橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 吉田火祭
吉田火祭
火のまつりくらき燈火を家に吊り
火祭の道よりひくく蚊帳吊られ
火まつりの戸口にちかく子がねまり
火のまつり子等は寢(い)ねしか町に見ず
火祭の戸毎ぞ荒らぶ火に仕ふ
湖(うみ)をへだて火まつりの火がおとろふる
火祭のその夜の野山月に靑く
[やぶちゃん注:山梨県富士吉田市上吉田(かみよしだ)地区で行われる日本三奇祭の一つとされる鎮火大祭。同地区の北口本宮冨士浅間神社と境内社(摂社)諏訪神社の両社の秋祭りで、毎年八月二十六日と二十七日に行われ、通称「吉田の火祭り」と呼ばれる。現在、重要無形民俗文化財。二十六日の午後に本殿祭・諏訪神社祭が催行され、大神輿・御影は参拝者で賑わう氏子中に神幸、暮れ方に御旅所に奉安されると同時に高さ三メートルの筍形に結い上げられた大松明七十余本、家ごとに井桁に積まれた松明が一斉に点火され、街中は火の海と化して祭りは深夜まで賑わう。二十七日の午後に二基の神輿が氏子中を渡御、夕闇迫る頃に浅間神社に還御する。氏子崇敬者が「すすきの玉串」を持ち、二基の神輿の後に従って高天原を廻るこの時を本祭りのクライマックスとし、二十七日を「すすき祭り」とも称している(ここまで「ふじよしだ観光振興サービス」の「吉田の火祭り」公式サイトの記載に拠った)。私は残念ながら実見したことがなく、例えば二句目などは実際に祭りを体験すればもっとすんなり腑に落ちる句なのであろうなどと感じている。ただ、ウィキの「吉田の火祭」に載るところの、「火祭の伝承と変遷」と、特に「祭礼をとりまく風習と伝承組織」パートの中の、前年の祭りから一年間の間に身内に不幸のあった死の穢れにある者を「ブク(忌服)」「ブクがかかる」とする禁忌、ブクのかかった者は祭礼の期間中、上吉田地区以外へ出ることになっていてそれを「テマ(手間)に出る」と表現するという一連の記載は、総じて祭りが苦手な私でさえ非常に興味深く読んだ。このウィキの記載は詳細を極め、筆者の火祭りへの正に熱い思いが伝わってくる非常に素晴らしい必読ものである。なお、六句目の「湖(うみ)」は山中湖と思われる。この年の一夏、多佳子は健康すぐれず、七月から山中湖畔の「ニューグランドロッヂ」(現在の山梨県南都留郡山中湖村平野にある「ロッヂ花月園」は跡地に建つ)に一家で避暑している。年譜には滞在を終えての『帰路は村人の曳く木箱の橇であった』とある。]