或る野戰病院における美談 萩原朔太郎
●或る野戰病院における美談
戰場に於ける「名譽の犧牲者」等は、彼の瀕死の寢臺を取りかこむ、あの充電した特殊の氣分――戰友や、上官や、軍醫やによつて、過度に誇張された名譽の頌讚。一種の芝居がかりの緊張した空氣。――によつて、すつかり醉はされてしまふ。彼の魂は高翔し、あだかも舞臺に於ける英雄の如く、悲壯劇の高調に於て絶叫する。「最後に言ふ。皇帝陛下萬歳!」と。けれども或る勇敢の犧牲者等は、同じ野戰病院の一室で、しばしば次のやうに叫んだらう。「人を戰場の勇士に驅り立てるべく、かくも深く企まれた國家的奸計と、臨終にまで強ひられる酒に對して、自分は決して醉はないだらう。最後に言ふ。自分は常に素面(しらふ)であつた。」と。
しかしながらこの美談は、後世に傳はらなかつたのである。
[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の「社会と文明」より。太字「美談」は底本では傍点「●」。]
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