日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 23 日本料理屋での晩餐と芸妓の歌舞音曲そして目くるめく奇術師の妙技
晩方早く、日本の料理屋へ食事に来ないかという招待には、よろこんで応じた。我々は二階へ通され、部屋部屋の単純な美と清潔とを、目撃する機会を得た。このホテルは(若しホテルといい得るならば)、東京の、非常に人家の密集した部分にあるのだが、それでも庭をつくる余地はあった。その庭には、まるで天然の石陂(いあわだな)がとび出したのかと思われる程、セメントで密着させた、大きな岩石の堆積があった(図320)。その上には美しい羊歯(しだ)や躑躅(つつじ)が一面に生え、天辺(てっぺん)には枝ぶりの面白い、やせた松が一本生えていた。岩には洞穴があり、その入口の前には小さな池があった。我々以外はすべて日本人で、その殆ど全部が知人だったが、幸福な愉快な人々ばかり。私の小さな伜と、誰かしら絶えず跳ね廻っていない時は無かった位である。日本人の教授の外に、新聞記者が一人いたが、彼は気高い立派な人であった。彼等は皆和服を着ていた。これは彼等にとっては、洋服よりも遠かに美しい。服部氏は夫人を、江木、井上両氏は母堂を同伴された。
[やぶちゃん注:「石陂」音「せきは」で原文は“ledge”。「陂」は坂・堤の他に岸の意があり(現代中国語では他に池塘の意がある)、石川氏はそうした突出した崖、切岸の謂いで用いているようである。翻って英語の“ledge”はというと、壁や窓から突き出た棚、岩壁側面や特に岸に近い海中の岩棚の意である。
「服部」法理文三学部綜理補(予備門主幹兼任)服部一三。既注。
「江木」東京大学予備門英語教諭江木高遠。既注。
「井上」東京大学法学部教授(イギリス法律学担当)井上良一。既注。]
図―321
正餐の前にお茶と、寒天質の物にかこまれた美味な糖菓とが持ち出され、後者を食う為の、先端の鋭い棒も出された。床には四角な、莚に似た布団が一列に並べられ、その一枚一枚の前には、四角いヒバチが置かれた。布団は夏は藁で出来ているが、冬のは布製で綿がつめてある。食事は素晴しく、私も追追日本の食物に慣れて来る。私は砂糖で煮た百合の球根と、塩にした薑(しょうが)の若芽とを思い出す。日本のヴェルミセリを盛った巨大な皿が出て、これは銘々自分の分を取って廻した。蕪の一種を薄く切ってつくった、大きな彩色した花は、非常に自然に見えたので、私はそれを真正の花に違いないと思った(図321)。日本人は食卓の為のこのような装飾的な細工を考え出して、彼等の芸術的技巧を示す。彼等の食物は常にこのもしい有様で給仕され、町で行商される食物にさえも、同様な芸術があらわれている。
[やぶちゃん注:この献立は前のものに比べて不思議に同定がし易い。
「寒天質の物にかこまれた美味な糖菓とが持ち出され、後者を食う為の、先端の鋭い棒も出された」羊羹とおそらくはクロモジの楊枝である。
「塩にした薑の若芽」矢生姜(はじかみ)。
「日本のヴェルミセリ」原文“Japanese vermicelli”。「ヴエルミセリ」は底本では直下に石川氏の『〔西洋索麪(そうめん)〕』という割注が入る。「麪」は「麺」に同じで、「索麪」は素麺・索麺と同義。「“vermicelli”イタリア語語源の英語で、一般には「バーミチェリ」「バーミセリ」と表記し、所謂、通常のスパゲッティよりも細いパスタのこと。イタリア語の原義は「細長い虫」。]
図―322
食事中、三味線を持った娘が二人と、変な形の太鼓を持った、より若くて、奇麗な着物を着たのが二人と、出現した。一人は砂時計の形をした太鼓を二つ持ち、その一つを左の腋にはさみ、他は左手で締め紐を持って、右肩にのせた。この二つを、右手で、代る代るたたくのだが、それは手の腹で辺を打ち、指が面皮に跳ね当るのである。音は各違っていた。別の娘の太鼓は我々のと同じ形で、写生図(図322)にあるように、傾斜して置かれた。これは丸い棒で叩く。彼等は深くお辞儀をしてやり始め、私が生れて初めて聞いたような、変な、そしてまるで底知れぬ音楽をした。三味線を持った二人は、低い哀訴するような声で歌い、太鼓がかりは時々、非常に小さな赤坊が出すような、短いキーキー声と諸共に、太鼓を鳴らした。この歌が終ると、小さい方の二人が姿態舞踊をやった。ある種の姿勢と表情からして、ジョンはこの二人を誇りがましいと考えた。時々彼等が、特に人を莫迦にしたような顔をしたからである。美麗な衣装と、優雅な運動とを伴うこの演技は、すべて実に興味が探かったが、我々は彼等がやっている話の筋を知らず、また動作の大部分が因襲的なので、何が何だか一向判らなかった。舟を漕いだり、泳いだり、刀で斬ったりすることを暗示するような身振もあった。彼等が扇子をひねくり廻す方法の、多種多様なことは目についた。これが済むと、三つにはなっていないらしい、非常に可愛らしくて清潔な女の子が二人、この上もなく愛くるしい様子をして、我々の方へやって来た。ジョンは彼等に近づこうとしたが、彼等は薄い色の捲毛を持った小さな男の子が現れたので吃驚仰天し、そろってワーツと泣き出して了い、とうとう向うへ連れて行かれて、いろいろとなだめすかされるに至った。
[やぶちゃん注:芸者遊びをしたことがない私にはこれらの舞踊を同定出来ない。通人の御教授を乞いたい。
「砂時計の形をした太鼓を二つ」図で分かるように一つが小鼓で、もう一つが大鼓。
「ある種の姿勢と表情からして、ジョンはこの二人を誇りがましいと考えた。時々彼等が、特に人を莫迦にしたような顔をしたからである」原文“From certain attitudes and expressions John thought they felt proud
; for at times they would make a peculiarly contemptuous sort of face.”。“proud”は「尊大な」という訳の方がしっくりくる気がする。これは芸妓の舞踊の見えを切る型を指しているように思われるが、誇り高い江戸以来の芸者気質をも伝えて、これはこれでいい感じである。
「三つにはなっていないらしい、非常に可愛らしくて清潔な女の子」芸妓附きの禿(かむろ/かぶろ)と思われるが、「三つにはなっていないらしい」という推測はやや若過ぎる気がする。]
図―323
次に我々は、手品を見せて貰った。最初男の子が、この演技に使用する各種の道具を持って、入って来た。彼は舞台で下廻がかぶるような、黒いレースの頭覆いの、肩の下まで来るのをかぶっていた。次に出て来たのは手品師で、年の頃五十、これからやることを述べ立てて、長広舌をふるった。そこで彼は箸二本を、畳の上のすこしへだたった場所へ置き、しばらくの間それを踊らせたり、はね廻らせたりした。続いて婦人用の長い頭髪ピンを借り、それも同様に踊らせたあげく、今度は私の葉巻用パイプを借りて、それをピョンピョンさせた。彼は紙をまるめて、粗雑に蝶々の形にし、手に持った扇であおいで空中に舞わせ、もう一つ蝶をつくり、両方とも舞わせ、それ等を頭の上の箱にとまらせさえした。勿論これ等の品は、極めて細い綿糸で結んであるのだが、糸は見えず、手際はすこぶるあざやかだった。手品の多くは純然たる手技で、例えば例の蝶の一つをとってそれをまるめ、片手に持った扇で風を送って、紙玉から何百という小紙片を部屋中にまき散した如き、手を一振振って、十数条の長い紙のリボンを投げ出し、それを片手で、いくつかの花絲にまとめて火をつけると、熖々たる塊の中から、突如大きな傘が開いた如き、いずれもそれである。これ等の芸は、すべて非常な速度と、巧妙さとで行われた。その後彼は我々の近くへ来て、色な品物を神秘的に消失させたり、その他の手技を演じたりした。日本人は実に楽しそうだった。彼等は子供のように、心からそれを楽しみ、大声で笑ったりした。引き続いて、井上氏が簡単に歓迎の辞を述べ、私は謝辞を述べねばならなかった。我々が帰宅したのは真夜中に近く、子供達は疲れ果て、私の頭も、その晩見た不思議な光景で、キリキリ舞いをしていた。図323は手品師の心像である。
[やぶちゃん注:「心像」は「しんぞう」で、原文は“an idea”。大まかな概念的スケッチの謂い。「心像」は“image” の訳語で「表象」「心象」又はそのまま「イメージ」で訳としてここは実に自然にはなるのだが、“image”という語は元来が過去の経験や記憶などから具体的に心の中に思い浮かべたもの、ここではそうした視覚的心像に相当するものを指すのであって、スケッチ魔のモースがその場か、あまり時間の経たぬうちにさっと描いたであろうこの図のような、彼が言う“idea”の訳語としては私には必ずしも相応しいとは思われないのである。]
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