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2014/02/24

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 四 精蟲 (1)レーウェンフックによる発見

     四 精蟲

Hitonoseisi
[人間の精蟲]

  卵には大きなものや小さなものがあるが、最も小さな卵でも細胞としては餘程大きい。人間の卵などは卵の中では隨分小さな方であるが、それでも肉眼で見えるから、普通の細胞が皆顯微鏡的であるのに比べると、なほ頗る大きいといはねばならぬ。されば最も小さな卵の外は昔から誰でもよく知つて居たが、その相手となるべき精蟲の方は、細胞の中でも特に小さく、且形狀も普通の細胞とは著しく違ふから、その發見せられ了解せられたのも、卵に比べて遙に新しいことである。抑々精蟲の初めて見付けられたのは、今から二百何十年か前のことで、恰もオランダ國で顯微鏡が發明せられて間もない頃とて、何でも手當たり次第に覗いて見て居る中、或る時一人の若い學生が、屠處から新しい羊の睾丸を貰うて來て、その汁を擴大して見た所が、單に濁った粘液の如くに思うて居た物の中に、小さな粒が無數に活潑に游いで居るので、大に驚いて早速師匠のレウエンフークといふ人に知らせた。この人は、水中の微生物などを顯微鏡で調べ、悉く寫生して大部な書物を著したその頃の顯微鏡學の大家であつたが、かやうなものは初めて見ること故、素よりその眞の素性を知る筈はなく、たゞ運動が活潑で、如何にも生きた動物らしく見える所から推して、これを寄生蟲と鑑定し、精液の中に棲んで居るから、「精蟲」といふ名を附けた。即ち精蟲の實物を見ることは見たが、これを「さなだむし」や「ヂストマ」などの如き偶然の寄生蟲と見做し、これが卵と相合して新な一個體を造るべき、生殖上最も重要な細胞であらうとは夢にも心附かなかつたのである。

[やぶちゃん注:「レウエンフーク」アントニ・ファン・レーウェンフック(Antonie van Leeuwenhoek 一六三二年~一七二三年)。オランダの顕微鏡学者。生れ故郷デルフトで織物商を営み、後には市の下級役人として勤めた一方、独特の構造をもった単レンズ顕微鏡を製作、原生動物・細菌・淡水性藻類等の微生物(一六七四年)及び魚類の赤血球の核(一六八二年)や横紋筋の微細構造(一六八三年)等の多数の新発見の含まれる手紙を五十年に亙ってロンドン王立協会等に書き送り続けた。中でもヒトの精子の発見(一六七七年)は精原説に物的根拠を与えた他、水中を泳ぎ廻る夥しい数の微生物の存在は当時の人々に大きな衝撃を与え、ピョートル大帝・ジェームズ二世などオランダ内外の著名人が顕微鏡を覗きにデルフトに集まったという(以上は主に平凡社「世界大百科事典」に拠る)。レーウェンフックの名は、小学校三年生の時にポール・ド・クライフの「微生物を追う人々」(成人向けの「微生物の狩人」の小学生版)を貪るように読んだ時以来、私の中の永遠の偉人の名であり続けている。]

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