日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 12 東京大学理学部星学科観象台起工とヨイトマケの唄、日本人の非音楽性について
私の家の後に、天文観測所が建てられつつある。その基礎のセメントをたたき込むのに、八人か十人の男が足場に立ち、各々重い錘に結びついた繩を、一本ずつ手に持っている。彼等はこれを引張り上げ、それからドサンと落すのだが、それをやる途中、恐しく気味の悪い一種の歌を歌う為に、手を休める。私は去年日光で、同じものを聞いた。これはチャンときまった歌であるに違いないが、如何に鋭い耳でも、二つの連続した音調を覚え込むことは出来ない。つまり、彼等の音楽には、我々の音楽に於るような「呑込みのゆく」骨法が更に無いという意味なのである。彼等の音楽は、唱応的の和音を弾じないし、人は音楽的の分節というものを、只の一つも思い出すことがなく、家庭で、或は家族がそろって歌うということも聞かず、学校の合唱団もなければ、男子の群が歌ったり、往来で小夜曲(セレナード)を奏じたりすることもない。これは彼等の芸術、彼等の態度、彼等が花を愛する心、更に彼等の子供の遊び迄が、我々の心に触れる所がかくも多いだけに、一層特異なものに思われる。彼等の唱歌は、初めて聞くと実に莫迦げている。
[やぶちゃん注:またしてもヨイトマケの唄である。奇体で奇怪な歌としつつも、どうやらそこにこそモース先生は妙に惹かれていると言わざるを得ない。但し、日本人贔屓のモース先生にして日本人の近代的音楽性についてはどうも評価が悪いのは気にかかる。
「天文観測所」先に注したが、現在の国立天文台の前身である東京大学理学部星学科観象台はこの明治一一(一八七八)年に現在の東京都文京区本郷の現東京大学構内に「発足」していた。明治一六(一八八三)年の参謀本部地図を見ると、まさにモースの官舎真裏(北)直近に「觀象臺」を見出せるが、その起工直後の基礎固めの描写である。
「セメント」日本最初の国産セメント製造の成功は深川セメント製造所に於いてで明治八(一八七五)年五月十九日のことであった(この日が現在、「セメントの日」となっている。なお当時のセメントは樽詰めであった)。この直近では明治十一年の上野博物館着工があり、後の皇居造営計画などによって需要は急速に伸びていた。]
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