日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 13 芝離宮
昨日大学の綜理が、文部省に関係ある内外人の教授達を、正餐に招いた。婦人連は招待されなかったが、我々は午後彼等を呼びよせることを許された。招待会の行われた庭園は、数百年前、紀州の大名によって造園され、今や政府はそれを、外賓をもてなす目的で、大切に保存しつつある。この、庭は八百フィート四方位であろうが、東京にある大きな庭園のある物に比べては、小さいとされている。日本の造園師がつくり出す景観は、実に著しく人の目を欺くので、この庭の大さを判断することは不可能であった。荒々しい岩石の辺にかこまれ、所々に小さな歩橋のかかった不規則形な池や、頂上まで段々がついている高さ二十フィート乃至三十フィートの小丘や、最も並外れな形に仕立てられた矮生樹や、かためられて丸い塊に刈り込まれた樹々や、礫や平な石の小径や、奇妙な曲り角や、あらゆる地点から新しい景色が見えることやで、この庭は実際のものの十倍も広く見えた。私はある地点から、急いで写生したが、それはこの庭の性質を極めて朧気に示すに止ったから、ここには出さない。この場所の驚く可き真価を示し得るものは、よい写真だけである。
* 橋のあるものは『日本の家庭』に絵になって出ている。
[やぶちゃん注:この招待された場所は現在の東京都立旧芝離宮恩賜庭園である。ウィキの「東京都立旧芝離宮恩賜庭園」によれば、当地の沿革は少々複雑で当初は延宝六(一六七八)年に老中大久保忠朝(ただとも)が第四代将軍徳川家綱からこの芝金杉の地を拝領して屋敷を構え、貞享三(一六八六)年に同屋敷内庭園楽寿園として作庭された(本文には「数百年前、紀州の大名によって造園され」とあるのはモースの誤認である)。後の文政元(一八一八)年に小田原藩第七代藩主大久保家八代当主大久保忠真が邸地を返上後も変転のあった後(この部分のウィキの記載には既に死亡している人物が拝領するという不審があるので省略する)、弘化三(一八四六)年には紀州徳川家が拝領して同家の別邸となり、芝御屋敷と称された。維新後、明治四(一八七一)年に有栖川宮熾仁親王邸、同八年に英照皇太后(孝明天皇女御にして明治天皇の嫡母(実母ではない))の非常御立退所として皇室が買い上げ、明治九年に芝離宮となっていた。後の明治二四(一八九一)年にはモースが「今や政府はそれを、外賓をもてなす目的で、大切に保存しつつある」と述べたように迎賓館として洋館が新築されている(その後は関東大震災で洋館は焼失、大正一三(一九二四)年の昭和天皇御成婚の記念として東京市(現在の東京都)に下賜されて園地の復旧と整備を施した後、四月に旧芝離宮恩賜庭園として開園したものである)。
「八百フィート」二四三・八メートル。
「二十フィート乃至三十フィート」六~九メートル。
「橋のあるものは『日本の家庭』に絵になって出ている」以下、“Japanese homes and their surroundings”(1885)の斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)の「第六章 庭園」から当該図と思われる「石橋」というキャプションの268図及び269図の二枚の図と解説の訳の一部(最後の部分を省略した)を引用しておく。
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図268 石橋
図269 石橋
橋 石造りや木造りの小橋は素朴な造作の代表例といえるもので、アメリカの庭園に取り入れても効果的であると思われる。二枚の板石の位置をずらし、側面の一部を合わせて置き並べたり(二六八図)、あるいはいくつかの橋に見られるように、飛石によって継ぎ渡したりする仕方は、工夫に富んでいて、まさにユニークである。
図二六九は、東京のさる大庭園で見た石橋の一例である。この橋の径間(スパン)は一〇ないし一二フィートあるが、橋自体は一枚の板石である。
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「一〇ないし一二フィート」は三~三・六六メートル。]
図―309
図―310[やぶちゃん注:ワンセットで取り込んだものの一番上の平たい橋の図。]
図―311[やぶちゃん注:ワンセットで取り込んだものの中央の少し反った橋の図。]
図―312[やぶちゃん注:ワンセットで取り込んだものの一番下の門の足の残骸の図。]
歩橋の、この上もなく変った意匠は、図309で示してある。小径がこのように中断してあるのだから、闇夜にここを歩く人は、確実に水の中へ落ちるであろう。図310は長さ十フィート幅四フィートの一枚石でつくった歩橋である。図311は興味の深い歩橋で、彎曲した桁が一つの迫(せり)台から他の迫台へかかり、その上には直径三インチの丸い棒を横にならべ、それを床として、上には土がのせてある。両端は草で辺どり、中央部は二フィートの幅に、どこかの海岸から持って来た、最も清潔な平な礫が敷きつめてある。この庭園全体は、泥土の平地を埋立てたので、丘は積み上げ、石は橋の或るものをつくる為に、何マイルも運搬された。丘の一つの上には、一本石が四本立っていた(図312)。これ等は高さ五、六フィートの四角い柱で、二百五十年に近い昔、六十マイル離れた富士から持って来られ、古い宮殿の門を構成していた。この庭園はシバ・リキューと呼ばれる。リキューは「外部の宮殿」を意味し、シバはこの庭のある区域である。これは私が日本で今迄に見た中で最も意外な点の多い、そして結構な場所である。構内の建物は日本の家屋の多くが、皇帝の宮殿から、最も簡単な茅屋にいたる迄、みな一階建であるが如く、一階建であった。
[やぶちゃん注:「長さ十フィート幅四フィート」長さ約三メートル、幅一・二メートル。
「三インチ」約七・六センチメートル。
「二フィート」約六一センチメートル。
「何マイル」一マイルは約一・六一キロメートル。凡そ一〇キロ以上。
「五、六フィート」一・五~一・八メートル。
「二百五十年に近い昔」この数値だと一六二八年となり、先に示した貞享三(一六八六)年の作庭より今度はひどく遡ってしまうが、寧ろこれは江戸城の寛永期天下普請の最初である寛永五(一六二八)年から翌年にかけて本丸・西丸工事と西ノ丸下・外濠・旧平河の石垣工事、また各所の城門工事が行われたことと一致しているので強ちおかしくはない。
「六十マイル」九六・五六キロメートル。富士山(山頂)から東京までの直線距離は九五キロはあるので正確。]
晩方の饗応は、十四皿の華美な正餐に、多くの種類の葡萄酒が付属したものであった。賓客七十名で、その中には文部卿に任命されたばかりの西郷将軍もいた。私は彼を聡明な、魅力に富んだ人で、頭のさきから足の裏まで武人であると思った。美しく且つ高貴な花が食卓を飾り、殊にその両端と中央とには、高さ三フィートの薔薇のピラミッドがあった。また大広間は何かの香料で、うっすらと香いつけられていた。私はこの晩ほど、色々な言葉が喋舌られるのを、聞いたことがない。外国語学校の先生達である仏、独、支那の各国人、医学校の教授職を独占しているドイツ人、帝国大学の英、米、日の教授達といった次第である。誇張するのではないが、食卓たるや、私が米国で見た物のいずれに比べても劣らぬ位美事であり、また料理法はこの上なしであった。料理人は全部日本人であるが、最上級のフランス料理人から教えをうけた。私は非常に沢山の仕事を控えていた為に、九時半には退出しなければならなかったが、正餐は深夜に及んでようやく終った。
[やぶちゃん注:「三フィート」約九二センチメートル。]
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