篠原鳳作句集 昭和五(一九三〇)年七月
城山や篠踏み分けて苺採り
[やぶちゃん注:「城山」言わずもがなながら、鹿児島市中央部に位置する山(標高一〇八メートル)。西南戦争最後の激戦地として知られる。クスノキ・シダ・サンゴジュなど分かっているだけで六百種以上の亜熱帯植物が自生する。「苺」これはバラ目バラ科 バラ亜科キイチゴ属 Rubus のそれであろう。]
神の川流れ來りし捨蠶かな
[やぶちゃん注:鹿児島県鹿児島市・日置市を流れる本流の二級河川。「捨蠶」すてご。養蚕に於いては病気又は発育不良の蚕は野原や川に捨てられる。それを言う。季語としては春であるが、本句は七月の発表句で鳳作は明らかにそれ(季語)を意識していないと私は思う。私は本句一読、「古事記」の哀れなる蛭子をイメージした。]
たまたまの晝寢も襷かけしまま
たまたまの晝寢も襷かけながら
[やぶちゃん注:前者は『七高俳句会』(昭和五年七月発行)の句形、後者は『阿蘇』(昭和五年十月発行)所収の同改稿。]
日を並(ナ)めて傘やく臺場築きけり
傘燒や音頭取の赤ふどし
傘火消ゆ闇にもどりし櫻島
[やぶちゃん注:この三句は、鹿児島の三大行事の一つとされる曽我兄弟の仇討に由来するとされる伝統行事「曽我どんの傘焼き」の情景かと思われる。私はこの祭りを全く知らないので、「鹿児島三大行事保存会」公式サイトの「傘焼き」から引用しておく(一部の改行を省略させて戴いた)。『その昔、薩摩では「郷中教育」という独特の教育制度があ』り、『そこでは、子供達を「稚児(チゴ)」「二才(ニセ)」「兄(アニョ)」と分け、年下の者は年上の者に従い、年上の者は年下の者に教育をし、武士としての教養、人徳、武芸などを学び人間性を磨いた。そこで主に、教えたものは、
1.「主君に対する忠」
2.「親に対する孝」
3.尚武(武術・武事により徳を尊ぶ)
で、あった。
子供達は「郷」ごとに集まり、身体を鍛え勉学に励んだ。その教育の一環として「曽我兄弟の話」が用いられた。「曽我兄弟の話」とは、敵討ちの話である。二人が幼い頃、父河津三郎は工藤祐経に討たれた。やがて彼らが成人し、父の仇討ちを成し遂げ時はすでに17年の歳月が流れていた。建久5年5月28日のことだった。その長きにわたり、親の事を忘れずついに仇を討ったことが、親への孝を教える教材として用いられたのである。兄弟は源頼朝に随行して富士の裾野で巻き狩りを行った工藤祐経を討ち取り永年の大願を成就した。その時、雨の降る中、傘を松明かわりにして陣屋を進んだという。この故事にならい、「傘焼き」を行い、曽我兄弟の孝心を偲び青少年教育に資質にしようとしたのが「曽我どんの傘焼き」である。薩摩では、旧暦の5月28日が近づくと、子供達が家々をまわり、古くなった唐傘を集めて、甲突川や磯の浜に持ち寄り、うずたかく積み上げ、辺りが宵の闇に包まれる頃火を放ったそうだ。唐傘は防水のために油が塗ってあったためその炎は高く燃え上がり夜空を焦がした。戦後、和傘が不足し開催を危ぶまれた時期もあったが、現在、鹿児島三大行事「曽我どんの傘焼き」保存会が中心となり、毎年7月に開催されている』とある。こちらの「鹿児島市医報」に載る俳句記事の記載によると「傘焼」で「かさやっ」と読み、現在では『傘を集めにくいこともあり、昔のように、どこの町村でもやっているわけでは』ないとあり、往時に盛んに行われていた頃には、『褌に白鉢巻の裸ん坊たちは、燃え上がる傘火を回りながら、曽我兄弟の歌を大声で歌い、血をおどらせたもので』あったと記されておられる。
因みに、昭和五年の旧暦五月二十八日は六月二十四日である。もし、実際に旧暦で行われていたとすれば、これらの句群はその日に行われた祭りの嘱目吟と考えられるが、当時、旧暦で行っていたかどうかは確認出来ていない。ただ、新暦五月二十八日の景となると、七月の俳誌に投稿するものとしては少し時期外れではあり、現在の保存会の七月のそれではタイム・ラグがあってあり得ない。
なお、ここまで「たまたまの」の別稿を除き、以上は七月の創作及び発表句。]
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