杉田久女句集 51 雌を追うて草に腹返す蠑螈の緋
雌を追うて草に腹返す蠑螈の緋
[やぶちゃん注:久女ならでは詠めぬ(少なくとも女流俳人にしてこの生臭くどぎつくしかも慄っとするエロティシズムを湛えた誘惑的シチュエーションを詠もうとしたのは彼女を嚆矢とすると私は信じて疑わない)句である。老婆心乍ら「蠑螈」は「いもり」と読む(音は「エイゲン」で漢語)。両生綱有尾目イモリ上科イモリ科Salamandridaeのイモリ類の総称であるが、本邦では「イモリ」と言えばトウヨウイモリ属アカハライモリ Cynops pyrrhogaster を指すことが多い。「蠑螈」は「蜥蜴」(トカゲ)の意にも用いられるが、ここは後の「緋」という描写及び「雌を追うて草に腹返す」という特異な行動からもアカハライモリの特長的な成体個体と繁殖行動を描いていてすこぶる附きで正確なのである(私は高校時代に理科部でアカハライモリを用いた四肢の切断再生実験に関わった。従って通常人よりも遙かに彼らには親しいのである)。以下、ウィキの「アカハライモリ」の「生態」の項にも、『春になり気温が上昇し始めると、成体が水中に姿を現す。オスがメスの行く先にまわりこみ、紫色の婚姻色を呈した尾を身体の横まで曲げて小刻みにふるわせるなど複雑な求愛行動を行う。このときにオスが分泌するフェロモンであるソデフリン(sodefrin、額田王の短歌にちなむ)が、脊椎動物初のペプチドフェロモンとして報告されている。メスが受け入れる態勢になると、メスはオスの後ろについて歩き、オスの尾に触れる合図を送ると、オスが精子嚢を落としメスが総排出腔から取り込む。その際にオスの求愛行動に地域差があり、地域が異なる個体間では交配が成立しにくいといわれる』とある。なお、彼らは両生類であるから湿った草地にも登ってくるので「追うて草に」も何ら問題ない。……因みに――ソデフリン――というこのケッタイな、万葉好きの科学者がつけたであろうペプチド・フェロモンの響きが、私はどうも今一つ好きになれないでいることを告白しておく。それはまさにこの性フェロモンが額田女王のそれの如く「フリン」という発音から寧ろ「不倫」という不道徳のイメージを惹起させてしまうからに他ならない。……しかしその程度の名で驚いていてはおられない。今やナマコの性フェロモンに「クビフリン」、シリケンイモリ
Cynops ensicauda が尻尾を振って求愛している際に出しているフェロモンは「シリフリン」なのだ(但し、これは逆に如何にも残念なことに「尻振(りん)」が元義ではなく、最初のアミノ酸が“SIL”で始まるという極めて厳粛なるところの学術的命名なのである)。興味のある方は私がかつて書いたブログ「クビフリン・ソデフリン・シリフリン」をお読みあれかし。なおこうした科学的事実はイモリが遙かな古代より媚薬や不倫(姦淫)の探知薬として知られていた旧来の本草学的博物学的知見と明らかに繋がっていると私は考えている。その辺りに関心のある向きは、是非、私の電子テクスト「寺島良安 和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「ゐもり 蠑螈」の項をお読み戴ければ幸いである。]