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2014/02/23

耳嚢 巻之八 入木の道知水性妙の事

 入木の道知水性妙の事

 

 入木(じゆぼく)の道に名高き松花堂は、書畫とも人の珍重する所なり。ある時云(いひ)しは、京地(けいち)にては、加茂川のかくかくの所、柳の本の水ならでは、筆にそゝぎ墨に和して用(もちゐ)るによしなしと有(あり)しを、或人聞(きき)て、好事(かうず)の過(すぎ)たる事也(や)とて、加茂川の水を取寄せ、松花堂を招(まねき)て書畫を好み、兼て松花堂の好む珍味、器物の莊嚴(しやうごん)心を盡しぬ。松花堂筆を取(とり)て墨すり筆をてんじて、此水宜(よろし)けれども、此墨水にては畫(かく)事かたしとて斷りぬ。主人大きに驚き、此水は加茂川の水なり、御身好み給ふにあらずやと尋(たづね)ければ、加茂川の水にても、かくかくの所にあらずしては其筆意を延(のぶ)る事なしといふに、主人手を打(うち)て歎息し、實は加茂川のしかる所柳の元の水を取寄せ置(おき)ぬれど、御身の好みの所、實事とも思わず疑ひて最初の水を出せしと、慙悔(ざんくわい)して拜謝せしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:通の拘りで直連関。

・「入木の道知水性妙の事」は「じゆぼくのみちすゐしやうのみやうをしるのこと」と読む。「入木」とは、名書家王羲之が書いた字は筆勢が強く、その筆跡は墨が木に三分の深さにまで染み入っていたという故事に基づき、本来は書跡・墨跡の意。ここは入木の道、書道のこと。

・「松花堂」桃山末から江戸初期の学僧で書家として知られた松花堂昭乗(天正一二(一五八四)年~寛永一六(一六三九)年)。中沼左京亮元知の弟として摂津国堺に生まれた。俗名は中沼式部、号は惺々翁・空識、晩年になって松花堂と号した。十七歳で男山石清水八幡宮滝本坊実乗の元で出家、真言密教を修めて阿闍梨法印となり、寛永四(一六二七)年四十四歳の時に滝本坊住職となった。書は尊朝法親王に青蓮院流を学び、また空海の書を慕って大師流を修得、自らの書風を確立した。漢字は空海の唐風。仮名は平安時代の和風を復興したもので松花堂流又は滝本流という。松花堂流は後に流行して昭乗の書跡は多数板行された。本阿弥光悦・近衛信尹とともに「寛永の三筆」と称される。画は狩野山楽に学んだといわれ、さらに土佐派を折衷して彩色の密画もよくしたが、晩年には枯淡な水墨画を多く描いて歌絵屏風や道釈画などを遺した。作例に「葡萄に鶏図」など。また茶人としても知られ、小堀遠州について遠州流を修め、その収集した茶道具は「八幡名物」と呼ばれて後世「松花堂好み」として模された。昭乗の名声は高く、近衛家の恩顧を受けて広く公家に出入し、また烏丸光広・林羅山・石川丈山などと交流があった)以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年であるから、実に百六十年も前の都市伝説の古形である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 書の道に達した御仁は神妙にもその水の性(しょう)をも知尽するという事

 

 書の道に名高き松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)殿は、その書画ともに人の珍重する所で御座る。

 ある時、昭乗殿の言われたことに、

「――京の地にては、加茂川のかくかくの所に御座る柳の本から汲みおきたる水ならでは――筆に注ぎ墨に和して用いるには――これ――よう御座らぬ――」

と申されて御座ったを、ある人のこれを聞いて、

「……なんとまあ……流石は好事(こうず)の過ぎたる……もの謂いじゃのぅ……」

とて、酔狂にも加茂川の水を取り寄せ、松花堂殿を屋敷へ招いて書画一筆を請い受け、兼ねてより松花堂殿の好むところの珍味の器物を以って、仏道にも擬えなば、その荘厳(しょうごん)、まっこと、心を尽くして満を持して御座ったと申す。

 さて、松花堂殿、やおら筆を取らんとて、墨をすり、筆からその雫を垂らし――それを見られた……

……と

「――この水――よろしゅう御座る水にてはあれど――やはり――この墨水にては――我ら――描くこと――これ――出来申さぬ――」

とて、静かに筆を置かれた。

 されば、主人、大きに驚き、

「……い、いや、この水は加茂川の水で御座るぞッ?!……お、御身のお好みにならるるそれにては御座いませぬかッ?!……」

と質いたところが、

「――我ら――加茂川の水にても――かくかくの所の水にあらずしては――その筆――思うがままに描くことは、これ――出来申さぬ――」

と仰せられたによって、主人、タン! と手を打って、深く歎息致いた上、

「……実は加茂川のしかる所の柳の元の水を……我ら……取り寄せ置いて御座ったれど……かく伝えられたる御身(おんみ)の好みと仰せらるる神妙なるそのところ……これ……真実(まこと)ととも思わずに疑(うたご)うたるまま……最初に出だしましたる、別なところからわざと汲みおいたる加茂の水を……これ、出いてしまいまして御座ったじゃ……」

と、深く懺悔致いて、拝謝してかの水を差し出だいては、再度、一筆を請うたと申すことで御座る。

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