存在 山之口貘
存 在
僕らが僕々言つてゐる
その僕とは、 僕なのか
僕が、 その僕なのか
僕が僕だつて、 僕が僕なら、 僕だつて僕なのか
僕である僕とは
僕であるより外には仕方のない僕なのか
おもふにそれはである
僕のことなんか
僕にきいてはくどくなるだけである
なんとなればそれがである
見さへすれば直ぐにも解る僕なんだが
僕を見るにはそれもまた
もう一𢌞はりだ
社會のあたりを𢌞はつて來いと言ひたくなる。
[やぶちゃん注:初出は一応、昭和一一(一九三六)年五月号『現代詩』であるが、この雑誌は詳細が不詳である(参考データは思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題に載るので参照されたい)。
原書房刊「定本山之口貘詩集」では十四行目が、
もう一𢌞りだ
に、十五行目が、
社會のあたりを𢌞つて來いと言ひたくなる。
に改稿されており、総ての句読点が除去されている。【2014年6月14日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証し、注の一部を改稿した。【二〇二四年十月十八日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。]
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