽のうへ、文左衞門は和歌の趣意は何と心得たるやと斗(ばかり)にて憤りの答(いきどほり)にて、如何歌道の趣心得候哉(や)と尋(たづね)ありける時、文左衞門答(こたへ)に、年來(としごろ)、御厚恩の御指南は蒙り候得ども、家業武道にて歌は慰(なぐさめ)に詠(よみ)候ゆゑ歌道の趣意は不辨(わきまへず)と申(まうし)ける由、依之(これによつて)冷泉家は破門なりしとかや。されど武夫(ぶぶ)の見識又かくも有(ある)べきと人語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:技芸絡みの武士道第一とする変型武辺物。

・「物頭」武家の職名或いは格式の一つで一般に歩兵の足軽・同心などからなる槍(長柄(ながえ))組・弓組・鉄砲組などの頭(足軽大将)をいう。侍組(騎兵)の頭(侍大将)である番頭(ばんがしら)に次ぐ地位にあった。江戸幕府の新番頭、小十人(こじゅうにん)頭・徒士(かち)頭・百人組之頭・先手(さきて)頭などはいずれも布衣(ほい)の格であり、諸藩の物頭に相当した。このうち新番組は騎兵(本来の侍)、小十人組・徒士組は歩兵(本来の足軽)、百人組は鉄砲隊(与力・同心)、先手組は弓・鉄砲の両隊(与力・同心)であった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「祕決」底本では右に『(祕訣)』と訂正注がある。

・「津金文左衞門」尾張藩士津金胤臣(たねおみ 享保一二(一七二七)年~享和元(一八〇二)年)。尾張国名古屋(現在の愛知県名古屋市東区平田町)生。津金氏は甲斐武田の家臣であったが、武田勝頼が滅びた後に尾張へ移り住んで尾張藩に仕え、胤臣で七代目に当たっていた。寛保二(一七四二)年に父胤忠の急逝によって十五歳で家督を継ぎ、馬廻りや藩主徳川宗睦(むねちか/むねよし)の世子徳川治休(はるよし 相続前に二十一で病死)の小姓・守役を務めた。漢学を須賀精斎・亮斎親子に、和歌を冷泉為泰(本文の「爲安」のこと)に学ぶなど、学問に親しむとともに武術にも秀で、また経済・土木など実学にも長けた人物であったという。この後、宝暦一三(一七六三)年三十六歳にして御納戸役、明和元(一七六四)年に勘定奉行、安永六(一七七七)年に先手物頭と要職を藩の要職を歴任した。寛政三(一七九一)年には熱田奉行兼船奉行に任ぜられて寛政一二(一八〇〇)年から熱田前新田干拓事業を指揮、また、晩年には海西郡で飛島新田(現在の海部郡飛島村)干拓にも携わり、それが完成した享和元年に病没した。享年七十六。彼は熱田前新田の開拓民としてこの地に居た加藤吉左衛門・民吉親子と出逢い、これが後に瀬戸窯に磁器をもたらす濫觴ともなった(以上はウィキの「津金胤臣」に拠った)。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、津金の逝去から暫くして耳にした話であろう。

・「爲村卿」公卿冷泉為村(ためむら 正徳二(一七一二)年~安永三(一七七四)年)は羽林家で冷泉流歌道の宗匠の上冷泉家十五代当主。前権大納言為久の子。元文三(一七三八)年従三位、延享元(一七四四)年参議。宝暦九(一七五九)年正二位権大納言にして民部卿を兼ねた。祖父為綱・父為久の努力によって冷泉家が宮廷歌壇に於ける地位を固めた時期に生まれ、天賦の才を以って次第に宮廷歌会に重きをなすようになった。実質的なデビューは享保六(一七二一)年の玉津島法楽月次御会で未だ十歳、十二歳で霊元上皇の勅点を受けて同十四年には宮廷歌会の殆んどに出詠する常連へと成長、早熟ぶりを現わした。為久のほか、烏丸光栄(からすまるみちひで)や中院通躬(なこのいんみちみ)らの指導を受け、彼らの死後、宮廷歌壇の第一人者として名声を得た。冷泉家が為綱以来、幕府との関係強化に努めたのを受け、関東の武家歌人を多く門弟として擁し、添削の精緻と巧みな指導で一門を急速に拡大させた。門人一人ひとりの個性を見極めたうえで彼らの詠作意欲を搔き立てるような批評を織り込むのに長じており、ここに出る子の為泰とは対照的であった。家集としては部類形式のものと雑纂形式のものが多く伝わる。歌論「樵夫問答」、聞き書きに宮部義正の「義正聞書」、萩原宗固の「冷泉宗匠家伺書」などがある。(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

・「爲安」上冷泉家十六代当主の公卿冷泉為泰(ためやす 享保二〇(一七三六)年~文化一三(一八一六)年)。冷泉為村の子。宝暦一〇(一七六〇)年従三位、後に正二位・権大納言兼民部卿となった。門人に屋代弘賢がおり、彼は根岸の知己であるから、この話、そちらの筋からの情報である可能性がであることが窺われる。歌集に「三代十百首」などがある(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。訳は一般的な「為泰」を用いた。さて、彼は津金胤臣より三歳年下である。底本の鈴木氏注は三村翁の本シーンの釈を引かれ、『元来世襲の歌人、お寺の縁起を説く小僧さん同様、質問を受けては返答出来ず胡麻かしに憤って見せるだけなり、弥々実力なしと知れて』しまった、『専門家はいつも非専門家にやられるものなり、勉めざる可からず』とあり、前の「朝日日本歴史人物事典」の注(下線部)からもこの為泰の指導の短気粗暴にして拙劣であることが窺われる。本話の「不審」を書き並べた「捧げ」ものという仕儀もこれはすべてが確信犯という気が強くしてくる。胤臣は正に「二君に見えず」という故事を実践するために、敢えてその強烈な一家言を放ったのだと私は思うのである。というより、そうとしか読めぬように本話は綴られている、ということである。但し、為泰は未だ存命でもあり、なかなか思い切ったことを記したものではある。それだけ、根岸はこの胤臣の粋な意気に感じ、また、それほど為泰の何ともはやの宗匠振りも、それなりに有名だったのかも、知れないね。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 それなりの重職にはそれなりの器量というものが御座る事

 

 尾張家に物頭(ものがしら)を勤ておられた津金文左衛門殿は、和漢の学才、これあり、親の代よりの冷泉家歌道の門弟となって御座って、その方面では為村卿に親しく従われて御座ったが、その子の為安卿の代となってのこと、和歌詠みの大事やらん秘訣やらん等々(とうとう)につきて、心得ぬことが、これ、大きに出来(しゅったい)致いたによって、古歌の例などを引き、その不審なることにつきて、これ、いちいち、こと細かに認(したた)めた上、今は宗匠となられた子の爲泰卿へとそれを捧げ奉ったところが、為泰卿はざっと一覧なさるや、まずはその幾つかを挙げつらって、

「……ぶ、文左衞門殿は……和歌の趣き、その心は……これ! 何と心得ておじゃるッ!」と、はなはだ憤りを孕まれたお返事にて、最後には、胤臣殿に面と向かい、

「……い、如何(いかに)!……か、歌道の道と呼ぶところの、そのまことはこれ、なんと心得てあらっしゃいます?!」

と、逆に、激(げき)し遊ばされて、糾しなされた。

 と、文左衞門殿、穏やかに答えるは、

「――年来(としごろ)、御先代宗匠様の代より、御厚恩の御指南は、これ深く、蒙りまして御座いましたれど……

――我ら家業――これ――武道にて――

――歌は――一向――慰さめに詠んで嗜んで御座いますればこそ――

――歌道の趣意なんどと申すは――これ――一向――弁えて――御座らぬ!」

と、びしっと申された由。

 無論、これによって冷泉家は胤臣殿を即座に破門されたとか申す。

 

「……いや、されど――その武士(もののふ)の見識――いやさ! かくもありたきものにて御座るのぅ。……」

とは、さる御仁の語りで御座った。

中島敦 南洋日記 十二月二十一日

        十二月二十一日(日)

Aziyadé’を讀む。夕方、土方氏宅にて島民料理を喰ふ。熱帶生物、放送局の人達。タピオカのふかしたもの(特別に名前無し。diokan とはタピオカのこと)タカオ芋、タピオカのちまき( Binllŭmm )タピオカの甘き玉( titml )、雞の蒸したるもの。皮ごと。魚の燻製( Aelat )等。人々手づかみにてムシャムシヤ喰ひ合成酒を飮む、食後、島民の唄(日本語と土語と交れるもの)を皆で唱ふ。今日の料理はマリヤの馳走なり。パラオ語にて主食物を Onlao 、副食物を Odomi, titmle の類を klior と呼ぶ由。

[やぶちゃん注:「Aziyadé」ピエール・ロティ作の最初期の小説。一八七六年、仲間の海軍将校たちから彼が日記に書いたイスタンブールでの面白い体験の下りを小説にしろと勧められて書かれたのがこの「アジヤデ」で、ロティの作品によく見られるように半分ロマンスで半分自伝であると、ウィキの「ピエール・ロティ」にはある。詳細な内容評が仁木稔のブログ「事実だけとは限りません」の「参考文献録」に載る。

「タピオカ」すっかりメジャーになっているが、バラ亜綱トウダイグサ目トウダイグサ科イモノキ属キャッサバ Manihot esculenta の根茎から製造したデンプンのこと。球状の「タピオカパール」に加工してデザートの材料や飲み物のトッピングとして使われるたり、粉末は料理のとろみ付けに用いられる他、つなぎにも用いられる。紙の強度を上げるための薬剤の原料としても重要であるが(ウここまでィキの「タピオカ」及び「キャッサバ」を参照)、個人サイト「楽園マニア」の「キャッサバ(タピオカ)」によれば、芋類には多少なりとも青酸配糖体が含まれているものだがこのキャッサバは細心の注意が必要で、生食は危険であるとある。『この毒素の含有量は品種により多様で、含有量の少ない甘み品種では毒素のほとんどが葉の部分にあるため、皮を剥いて火を通せばそのまま食べることが出来る。一方、量の多い苦み品種群は、芋全体に青酸を含み毒性が強いので、食用とするためには、よく洗って皮を剥き、芋をすりつぶして布袋等に入れ、液汁を取り除き2~3日放置して発酵させ加熱乾燥させる。又は、同様にすりつぶした芋を水洗し沈殿させ、デンプンのみを取り出し加熱乾燥させる方法等が取られる』とあるので注しておく。どれだけ危険か? この tf2 氏のブログ記事「キャッサバ菓子で大量死」にある、フィリピン中部ボホール州マビニの小学校で、近くの売店で買ったフィリピンでは主食代わりにもなるキャッサバで作られた菓子を食べた児童が次々と食中毒の症状を訴え、二十九人が死亡、三十五人が重体というニュースに基づく記事を見れば、その深刻さは分かろう。

「タカオ芋」単子葉植物綱オモダカ亜綱オモダカ目サトイモ科サトイモ属タロイモ Colocasia esculenta だろうか? 識者のご教授を乞う。

「マリヤ」敦の「環礁」の中の「マリヤン」や、その習作「マリヤン」のモデルであるコロールの女。習作通りならば二十代半ば、『堂々たる體軀の』、『純然たるミクロネシヤ・カナカの典型的な』『屈託の無い豐かな顏』立ちで、土方久功がモデルの民俗学者『H氏』が親しくしている『パラオ語の先生』で、日本の内地の女学校に何年か留学経験があって『英語も出來る』『極めてインテリ』の女性である(彼女の養父はドパラオのドイツ領時代にはドイツ人民俗学者の通訳(英語で)をしたという『インテリ混血兒』ともある)。『四つになる女の兒がある』が、夫は『マリアンが追い出した』とある。敦はその知性を『マリアンは(内地人も含めて)コロール第一の讀書家かも知れない』とまで賞賛しており、H氏曰く、彼女は『開化し過ぎて』いるとあり、『さういへば、マリアンの友達はどうも日本人ばかりのやうだ』ともある。彼女は時々土方のところへ自分の家から『パラオ料理を作つては御馳走する。その都度、私がお相伴に預かるのである』ともある。何より、この習作「マリヤン」には、この日の場面が登場する。以下、筑摩書房版旧全集第二巻の「マリヤン」(別稿)の方(他に「草稿」がある)からそのシーンから末まで総てを引用しておく(太字は底本では傍点「ヽ」、踊り字「〲」は正字に変えた。会話文は底本では二行目以降は一字下げである。文中の「おぢさん」とは「H氏」(=土方)のこと)。

   *

 去年の大晦日の晩、それは白々とした良い月夜だつたが、H氏とマリヤンと私とは涼しい夜風に肌をさらしながら、街を歩いた。夜半迄さうして時を過ごし、十二時になると同時に南洋神社に初詣でをしようといふのである。私達はコロール波止場の方へ歩いて行つた。波止場の先にプールが出來てゐるのだが、其のプールの緣に我々は腰を下した。相當な年輩のくせにひどく歌の好きなH氏が、大聲をあげて色んな歌を――主に氏の得意な樣々のオペラの中の一節だつたが――唱つた。マリヤンは口笛ばかり吹いてゐた。厚い脣を丸くとんがらせて吹くのである。彼女のはそんなむづかしいオペラなんぞではなく、大抵フォスターの甘い曲ばかりである。聞きながら、ふと、私は其等が元々北米の黑人共の哀しい歌だつたことを思ひ出した。何の話のついでだつたか、突然H氏がマリヤンに向つていやに大きな聲で言つた。

 「マリヤン! マリヤン!(さういへばH氏は家を出る前に合成酒を一杯引掛けて來たやうだつた。)マリヤンが今度お婿さんを貰ふんだつたら、内地の人でなきや駄目だなあ。え? マリヤン!」

 「フン」と厚い脣の端を一寸歪めたきり、マリヤンは返事をしないで、プールの面を眺めてゐた。月は丁度中天に近く、從つて退潮なので、海と通じてゐる此のプールは殆ど底の石が現れさうな程水がなくなつてゐる。暫くして、――私が先刻のH氏の續きを忘れて了つた頃――マリヤンが口を切つた。

 「でもねえ、内地の男の人はねえ、やつぱりねえ。」

 なんだ、此奴、やつぱり先刻からずつと本氣で自分の結婚のことを考へてゐたのかと、急に私は可笑しくなつて、大きな聲で笑ひ出した。さうして、尚も笑ひながら、「やつぱり、内地の男は、どうなんだい?」と聞いた。笑はれたのに腹を立てたのか、マリヤンはそつぽを向いて返事をしなかつた。

 

 この春、H氏と私とが偶然にも揃つて一時内地へ歸ることになつた時、マリヤンは雞をつぶして最後のパラオ料理の御馳走をして呉れた。正月以來絶えて口にしなかつた肉の味に、舌鼓を打ちながら、H氏と私とが、「いづれ又秋頃迄には歸つて來るよ」(本當に二人ともその豫定だつたので)といふと、マリヤンが笑ひながら言ふのである。

 「おぢさんは、そりや半分以上島民なんだから、又戻つてくるでせうけれど、トンちやん(困つたことに彼女は私のことを斯う呼ぶのだ。H氏の呼ぶのを眞似たのである。初めは少し腹を立てたが、しまひには閉口して苦笑する外はなかつた。)はねえ」

 「あてにならなといふのかね」といへば、

 「内地の人と幾ら友達になつても、一ぺん内地へ歸つたら二度と戻つて來た人は無いんだものね」と珍しくしみじみと言つた。

 我々が内地へ歸つてから、H氏の所へ二三囘マリヤンから便りがあつたさうである。其の都度トンちやんの消息を聞いて來てゐるといふ。

 私はといへば、實は、横濱へ上陸するや否や忽ち寒さにやられて風邪をひき、それがこぢれて肋膜になつて了つたのである。再び彼の地の役所に戻ることは、到底覺束無い。

 H氏も最近偶然結婚(隨分晩婚だが)の話がまとまり東京に落ちつくこととなつた。勿論南洋土俗研究に一生を捧げた氏のことだから、いづれは又向ふへも調査には出掛けることがあるだらうが、それにしても、マリヤンが豫期してゐたやうに彼の地に永住することはなくなつた譯だ。

 マリヤンが聞いたら、何といふだらうか。

   *

 敦が実際に罹った帰国(三月十七日)後の肺炎から回復したのは六月、この作中、マリヤンからH氏に『二三囘マリヤンから便りがあつた』とあるから、この執筆時期から半年も経たぬ同年十二月四日に敦は白玉楼中の人となったのであった。――

 なお、廖秀娟氏の『中島敦「マリヤン論」』にこの女性についての詳細な考察が載る。お薦めである。]

一群の鳥(歌) 萩原朔太郎 短歌十三首  附習作二十首 大正二(一九一三)年八月

 

    一群(ぐん)の鳥(とり)(歌)

                 夢みるひと

 

遠(とほ)く行(ゆ)く一群(ぐん)の鳥(とり)

かへりみて

我(われ)を想(おも)へば淚(なみだ)はてなし。 

 

悲(かな)しくも人(ひと)に隱(かく)れて

故鄕(ふるさと)に歌(うた)などつくる

我(われ)の果敢(はか)なさ。 

 

寂(さび)しさに少(すこ)しく慣(な)れて

なにがなし

この田舍(いなか)をば好(よ)しと思(おも)へり。 

 

かの遠(とほ)き赤城(あかぎ)を望(のぞ)む

わが部屋(へや)の窓(まど)に咲(さ)きたる

木犀(もくせい)の花(はな)。 

 

クロバアの上(うへ)に寢(ね)ころび

空(そら)ばかり眺(なが)めてありし

中學(ちうがく)の庭(には)。 

 

ともすれば學校(がくかう)を休(やす)み

泣(な)き濡(ぬ)れて

小出(こいで)の林(はやし)を步(ある)きし昔(むかし)。 

 

その昔(むかし)よく逢曳(あひゞき)したる

公園(こうゑん)の側(そば)の波宜亭(はぎてい)

今(いま)も尙(なほ)あり。 

 

酒(さけ)のめど

このごろ醉(よ)はぬさびしさ

うたへども

あゝあゝ遂(つひ)に淚(なみだ)出(い)でざり。 

 

いまも尙(なほ)

歌(うた)つくることを止(や)めぬや

かく問(と)ひし

わが古(ふる)き友(とも)の嘲(あざけ)りの色(いろ)。 

 

新昇(しんせう)のサロンに來(きた)り

夜(よる)おそく

口笛(くちぶえ)を吹(ふ)く我(われ)のいとしさ。 

 

時(とき)にふと

盃杯(さかづき)を投(な)げてすゝり泣(な)く

いとほしやと母(はゝ)も流石(さすが)思(おも)へり。 

 

米專(こめせん)の店(みせ)に飾(かざ)れる

馬鹿面(ばかづら)の人形(にんげう)に我(わ)が似(に)しと

思(おも)ふ悲(かな)しさ。 

 

公園(こうえん)のベンチにもたれ

哀(かな)しみて

遠(とほ)き淺間(あさま)の煙(けむり)を眺(なが)む。 

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年八月九日附『上毛新聞』に標記通り、「夢みるひと」名義で掲載された土岐哀果(善麿)や石川啄木ばりの三行分かち書きの十三首連作。朔太郎満二十六歳。底本は筑摩版全集第三巻。

 四首目は初出「木犀(もくさい)」とルビを振るが、後に示す習作で確認し訂した。新聞のルビは極めて高い確率で、新聞社の編集者或いは校正者・植字工が勝手に振ったものである。

 七首目及び掉尾十三首目の「公園(こうえん)」のルビはママ。正しくは「こうゑん」。

 八首目三行目は初出では「あゝあゝ遂(つひ)に涙(なみだ)出(い)でさり。」であるが、濁音化して示した。

 十首目「新昇(しんせう)」のルビはママ。正しくは「しんしよう」。

 十二首目「人形(にんげう)」のルビはママ。正しくは「にんぎやう」。

 同じ一九一三年八月のクレジットを持つこれらの習作連作十九首が残る(底本全集第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート」)所収)に残る。以下に示す。取り消し線は抹消を示す。最後の【*】のマークは発表されたものから除かれたものを示す私のマーキングである。標題に「歌二十首」とするが、初出も校訂本文も十九首しかない。しかもそれについての編者注もなく、しかもなお「ヽ」の圏点があると編者注はあるのだが、そこにはない『二十首の上に』あるという不可解な記載があるのでこれ(圏点復元)は断念した。

 

  一群の鳥

         (歌二十首) 

 

遠く行く、一群の鳥

かへりみて

我を想へば淚はてなし 

 

哀しくも人にかくれて

故鄕に歌などつくる我のはかなさ 

 

淋しさに少しく慣れて

なにがなし

この田舍をば好しと思へり 

 

かの遠き赤城を望む

わが部屋の窓に咲きたる木犀(もくせい)の花。 

 

公園のベンチによりてもたれ

哀しみて

遠き淺間の煙を眺む 

 

その昔よく逢曳したる

公園のそばの波宜亭

今も尙ありや 

 

波宜(はぎ)亭の柱に書きし戀の歌

かの頃の歌、今も忘れず【*】 

 

その昔

身をすりよせて君と我と

よく泣き濡れし波宜亭の窓【*】 

 

クロバアの上に寢ころび

空ばかり眺めてありし

中學の庭 

 

學校をよく休みたる

その頃の悲しかりし日よ

なつかしき日よ【*】 

 

ともすれば學校を休み

學校を休み

泣き濡れて

小出の林を步きし昔 

 

酒のめど

このごろ醉はぬさびしさ

歌へども

あゝあゝ遂に淚出でざり 

 

時にふと

盃投げてすゝり泣く

いとほしや母も流石に思へり 

 

新昇のサロンに來りて

夜おそく

口笛を吹く我のいとしさ 

 

いまも尙

歌つくることを止(や)めぬや

かく問ひし

わが古き友の嘲りの色 

 

あゝ如何に我や老いたる

かく思ひ、この日ひそかにためいきをつく【*】 

 

米專人形の店に飾れる

馬鹿面の人形に

わが似しと思ふ悲しさ 

 

死ぬよりは尙よろしかり

とかくして

今日もまた安らかに寢床に入れり【*】

 

眞劍になりて嬉しと思ふこと

いつの日か

我が身の上にめぐり來るならむ【*】

              (一九一三、八) 

[やぶちゃん注:順列の投稿に際して、変更も行われている点に注意されたい。

「中學」朔太郎の在学した群馬県立前橋中学校(現在の前橋高等学校)と考えてよいか。朔太郎はここに明治三三(一九〇〇)年四月入学、明治三七年の五年進級に際して落第、明治三十九年三月に満十九歳で卒業しており(旧制中学は五年制)、十三の時には「エレナ」と出逢っていてその多感な青春の六年間をこの中学校で過ごしている(その四月には高等学校受験の予備校に相当する同中学校補習科に入学したが、七月末日を以って退学、九月に東京の早稲田中学校補習科に再入学している)。

「波宜亭」専ら後の朔太郎の「純情小曲集」(大正一四(一九二五)年八月新潮社刊)の「郷土望景詩」で知られる茶店。以下に示す。

   *

 

 波宜亭

 

少年の日は物に感ぜしや

われは波宜亭(はぎてい)の二階によりて

かなしき情歡の思ひにしづめり。

その亭の庭にも草木(さうもく)茂み

風ふき渡りてばうばうたれども

かのふるき待たれびとありやなしや。

いにしへの日には鉛筆もて

欄干(おばしま)にさへ記せし名なり。

 

   

また、同詩集の自註「郷土望景詩の後に」には、

   *

 Ⅴ  波宜亭

 波宜亭、萩亭ともいふ。先年まで前橋公園前にありき。庭に秋草茂り、軒傾きて古雅に床しき旗亭なりしが、今はいづこへ行きしか、跡方さへもなし。

   * 

と記す。Tetsudotabi氏のサイト「鉄道で行く旅」の「萩原朔太郎と郷土望景詩について」の「波宜亭」に『文献には「萩の餅で名高い旗亭」と書かれている』とある。現在の群馬県前橋市大手町にある遊園地前橋市中央児童遊園(愛称は「前橋るなぱあく」)の敷地相当の一画にあった。

「小出の林」これも後の朔太郎の「純情小曲集」(大正一四(一九二五)年八月新潮社刊)の「郷土望景詩」の私の偏愛する一篇「小出新道」で知られる地名。以下に示す。

   * 

 

 小出新道 

 

ここに道路の新開せるは

直(ちよく)として市街に通ずるならん。

われこの新道の交路に立てど

さびしき四方(よも)の地平をきはめず

暗鬱なる日かな

天日家竝の軒に低くして

林の雜木まばらに伐られたり。

いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん

われの叛きて行かざる道に

新しき樹木みな伐られたり。

 

   *

また、同詩集の自註「郷土望景詩の後に」には、

   *

 Ⅳ  小出松林

 小出の林は前橋の北部、赤城山の遠き麓にあり。我れ少年の時より、學校を厭ひて林を好み、常に一人行きて瞑想に耽りたる所なりしが、今その林皆伐られ、楢、樫、橅の類、むざんに白日の下に倒されたり。新しき道路ここに敷かれ、直として利根川の岸に通ずる如きも、我れその遠き行方を知らず。

   *

とある雑木林である(「橅」は「ぶな」と読む)。但し、「小出新道」という名称は朔太郎の造語であって通称名でもなんでもないので注意。やはりTetsudotabi氏のサイト「鉄道で行く旅」の「萩原朔太郎と郷土望景詩について」の「小出新道」に「小出河原」とし、『「小出新道」というのは朔太郎が勝手に命名した名前なので、地元の人には通じないらしい。「前橋の市街から小出河原(敷島公園)へ通じる道路」が朔太郎の「小出新道」である。その敷島公園には萩原朔太郎の生家の一部が保存されている』と写真も載る。

「新昇のサロン」新昇というのは前橋にあった洋食屋。公益財団法人前橋観光コンベンション協会の公式サイトの「前橋まるごとガイド」の「前橋の歴史」にある「萩原朔太郎の世界」の「朔太郎の好きな食べ物」に、『朔太郎は、前橋の街なかにあった「新昇ホール」でお銚子を立てながらサーロインステーキをしばしば食べ、焼き方はそのときの気分によってレアだったり、ミディアムだったりしたようです』。『斉藤総彦と朔太郎は、一時、萩原家そばの家を借り、同居したことがあります。音楽活動のためでしょう。そのときに、朔太郎は、総彦に、スパゲティーやオムレツを作らせたそうです。総彦は、「新昇ホール」のマスターから料理の手ほどきを受け、その腕前もなかなかのものだったということです』とある。この斉藤総彦(明治三四(一九〇一)年~昭和六二(一九八三)年)は朔太郎主宰の「上毛マンドリン倶楽部」の後継者となった人物である。朔太郎十五歳年下。

「米專」呉服屋。現在の前橋弁天通り商店街の青年会長しゅんこう氏のブログ「前橋まちなかガイド 朔太郎まちなか遊興コースを巡ってきました」に当時の前橋の商店街の中では大きな呉服屋で、『全面ガラス張りのショーウインドーに人形があって、そのバカ面に自分の姿を重ねる詩が残っています』とある。詩とあるのは、この短歌のことと考えてよいであろう。現存しない。]

篠原鳳作句集 昭和五(一九三〇)年五月

聖堂や棕櫚の花散る石の道

 

[やぶちゃん注:「聖堂」鹿児島市照国町の鹿児島カテドラル・ザビエル記念聖堂( Kagoshima St. Xavier's Cathedral )の明治四二(一九〇八)年に建造された石造り聖堂であろう。本格的な石造りの教会としては日本最初のもので立派な教会であったが、昭和二〇(一九四五)年四月八日、ミサ直後に空襲によって焼失している。現在のものは三代目でザビエル日本渡来四百五十年を記念して平成一一(一九九九)年に竣工したコンクリート製である(同教会公式サイトの「聖堂」の記載に拠った)。

 鳳作の父は医師で、明治三九(1906年)年鹿児島市生まれ。西南戦争で官軍に従っている。熱心なキリスト教信者でもあった。]

 

春愁のうなじを垂れて夜の祈り

 

行く春や法衣(ガウン)の裾のうす汚れ

 

[やぶちゃん注:これら三句は単なる傍観者の嘱目吟とは思われない。明らかにミサの景であり、鳳作はそこに信者としているとしか思われない。但し、それが熱心な信者としてかといえば荘厳なミサの景を詠むに「法衣の裾のうす汚れ」をクロース・アップしてしまう程度に熱心ではないと私は見る(この汚れはスティグマとは到底思われぬ)。年譜によれば、誕生の明治三九(一九〇六)年の項に鳳作(本名は国堅)の『父政治は養父の後を継いで医者となったが、西南の役に官軍に従軍して熊本の激戦で負傷、熱心なキリスト教信者であった』(政治は昭和一一(一九三六)年一月に八十三歳で亡くなっている。因みにこの八ヶ月後の九月十七日には鳳作自身が逝去する)とあり、父が熱心であればこそ彼もミサに幼少時よりミサに馴染んでいたに違いなく、さればこそ鳳作の後の句にはクリスマスのミサを詠んだものやキリスト教的素材を確信犯的に用いた句もある。しかし、例えば逝去の年譜記事には『葬儀は神式で行われ』たとあり、句や残された文章にもそうした信仰告白は管見の限りでは私には全く認められない。教会には親しんだものの、彼個人とキリスト教の結びつきは信仰の部分では深いものであったようには思われない(私には鳳作のキリスト教関連の俳言は一種の異国趣味やキリスト教的なシンボリズムへの知的関心(信仰ではなく)による匂いづけの印象が強いように感じられる)。その辺につき、そうでないとなれば、御存じの方、是非ともご教授を乞いたい。]

 

地蟲穴ありて箒を止めにけり

 

[やぶちゃん注:「地虫」は底本「地虫」。迷ったが、正字化した(「蟲」という正字を生理的に嫌う作家は多い)。地虫は昆虫の幼虫の類型の一つで一般的にはしばしば見かけることの多いコガネムシ・カブトムシ・クワガタムシの幼虫などの丸まった不活発な甲虫幼虫総体を指す。]

 

日當れる障子のうちや二日灸

 

[やぶちゃん注:「二日灸」陰暦二月二日にすえる灸で、この日に灸をすえると年中息災であるという(八月二日にすえる灸にもいう)。ふつかやいと。春の季語。昭和五(一九三〇)年の陰暦二月二日は三月七日火曜日に相当する(但し、これがその新暦二月二日木曜日に行われていないという確証はない)。]

 

一炷のまづかぐわしや二日灸

 

[やぶちゃん注:「一炷]は普通は「いつしゆ(いっしゅ)」と音読みして、香などをひとたきくゆらせること。また、その香指すのであるが、私は言わずもがな乍ら、ここは「ひとさし」と訓じたい。]

 

螢の灯るを待ちて畦歩く

 

[やぶちゃん注:「灯」はしばらく底本の用字のママとした。]

 

螢のやがて葉裏に廻りたる

 

[やぶちゃん注:ブログでは「廻」の正字は表示出来ないので「廻」とした。]

 

春月を仰げる人の懷手

 

春月や道のほとりの葱坊主

 

螢火のついと離れし葉末哉

 

麥笛を鳴らし來る兒に道問はん

 

麥笛を馬柵に凭れて吹きにけり

 

[やぶちゃん注:「馬柵」は「うませ」と訓じ、馬を囲っておく柵の意の万葉以来の古語である。

 ここまでの十三句は五月の創作及び発表句。]

杉田久女句集 42 金魚掬ふ行水の子の肩さめし

金魚掬ふ行水の子の肩さめし
[やぶちゃん注:この句は女性として母としてのみ創り得る句であり、そうしてしかも久女によってのみ描き得る少女のエロティシズムをも幽かに香らせている佳品である。]

水に 嘆く   八木重吉

みづに なげく ゆふべ

なみも

すすり 哭く、あわれ そが

ながき 髮

砂に まつわる

 

わが ひくく うたへば

しづむ 陽

いたいたしく ながる

手 ふれなば

血 ながれん

 

きみ むねを やむ

きみが 唇(くち)

いとど 哀しからん

きみが まみ

うちふるわん

 

みなと、ふえ とほ鳴れば

かなしき 巷

茅渟(ちぬ)の みづ

とも なりて、あれ

とぶは なぞ、

魚か、さあれ

しづけき うみ

 

わが もだせば

みづ 滿々と みちく

あまりに

さぶし

 

[やぶちゃん注:「巷」後続の諸本は「港」とする。本連冒頭の「みなと」や「茅渟」(次注参照)からもただの誤植と断じてもよいとは思われるのであるが、最初に「みなと」と平仮名表記しておいて、次行で「港」とする奇異さ(但し、標題と第一連一行目ではその逆の表記が行われてある)、逆にここが「巷」であっても意味は少しも奇異に感じられないという点から、私は敢えてママとした。

「茅渟」大阪府和泉地方の古名で「血沼」「血渟」「珍努」「珍」「千沼」などとも書かれる。律令制下の和泉国和泉郡とその周辺部をも含んだ地域名で、一応、現在の大阪湾東部の堺市から岸和田市を経て泉南郡に至る一帯(かつて白砂青松の景勝地として知られた高石市の高師(たかし)の浦(浜)を含む)と推定されている(正確な範囲は不明)。但し、同地域が面している海を「チヌの海」と称し、ここはそれを指している。ここには現在、大きな「港」としては境泉北港と旧高師の浜であった場所を挟んで南西にある阪南港の二つがある。]

鬼城句集 冬之部 茨の実

茨の實   茨の實を食うて遊ぶ子あはれなり

[やぶちゃん注:「茨の實」バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ Rosa multiflora の実。落葉性蔓性低木で日本のノバラの代表種でただ野薔薇というと本種を指す。花期は五~六月で枝の端に白色または淡紅色の花を散房状につける(種小名「花が多い」の由来)。個々の花は白く丸い花びらが五弁で雄蘂は黄色、径二センチメートルほどで香りがある。秋に果実(正確には偽果)が赤く熟すが(ここまではウィキの「ノイバラ」に拠る)、冬に近づくにつれて黒ずんでくる。晩秋の季語。その味は――私は食べたことがない――、こちらのまるで神農のように果敢に植物の実の試食を試みておられる、ジュラ2591 さん(女性の方のようにお見受けする)のブログ「また赤い実を食べてみた」によれば(改行を/に変えさせて戴いた)、『お口の中で噛んで見るとゴマ粒ほどの種がいっぱい出てきた/果肉はほとんど無い/食べられる部分は果皮と 種の周りに少しある果肉だけ/で 肝心のお味はと言うと/甘酸っぱいです 不味くは無いです/でも でも 食べられるところが少な過ぎ』とある。ジュラさんのこのご感想――実に「遊ぶ子」がそれを「食うて」いるのを見てはとてものことに「あはれなり」と感ずるに相応しいものだという気がするのである。]

2014/02/01

本日教え子の結婚披露宴に附き閉店

本日教え子の結婚披露宴に出席のため、これにて閉店致す 心朽窩主人敬白

篠原鳳作句集 昭和五(一九三〇)年四月

麥門冬の實のいできたる筧かな

 

[やぶちゃん注:二月の「紀元節吟行」と底本にある句、

麥門冬の實の流れ來し筧かな

の改稿。『泉』の四月の投稿句。]

 

   歌人八田翁庵跡

知紀のいほりの庭の土筆かな

 

[やぶちゃん注:「歌人八田翁庵跡」八田知紀(はったとものり 寛政一一(一七九九)年~明治六(一八七三)年)は江戸末期の宮廷歌人。幼名彦太郎。通称喜左衛門。号桃岡。薩摩国鹿児島郡西田村生。父知直は薩摩藩士。文政八(一八二五)年に京都蔵役人として上京、翌年には香川景樹に会う。文政十三年に正式に入門し、やがて桂園の有力者と認められるに至った。京と薩摩を往復する多忙の中、幕末の動乱に身を投じつつ、和歌の詠作や著述に励み、維新後は新政府に出仕して歌道御用掛などを勤めた。御歌所の高崎正風らが活躍の場を築く上で先駆的な役割を果たした人物である。家集に「しのぶ草」、歌論書「しらべの直路」など(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。現在、鹿児島市常盤町に「八田知紀誕生地碑」が建つが、鳳作が訪れたのがここかどうかは不明。]

 

陽炎や砂に坐りて蛇籠あむ

 

   動物園

檻の中流るる水の落花哉

 

[やぶちゃん注:現在、鹿児島県鹿児島市平川町にある鹿児島市平川動物公園かと思われる。同園は大正五(一九一六)年九月に鹿児島電気軌道株式会社が鴨池遊園地内に創設した「鴨池動物園」が前身でこの二年前の昭和三(一九二八)年七月に鹿児島市が鴨池遊園地を買収していた。昭和五年当時はまだ「鴨池動物園」と呼ばれていたものと思われる。

 以上、ここまでの四句は昭和五年四月発表の句。]

杉田久女句集 41 帽子ぬぐや汗に撚れあふもつれ髮

帽子ぬぐや汗に撚れあふもつれ髮

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十三年

 昭和十三年

 

 

 果樹園

 

   二月

 

農婦マヤわが泊つる夜の炉を焚きに

 

くちそそぐ花枇杷鬱として匂ひ

 

洗面器ゆげたち凍てし地に置かれ

 

農婦の瞳霜の大地のひかりあふれ

 

   六月

 

地の籠に枇杷採りあふれなほ運ばる

 

枇杷のもと農婦とあつき枇杷すする

 

栗の花日に熟れ草に農婦等と

 

草に寢て栗の照花額にする

 

[やぶちゃん注:栗の花の匂いには、男性の前立腺から分泌するスペルミンC1026というポリアミンが含まれている。栗の花はしばしば精液の匂いと同じだとされる。私に高校生の時、このことをちょっとはにかんだ笑顔で教えてくれたのは、理科の先生でも、ませた友人でも、なかった。私の母であった。]

人を 殺さば  八木重吉

ぐさり! と

やつて みたし

 

人を ころさば

こころよからん

[やぶちゃん注:――重吉――究極のユダたらんとす――而して放蕩息子は必ず帰還する――]

鬼城句集 冬之部 狼

狼     牛小屋に狼のつく鐡砲かな

[やぶちゃん注:「狼」食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax は明治三八(一九〇五)年一月に奈良県東吉野村鷲家口で捕獲された若いオス(後に標本となり現存)が確実な最後の生息情報とされ、絶滅種であるから、この「狼」はノイヌ(野犬)、野良犬の謂いである。但し、二〇一二年四月に明治四三(一九一〇)年に、鬼城の住む群馬県高崎市でオオカミ狩猟の可能性のある雑誌記事(一九一〇年三月二十日発行の狩猟雑誌『猟友』)が発見された、とウィキの「ニホンオオカミ」にはあることを申し添えておこう。]

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