篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年十二月
犬とゐて春を惜める水夫かな
舊曆十月十五日は僧月照の忌日たり
うるはしき入水圖あり月照忌
[やぶちゃん注:「僧月照」これは幕末期の尊皇攘夷派の僧で西郷隆盛とともに錦江湾に入水自殺した月照(文化一〇(一八一三)年~安政五年十一月十六日(グレゴリオ暦一八五八年十二月二十日)のことと思われるが、日のズレは誤差範囲としても月がおかしい。誤植か、鳳作の記憶違いであろう。名は宗久(他に忍介・忍鎧・久丸とも。本姓は玉井か)、ウィキの「月照」によれば、『文化10年(1813年)、大坂の町医者の長男として生ま』れ、『文政10年(1827年)、叔父の蔵海の伝手を頼って京都の清水寺成就院に入る。そして天保6年(1835年)、成就院の住職になった。しかし尊皇攘夷に傾倒して京都の公家と関係を持ち、徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派に与したため、大老の井伊直弼から危険人物と見なされた。西郷隆盛と親交があり、西郷が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死しようとする西郷に対し止めるように諭している』。安政五(一八五八)年八月に『始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷と共に京都を脱出して西郷の故郷である薩摩藩に逃れたが、藩では厄介者である月照の保護を拒否し、日向国送りを命じる。これは、薩摩国と日向国の国境で月照を斬り捨てるというものであった。このため、月照も死を覚悟し、西郷と共に錦江湾に入水した。月照はこれで亡くなったが、西郷は奇跡的に一命を取り留めている。享年』四十六。『「眉目清秀、威容端厳にして、風采自ずから人の敬信を惹く」と伝えられ』、『墓は、月照ゆかりの清水寺(京都市東山区)と西郷の菩提寺である南洲寺(鹿児島市)にあり、清水寺では月照の命日である11月16日に「落葉忌」として法要を行っている(新暦の毎年同月同日に実施)』とある。入水の前後を詳しく語るブログ『「明治」という国家』の「西郷隆盛、僧月照と薩摩潟に投身」によれば、月照が、
雲りなき心の月も薩摩潟沖の波間にやがて入りぬる
という辞世の一首を詠んだところ、西郷は答えて、
二つなき道にこの身を捨小舟波立たばとて風吹かばとて
と詠んで硬く抱き合ったまま、追放のために遣わされた役人方の舟から入水したとある。驚いた役人が『両人が堅く抱合ったまま骸となって浮上ったのを発見』、『岸辺に船を急がせ、火を焚いて応急手当をしたので、西郷だけは漸く息を吹返したが、月照は遂に46歳を一期として、帰らぬ旅に上ってしまった』、薩摩藩はしかし表向き西郷もともに死んだということで『幕府へ届出』、西郷は名を『菊池源吾と改名し奄美大島に身を潜め』たとある。ここに出る「入水圖」というのは推測であるが、西郷隆盛の菩提寺で月照の墓がある鹿児島市南林寺町にある臨済宗南洲寺にあったものではなかろうか? 識者の御教授を乞うものである。]
おぼえある繪卷の顏や月照忌
[やぶちゃん注:恐らく鹿児島県人であった鳳作にとって尊王の偉人として月照の絵姿を小さな時から見知っていたのであろう。]
椰子の月虹の暈きてありにけり
からからに枯れし芭蕉と日向ぼこ
枯芭蕉卷葉ひそめてをりにけり
破れ芭蕉羽拔けし鷄の如くなり
[やぶちゃん注:以上七句は十二月の発表句。]
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