篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年三月
時雨るると椎の葉越しに仰ぎけり
燕や朱ケの樓門くだつまま
[やぶちゃん注:「くだつ」は「降(くだ)つ」で本来は「くたつ」という清音の上代語。傾く・衰える・盛りを過ぎるの意の他、夜がふけるの意も持つ。ここは荒廃した楼門の謂いであろう。]
夕刊を賣る童とありぬ慈善鍋
藁塚にあづけ煙草や畑打
万葉の薩摩の瀨戸や鮑採り
[やぶちゃん注:「万葉」は底本の標字を用いた。「万葉集」には同歌集の南限の地として「隼人(はやひと)の薩摩(さつま)の迫門(せと)」が詠まれている。巻第三の長田王(をさだのおほきみ(おさだのおおきみ ?~天平六(七三七)年:奈良時代の侍従。伊勢斎宮勤務から近江守・衛門督・摂津大夫を歴任した。「万葉集」には伊勢と筑紫などの羈旅六首が、「歌経標式」にも一首が載る。九州派遣は一説に慶雲二(七〇五)年頃とされる。)の二四八番歌で、
また、長田王の作れる歌一首
隼人の薩摩の迫門を雲居なす遠くも我は今日見つるかも
「隼人の薩摩の迫門」は現在の黒の瀬戸と呼ばれている海峡で天草諸島長島と九州本島鹿児島県阿久根市黒之浜の間にあって全長は約三キロメートルに及び、潮流の激しさから当時は船旅の難所であった。個人サイト「tokkoの部屋~旅日記」の「黒之瀬戸 万葉集の南限の地を訪ねて」で和歌と当地の画像が見られる。「雲居なす」は雲のかかっている遙か彼方と紛うばかりの場所として、の意。なお今一首、巻第六の大伴旅人の第九六〇番歌、
帥大伴卿(そちおほとものもへつきみ)、吉野の離宮(とつみや)を思(しの)ひて作れる歌一首
隼人の湍門(せと)の磐(いはほ)も年魚走(あゆばし)る吉野の滝(たぎ)になほ及(し)かずけり
にも同名のものが出るが(リンク先にも示されてあり、歌碑も建つ)、この「隼人の湍門」については講談社文庫版「万葉集」の注で中西進氏は『早鞆の瀬戸。豊前の国。今の福岡県北九州市』と同定されておられる。]
落葉掃く音たえければ暮れにけり
[やぶちゃん注:以上、六句は三月の発表句。この月、鳳作は遙か宮古島の拠点港である平良(ひらら)港に沖繩県立宮古中学校(現在の県立宮古高等学校)へ公民・英語科担当として赴任している。]
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